砂漠の夜は、日中とうってかわった極寒の世界となる。
しかしこの砂漠最大のオアシス、シルメナの国都メール・シルミナの中央部、そして王城となると…水と緑に溢れているために然程強烈な気温差は発生しない。だが耳を澄ませば、凍てついた砂漠で風塵があげる、寒々とした咆哮が聞こえてくる。
歴代のシルメナ王の中には、両手はおろか四肢の指でも数えきれぬほどの寵姫を持った王もいたというが、即位したばかりの現国王ルアセック=アリエルに関しては、レーダ大公時代からの正妃パラス・ミュネリーのほか、妻妾と名のつく女性の影はなかった。「シルメナの銀狐」ルアセック・アリエルも身持ちは堅かったといわれる所以である。かつて王妃以外の妻妾を住まわせたと言われる王城内の一郭…世が世なら後宮と呼ばれたであろう場所のほとんどは、このところ住む者とてない。
このため数代前から国王の住まいとその周囲は仕切られて内苑とされ、それ以外の場所は外苑と呼ばれる王室の客をもてなす場所として用いられてきた。
いつもは人声の絶える外苑も、先王の葬儀・新王の即位といった国事に伴い何組かの客を迎えた。公的な客から私的な客までいろいろであるが、公的な客についてはともかく、私的な客については使用人にも身分が明かされぬことも珍しくはなかった。
儀式は半月に及んだが、付随する神事のすべてに客が出席するわけではないから、即位式が終わると客人達の姿も減っていった。
そして一連の儀式がすべて終わった日、残っていたのは二組ばかり。一人は竜禅人と思しき黒髪の男。もう一人はシルメナ人であろうと思われたが、異国の童女を伴っていた。互いに知己らしく、お互いの房を行き来しているようだった。
――――その夜、神殿は祝宴の最後の夜とて一際賑やかであった。
対照的にひっそりとした王城の外苑に、その夜だけ新国王の命でもう一部屋が用意され、饗応の準備がなされた。しかし、奇妙なことに国王自身がそこを訪れたほかは、誰も来た様子がなかったという。…誰も案内を乞われなかったのだ。
国王本人が私的な宴だからと侍者さえ退がらせていたから、その客人の姿を見たものは誰もいなかった。一時内苑に仕える者の間で噂になりはしたが、その後に何が起こるわけでもなかったので、結局噂のままに霧消したのである。
風塵夜想曲
宴
使用人達にとっての姿なき客人は、先刻テラスからルアセックの手引きで部屋に入ったあと…暫く物もいわずに酒杯を傾け続けていた。ルアセックはそれをさも面白げに…悪戯っぽい笑みを浮かべて卓に軽く肘杖をついたまま眺めている。
「…知ってたな?」
憮然そのものの表情で高坏を音高く卓へ置き、客人…サーティスは、たまりかねたように口を開いた。
「何が」
完爾として、ルアセック。
「場所だよ。マキが神殿に泊まり込むって言い出すこと…織り込み済みで此処を準備したな?」
「神殿のほうが良かったか? 奥の院なら静かだ」
「神域を何だと思ってるんだ、お前」
「俺としては、邪魔が入らなければどこだっていいんだが?」
サーティスはあっさりと反論を諦めた。経緯はともかく…諾と言ったのは、他ならぬサーティス自身だ。
謀られた。そんな気がする。やはりこいつは銀狐だ。
サーティスが思い切るように立ちあがる。精緻な文様の施された硝子の杯をもう一度酒で満たすと、それを持ったまま隣室へ続く帷帳を開けた。
隣室は、閨である。枕頭に細い灯がひとつだけ。ぼんやりとした灯ではあるが、牀の位置ぐらいは十分に判別がつく。かつては王の訪いを受ける寵姫たちの褥であっただけのことはあり、牀は贅沢な広さを有していた。
その牀に腰掛け、吐息する。サーティスは自分で、襟元を緩めた。
ささやかな酒宴のあとの灯火を手ずから消して回ったあと、ルアセックが帷帳をあげてゆっくりと入ってきた。優美な微笑を浮かべながら歩み寄り、簪を抜いて卓の上に置く。
「…大陸の隅々、海の涯まで捜しても、これほど贅沢な祝儀はなかろうなぁ。シードル卿が置いていった金子など比べるべくもない」
そのまま卓に手をついて、サーティスの顔を覗き込む。結い上げていた銀糸の髪がはらりと肩を滑った。
サーティスの顎を捉え、軽く仰向かせる。答えを俟つことなく、銀色の雨のような髪を揺らして顔を近づけた。底の見えない、深い緑瞳。サーティスは表情を抑え込んだ双眸を閉じて、口づけに応えた。
「歴とした妻子がある癖に…何を考えているんだ」
応えた後で、ゆっくりと息を吸い、毒づく。
結構な量の酒精が入っている筈だが、その若草色の眸に酔いはない。あるのはただ、冷め切った自嘲。あるいは自虐。
「何とでも」
そう言って、穏やかに微笑む。もう一度唇を重ね、今度はさらに深く舌を絡める。
顎にかけた指を襟許へ滑らせ、先刻サーティスが緩めた襟をさらに押し広げる。そこから微かに指先で首筋を撫で、またひとつ、釦を緩める。夜の冷気が、サーティスの首筋を撫でた。
ルアセックが唇を離し…緩められた襟許へ移す。唇が、舌先が、首筋をいくらも滑らないうちにサーティスの唇から吐息が漏れた。先刻のような嘆息とは明らかに違って、甘やかなものを含んでいる。投げ出されたままの指先が、微かに震えた。
ルアセックがかすかに笑う。
「西方で随分遊んできた割には…」
「うるさい、黙れ…」
その笑いが漏らす息に首筋を擽られ、サーティスが微かに呼吸を詰めた。睫が震える。
言葉は中断される。しかしそれはサーティスの言葉を容れたというより舌先で鎖骨の線をなぞるためであった。
他愛なく、サーティスが甘い声を上げて喉を反らす。その瞬間を見透かしたように、ルアセックの手がサーティスの肩から上衣を滑り落とした。
「…寒いか?」
それは問いかけというより、通告だった。
褥の上に覆うもののなくなった上体を横たえられても、サーティスに寒さなど感じる間はなかった。ルアセックが滑らかな夜着のまま身体を重ねてきたからだ。ルアセックの動きに追随する柔らかな布がさらりと肌を擦る感触と、首筋から胸元へ滑る舌先の動き。一方では衣服越しに下肢を撫で上げられて、終には詰めた呼吸が甘い声に化けた。
サーティスが喉だけでなく、身体全体を撓らせた一瞬も、ルアセックの手は止まらなかった。下肢を覆う衣服を緩め、隙間から潜り込む。鋭敏な部分に触れる。刺激され、サーティスは思わず藻掻いた。朱を刷いた顔を背けたが、不機嫌な無表情を装う横顔は既に凄絶なほどの艶をはらんでいる。
「…何を今更」
ルアセックの穏やかそのものの笑みに、酷薄な何かが混じった。
一度身体を離す。脱がせた衣服を牀から滑り落とし、代わりに覆うもののなくなった下肢を抱え上げて牀へ伸べさせると、絹糸を銀で染められるならこうもあろうかというルアセックの髪が腰にまつわる。次の動きを察したサーティスがわずかに身を捩った。
だが、いきなり咥えたりはしない。下肢の内側をそっとなぞり上げ、寸前で止める。左右を、何度も。そしてゆっくりと昂ぶらせていく。
サーティスの呼吸が追い詰められ、切れ切れに掠れた声が漏れる。
昂ぶりを弄ぶと、すぐにぬるりとしたものがルアセックの指を濡らした。
ルアセックが身体を起こしてその指先をすりあわせ、喉奥で小さく笑った。
「ファルーカ渡りの香油も敵わぬが…これだけというわけにはいくまいなぁ」
顔を背けたまま息を弾ませ、下肢を震わせているサーティスの姿態を賞玩するように眺め遣り、ルアセックが牀の傍に設えられた棚から見事な銀彩を施した硝子の香油瓶を取る。濡れた手にその中身を垂らすと、華やかな香りが散った。
「…ルーセ…?…あ…っ…」
どうしようもないほどに昂ぶらされたまま、それでも達し損ねていたサーティスは、滑りの良くなった指先で不意に深い部分に触れられて一気に身体を硬くした。
「そう硬くなるな。経験がない、とは言わんだろう?」
笑いを含んだ問いに、サーティスは答え損ねた。香油で潤った部分への侵入に背を撓らせ、金褐色の髪を振り立てて喘ぐ。縋るものとてない指先が、空しく敷布を手繰った。
塗り広げられた香油の艶めかしい芳香。
「レアン…」
愛しげに、名を呼ぶ。褥に爪を立てているサーティスの指先をそっと解き、口づけた。
「縋るなら俺に縋ればいいものを。…こんなときまで強情なことだ」
そう言って捉えた手を自身の身体へ導き、触れさせる。
「辛いなら素直に声を上げて縋ればいい。何、誰にも聞こえはせぬ。…とは言っても、まだ無理…か。…まあ…そこがいいんだが」
さも面白げに低く笑って、ルアセックが潤った部分への侵入を再開する。
サーティスの唇から漏れるのは、相変わらずせり上がってくる何かを抑え込もうとする苦鳴にも似た呻き。だが、ルアセックに導かれた腕はそのままルアセックの背に滑る。わずかにサーティスの腰が浮いて、迎え入れるような姿勢になったのは、故意か。無意識か。
どちらにしてもそれを指摘すれば、また身体を硬くさせるだろう。それも愉しそうではあるが、あまり焦らしても機嫌を損ねそうだ。
ルアセックは強請るようなその動きに…丁寧に応えた。香油で滑りの良くなった部分の、さらに奥へ。
掠れた声が上がり、サーティスが身を震わせる。先程ルアセックが導いた手だけでなく、いつの間にか両腕が背に回っていた。
素直でよろしい。そんなことを口に出したりせず、ただその首筋から耳朶へ唇を滑らせ、耳孔に舌を差し入れる。
ルアセックの背に両腕を回したサーティスの動きが、ただ受け容れるだけではなく快楽を追うものに変わりつつあるのに気付いていたから…ルアセックはせつなさが混ざり始めた声を聴きながら、侵入させた指先で慇懃なほど慎重に追い上げる。
探り当てた。
その瞬間、サーティスが背が浮くほどに全身を撓らせ、ルアセックの背に回した腕に力がこもった。反り返った喉から紛うことなき嬌声が迸り…ややあってゆっくりと沈み込むように弛緩する。
構わずルアセックが指先を進めた。
「…っ…あ、待…まだ、動くな…っ…」
達したばかりだというのにすぐに深い部分を擦られる刺激に耐えかねて、震える腕でルアセックを押しやろうとする。
ルアセックが細く笑んで指先を退いた。
「…あの時は、ここで泣かれたから諦めたんだがな」
「何の…話…」
荒れる呼吸を宥めながらサーティスが問う。そのおそろしく扇情的な姿態。しかし思いも寄らない言葉にルアセックは身体を起こして訊き返した。
「まさかと思うが憶えてない…のか?」
緩々と顎の線から喉を撫でられながら、サーティスがわずかなりともこの横着な従兄を驚かすことが出来たことに愉悦を覚えたかのように嗤う。
「知るものか…」
「…なんとつれない」
ルアセックは大袈裟に嘆息してみせた。そして、改めて覆い被さるようにして両手をつく。
ルアセック自身ははまだ上衣すらとっていない。白絹の柔らかな夜着の袖と銀糸の髪に鋭敏になった膚を撫でられ、サーティスがかすかに息を詰めたのを看て取ると、稚気さえ漂わせて微かに笑んだ。
「本当に憶えていなかったとはな。まあ、無理もないか。確かに…あんな時期にちょっかい出した俺も俺なんだが」
香油を垂らした指先で、ルアセックがサーティスの首筋から肩先をなぞる。既に瘢痕と化してはいるが、滑らかな膚にはひどく不釣り合いな…荒々しい傷がそこにあった。
ルアセック ー想ー
その当時、既にレーダ大公11の地位にあったルアセックが神殿に居留していたのは、シルメナ国王の正式な後嗣としての修養の一環であった。風の神殿にまつわる儀式、儀礼…聖風王の後裔としての知識と所作を身につけるという名目で、風の神殿に預けられていたのである。
往時の権勢はないにしても、聖風王12の後裔としての矜持を忘れてはいけない。その為だけに慣習的に定められた期間ではあるが、十代も後半のルアセックにとっては退屈以外の何物でもなかった。行儀見習いならもう少し稚くて素直なうちにさせるべきだというのがルアセックの結論だった。
王室書庫の貴重な文献が読み放題という環境は悪くはなかったが、日がな一日老神官の繰り言に付き合うのはなかなかに忍耐心を要求される。成る程、修養とはこういうことかと毒づきつつ…時折適当に抜け出しては神殿の周囲を散策していた。
神殿の奥の院の一隅に、よんどころない事情で匿われている貴人がいるという話は神官から聞いてはいた。神域といえど後嗣たるルアセックが立ち入りを禁じられるような場所はそう多くないが、傷を受けて療養中と聞いていたので一応訪問を憚っていたのである。
その日突然、足を向けたのは…一寸した興味としか言いようがなかった。正式な見舞いを申し込んだところで、断られてもつまらぬ。散策のついでで立ち寄った態でその貴人とやらの顔を見てやろうと思ったのである。
いわゆる奥の院は神域だから、余人の立ち入りは禁じられている。その周囲には警護の兵が立てられているが、逆を言えば個々の建物について警護がついている訳ではない。神域に入ってしまえば入り込むのは容易だった。庭伝いに入れば近侍の者に見咎められることもない。…ある意味、スリルを愉しむ意図があったことは否めなかっただろう。
庭の静穏を護る樹木は、もとは岩山であった神殿の土地へ、他所から丁寧に運ばれた土の上になされた植栽である。だから、その位置は精緻に計算されたものであった。
木々がつくる衝立の間をかいくぐり、中庭に出た。
中庭には滑らかな敷石で囲った泉が設えられている。神殿の最奥から湧出する水は神域内の貴重な水源であり、その豊富な水量は苑内の植栽を灌漑し麓の樹園にも供給されていた。
その敷石の並びまで詳らかに見えるほど透明な泉の中に、誰か蹲っている。
この泉は水源に近く、かなり水温が低い筈だ。導水管から出た時よりも敷石で温められるとはいえ、そのまま浴びるには少々冷たいだろう。
おまけに、少々様子がおかしい。
すこし癖のある金褐色の髪。神官の着衣であるゆったりとした白い長衣は一見して体格がわかりにくいが、水を吸って張り付いた長衣に包まれた肩はまだ細い。
水の中に座り込んだまま動かず、とても稚気にまかせて水遊びという風情ではなかった。俯き、白い長衣の裾が濡れることなど全く頓着していない。
「そこな客人、具合でも悪いのか」
敷石の段を降り、声をかける。反応はなかった。少し考えてから、ルアセックは皮鞋を放り出して水に入る。こちらも服は濡れるが仕方ない。
「おい、大丈夫…」
少し伸びた金褐色の髪の下には、わずかに上気した白皙の面があった。
既視感のある面差しは、まだ少年と言っていい。十三か四というところだろう。淡い緑…萌え出たばかりの若草色の双眸は熱に潤み、自らの左肩をかなり強い力をこめて掴んでいる指先が、微かに震えている。指先の間から見える濡れた長衣の左肩は、微かに緋色が滲んでいた。
「…熱…い…」
濡れた唇がわずかに開かれ、掠れた声が漏れる。水も浴びたのだろうが、おそらく汗もかいている。傷を受けて療養中とは聞いていたが、傷の経過があまりよくはないのだろう。発熱している。
ツァーリに嫁いだ王妹アスレイア・セシリアの遺児が、殺されかけてナステューカを逃れたという噂は知っていた。年頃は合致する。してみれば、これが件の遺児か。
アスレイア・セシリアが輿入れしたのはルアセックとて物心つく前だ。回廊に残る肖像を見たことがある程度で、面識はないといっていい。歴史の長いシルメナの王家には女傑も少なくないが、ルアセックからすれば叔母にあたるアスレイアはまあ、肖像を見る限り儚げな美姫という印象しかなかった。ツァーリとの力関係から拒否は出来なかったのだろうが、父も送り出すに当たっては相応に心痛であったに違いない。
上気した頬と熱に潤んだ緑瞳は確かにあの肖像にあった面差しと同一であったが、繊細でありながら芯の勁さを感じさせる眉目が、一瞬呼吸を停めさせるほどの艶を含んでいて驚く。
傷を押さえていた手が、ふと緩んでルアセックの肩に落ちかかる銀の髪に伸べられる。最初はそっと触れ、指に絡めたと思うと…細い肩がぐらりと倒れかかる。その指先はしっかりと髪を握ったままだったから、背中で緩く括っていただけのルアセックの髪はあっさりと解けてしまった。
受け止めた身体は熱い。
ルアセックは筋骨隆々たる偉丈夫という訳ではなかったが、線の細い少年の身体を抱え上げるのにそれほど難儀はなかった。熱にたまりかねて泉の水を求めたのだろうが、とりあえず水からあげてやらねばなるまい。
立ちあがった時、左腕はまだ十分に力が入っていないようだったが、右腕は確かにしがみつくような動きを見せた。わずかに頭をすり寄せてもきたから、抱え易くはあった。
「どうにも、誘われているような気がしていかんな」
ルアセックは苦笑して、客人を庇と樹木の陰になっている長椅子へ運んで横たえる。
中庭に面した部屋の扉は開いたままだ。その先…部屋の中をを見遣ると、先程までこの客人が伏せっていたと思しき牀があったのだが、このずぶ濡れの姿のまま寝かせるわけにも行かないだろう。呼べば近侍の者が来るから、後は任せるのが妥当だ。
しかし。
身を起こそうとしたルアセックは、思わずもう一度膝をついてしまった。少年の指先はまだしっかりとルアセックの髪に絡められていたのだ。
「…おい…」
熱で潤んだ若草色が見上げていた。その唇が熱に浮かされたように何かを繰り返し紡いでいる。それが、必死に引き留めようとする所作なのは明らかだった。
媚びたふうは微塵もない。それなのに、この凄絶なまでの艶といったら。
――――こんな、熱を噴いて前後不覚の主を放っておく近侍が悪い。
髪を絡め取る指先を丁寧に解き、ルアセックは自らの掌を重ね合わせた。触れているものがあれば安心する。ただ引き離すだけでは混乱を深めるだけ。
もう片方の手を年若い客人の項に回して引き寄せ、熱を帯びた唇に口づける。流石に驚いたのか…ひくり、と身体を震わせたのが判った。
遅いよ。
触れた唇を賞玩し、舌先で歯列を割って推し入る。息を呑むような喉奥の音を聞きながら、項に回した手をするりと背に回して抱き起こす。ルアセックは木の長椅子に掛けるとそのまま年若い客人を抱え上げて自分の膝の上へ載せた。
ようやく唇を離された時、自身の格好に気付いたのか…喉で小さな音を立てて身動ぎする。
「……っ…!」
聴き取れないが、それはおそらく誰かの名前。だが、濡れて張り付いた神官衣の裾を滑らせて下肢を撫で上げると、ルアセックの首に両の腕を回し…甘い声を上げてしがみつく。
なんと罪作りな。
だが力が持続しないらしく、左腕が滑り落ちる。やはり傷か。片腕でその華奢な身体を支えながら、もう片方の手でルアセックが濡れた神官衣をほどいていく。胸元を肌蹴けたとき、左肩の惨い傷痕が露わになった。
熱を持って腫れている。全身の熱の原因も此処だろう。あまりのいたましさに思わず唇を寄せる。舌先でそっとなぞると、微かな鉄の味がした。傷そのものはほとんど塞がっているが、先程掻き毟りでもしたのか周囲に浅い傷がある。
その一つ一つを丁寧に擦っていくと、苦鳴というよりあきらかな嬌声が朱唇から漏れる。
痩い身体をもう一度濡れた長衣の上から撫で、下肢へ滑らせた。裾を割ってその奥に触れると、既に兆しているのがわかる。
「…辛そうだな」
そうさせたのが誰か、というところを棚上げにしてルアセックが耳許で囁く。紅く熟れた耳朶を甘く噛み、下肢の奥へ滑らせた指先を進めると、他愛もなく達した。
しがみつく腕がわずかに緩み、ルアセックの耳朶を蕩けるような吐息が擽る。この年齢で…判ってやっているなら怖いが、これが天然というならさらにおそろしいのではなかろうか。
どれだけ煽るつもりだ、と胸中ひとりごちてさらに指を進めようとすると、熱をはらんだ身体に怯えたような震えが疾った。だが、力が入りきらなくてただ身体を震わせるばかり。
終には吐息が嗚咽になってしまったから、ルアセックは指先を退いた。これ以上は無理強いになる。
もう一度…触れる程度に唇を重ねながら衣服を整えた。そうはいっても濡れているから、軽く覆うだけだ。
生殺し、というあまり上品とはいえない言葉が脳裏を過ったが、こればかりは自分にも責任がある。大体、朦朧とするほど熱を出しているのにいつまでもこんな濡れた格好をさせておく訳には行かないだろう。…常識として。
その常識を踏み外しかけた原因を長椅子に横たえることを諦め、ルアセックは年若い客人を抱えたまま立ちあがった。中庭に面した部屋に置かれた牀の脇、卓の上には呼び鈴もあるにはあったが、両手が塞がっていてはどうにもならぬ。
「誰か有る!」
ルアセックの声に、慌てるあまり裏返ったような返事をしながら転び出てきたのは神殿に仕える女官であったが、すぐにもうひとり…近侍衛士と思しき者が駆けつける。鴉羽色の髪、怜悧な美貌。衛士の姿ではあるが紛れもなく女。
「熱があるというのに水に入られたようだ。御召物を替えてさしあげよ」
ルアセックがそう言うと、女官がやはりまだ半分裏返った声で応えて脱兎の如く準備に走った。その近侍衛士が進み出てルアセックの腕から主人を抱き取る。
「我が主がご面倒をかけて申し訳ありません。本日こちらにお運びとは存じませんでした。お迎えに伺いもせず、重ねての無礼ご容赦下さい。
…レーダ大公、ルアセック・アリエル殿下」
完璧な礼儀に則った所作というのは、時に相手を居心地悪くさせるものだ。ルアセックは苦笑いするしかなかった。
「良い。修養とやらが退屈なもので抜け出して出歩いていたら、行き合っただけだ。神官共には内密にしておいてもらえると助かる」
中庭へはいりこんでおいて偶然行き合ったもないものだが、有難いことにそこは突っ込まれなかった。女が怜悧な美貌の下で何を考えたのかは…はかりかねたが。
「御意。殿下も御召物が濡れておいでですが…」
「ああ、構うな。すぐ乾く」
ここで長居していて女官が複数出てくれば、神官共には筒抜けるだろう。早く退散するに限る。踵を返して階を降りつつ、先刻客人に引っ張られてほどけた髪を括り直していてふと思った。年若い客人の繊細な指が引き留めようとした銀の髪…この女ではあるまい。
振り返ってから、それを問おうとした自身を嗤う。そんなもの、訊いてどうする。
だが振り返った時、女が誰かの面影を追うように、ルアセックの後ろ姿を見送っていたことに気付いた。
ルアセックが振り返ったことに狼狽え、すこし辛そうに目を伏せる。そして腕の中の主を、慈愛に満ちた所作で抱き締めた…その風情に先程の怜悧な印象が揺らぐ。
この年頃の主に、年嵩の娘を近侍衛士として宛てる。近習どもの意図は明らかだ。ルアセックの直感では、この女は意図されたところの役責をまだ果たしていない。機宜がなかったのか、この女の理由なのか…どうにも、後者のような気がしたが。
主を女官たちに委ね、改めてこちらに向けて拝跪する近侍衛士からすいと目を逸らして…ルアセックは再び歩き始めた。
客人が、そしてあの女が、この髪に誰を見たのかは知らぬ。
だがそれが誰であったにせよ…早晩、彼の客人の心は別のもので占められてしまうだろう。どういう事情か知らないが、いなくなってしまった誰かではなく…傍にいて、自身の命すら主のものであると信じて疑わぬ美しい守護者に。
「…勿体ないことをした…」
庭を出てしばらくしてから、ルアセックは振り返って溜息をついた。
媚びたふうは微塵もないくせに、ルアセックをして背に戦慄を疾らせるほど艶めいた所作を思い出し…もう一度かの客人をこの腕に抱く幻想にとらわれかけて…嗤う。
父王の妹姫の忘れ形見であれば、王室が庇護しても何ら差し支えないはずだ。それを名を隠し神殿の客としているのは、ツァーリへの聞こえを憚ったからに違いない。
ツァーリも今現在取り込み中だ。この時期にわざわざシルメナへ手出しをしてくることは考えにくいが、もしそれを危惧するならルアセックがレーダ邦に連れ帰って匿うという手段もある。
そうすればずっと、手許に…
だが、ルアセックはその幻想を笑殺した。
傷つき、羽根を折られた鳥。血反吐をはき、思うに任せぬ羽根で踠きながら、それでも飛び立つことを諦めていない。今は踠くことでさらに自身を傷つけているとしても、鳥籠に匿えば…その魂は失われるだろう。
それがいかに美しく貴重であろうとも…ルアセックは翼持つ者を籠に閉じ込める愚を犯したくはなかった。
――――手を伸ばせないもどかしさを愉しむのも、また良いではないか。未来永劫、手に入らぬものと決まったわけでもあるまい。
サーティス ー苦衷ー
セレスの涙痕鮮やかな目許が、サーティスの脳裏に灼きついて離れない。
自らの心臓を抉り出してしまいたくなるような泥沼の罪悪感からひたすらに逃れたくて、サーティスは翌日早朝の出立を決めてルアセックに伝えた。
この地を立ち去ったとて、逃れられるものではない。そんなことは解っている。…それでも。
「…また、急なことだな」
それを聞いて、この…鷹揚を装った周到な従兄は、嘘か本当か俄には判じ難い大袈裟な嘆息混じりにそう言った。即位直後で目の回るような忙しさであるはずなのに、きちんと時間を取ってくれるのは有難い。が、いつも何を考えているか今ひとつ掴みにくいのが困る。
「まだ祝儀を貰っていないが」
「即位の祝儀なんぞ戴冠式に列席した各国のお歴々からたっぷり貰っただろうが。俺だって窮屈なのを我慢して儀式に協力した13ぞ。十分だろう。今や一国の王の癖に、旅枕の貧乏人から搾取するつもりか!?」
「人聞きの悪い。気持ちの問題だ」
「…何が欲しい」
堪りかねて、サーティスは訊いた。この状況で、あまり神経に負担をかけたくない。
「千金でも購えぬものを」
蕩けるような笑みで、ルアセックが言った。立ち上がってサーティスの傍まで歩み寄り、その頬に触れる。
ざわり、と総毛立ったのを悟られたくなくて、サーティスはわずかに目を伏せた。
「…あまり出来の良い冗談ではないな」
「何で冗談なものか。…何が欲しいと訊かれたから応えたまでだが」
「本気か」
「本気だ」
「…どうしろと」
面白がっているのを隠そうともしない微笑が小憎らしい。
「そう身構えるな。明日出立するというなら、送別の宴を張ってやるから付き合えと言っている。…何ならあの小公女を伴っても構わんさ。
なに、心配するな。子供の前でお前を押し倒すほど、俺は無分別ではないぞ」
「当たり前だ!」
ひとを総毛立たせておいて、巧妙に逃げ道をちらつかせるのだから始末に悪い。ルアセックが笑いながら立ち上がった。
「…後から場所は報せる。返事はその時で良い」
そんな話をして別れた後のことである、マキがその顔を喜色に輝かせて、ここのところすっかり馴染みになった神殿から戻るが早いか、言った。
「今日で儀式が全部済んだから、今夜神殿は御直会14なんだって!ご馳走が沢山出るし、巫女のお姉さん達から、夜更けまで奉納舞とか楽もあるから観たついでにお泊まりしていかない?っていわれちゃったんだ!行ってきていい?」
異国の舞楽、珍しい食べ物。その興味の前には、幾ら新国王が私的に宴を張ってくれると言っても「それってきっと、高価いかもしれないけど酒の肴ばっかりだよね」という台詞で両断されるのは火を見るより明らかだ。
「…俺のことは気にするな。楽しんでこい」
笑いが引き攣っていないことを願いながら、そう言うしかなかった。マキにもこのところ随分と心配をかけてしまった。最後の夜くらい、楽しませてやりたい。
ひょっとして、直会のことも織り込み済みだったのだろうか。マキを見送った後、そんなことさえ脳裏を過った。何せ銀狐のことだから、そうだったとしても何の不思議もない。
しかし何より、サーティスは自分自身が微妙に逃げ腰であることに気付いて…思わず舌打ちしたのだった。
***
――――緑に溢れた庭園…国王の住居たる内苑と区別して外苑と呼ばれるそこには、いくつかの建物が点在している。
往時は内苑と外苑の区別が曖昧で、建屋の一つ一つに寵姫が住まい、主の渡りを待っていたのだろう。現在は王室の個人的な客をもてなすために利用されており、サーティスも今回はマキと共に半月ばかりをここで過ごした。ノーア佐軍卿の地位にあるとはいえ今回は非公式な来訪15であったシュライも同様だった。
ルアセックはこの外苑にある房のひとつに、ささやかな宴の間を用意させた。
サーティスを招き入れた時、ルアセックは既に侍者さえも退がらせていた。
「誰かいると、お前が入りにくくてはいけないと思ったからな」
涼やかな笑みでそう言ったものである。揶揄われているという線は棄てきれないが、それにしてもこの従兄がなにゆえ自分に執着するのかが謎だった。
品数を絞って選び抜き調えられた酒肴を前にしても、サーティスの気鬱は晴れなかった。
早くこの国都から立ち去りたい。この国を去ったところでこの泥沼の罪悪感から逃れられるものではないと解っていても。だが、逃れようとしている自分自身さえ厭わしくて、すべてを忘れてしまいたくなる。
自分は一体何処まで狡いのか。
そんな想いがひたすら酒杯を重ねさせる。酒に逃げるか。最低ではないか。感覚も、思考も麻痺させるために呑む酒など、ろくなことにはならない。第一、酒に失礼だ。
――――わかっている。そんなこと。
思考の空転を遮るように最後の杯を注いで、サーティスは自分から閨へ続く紗の帷帳を払った。その向こうは灯火ひとつだけの薄闇。酒を満たしたままの高坏を傍らの卓に置き、牀に腰掛けて何も言わずに襟を緩める。
ルアセックが望むというなら、それに付き合うくらいのことは何でもない。数少ない身内ではあるし、自分を案じてくれているのは間違いない事実だ。以前竜禅を離れ、愁柳の治療のためにシルメナに身を寄せた時も、何かと気遣って便宜をはかってくれた。
考えてみると、あのときの礼もまだきちんとしていない。
ふと、闇が深くなる。紗の帷帳の向こうで、ルアセックが先程の部屋の灯りを手ずから消していくのが見えた。紗を透いて流れ込む光が徐々に弱くなる。
終に闇に沈んだと思うと、帷帳が揺れてルアセックが再び姿を現す。髪を纏めていた簪を抜いたことで銀糸が肩から滑り落ち、ルアセックの姿は薄闇にあっても、浮かび上がってさえ見えた。
「…大陸の隅々、海の涯まで捜しても、これほど贅沢な祝儀はなかろうなぁ。シードル卿16が置いていった金子など比べるべくもない」
ルアセックがゆっくりと牀に歩み寄り、卓の上…先刻サーティスが置いた高坏の傍にその簪を置いた。細い灯火をはねて、装飾のない青銅の簪が鈍く光る。…国王の持ち物としては存外簡素だ。サーティスがそんな埒もないことを考えていると、ルアセックの指先が顎をとらえ、軽く仰向かせた。銀糸がさらりと落ちかかってくるのを感じながら…サーティスが目を閉じる。
準備はできているかと問うような、鄭重な口づけ。…今更逃げも効かぬ。それでも、一度離れた後…ひとこと言わずにいられなかった。
「歴とした妻子がある癖に…何を考えているんだ」
御簾越しではあるが一度見た、おっとりした正妃の穏やかな佇まいが脳裏を過ったのだ。しかしルアセックは何の痛痒も感じなかったらしい。揶揄うような笑みさえ浮かべてもう一度唇を重ねてきた。今度は更に深く。
「何とでも…」
侵入してきた舌先に口蓋を擦られ、落ちかかる銀糸に首筋を撫でられてサーティスの背に慄えが疾った。既にして首筋に手を掛けられていたから、悟られたかも知れない。流れるような所作で衣服をほどかれ、ルアセックの唇が顎から首筋、胸もとへ滑っていくのを感じて、その慄えが四肢に伝わっていくのを止められなかった。繊細な指先にするりと背を撫でられて熱い息が漏れる。
身体の奥底から何かがせり上がってくるような感覚にぞくりとする。…まさか、この程度で。
「ほう…西方で随分遊んできた割には…」
そう言って、耳許でルアセックがくすりと笑う。その微かな息がかかる感触さえ、痺れに似たものに変わるから…また、呼吸を詰めてしまう。莫迦な。生娘でもあるまいに。
「うるさい、黙れ…」
戸惑いを見透かされたふうなのが口惜しくて、思わず語気を強めたのに…その語尾は無惨なほど掠れた。
打算や興味や義務感でも、誰かと肌を合わせることはできる。相手が女であれ男であれ、そこそこ快楽を享受することもできる。そんな乾涸らびた見解に至る程度には、場数は踏んできたつもりだった。それゆえルアセックに求められたことに驚きはしたが、応じることにそれほど抵抗を感じた訳ではない。
ただ、まだ衣服をほどかれ、軽く触れられただけなのに…身体の芯で揺り起こされる熱に戸惑った。自分でも驚くほど簡単に声を上げてしまい、与えられる感覚に思わず身を慄わせる。
目的があって閨で相手を悦ばせようと画策するなら、サーティスは相応の演技さえ厭わない。…そういうものだと思っているからだ。だがもとより、身持ちは堅いと定評のある従兄相手にそこまでするつもりはなかった。
それが今、否応なく昂ぶらされ、意識さえ持って行かれそうになっていることに…うろたえてしまう。むしろ、演じていると誤解されかねない姿態を晒してしまったことが口惜しくて…顔を背けた。
ルアセック ー鳥籠ー
欲しいと思った。だが、手出しして良い状況でもなかった。
ルアセックとしては、諦めたというより機会を窺っていたのだが…そうするうちにサーティスが神殿から姿を消してしまったと聞いて…まるで長老方のように分別臭く躊躇したことを当時は本気で悔やんだものだ。
しかしつい先年、突然神殿を訪れた従弟にまみえた時、ルアセックは過日、強引に我が物としてしまわなかったことについて自身の慧眼をこっそりと称賛したものである。
西方で出会った友人17を匿い、その治療をしたい。ついてはその場所の提供を…との依頼で訪れたのは…もはや羽根を折られた無力な鳥ではなかった。
手足が伸びて、肩幅も広くなった。柔らかな若草色の双眸から繊細な印象は影を潜め…狷介不羈18、いっそ傲岸不遜なほどの奔放さは、妖しげな燐光さえ放って見えた。
「颯竜公」の名に愧じない力と自信がそこにあった。
あのままレーダ邦という鳥籠に収めてしまっては、こうはならなかったかもしれない。脆弱な籠の鳥は、竜に化けた。何があったかは知らぬ。だが、負った傷さえも呑み込んで、風の竜として再生したのだ。
しかし翼を得た竜は至って奔放で…過日のように簡単に捕らえることができない。大陸を闊歩しシルメナへも頻々と立ち寄るくせに、手を伸ばしかけるとふいと姿を消してしまう。
そんなことが続いたものだから、今度という今度は即位式に託け近衛を繰り出してまで王城へ引っぱり込んだ。
強引なやり方なのは百も承知だった。当然ながらサーティスには相当文句を言われた。しかしたとえ僅かな間だとしても、手の届くところに置いておきたい。その欲望のため…風見の代理を依頼するという大義名分を、ルアセックは最大限に利用したのだった。
それが今…双眼の若草色は生彩を欠いて淀んでいる。
昨夜か、今日か…あの娘…マーキュリア・エリスの面影を色濃く残すエリュシオーネの生き残りと何かあったのは確実だった。…それが原因で、今はなかば自棄になっているのだ。
酷く傷ついて、自棄になって。ひとときすべてを忘れたがって。…そんな危うさが手に取るようにわかる。わかっていてなお、付け込まずにはいられない。
千金でも購えぬ。ルアセックにとっては、それは修辞ではなかった。欲しいものを問われた時に零れたのは、紛れもない会心の笑みであった。
もう、俟たない。
自棄だろうが八つ当たりだろうが、あるいはいっそあてつけであろうと…この腕に抱けるならそれでいい。
――――少し触れただけで反応してしまったのが口惜しいのか、横たえられたまま鮮やかに朱を刷いた顔を精一杯背けたところで…薄紅に染まる首筋をこうも無防備に晒していては誘っているも同じだ。故意か、天然かといえば…後者なのだろう。
世慣れたふうはしていても、サーティスはこうした行為をあまり快楽として受け止めたことはなかったのかもしれない。あるいは最初に、何の打算もなく慈しんでくれた相手を…短時日の間に失った経験がそうさせるのか。だが、それを不憫と感じるのは傲慢かも知れぬ。
契機が課せられた役責に従っただけだとしても、あの女が衷心からその身を捧げたであろうことは想像に難くない。だからその面影が今もなおサーティスの中の深い部分を占めていたとしても、何の不思議もなかった。
振り向かせるのは容易ではなかろうが、手練手管を弄することがそれほど有効とも思えなかった。
だからただ、ルアセックは衝動のままに身体を重ねてその首筋に唇を落とし…もはやまつわるだけの下衣を取り去って指先を進め、鋭敏な部分を探った。
サーティス ー幻ー
マーキュリア・エリスが最初からそれを教える為もあって近侍衛士として立てられたことくらい、理屈では解っていたつもりだった。解っていてなお、溺れた。その時はそうせずにはいられないほど…多くのものを喪ってしまっていたから。
――――――初めて識ったのは、ナステューカを遁れ、神殿に仮寓して左肩の傷がようやく塞がった頃のことだった。
彼女の心が何処にあったとしても、彼女は役責としてその身をサーティスに与える。それでもいいと思っていた。理由など何でも。彼女が傍にいてくれれば、それでよいと。
それを哀しいと感じるようになったのは、彼女が病を得てからだ。
ライエン=ヴォリスという男がいた。過日、サーティスを護るためにナステューカで凶刃に斃れた。宰相家の後嗣という立場にあったが、颯竜公という地位を受けたことで宰相家の警戒感を買い孤立したサーティスにとってはナステューカにおける唯一の味方であり、兄にも等しい人物。そして…マーキュリア・エリス=エリュシオーネとは、相想う間柄でもあった。
立場上、ふたりはお互いが到底結ばれ得ぬことを理解していたが。
病床、熱に苛まれるマーキュリア・エリスの枕頭で…サーティスはそのライエンが、魂魄となって彼女を連れ去ってしまう幻想に苦しめられたのである。
白金とでもいうべき美事な金髪だった。とても穏やかな、蒼とも翠ともつかない深い色の双眸が、いつも優しげな光を湛えていた。サーティスの馬術や剣の修練に付き合い、時には書籍の知識だけでない、最新の政情についても…子供扱いせず丁寧に教えてくれた。
斯く在りたい、と思っていた。そう、端的に言えば――――憧れていた。
欲しいもの、憧れていたもの、奪われたもの、喪くしたもの。それらの狭間で、サーティスは半ば狂いかけていたのかもしれない。悪夢に魘され…連れて行かないでくれ、と幾度叫んだことだろう。
ただ己の無力を歎くしかなかったサーティスが看取る中、マーキュリア・エリスは短い病臥の後…夭折した。
その後まもなく、サーティスは神殿を出た。今と同じだ。ただ、ひたすらそこを離れたかった。
***
異国渡りの貴重な香油で潤った部分への侵入を感じ、サーティスは思わず苦鳴に近い呻きを漏らした。
既に衣服は取り払われ、塗り広げられた香油の艶めかしい芳香と、滅多と口に出来ない美酒の酔いとでなかば朦朧としているのは自覚していた。だが、鋭敏になった膚の上を既視感のある銀糸が撫でるのを感じて…あり得ないと判っていて惑乱してしまう。
――――ライエン!
かつて憧れた。マーキュリア・エリスと同じように、傍にいて欲しいと願った。でもそれは叶わず、しかも自分の手からマーキュリアさえ奪って逝ってしまった。あの優しい白金の髪が、いま膚の上を這い…鋭敏な部分を撫でている。強靱だが繊細な指先が、丁寧に快楽を揺り起こす。あり得ない。あり得ないのに、その幻想にどうしようもなく追い上げられ、自身でも驚くほど他愛なく達してしまった。
涙が滲んで、焦点が曖昧になった視界がルアセックの薄笑いを捉える。その瞬間に幻想はかき消え…残るのはただ、爪先まで痺れさせるような快楽の残滓。
ルアセックの薄笑いはいつものことだが、それがやや意地悪さを含んでいる気がして辟易ぐ。あるいは、その名を口走ってしまったのか。
いくらこの従兄が鷹揚でも、この状況で別の男の名を出されてはいい気がしないだろう。不穏な空隙にたまりかねて震える息を宥めながら口を開きかけたとき、まだ身の裡に沈められたままのルアセックの指先が、サーティスの深い部分を擦った。
「…っ…あ、待…まだ、動くな…っ…」
刺激に耐えかねて哀願するかのような声をあげてしまったのが口惜しい。だが、ルアセックは細く笑んで、あっさりと指を退いて身を離した。それさえも背を電流が疾り抜けるような衝撃であったが、なんとか堪えた。
「あの時は、ここで泣かれたから諦めたんだがな」
「何の…話…」
とりあえずライエンの名を口にしてしまったわけではないらしいと安堵し、改めて呼吸を整える。だが、ルアセックはひどく意外そうに、サーティスの顎を捉えてその両眼を覗き込んだ。
「まさかと思うが憶えてない…のか?」
「知るものか…」
安堵が半分、揶揄われている気がしてその苛立ちが半分。サーティスは我知らず、挑発するような笑みを浮かべてしまっていた。
「…なんとつれない」
ルアセックが大袈裟に嘆息してみせてから、改めてサーティスに覆い被さるようにして手をついた。再び白絹の柔らかな袖と銀糸が膚を撫でる。
「本当に憶えていなかったとはな。まあ、無理もないか。確かに…あんな時期にちょっかい出した俺も俺なんだが…」
この従兄にしては珍しく、自嘲するような笑いを浮かべた。それを不審に思う間もなく、左肩の傷を香油で滑る指先で撫でられてサーティスが背を引き攣らせる。
「いまだにここは弱いらしいな。もう、随分経つというのに…いたましいことだ」
それは本当に心痛だという表情で…思わず一瞬騙される。
何故識っている、と質すような暇はない。振り払う隙も与えずにサーティスを抑え込むと、ルアセックは指と、唇と、舌先で丹念にその傷を擦った。最後には痕までつけられ、サーティスは今度こそ掠れ声でやめてくれと哀訴する羽目になった。
自分でもわかっている。痛みなど疾うになくなったこの傷痕は、ひどく感覚が鋭敏だ。サーティスは下手に身体の中心を弄られるよりも危ういこの部分を、閨を共にする相手にさえ滅多に触らせたことはない。自身を制御できなくなるのが嫌だからだ。
マーキュリア・エリスでさえ…最初の一度だけしか触れなかった。
よりによってルアセックに露見てしまったのは、失敗というより他にない。
ようやく身体を離してくれたルアセックから逃れるようにして横を向き、サーティスは身体を波打たせて息を吐く。傷を弄られる間に昂ぶらされてしまったものが、解放を求めてどうしようもなく疼いた。…それを堪えようとする間、ルアセックが何もしなかった理由など、この時点ではとても思い至るような余裕はなかったのである。
ルアセック ー熱ー
あの近侍衛士の面影は、いまだにこの従弟を縛っているのだろうか。あるいは、縛っているのは…過日この銀の髪の向こうに見た誰かか。
――――そうだとしたら、その呪縛が砕け散るまで抱き潰そうか。
発熱し朦朧としていたとはいえ、神殿でのことをサーティスが全く憶えていないらしいのには、ルアセックは少々落胆した。…まだ傷も癒えかけの頃のことだ。サーティス自身が忘れたがっていた可能性もあるだろう。
だが、あまりにもつれない。
濡れた長衣に包まれた痩い身体の感触も、その艶めいた息遣いも、ルアセックは鮮明に憶えている。嗚咽に絆されて一度は諦めたものの、到底忘れきれるものではない。
肩幅が広くなり、胸板が相応の厚みを得ても…いたましさに思わず触れてみた傷痕は、相変わらず敏感で…触れると佳い声を上げて薄紅に染まった身体を慄わせた。傲岸な眉目を苦痛寸前の愉悦に歪めるさまはおそろしく扇情的だった。…声が嗄れるまで啼かせたくなるほどに。
だが、紅く染まった目許…焦点が曖昧になってしまった若草色がさらに潤みを湛えているのに気付いて、一旦身体を離す。
…少し、苛めすぎたか。
だが、生憎と今更分別臭い遠慮が出来る程、ルアセックは悟ってはいない。
それにもう、俟たないと決めた。今を逃してしまえばいつまたこの腕に抱くことができるか。…自棄だろうが、気紛れだろうが構わぬ。
サーティス ー月ー
いっそ何も考えられないようにしてくれていい。そうしてでも、この空転する思考を停めたい。…そんな狡い思惑など、とうに見透かされていたに違いない。
激しい律動に擦り切れたような苦鳴を上げさせられたかと思うと、丁寧に宥められ…酔いも相俟って眠ってしまいそうになった。だが、それを見計らうように再び急な動きで追い上げられるのだ。その間に何度達したかわからない。何度気を失ったかも。
事の最中に意識を失うなど…あり得ないとは言わないが、久しぶりであったには違いない。
そして、言い出したのはルアセックだったにしても、そうして欲しいと望んだのは紛れもなく自分だ。どのように扱われても文句を言う筋合いではない。
そうは言っても、格別惨く扱われたというわけではなかったと思う。むしろ、おそろしく丁寧ではあった。…執拗い、とも言うが。
薄闇の中で、サーティスは軋む身体を起こした。その動きで、掛けてあった薄地の衾がさらりと牀の下に滑り落ちる。身を屈めてそれを掴んだ。
褥に揺蕩う豊かな銀糸。身を屈める為にその上に手をついたことに気付き、所有者を起こしたかと見遣ったが…杞憂であった。…銀糸に視線を戻す。指先に絡み引き留めるような…細い割に弾力のある髪から俄に手を退き損ねたのと、身体の奥に残る快楽の残滓に縫い止められて、サーティスは起きたはいいが暫く褥から動けずにいた。
ややあって、緩い起伏を続ける肩に掴んだ薄布を掛けると、サーティスは牀から足を降ろした。ルアセックの飽食した捕食者のような泰然たる寝相に苦笑しつつ…絡みついた銀糸に軽く口づけてから指先をほどいた。
やはり牀の下へ滑り落ちたまま蟠っていた衣服を掴んで、緩々と立ち上がる。閨から出て、隣室へ出ると月の青い光が静かな室内を満たしていた。
庭に面したテラス窓を押し開ける。
豊かな緑の香と、水の匂い。
庭に噴水、水盤や池を設けるのは、この土地では神殿でなければ王侯の屋敷にしか許されない贅沢である。だがここに関しては、彫刻や柱の様式を見る限り贅を尽くしたというより聖風王の御世に築かれたものを大切に使っているのだろう。
瑞々しい緑に彩られた庭に広がる池は、膝を少し超すほどの水深を有していた。敷石に囲われており、常に緩く水が流れ続けているのは神殿と同様である。彫刻を施した列柱が緑と共に配され、周囲からその空間をゆるやかに隔絶する。
天上の月と、水面に映った月とで、中庭は仄明るい。満月に近い月は敷石に木々の影を落としさえしていた。
服を傍の木に掛け、サーティスは水に入った。清冽な流れが身を引き締める。汗ばんだ身体を洗いたいのもあったが、身の裡に残った酔いや熱を冷ましたかった。
緩い流れの中に膝をつき、掬った水をゆっくりと身体にかける。一瞬呼吸を停めるほどに冷たかったが、流れ落ちてしまえばそれも心地好い。
身体のいたるところに宴の痕が刻まれている。無茶苦茶をしているようで相応に気を遣ったものか、服で隠れない場所には痕をつけていないことに苦笑しつつ…汗を洗い流した。
腰を沈めて流れに身を浸す。爽涼な流れが身の裡の澱を流し去ってくれる気がして、上半身にも掬った水を掛けながら天を仰ぐ。
「――――いい眺めだな。そのまま画にしたいくらいだ」
不意に掛けられた声にサーティスは地上へ視線を戻した。見れば、先程サーティスが出てきたテラス窓に身を凭せかけてルアセックが立っている。すでに身繕いを終えていた。
「莫迦抜かせ。男の水浴見て何が愉しい」
サーティスが眉を顰めるのさえ面白がっているのは明白だから、それ以上言わずに水から上がると服を羽織る。
「よくこんな冷たい水に浸かれるな。沐浴したいなら湯ぐらい運ばせたのに」
水際まで降りてきたルアセックが、足先だけを浸けて苦笑しながら引っ込める。
「この夜中に湯を運ばせる?迷惑千万だろう。それに生憎と沐浴に湯を使うなんて贅沢、ここ十年ぐらいしたことがなくてな。俺はこれで十分だ」
「ほう…」
ルアセックがそう言いながらわずかに表情を曇らせたから、厭味に聞こえたかとサーティスは継ぐべき言葉を探す。その隙に、濡れたままの項にするりと手が回された。
いつの間に距離を詰められたものか。
「まったく、あいかわらずというのか…どれだけ煽ってくれるのだか」
低い笑声とともについと引き寄せられる。
「…濡れるぞ」
「構わんさ」
唇が重なる。列柱のひとつに背を預けるかたちになったのは、こっちが迂闊なのか、ルアセックが周到なのか。
柱にやんわりと縫い止められ、深く舌を絡めながら湿った服越しに下肢の内側を撫で上げられると、冷たい水が引き締めてくれた身体をまた蕩かされそうになり…サーティスは思わず身を硬くした。それを悟られたか、ルアセックがさらりと離れる。してやったりという表情が憎らしい。
「まこと、千金に値する祝儀だったな。佳かったぞ。まさに羽化登仙 19 、桃花源に至った心地だった」
薄く笑いながら、それでも名残惜しげにその指先を伸べてサーティスの唇を撫でる。ただそれだけなのに、背筋を軽い痺れが疾った。それを噛み潰すように奥歯を噛みしめてから、噴き上がりかけた熱を少し大袈裟な歎息に逃がす。
「…よくもまあ真顔でそんな歯が浮くようなことを。こっちは息切れるかと思ったぞ」
「息切れるほど感じてくれれば嬉しいが」
減らず口に関しては、まったく勝てる気がしない。
「あんな華奢でおっとりした奥方がいるくせに…手加減というものを知らんのか」
「パラーシァか?あまり頑健とも言えないのに、俺に子を与えてくれたんだ。大切にしているぞ、これでも。俺は相手にあわせて丁寧に愛しむ術は心得ているつもりだが」
「…お前という奴は…」
抜け抜けと、という形容を具象化した姿が目の前にあった。丁寧に刻み込まれた感覚が甦りそうになってすいと身を躱す。逃げるような格好になるのが業腹だったが、ここは戦略的撤退もやむを得ぬ。だが、投げかけられた問いに足を止めざるを得なかった。
「それで、あの小公女は…お前の何だ?」
「…言っておくが、隠し子ではないぞ。ついでに言うと、童女に手を出すほど不自由していない」
ルアセックが手を拍って、磊落に笑った。
「隠し子はないな。隠しておらぬ。童女だと?非礼にも程があろう。あれほどの名花」
「名花って、おい…」
思わず半身ほど振り返る。昨日の昼間は子供呼ばわりしたくせに。…冗談にしても、そういう形容をされるとは思ってもみなかった。
「賭けても良い。あと5年もすれば大陸に名だたる美姫の出現であろうよ。何の謂あってか知らぬが、男児のような格好をさせて…わざとか?」
「本人の嗜好だ、俺の所為にするな!」
ルアセックが面白がっているのが判っていても、つい声が跳ね上がる。むきになれば損をするのはわかりきっているから、ゆっくりと呼吸を整えてから言った。
「滅多なコトを言うな。あれは…佐軍卿からの預かりものだぞ?」
「ほう、シュライ卿の…?」
「ギルセンティアで雪に埋もれかけていた孤児だ。拾ったのは俺だが、縁あってしばらく佐軍卿のもとにいた。いろいろ勉強が…本人曰く、『苦労と勉強』したいというから俺が預かっているだけだ。…あの佐軍卿が実娘のように鍾愛してる。今度の騒動でほったらかしにしてるじゃないか…と先日もえらく叱られた。お前の守備範囲がえらく広いのは理解ったが…悪いことは言わん、手出しはするなよ?」
「だから、そんなに無分別ではないというのに。俺としては紫電竜王の怒りよりも、お前に嫌われる方が怖いさ。
…そうか、あの近侍衛士の係累かと思ったが…」
「…っ…!」
鋭利な刃物を突き立てられたような痛みに、喉奥で微かに呻くような声を漏らしてしまう。
一緒に過ごすうちにほとんど意識しなくなってしまったが、脳裏を過ったことがないとは言わない。マキ、という名を初めて聞いた時にも一瞬呼吸を停めてしまった位だ。それでも、この間からセレスに懐いているマキを見ていると…昔日の姿が重なって、微かな痛みさえ感じていた。
カーシァを鏡の前に座らせ、その髪を整えてやるマーキュリア。今となっては眩しいほどに穏やかな…喪われた光景。
「…自覚は、あるようだな」
ルアセックにしては、痛ましげでさえある口調であった。
「セレス、といったか?あのエリュシオーネの生き残りに、マーキュリア・エリスを重ねるのはやめた方がいいぞ」
瞬間、またセレスの涙痕鮮やかな目許が瞼に浮かび、サーティスはルアセックに背を向けて喉を堰かれたような呼吸を抑えるために自身の胸に爪を立てた。だが、その指先さえも無惨なほど震えているのが自分でも判った。
「そんな…つもりは…」
「お前にそのつもりがなくても、向こうはどうかな。…判るものだぞ。自分の腕の中の相手が、一体誰を見ているかくらい…」
そう言って、するりとルアセックが背中から腕を廻し、胸の上に爪を立てている指先にやんわりと掌を重ねてきた。
欲したものが、失いたくないものが、砂のようにさらさらと掌中から零れていく哀しさを忘れようとして。あるいは、臓腑を抉りたくなるような慚愧から遁れようとして。…与えられる温かさにただ縋ってしまう。そんな自分の度し難い狡さを憎みながら、それでも今は優しい腕を振り払うほどの気概さえないのが口惜しい。
背に触れる温かさに、握りしめた指先が緩み…サーティスは誘われるままに肩越しの口づけに応える。銀糸がさらりと滑り落ちてきて首筋を擽るかのように撫でるから、そっと指に絡めた。
『颯竜公レアン・サーティス、その名に誇りを持て。その称号はこの国を護る風の竜。聖風王の後裔にしてこの国の公子たるお前にこそ、相応しい。だから、辛くとも歩みを止めるな。…いつの日か、私とともにこの国を支えてくれ』
『前だけを見つめ、あなたの道を歩んで下さい』
凶刃からサーティスを護るために傷つき、結果として落命したライエン。サーティスをひとり遺していくことを詫びながら儚く逝ったマーキュリア。彼らの願いを、祈りを、サーティスはまだ成就できてはいない。行くべき道が、まだはっきりと見えてこないからだ。
今の自分はツァーリを逐われた身だ。そして、ライエンはもういない。それでもかの国に自分のやるべきことは残っているのか?
一方で、イェンツォの地で出会った、『レガシィ』。その中に封印されていた太古からの記憶。理解し、受け継ぎ、後世へ遺していかねばならぬ。そのために自分に何が出来るのか?それが知りたい。
そう思いながらも、与えられる安寧に絆され、思考は緩やかに形象を崩壊させていく。
――――此処に居てはいけない。此処は居心地が佳すぎる。安住することに慣れきってしまえば、もう二度と飛び立てなくなる。
思考の隅で警鐘が鳴っていたが、快美な感覚に抗いきれずにいた…。
その時、ふと髪を弄る手を捉えられ、耳許で囁かれた言葉に氷水を浴びせかけられた。
「…誰だ、などと…俺は訊かんよ。今、お前を抱いているのは俺だからな」
「ルーセ…?」
昨夜、自身を惑乱させた幻想が甦り…サーティスは思わず身を竦ませる。
「違…っ…ライエンとは、こんなっ…!」
ルアセック ー影ー
サーティスが歯を食いしばるようにして立ち尽くしてしまう。
「そんな…つもりは…」
ルアセックはおそろしく強情なくせにひどくあやうい背中にゆっくりと歩み寄った。
そっと腕を回し、自身の胸に爪を立てているサーティスの震える指先を捉えてやんわりと離させた。肩越しの口づけには素直に応えてくれたから、そのまま引き寄せて身体を密着させる。すると、小さく吐息して身を凭せかけ、先程胸に血が滲むほどに爪を立てていた指先を緩々と伸べてルアセックの髪に触れてきた。
自分の腕の中の相手が誰を見ているかくらい、判る。
その言葉の意味を、サーティスはまだすべて諒解した訳ではないのだろう。あくまでも、セレスという娘を初めての相手に重ねていると…そう指摘されたと思っているに違いない。
ここで畳み掛けてしまうことが、良いのか悪いのか…。
それでも、この銀の髪を弄ぶときの…とろりと潤んだ若草色が、妙に素直に身体を預けてくる姿態が、何か微妙に口惜しくて、ルアセックは髪に触れるサーティスの指先を捉えて思わず口にしてしまった。
「…誰だ、などと…俺は訊かんよ。今、お前を抱いているのは俺だからな」
その途端、残酷なほど正直に腕の中の身体がビクリと跳ね…サーティスがその指先に絡めていた髪が滑り落ちた。
「ルーセ…!」
身を捩り、遁れようとするサーティスの動きを…より強く抱くことで抑え込む。
「違…っ…ライエンとは、こんなっ…!」
少し上擦った声。初めてその名をはっきりと聞いてしまったことで、火が点いた。
嗚呼、言わずもがな。そう思ったところで、もう遅い。ルアセックは抱きとめる腕の力を強くして、片手を下へ滑らせる。
「こんなことは、してない…と?」
まだ少し湿った布の上から下肢の間に触れ、ルアセックはそう囁きながら耳朶を甘く噛んだ。掠れた声がサーティスの喉奥から漏れ、立っていることが辛くなってしまったのか…縋るものを求めてその腕が泳ぐ。
「縋るなら俺に縋れというのに」
「無茶…言うな…こんな…格好でっ…」
「…尤もなことだ」
苦笑に唇を歪めて、ルアセックは、抱いた腕を緩めることなく背後の列柱に自身の背を預けた。ただでさえ膝が震えて立っていることが難しくなっていたところへ均衡を崩され、サーティスの身体は他愛なくルアセックの腕の中へ落ちる。それを一度大切に抱き締めてから、ルアセックはするりと身体の位置を入れ替えた。
サーティスの背を柱に縋らせ、その脚の間に自身の膝を割り込ませる。そうしておいて再び丁寧に…深く口づけた。下肢の間を撫で上げ、唇を喉から胸もとへ滑らせる。
多分、本当なのだろう。「ライエンとは、こんなことはしていない」。
…だが、サーティスの方は心の何処かで望んでいたのではないか。あの日の神殿でも、祝儀の夜も、この髪の向こうにその男を見たのではないか。そんな、下種の勘繰りと謗られても文句の言いようがない想念に囚われて、ルアセックは喘鳴に肩を揺らすサーティスをその指先で更に追い上げた。
その呪縛が砕け散るまで、此処で抱き潰そうか。そんな仄暗い衝動を、サーティスの…苦鳴と紙一重の苦しげな息遣いが煽り立てる。
踏みとどまれなかった。
どんなに強く抱いても、此処に留められないことが…何故か判ってしまったから。
サーティスはおそらく…ルアセックには想像もつかないものを背負ってしまったのだ。颯竜公としての矜持だけではないだろう。羽根を折られた鳥を、風の竜として回生させた何かが…いずれまたサーティスを漂泊へと駆り立てる。
多分、ライエンとやらのことも、あの近侍衛士の影も、もはやこの竜を地上に繋いでなどいないのだ。遠い昔、それは確かにかつて心の在処であったにしても。
傷つけば、地上へ降りてくることもあるのだろう。…だから今は、容易くこの腕の中におさめられる。だが、決して此処に留まることはない。傷が癒えたら、また飛び立ってしまう。
それを惜しみ、何とかして留め置きたいと思う一方で、羽根を毟って鳥籠に囲うがごとき愚を犯したくない。…迷いながら、それでも今はこの腕に抱いている。
今、抱いているのは俺だからな。
そう刻むように、再び痕をつける。
最初は頑なに柱の石組に爪を立てていた指先が、終にはルアセックの背に回された。
耳許で、ルアセックはそれこそ息切れる寸前のような…ひどく細い声が、自分を呼ぶのを聴いた。
後朝
サーティスが本来の房へ戻った時、周囲はまだ薄暗かった。マキがまだ戻っていないことにかすかな安堵を覚えながら、重たい身体を長椅子に預けていっとき浅い眠りを貪る。こんなていたらくでは出立もままならぬ。少しでも眠って、動けるようになっておかねばならない…そう思ったのだ。
だが朝、清々しい旭光とともに意気揚々と神殿から帰ってきたマキに…サーティスは結局、出立を一日延ばしてくれるよう懇請したのである。
マキは、それを聞いて暫くその緑瞳を瞬かせた。
サーティスの酒については「蟒蛇というより笊だよね」と言い切り既に諫めることさえしなくなったマキだが、今朝はサーティスが余程酷い顔色をしていたのだろう、怒りも揶揄いもせずにただ小首を傾げて小さく嘆息した。
「珍しいよね、サティが宿酔とか。佳いお酒は悪酔いしないって言うけど…さすがに呑みすぎた? まーいいや、とりあえず水飲んで寝てなよ。あ、水差しはここ置いとくね?じゃ私、愁の見送り行ってから神殿で遊んでくるー♪」
少女の軽捷な足音が完全に聴覚から離れぬ間に、サーティスは再び長椅子へ倒れるように身を沈めた。
宿酔か。そう思って貰うのが無難というのものだ。
愁柳の見送り、と聞いて…次に会ったときに何を言われるだろうと思うと本当に宿酔のような頭痛に襲われたが、さしあたってはマキがあっさりと納得してくれたことに安堵した。
あの後結局、もう一度閨へ引き戻され…月が沈み東の空が白むまで付き合わされた。記憶が飛んでしまうほど責め立てられ、しかもそれで何度となく昇りつめてしまったことは自分でも驚くより他ないが、ライエンと重ねている、と思われた…しかもそれで少なからずルアセックを怒らせたことは、相応に衝撃だった。ライエンとそういう関係にあったと勘繰られたこともそうだが、ルアセックにとってはそれが何やら不愉快であったらしいのだ。
自分はルアセック・アリエルという男を見誤っていたのではないか。もう少し淡泊な奴だと思っていたが。
一言も弁解させないために敢えてあんな無茶をしたのではないかと思った程だった。その癖、後朝というときになると急に優しくなり…懈さに身動きどころか口をきくこともままならないサーティスの身体を、絞った布で懇ろに拭ってから衾さえ掛けて帰って行ったのだ。…ご丁寧に昼過ぎまで誰も入れさせないからと言い置いて。
何がなんだか判らない…というのが、サーティスの正直な感想だった。
与えられる熱にすべてを預けきってしまう…あの抗い難い快美感。俯瞰することもできないほど溺れたのは、本当に久しぶりだった。だが今朝、気付いてみると昨日までのどうしようもない自己嫌悪と遁走願望だけは潮が引くように失せていたのだ。具体的に何一つ解決してなどいないのだが、思い詰めたとてどうにもならぬ、という冷えた居直りとでもいうべきものが…気がつくと胸奥にどっしりと座を占めていたのである。
説教に託けて大変な目に遭わされたものだが、ルアセックが相応に自分を気に掛けてくれていたということだけはよく理解った。誰かが気に掛けてくれる、という感覚は…存外貴重なものだ。
ただ多少、方法が常軌を逸しているから…度重なると正直、身が保たない。近寄る時には注意が必要だろう。
今朝は完全に喉が嗄れていてほとんど声も出せなかったから、あのときはただ不貞腐れていると思われたかもしれないが、これが今生の別離でもあるまい。また話す機会もあるだろう。
明日には此処を出る。逃げるためではない。歩きつづけるため。
風塵荒れ狂う砂漠でもよい。星さえ見えぬ森でもよい。
安寧に身を浸すのは…まだ早い。歩きつづけて、道を見つけなければ。自分が何を成せるのか。何を成すべきなのか。
***
翌日の夕刻。昼前にレアン・サーティスが無事国都を発ったとの報告を侍従から受けて、シルメナ国王ルアセック・アリエルは深い溜息をついた。
これは妬心だろうか。
ライエン。…おそらく名実ともにヴォリスの後嗣と目されていた当時の書記官長ライエン=ヴォリスのことだろう。丁度あの頃だ。当時、事故死とも病死とも言われるライエン=ヴォリスの急逝は様々な憶測の種になった。真相は無論闇の中だ。
明らかな事実としては、ヴォリスの将来的な支配体制を盤石にしていたはずのライエンが忽然と表舞台から姿を消し、ジェド=ヴォリスは老骨に鞭打って政権の座に居座り続け…謂われなき中傷からノーアに放擲されていた筈の末子リオライ=ヴォリスが、その経緯がなかったことのように後嗣として呼び戻される事態となったということだけだった。
ライエンという男と本当に何もなかったとして…サーティスが深く心を預けていたことには間違いはない。それを確信したとき…何か大切な部分の掛け金が外れてしまった。
手に入らない歯痒さを愉しむのも良い。そう思っていたのに。
帷帳の向こうに薄明の色彩が見え始めた頃、閨で声さえも出なくなったサーティスを抑え付けていた自分に気づいた時の情けなさときたら。
冗談事でなく怒らせたのではないか。取り繕うように身体を拭いたり衾をかけてやったりする間の沈黙が、背筋が凍るほど怖ろしかった。いつもの憎まれ口でも悪態でも良いからその声を聞きたかったが、国王としての朝課の時間が迫っていた。
結局、陽が中天を過ぎるまで、呼ばねば誰も寄せ付けないようにしておくと言い置いてそこを去るしかなかった――――――。
サーティスが出立の予定を繰り延べたことを知ったときには、実際に背に冷汗を感じた。
考えた挙げ句、その午後に果物と薔薇水20を届けさせたら…件の小公女から即座に深甚な礼状が返ってきた。
出立が延びたことで、不予と案じての見舞いを寄越したと思ったらしい。手紙には気遣いに対する鄭重な謝意が丁寧にしたためてあった。姿が男児のようでも世知に長けた細君のようなきちんとした文字と文章であったことに舌を巻きつつ、苦笑もした。
やれやれ、子供の方が余程しっかりしているではないか。
柄にもなく浮き足立っていた自分自身を嗤って、ルアセック・アリエルは窓越しに彼らが赴いたであろう西の空を眺めた。
次があるといいが。
何分にも風の竜は奔放だ。いちどこの腕に抱いたとて、次が約束できるものでもない。そしていつまた掴まえられるとも限らぬ。だが、それでもいい。
この、縛れない歯痒さが佳いのだ――――――。
――――――――Fin――――――――
- レーダ大公…シルメナにおける王太子の異称。
- 聖風王…大陸暦500年頃のシルメナ王。その頃大陸全土を巻き込む大災害が起こり、当時の王アリエルが風の精霊を使役してその災害を鎮めたという伝説がある。アリエルは聖風王と諡され、以後シルメナは国力としては中規模ながら聖王の国としての尊崇を受けることになる。
- 「楽園の夢」でサーティスは王室関係の神事を取り仕切る『風見』の代理を務めた。
- 直会…神事の最後に供物やお酒を飲食すること。
- 「楽園の夢」において、シュライはツァーリが新国王暗殺を目論んでいる、という情報を極秘裏にシルメナ側へ伝えるため、偽名を用いて王都へ来ていた。
- シードル卿…表向きツァーリの大使としてメール・シルミナを訪問し、先王の葬儀・新王戴冠式に乗じてルアセック暗殺を企てたが失敗。事件が表沙汰にはならなかった為、祝儀を置いて退散した。
- 愁柳、後のシュライのこと。故国を出奔するに至った擾乱において、愁柳は瀕死の重傷を負った。サーティスが治療に当たって一命を取り留めたが右腕に障害が残り、その機能訓練のために一時シルメナのセファルタ郷に館を借り受けた経緯を指す。このあたりは「西方夜話」にて。
- 狷介不羈…自分の意志を固く守って、何者にも束縛されないこと。
- 羽化登仙…羽が生えて仙人となり、空を飛ぶ意から、酔っていい気分になること。基本的には酒に酔うことを言うが、このばあい…。全く以て、フツー真顔で言わんだろ、というようなことをさらっと言っちゃうのがこの御仁の怖いところ。
- 薔薇水…バラの花弁を水蒸気蒸留して作る。身体につけたり飲用に供することもある。当然貴重品。
- レーダ大公…シルメナにおける王太子の異称。
- 聖風王…大陸暦500年頃のシルメナ王。その頃大陸全土を巻き込む大災害が起こり、当時の王アリエルが風の精霊を使役してその災害を鎮めたという伝説がある。アリエルは聖風王と諡され、以後シルメナは国力としては中規模ながら聖王の国としての尊崇を受けることになる。
- 「楽園の夢」でサーティスは王室関係の神事を取り仕切る『風見』の代理を務めた。
- 直会…神事の最後に供物やお酒を飲食すること。
- 「楽園の夢」において、シュライはツァーリが新国王暗殺を目論んでいる、という情報を極秘裏にシルメナ側へ伝えるため、偽名を用いて王都へ来ていた。
- シードル卿…表向きツァーリの大使としてメール・シルミナを訪問し、先王の葬儀・新王戴冠式に乗じてルアセック暗殺を企てたが失敗。事件が表沙汰にはならなかった為、祝儀を置いて退散した。
- 愁柳、後のシュライのこと。故国を出奔するに至った擾乱において、愁柳は瀕死の重傷を負った。サーティスが治療に当たって一命を取り留めたが右腕に障害が残り、その機能訓練のために一時シルメナのセファルタ郷に館を借り受けた経緯を指す。このあたりは「西方夜話」にて。
- 狷介不羈…自分の意志を固く守って、何者にも束縛されないこと。
- 羽化登仙…羽が生えて仙人となり、空を飛ぶ意から、酔っていい気分になること。基本的には酒に酔うことを言うが、このばあい…。全く以て、フツー真顔で言わんだろ、というようなことをさらっと言っちゃうのがこの御仁の怖いところ。
- 薔薇水…バラの花弁を水蒸気蒸留して作る。身体につけたり飲用に供することもある。当然貴重品。