「…何も望まないんだな」
月が光条となって差し込む薄闇。起きあがり、淡々と身繕いを始めたミランに、ジュストは身を横たえたままそう言った。
「何の話です」
「お前の話さ」
そう言って腕を伸べ、ミランを無造作に引き寄せる。抗いもせず、ミランは再び身を横たえた。
屋根と板壁があるだけの苫屋は、本来船着き場の倉庫でしかない。ミランが引き寄せられるままに身を横たえたのも、世辞にも褥とは言えぬ。予備の艤装が雑然と置かれた狭間、床とは名ばかりの簀の子に詰草がつくねられている。その上に敷布…有り体に言えばこれも予備の帆…が被せてあるだけの場所であった。
「勘弁してくださいよ。そろそろ舟を出さないと、本当に間に合わない」
ぼやくミランを仰向けに引き倒し、その顎に手を掛けて…ジュストは吐息雑じりに言った。
「…なんと律儀な伝令使だ。あの爺い、こんな子供をどれだけ厳格に仕込んだんだ?」
「厳格…? さぁ…少なくともシュエットは、〝こんな子供〟に理不尽を強いたことはありませんがね…」
「理不尽、ね…」
ジュストはミランの唇を指先で丁寧に撫でていたが…ふと、歯列を割って軽く口を開かせてから唇を重ねる。…丁寧な前段とうってかわった無遠慮な侵入に、ミランが幽かに呻いた。纏ったばかりの衣の裾を割って滑り込んだ、もう片方の手が与える刺激の所為もあったが。
「言ったろ、東寄りの風は明け方だ。嫌ならそう言え。…力尽くが好きなわけじゃない」
ジュストがようやく唇を離してそう言った時には、ミランの息はすっかり上がっていた。
「よく言う…っ…」
次の瞬間、ミランは襲い来た感覚に背を撓らせ、下肢を震わせて深い息を吐いた。
「――――ッ!」
知らず、伸べた手がジュストの頭髪をまとめている淡い茜色の薄布に引っかかり、はらりと滑り落ちる。洗いざらした薄布の、熟れて柔らかい感触がさらりとミランを撫でた。その直後、褪せた麦藁のような髪がミランの反り返った胸元に落ちる。
脱色と染色を繰り返したジュストの髪は、世辞にも柔らかくはない。硬く乾いたその髪に弱い部分を擽られ、ミランは数度喘いだあと…掠れた嬌声を上げた。
思わず握り締めた指先に、滑り落ちた茜色の薄布が絡む。
薄布を指先に絡めたまま、ミランはもう一度大きく背を撓らせて達し…身体を震わせながらか細く囁くように言った。
「欲しいものなんて、ない――――」

朝凪
ネレイアの現・統領…ジュスト=ブランシュは、かつて天文寮から次代の寮頭と嘱望されながら突如として天文寮を辞したという。放蕩の限りを尽くして身を持ち崩し、大神官リュドヴィックの勘気を被ったという噂があるのは、ミランも知っている。
ジュストの素行を知っているミランとしては、然もありなんという感想しか出て来ない。だが、いかに係累とはいえただそれだけの人物が大神官直属の細作組織たるネレイアの統領を任される謂れはなかろう。
――――嬰児だったミランを遺棄された鳶の巣から拾ってくれたシュエットは、様々なことを教えてくれた。読み書き、地理、異国の言葉、航海術の基礎、その他身を守るために必要な諸々の知識。だが、脚が不自由であったから、体術や各種武器の扱い、航海術の実践部分について教えてくれたのは統領となる前のジュストだった。
少々いい加減だが技術は確か。それがミランのジュストに対する評価だった。教師としては至極真っ当だったシュエットが教えないような…悪知恵に類するようなことは殆どがジュストの仕込みである。だいぶ年齢は違うが師というより遊び仲間といった印象の方が強かった。
そのジュストが統領となるにあたり、死を装い離島に身を隠したために…一時音信が途絶えた。だが、ネレイアの成員となったミランは任務としてその離島に赴くようになる。
そうして再会したジュストの傍には、大神官リュドヴィックの次男にして…風神アレンの後身と噂される神童・アンリーの姿があった。
噂には聞いていたが、最初は緋色の髪、紅榴石の双眸という綺羅ぎらしい持物のわりに線の細い少年、という印象しかなかった。ただ、その印象は島を訪うごとに上書きされていった。
風神アレンの後身、来るべき戦のために大神官リュドヴィックが用意した先導者…その期待に背を拉がれそうになりながら、アンリーは必死にそれに応えようとしていた。
大神官の直系という事実が持つ重みを、ミランはシュエットに教えられた知識の中で知ってはいた。だが、それを自分とほぼ同じ年齢で背負わねばならない現実を目の当たりにすると、もはや歎息するしかなかった。
この人のために出来ることがあるというなら、俺も何かやってみようか。アンリーにはミランをしてそう思わせる何かがあった。
ジュストもまた、ひたすらに彼を育てるためにこの島にいる。至極真面目に統領としての実務もこなしつつ、南海航路の確立のために情報と、資材と、人材を集め…そしてその配置に腐心していた。剽げた雰囲気は以前のままだが、この放蕩者が綺麗に酒も断っていたのには、ミランは正直驚いた。
それは確かに大神官の勅命であったろう。だが、おそらくジュストも自分と同じものを見たのだ。
ミランはそう思っていた。
統領付の伝令使であるミランはエルセーニュにいるシュエットと、リジューにいるジュストの間を忙しく飛び回る。
まったく、鳶、とはよくつけたものだ。その間、南海の島々にに構築されつつあるネレイアの拠点を経由することもあり、ほぼ舟を家にする生活ではあった。
その日もシュエットからの伝達事項を携えてリジューへ来た後、またすぐ西へ出なければならなかったが…折も折、風が悪かった。仕方なく夜を待ち陸風を捉える算段で、ミランは船着き場にある小屋で一眠りすることにした。
揺れない場所で眠るのは久し振りだった。
同じような任につく者の中には、揺れない寝床では寝そびれるという話も聞くが…ミランはその辺りの繊細さとは無縁だった。船底に毛布や麻布を敷いただけに比べれば、詰草に布を被せた寝床は掛け値なしに柔らかい。
夜間、風と星を見ながらの帆走になる。眠れるうちに眠っておこうと身を横たえて、いくらもしないうちに眠りに落ちた。寝付きと目覚めがいいことに関して、ミランは自信があった。
だから、小屋の外でかたりと音がしたときもすぐに目は覚めた。
薄目を開ければ陽は斜め。いい頃合いだと身を起こそうとして、小屋の外の気配に一瞬だけ身を硬くした。動きを止め、気配を探る。
今度はこつんという明らかに板戸を叩く音とともに、いつもの軽い声がした。
「おい、俺だぞ。気配を消す奴があるか」
「…統領?」
元々、向こうが透いて見えるような粗末な扉だ。そもそも鍵のかかるような仕様にはなっていない。また、元来この島にはまだ統領と次代しかいない。統領の言うのも尤もだ。起き上がったミランが板戸を開けると、まさに統領ジュストが扉の傍の板壁に身を凭せかけて立っていた。
「どうしたんです。何か追加がありましたか?」
目はきちんと覚めていたつもりだが、一体なぜ統領がここにいるのかミランには咄嗟に見当がつかなかった。伝令使としてはこれ以上なく妥当な質問であるはずだったが、ジュストはふと…やや苦味さえともなった笑みを零す。
「いや、忘れ物だ」
ジュストが腰に提げた小さな麻袋を外すと、袋ごと差し出す。袋越しの感触でも、それが薬であることは判った。
「…あぁ…いつもすみません」
二枚貝の貝殻に詰められた軟膏の傷薬だ。南海貿易で扱う商品のひとつだが、生傷の絶えない生活では必需品ではある。以前から時々、ここで分けてもらうことがあった。薬ぐらいオートヴィル、ないし南海に散らばるネレイアの拠点に行けば手に入る。だが、次代の気遣いということらしいので、有難く拝領することにしていた。
「風待ちか」
「はい。月が出る頃には潮も叶うかと」
「どうせならうちで休ませてやればよかったな。ここは風通しが良すぎるだろう」
ジュストの言葉にミランは苦笑した。
「有難い御諚ですが統領…それに関してはあまり状況が変わりませんよ」
「…違いない」
ミランは思わず笑った。確かにここは露骨に漁師小屋だが、ジュストと次代が住居としている建屋とて、よくいって茅屋である。
「いいんですよ、俺は何処でだって眠れますから」
何の気なしにそう言ったのだが、ジュストはふと声を低めた。
「相変わらず…欲しがるってことを知らん奴だな」
「…え…?」
いつもの飄々とした微笑が、不意に酷薄な何かを滲ませた気がして…ミランは思わず身を退きかけたが、遅かった。しなやかで強靱な腕に引き寄せられ、均衡を崩す。そこへ片脚を軽く払われて身体が沈みかけたものだから、結局ミランはいとも簡単にジュストの胸に身を預けることになってしまった。
「…って、ジュスト…っ…!」
腰を抱き寄せられ、顎を固定されていては逃げようがない。抗議の声を上げる前に、唇を塞がれた。
歯列を割って侵入した舌に口蓋を丁寧に擽られ、ミランは息を詰まらせる。顎を捕らえている腕に夢中でしがみつくと、不意に唇を解放された。
「ほら、ちゃんと息しろよ。教えただろう」
耳朶を噛むようにして囁いたかと思うと、そのまま本当に甘噛みしてくるから思わず声が跳ね上がった。
「そんなこと…っ……!」
顎を捕らえていた手が後頭部に廻され、より深く口づけられる。突如として襲ってきた、真っ暗な嵐の海に投げ込まれたかのような浮遊感に、藻掻く腕は安定を求めて広い背中を掴んだ。
なんだっていい、しがみつきたくなる。それがこの男の思う壺だとしても、もうどうでもよかった。
***
いつの間に小屋の中へ連れ込まれたのか、定かでない。
ただ、ジュストがミランの震える膝を掬いあげ、帆布の褥に横たえたことで、ミランは少なくともどうしようもない浮遊感からは解放された。がくがくと震える四肢を褥に投げ出したままではあったが、荒れた息の下から悪態をつく。
「…相変わらず…手癖、悪いですよ…ジュスト…」
「今更だな」
ジュストは薄く笑い、淀みない動作で横たえたミランを脱がせていく。雑役に従事する雑色の装束は神官衣ほどにゆったりとしていない。それでも、軽く啄むようにして口づけ、硬いがしなやかな指先で撫でている間にするすると脱がされてしまうのが…ミランはいつも不思議だった。
だが、ミランが刺激に身を捩りながらも神官衣の帯や細紐を故意に引っ張るので、ジュストも最終的にはミランと大差ない格好にはなるのだった。精悍な体躯に中途半端に衣を纏った姿というのも、ひどく煽情的だ。だがミランは敢えて目を閉ざし、手練手管に長けた男から与えられる刺激に集中する。
時折目を開ければ、逞しい肩の向こうに苫屋の天井にわだかまる薄闇が見える。そこに斜陽の投げる暖色の光が、淡い光芒を刻んでいた。これが雲間から落ちる光なら天使の梯子と呼ばれる現象。だが、生憎と光源は苫屋の壁、そのひどく雑な合わせ目であった。
それでも…苫屋の梁にひそむ夕刻の薄闇を裂く光芒は、美しい。思わず吐息を洩らす程に。だが実際に洩れる吐息は、首筋から胸にかけてゆっくりと滑っていく…鄭重な舌先がもたらす感覚の所為だった。
ジュストはリジューに移ってから、その褪せた麦藁のような髪をいつも茜色の布で包んでいる。故意か偶然か、耳の横で垂らされたその布端がジュストの動きに追随して膚を擽るから…ミランは思わず背を撓らせた。
だが不意に、その刺激が停まった。
「…何」
昇り詰めそうになったところを堰かれ、ミランは思わず切ない声を上げてしまう。薄目を開けると、ジュストの眼差しはミランの脇腹で止まっていた。
「…いや、随分と情熱的だなと」
刺激に翻弄されて朦朧とした意識でも、ジュストの言わんとすることは理解った。脇腹についた淡い鬱血痕のことだ。
「あの天文寮の坊やか。ほかにもいくつかあるようだが…怖いくらいの執心っぷりだな、ええ?」
明らかに面白がっている眼差し。そして揶揄うような声音。憮然として、ミランは再び目を閉じた。
「ご明察…と言いたいところですが、シエルが執着してるのは俺じゃありません」
「と、言うと…?」
ジュストが言葉面だけは謹厳に、だが硬い指先からは思いも寄らぬほど繊細な触れ方でその鬱血痕をなぞるから、ミランは幽かに声を漏らした。
「次代ですよ。…っ…あいつは俺の立場を誤解してる。あいつは俺に触れることで、あの方に触れたいんだ。いくら統領付っていったって、伝令使ってのは…そんなんじゃないってのに…」
「なるほど…。まあ、全く的外れって訳じゃないが…な」
ジュストがくすりと笑ってそこへ唇を落とす。ミランが不意討ちの刺激に声もなく身を戦慄かせた。
「莫迦言わないでください…単に当代が、無類の放蕩者…だってだけでしょう。本当に…手当たり次第…なんだから…っ…」
「人聞きの悪い。俺が誰彼構わず押し倒してるみたいに言うな」
「…否定出来ます?…てか、痕つけないでくださいよ。いろいろ面倒だ」
ともすれば内奥の熱に引きずられそうになる身体を急き立て、ミランは脇腹の鬱血痕から臍へ、更にその下へ舌先を滑らせようとするジュストの頭を押しやって無理矢理に身を起こした。しかし床の上に無造作につくねられた衣服に伸ばした手は、やんわりと抑えられてしまう。
「何だ、こうしてわざわざ追いかけてきたってのに、その程度にしか想って貰えないとは寂しい限りだぞ。お前最近、言うことに可愛気がなくなってきたな。昔はもっと素直だったが」
絡め取られる。逃げられない。背中から抱き寄せる腕が腸骨稜をなぞって下肢の間へ滑れば、その動きはミランが必死に埋めた熾火に風を送ってしまう。
「俺は仕事が貰えれば…それで結構ですよ。別に…可愛がってもらわなくてもいいです。それより、忘れ物を届けに来ただけだって…言いませんでしたか…!」
「届けに…?そんなこと言ったかな」
そう言えば、届けに来たとは言わなかった。一瞬気が逸れるが、再び鋭敏な部分を撫でられて息を詰める。
「久し振りだっていうのに、いつもさっさと帰っちまうんだからな。まったく、つれないなんてもんじゃない。だから今日は、忘れ物を奪りに来た」
「何サラっととんでもないこと抜かしてんですか統領! 立場ってもの考えてくださいよ」
陶酔と混乱でかなり言葉遣いが怪しくなっているのは自覚していたが、このさい構ってはいられない。このまま流されたら、下手をすると出帆するための風を掴まえ損なう…!
ジュストは焦って藻掻くミランを強く抱いて引き留め、背中から耳朶を柔らかく食んで力を奪った。駄目押しに舌先を耳孔に差し込み、湿った音でミランの芯を蕩かしておいて…徐に囁く。
「今夜の陸風は弱い。明日の明け方なら東寄りの風が来る…せめて月の南中を待て…と、次代からの伝言だ」
そうして再び舌先で耳孔の周囲をなぞるように舐めてから、ジュストがようやく耳許から離れる。
だが、すっかり力が入らなくなったミランは、そのまま緩々とジュストの腕の中に沈み込むしかなかった。ジュストが悪戯っぽい微笑を浮かべて、くたりとなったミランの身体を抱え直して軽く仰向かせる。
「なんといっても緋の風神のご託宣だぞ。諾いておいて損はない。そういうわけだ…まあ慌てるな、時間はある」
そう言ったジュストがさも当然のように口づけ、こじ開けるまでもなく半開きだった歯列を割って舌を滑り込ませるから…ミランもまた慰撫すようなその動きに応えるように舌を絡める。身体の内側から擽られる感触に酔い、ジュストの背に両手を回してしがみついた。
口を塞がれていても、鼻からゆっくり深く呼吸することはできる。衝動のままに相手を貪るのではなく、触れるもの感じるもの全てをゆっくりと味わう。そんな交わりかたをミランに教えたのは、確かにこの男だった。
ミランは再び帆布の褥に戻され、緩々と丹念に追い上げられて、穏やかに達した。程良い充足感の中でジュストの熱塊を受け容れたことも憶えてはいるが、外洋の…振れ幅は大きいが波頭が立つこともない波に身体を任せているときのようで、ただ心地好かった。
――――いつの間にか眠っていた。
***
目覚めた時、ミランはまだジュストの腕を枕にしていた。思わず頭を浮かす。それでジュストの方も目を開けたが、あるいは眠ってなどいなかったのかもしれない。
陽は落ちていた。冷涼な月の光が板壁の隙間から洩れ入り、苫屋の薄闇に淡い濃淡をつけている。
「…痺れませんか」
「そんなに長い間だった訳じゃない。それに、こうしているのもそう悪いものじゃないからな」
そう言って抱き寄せられれば、額を逞しい胸に擦り寄せる格好になる。その腕の熱に陶然となりかけて、ミランは小さく頭を振った。
「…酒は断ってると思ってましたが? あなたの腕は巌のようですからね。あなたがよくても頭を載せてるほうとしてはそろそろ痛いので、放してもらって良いですか」
「こいつ…酔っ払いの寝言にする気か? まったく、淡泊だな。それでいておそろしく床上手ってのがつくづく謎だ」
ジュストが苦笑しながらさらりと腕を引いた。あっさりとミランから離れて身を起こし、やや気怠げに薄い板壁に背を凭せかける。
洩れ入る月光の下、精悍な体躯に着崩れた神官衣が緩やかに腰の辺りにわだかまるだけの姿は、しどけないが凄絶なほどの色香を放っていた。
「誰が床上手です」
当てられそうになったミランは内奥の疼きを押し込めるように俯せ、先程の感触を残す額を帆布の敷布に擦りつけるようにして嘆息した。
自分で放せと言ったのだ。だがいざ放り出されるとミランの内奥はざわめき、この熱を鎮めてほしいとなりふり構わぬ哀訴をしそうになる。他ならぬあなたが百戦錬磨の手練手管で年端もいかないガキをいいようにしてるだけのことでしょうが。そんな悪態さえつきたくなる。
シエルの狂気と紙一重の熱情を身に受けるようになって、ミランはジュストがどれだけ丁寧だったかを知ることになった。自身をガキと定義するには確かに抵抗はあるが、シエルの熱に流される自分は、結局シエルと同等なのだろう。…そう思う。
だが、俯いていたミランの背に氷水をぶちまけるような一言は、何の前振りもなく降ってきた。
「ミラン…お前、アンリーの相手をしてみるか」
「…ジュスト!?」
弾かれたように飛び起き、ミランはこの一見不真面目だが統領という職務に対しては至って真摯な上司を仰ぎ見た。彼の声音が冗談かそうでないかぐらい、長い付き合いですぐに判る。
冗談事ではない。見上げたジュストの表情もまた、それを裏打ちしていた。
そして、相手という言葉の意味合いが、体術や武器での立ち会いの相手、という意味ではないことも。
「…本気で…言ってます?」
真意が読めなくて、つい探るような物言いになってしまったが、ジュストはそれを咎めだてしなかった。ただ…小さく吐息した後、言い難げに自身の口許を撫で、そうしてまた吐息してから口を開く。
「アンリーが以前、ツァーリ総督に掠われた話はしたな?」
「…最悪の事態の前に事無きを得た、と聞いてます」
「事実としてはそうなんだが、疵は残った」
「…そう、でしょうね…」
残らないわけはない。ミランも薄々感じてはいた。アンリーの…他者との接触に対する、抜きがたい恐怖。常は毅然たる態度で覆い隠してはいるが、かなり深刻だろう。ジュストと二人きりで島に隠れ住んでいる今はいい。だがこれから先、統領として他者との接触が増えてきたら、遅かれ早かれ問題は顕在化する。
「思い出させずに疵が消えてくれれば、それが一番いいと思ってたんだが」
それを解決するにしても、随分な荒療治だ。しかもそれをミランにやれと?
「…それは、命令ですか」
「命令だって言ったら、受けてくれるのか」
ミランは初めて、この横着な男の眉目に…窮苦の翳りが差すのを見た。ジュストがわずかに俯き加減で眼を逸らすなど、あり得ない光景だった。
訳もなく、昏い怒りのようなものがこみ上げる。あるいはこの飄々とした男の、常にない弱腰が妙に腹立たしいのか…ミラン自身にもよくわからなかった。ただ、自分でも驚くほど強い言葉と口調で、猛然と言い放っていた。
「何で俺です。もっと相応しい人がいるでしょう。次代を育てるのがあなたの役目と聞いてます。瑕疵をうち消すのもそれに含まれるのでは?
…っていうか、俺に言わせりゃ、あなたがまだ手を出してなかったことのほうが吃驚ですよ!」
言ってしまってから、ミランはふと自己嫌悪に駆られて口を噤む。…ああ、これは妬心なのだ。
ジュストと次代が住んでいる茅屋には牀はひとつしかない。ミランのことは何処であろうと遊び半分で、気安く押し倒すくせに、一番近くにいて、しかもジュストを心から信頼しているであろう次代には…同衾していてさえ触れることすら躊躇うのかと思うと、堪らなかった。
沈黙が降りる。月影が落とす微妙な陰翳を纏う、眼を逸らしたままのジュストを…ミランはじっと見詰めた。
「…あの方が…アニエス様に似過ぎているから、ですか?」
ジュストがはっとしたように顔を上げる。…図星か。
「…シュエットめ、ろくでもないことまでふきこみやがって…」
口にしたのは低く、唸るような呟き。だが浮かんでいたのはうち沈んだような諦念だった。
そう、ミランには直接の面識があるわけではない。ジュストが指摘したとおり、シュエットから聞いた話だ。
アニエス…次代の叔母にあたり、次代と同じ緋の髪と紅榴石の眼をしていたと。
ジュスト=ブランシュにとっては再従妹に当たり、幼馴染みでもあったが、ツァーリからの圧力によって王妃として差し出され、数年前に病没している。
彼女を守れなかった悲嘆と悔恨は、ジュストの生き方に少なからず影響を及ぼしたと聞いた。シュエットはそこまでしか言わなかったが、ジュストが寮頭候補とまで言われていた天文寮を辞し、紆余曲折の後ネレイアに身を投じることになったのも…おそらくは。
いまだに悲嘆と悔恨は彼の裡にあるのだろうか。だが今、その手の中には次代が託されている。未来であり、希望。あるいはそれを己の悲嘆や悔恨で塗りつぶしてしまうことを、彼は懼れているのかも知れない。
だが、そこにミランが出来ることは、おそらく何もないのだ。
そして…ジュストとてそれはよく判っている。
「…すまん。今の話は忘れていい…」
暫時の沈黙の後、ジュストがそう言って、ごろりと褥に身を横たえた。ただ、ミランには背を向けて。
ミランもまた、そのまま仰向けに身を横たえる。
狭い場所だ。ミランの肩はジュストの広い背中に当たっていたが、それ以上、離れることも身を寄せることも出来なくて…ミランもそのまま目を閉じた。
――◇*◇*◇――
今更、欲しいものなんて、ない――――。
差し込む月光の角度は、夜明けが近いことを告げていた。
そろそろ起きなければならないのは本当だが、このいい加減で、無類の放蕩者で、悲嘆や悔恨とせめぎ合いながらも…今は託された未来を育てることに真摯に傾注する統領の苦衷にうっかり触れたばかりに、ミランは機を逸していた。
昨夜垣間見せた窮苦の翳りなど疾うに何処かへ遣ってしまい、ミランを俯せにして身体を繋げたまま、いつものように丁寧に追い上げる。強靱だがひどく繊細な動きをする指先は前に廻されて弱い部分を弄り、火傷してしまいそうなほど熱い舌先の感触が背を這う。それに浮かされながら何も望まないのかと問われれば、ミランの答えはただそれだけであった。
――――以前、自分が拾われたという高地の近くを任務で通ったことがある。
ミランが拾われたのは山林であったが、その周囲は痩せた土地が多く、よく口減らしに子供が棄てられるという。その時ミランが通った高地…空により近いその場所は、そのまま風葬の場所でもあった。石塊の間から僅かながら草木が生えていたが、それが却って、寂寞たる光景を印象づけた。
ミランがふと足許を見たとき、足下に人骨があった。それが一目で人骨と分かったのは、それが頭蓋骨だったからだ。小さな髑髏。おそらくはかつてのミランと同じように棄てられ、そのまま息絶えて野晒しとなった子供の、なれの果て。
ひとつ間違えば、自分もこの風葬された頭蓋骨の持ち主と同じ運命を辿っていた。それを思えば、ミランは今更、何も望めなかった。
そして…シエルの懊悩を、また今ジュストの苦衷をこの身に受けて思う。
シエルにしろ、この男にしろ…手に入らないものを必死に追い求めて苦しんでいる。
その姿は、いっそ傷ましい。
生きてさえいれば、なんとかなる。自分の命をつなぐことの出来るなにがしかが手に入るなら、殊更に手を広げることに何の意味があろう。手に入るわけもないものに、苦しみ足掻いて手を伸ばすことに…それほど価値があるのか?
『…何も望まないんだな』
ジュストの言葉が、ミランの胸を鈍く刺す。与えられたものをただ享受することは、それほどに哀れか?
望むことで苦しむなら…いっそ何も望まない方が、心は安寧を得られる。
だからミランは何も望まない。殊更に手を伸ばさなくても、自分は生きていける。
何も望まなければ、苦しむことはないから。
持たざる者にも、掌中に風があり、持てる者には、崩壊と不足しかないものだ。ジュストにとって自分が退屈凌ぎの玩弄物でしかなかったとしても、ミランは何ら痛痒を感じない。
――――今はただ、この瞬間の快楽に溺れるだけ。夜明け、風が変わるまでは…
***
下弦の月が南中する。
入江は朝凪。ミランは櫂を操りながら船を出したが、入江を出たあたりで緋の風神の託宣の通り湿気を含んだ少し強い東寄りの風が吹き始めた。
ミランは櫂を置き、帆を上げる。いい風だった。帆は風をはらみ、穏やかに船を外洋へ連れ出そうとしていた。…問題なし。風に乗った。
出帆を報せる信号旗を掲げると、苫屋の前に立つジュストが了解の合図を返して踵を返すのが見えた。あの茅屋に戻るのだ。アンリーの許に。
『…すまん。今の話は忘れていい…』
疲れたようなジュストの声は、暫くミランの耳に残っていた。それが追い詰められたような苦しさをはらんでいたように思えたのは、多分…考えすぎでもなかったであろう。
自分はジュストの退路を断ってしまったのだろうか。そう思うと冷たい石を飲まされたような重みが胸にのし掛かる。しかし、ミランはそれを打ち消した。
退路なんて、最初からなかった。
大神官の勘気を被るほどの放蕩を尽くしながら、あの男は向けられる想いには笑えるほどに鈍感なのだ。あの紅榴石がどんな感情を湛えて自身に向けられているのか、あの様子ではまだ気づいていないだろう。
次代はあの男にとって片恋の形見。だが、その形見には関わりないことだ。彼にとっては、今目の前にいるジュスト=ブランシュ…否、〝ヴァン〟が全て。
いずれ、向かい合ってもらうしかなかった。退路なんてないのだから。
どうして、人は苦しみを選び択るのだろう。
少しずつ強くなる…だが胸が空くような順風に身を晒しながらも、ミランはふと息苦しさに襲われて帆柱に寄りかかる。…帆柱に身を凭せかけて座り込むと、薄明の空を仰いで深く歎息した。
――――――――Fin――――――――