氷壁

 さやかな月光が落ちる――――。
 宿房の静寂を揺らす…余裕のない息遣いを聴きながら、ミランは天窓から差し込む玲瓏たる光条をぼんやりと眺めていた。
 命令を受領した後、部屋の主たるシエルは、今夜も当然のようにミランを狭い牀の上に押し倒した。
 雑色1 の装束を緩めてたくし上げ、露わになった胸板に舌を這わせる。また、下衣の合わせ目からその中に手を滑り込ませる。その忙しない動作とひどく追い詰められた呼吸が…いっそ哀れを催すから、ミランはそれに抗うことはしない。

 統領ゼフィールアンリー、かの緋の風神に心酔する…ひたすらに生真面目なこの天文寮神官は、統領に繋がるならどんな僅かな痕跡も見逃すまいと必死なのだ。

 だから…こうしていつも丹念に検分するかのようにミランを褥に沈める。

 統領は、お前が思っているような意味で俺に触れたりしていない。そう何度説明したところで、シエルは諾かない。
 彼にとって大事なのは事実ではなく、己の中の真実。
 森羅万象を日月星辰から読み解くのが本分の天文寮神官としては…些か常軌を逸していると言わざるを得ぬ。そうは思うのだが、いつもつい絆される。一度さすがに腹に据えかねて拒んだところ、身も世もなく泣き縋られてかえって面倒なことになってしまい、なんとなく諦めがついてしまった。
 始末に悪いのは、ミラン自身がその行為を然程苦痛とも思っていないということであろう。汀の岩礁で波に洗われるが如きせわしさであっても、ミランはそこに幾許かの快楽を得ている自覚があった。だったら…決して叶うことのない想いにのたうちまわるこの友人の懊悩に、一刻ひととき付き合ってやるくらいのことはしてもよい。ミランとしては、この生真面目な天文寮神官をその程度には思っていたのだった。
 呼吸いきを震わせながら脇から下腹へ唇を滑らせ、ミランの熱塊を咥えて煽り立てるシエルの頭にそっと手を遣り、慰撫あやすようにその髪を梳いてやる。シエルが僅かに動きを停めるから、その手を取って自分の心地好い部分へ導いた。
 脇腹を指先だけで…触れるか触れないかの圧で撫でさせる。下手に局部へ激しい刺激を与えられるよりも、このほうが波に揺られているときのような快美感がある。ともすれば痛みすら伴って襲い来る熱情を上手く逸らす為の、いわば自衛策ではあった。それでも、導けばシエルは懸命にそれをなぞろうとするから、拒めない。
 そしてミランも、時折背筋を貫いて駆け上がる快感との狭間で、少しずつ昂っていく。
 大概、シエルの方が先に遂情し果ててしまうが、シエルの熱情に釣り込まれるようにして一緒に達してしまうことがある。
 だがそんな時も、寸前で自制が働いて…声を抑えてしまう。
 うっかり聴かれて勘繰られると、面倒な事になるのは火を見るより明らかなのだ。かつてミランに快楽を刻み込んだあの男もまた…かつて統領ゼフィールと呼ばれていたから。

***

 まだアンリーが統領どころか、海神に奉献されリジューに身を隠す前のことだ。ミランは年少ながら既にネレイアの成員であり、シュエットのもとで動いていた。そのミランに体術や航海術の実践を教えていたのが、衛視寮神官、後に統領となったジュスト=ブランシュという男である。
 ジュストはかつて天文寮神官で、末は寮頭とさえ嘱望されながら、放蕩の限りを尽くして大神官の勘気を被ったという噂があった。事実、往々にして衛視寮の役務をすっぽかしてぶらぶらしていたから、傍目には違和感のない噂だ。
 しかしその実、大神官リュドヴィックの命で密かに南海航路開拓のため策動していたのだった。ミランに航海術や体術を仕込んだのは、前統領さきのゼフィールたるシュエットの依頼で将来、ミランに伝令使として一翼を担わせる為であった。

 ――――その、合間の余儀。ミランとのことなど、あの放縦な男にとってはその程度であったに違いない。

 体術の指南が終わった後の木下闇で。航海の途上、月下の船上で。力尽くだったことなど一度もなく…ただ、呆れるほど巧妙にたらし込まれた。当時のミランはほぼ何の疑問もなく身を委ねていたといっていい。
 外海そとうみ…圧倒的な力を内包する紺碧の水面みなもは、余程時化なければ波頭が立つことはない。そんな揺蕩たゆたいに身を任せるような…穏やかな心地好さ。またあるときは、身体の芯を灼き尽くすような狂熱。そんな快楽にも芯から溺れることができなかったのは…ジュストがそう仕向けたのか、ミランの性格だったのかはわからない。

 ジュストがミランの前から姿を消した時、自身が存外冷静だったことに…ミランは軽い失望さえ覚えた。
 他ならぬジュストから「お前は何も望もうとしない」と揶揄されても、何の痛痒も感じなかった。
 かつて…帆綱を握るとき、風の力に抗しきれずに震えた手に添えられた強靱で繊細な指。荒波への恐怖に乱れた呼吸を調律してくれた、ゆったりとした息遣い。ただひとり帆艇ヨットを駆り、波高い外海を単独で航行するようになった後も…それらの記憶はミランの深い部分で確かに息衝いきづいていた。生きてはいける。それで十分だ。望んだところで苦しむだけなら、何故好んで手の届かないものに手を伸ばさねばならないのか?

 本気になったところでどうなるものでもない。あの男が見ていたのは、喪われた片恋アニエスの形見だけだった。

 幼馴染みアニエスによく似たその甥アンリー。それがジュストにどんな葛藤を与えたのか、ミランは知らぬ。だが、ジュストはかつての片恋の形見を見事に瑕疵なきネレイアの次代統領として鍛え上げた。心血を注いだといっていいだろう。おそらくは、命を削り与えることさえ厭わないほど。

 ジュストは病をおしてエルセーニュ決起の戦闘に参加し…海に還った。それ自体、ミランも薄々覚悟はしていた。病を得ていることは知っていたし、何よりあの日、ジュストをリジューからエルセーニュへ帆艇ヨットで送ったのはミランだったからだ。

 オートヴィルで挙兵の準備に追われていたミランは使い鳥で呼び立てられ、リジューに赴いた。やり残したことがあるから、挙兵までにエルセーニュに入りたい、というジュストの要請を…不審に思わなかった訳ではない。だが、一線を退いたとはいえ統領アンリーを補佐する立場にあるジュストの命令に異を唱えるなど、ミランにできる筈もなかった。

 だからミランの憂慮はむしろ、統領アンリーが被った打撃にあった。ジュストにとってはどうなりようもない片恋の形見。だが、アンリーにとっては?
 総督府を陥落おとし、ツァーリ総督の首級を挙げて大神官リュドヴィックによるツァーリへの宣戦布告が成されたあの朝…ジュストの帰路のために帆艇を寄せた海岸でミランが見たのは、ジュストの遺骸を抱いて声なき慟哭に身を震わせるアンリーの姿であった。
 ジュストとて、生きて帰るつもりはあったに違いない。だからこそ帰路を確保するためにミランを呼んでいたのだろう。だが、結果として…ミランの船は喪船もぶね2 となった。
 沖合に出て、二人でジュストを水葬に付した。アンリーがそう望んだのだ。
 その日、アンリーはジュストの血に彩られた衣服のまま…終日エルセーニュ決起の事後処理に当たっていた。戦闘に参加した殆どの者がその日は戦塵にまみれ血で汚れた兵装のままで駆け回っていたから、それ自体は誰も奇異には思わなかったようだが、仕事ぶりは完璧であったにもかかわらず、いや、完璧であったからこそ…その姿にミランはふと不安になったのだ。
 緋の風神アレン、その後身と称揚されるアンリーとて、血の通った人間だ。年齢不相応なほど冷静な挙措を備えてはいても、その心の支えを喪って平静でいられるわけもない。使命感のあまり切れる寸前の弦ほどに張り詰めているだけなのではないか――――?
 だが翌日、審神官としての衣服に改めて海神の御子の傍に立つアンリーから、ジュストの遺骸を抱いて身を震わせていた彼を想像することは、ミランにさえ難しかった。

 勁い人だ。ミランはその認識を新たにした。

***


 それは、エルセーニュ決起から二ヶ月ほど経った頃に起こった。
 シェノレスとツァーリの戦端は既に開かれている。エルセーニュ決起の翌朝にはエルセーニュに駐留するツァーリ軍はほぼ駆逐され、海神の御子レオンの下、シェノレスに点在するツァーリ駐留軍を追討し、ツァーリに攻め上がるための準備が着々と行われていた。
 ミランが大神官の命令書を携えて当時ランブイエ島にあったシェノレス軍本陣にいる統領アンリーの許を訪れたのも、シェノレス軍がツァーリの拠点をまたひとつ攻略して駐留軍を殲滅し、その島を解放したばかりの時だった。
 開戦前後から、ツァーリを追い詰めるための財源である南海航路に対して…密偵が放たれているとの報告は上がっていた。南海航路の存在はシェノレスがツァーリの喉元にその牙を突き立てるまで知られる訳にはいかない。エルセーニュのシュエットが調査した結果、それがツァーリ宰相家の嗣子たるリオライ=ヴォリスが放ったものと判明するに至り、大神官リュドヴィックからネレイアに対し禍根となり得るリオライ=ヴォリスの暗殺命令が下ったのである。
 それ自体、何の不思議もない。ネレイア自体、まさにそういう・・・・役向きの組織だ。問題は、その任に統領アンリー自らが赴くと言い出したところにあった。
「お言葉ですが…暗殺など、統領ゼフィールの仕事ではありません。なんとなれば、俺が…!」
 大神官からの書簡でリオライ=ヴォリス暗殺の下知を受けたことをアンリーから聞かされた時、ミランは思わずそう言っていた。
 アンリーは静かに頸を横に振った。
「これは私の責任だ。…私が負わねばならない」
 そう告げる…双眼の紅榴石ガーネットは暗赤色に沈んでいた。
 自分が運んだ密書の中身、その概略を、実のところミランは知っていた。最悪の事態に密書を始末し、ミラン自身が生きた密書となるためのシュエットの采配である。だがその結果、統領自ら暗殺のために敵地へ向かうなど、まったく想定外だった。
「…私の失策から起きたことだ。私がナステューカへ行く。この島ランブイエはローランに任せると各員へ通達せよ」
 もはや何も言えず、ミランは拝命の礼を執った。
 戦は始まったばかり。前統領ジュストを喪った心の痛みに耐え、審神官シャンタールの職務を帯びて戦場へ身を置くアンリーの心中を思えば口に出すことも憚られたが、統領自ら敵地にのりこみ暗殺を実行するなど…やや心の均衡を失っているのではないか。
 そう思ったミランは、エルセーニュへ戻って復命した際、正直にそれをエルセーニュにおける上司、養父であり師でもあるシュエットに話した。
 聞いたシュエットは、天を仰いで歎息した。
「やはりそうか…」
「どういう…ことです」
 ミランは肺腑に霜が降りるような感覚と、得体の知れない焦慮を呑み込んで師父に問い返した。
「なあミラン…統領は至って冷静だと、私は思うよ。おそらく、統領は開戦前…アニエス妃の遺児に接触したのだろう。確かに、リュドヴィックからは明確な禁止はされていなかったが…」
「それが、失策だと…?」
「統領は、自分がアニエス妃の遺児に接触したことで…南海航路と三国同盟のことを知られたと思っているんだ。その真偽はわからんよ。だが、統領がそう考えている、ということさ。あれの性格からして、自分のやったことの落とし前は自分でつけようとするだろう。おそらく、お前が案じているようなこととは違う」
「シュエット、俺は…!」
 ミランは我知らず、胸の上で服を握り締めていた。まるで、肺腑にはりつく霜をその動作で削り落とそうとするように。すると、シュエットが判っている、というように軽く手を挙げて、暫く考え込むような間を置いた。そして徐に口を開く。
「ミラン、今度のことはアンリーの納得いくようにやらせてやれ。だが、私の権限でお前を統領の支援につける。任務が暗殺であろうと、単独は論外だ。何、そのくらいはアンリーとて判っているから拒みはせん。実直に、今から行ってアンリーに追いつけるのはお前くらいだろう。…頼むよ」
 シュエットのいう支援とは、標的の位置を探って実行者に伝達し、実行者の装備を調え、
その退路を確保することである。ミランは頷き、即座にエルセーニュを発ったのだった。
 そしてナステューカでアンリーに追いつき、シュエットの指示を伝えた。
 シュエットの言ったとおり、アンリーがそれを拒むことはなかった。

***


 折しも標的であるリオライ=ヴォリスはナステューカから北へ移動を始めており、狩場は天嶮ギルセンティア…峻険な雪嶺となった。
 ギルセンティアは、移動手段の確保という面においてかなり条件が厳しい。退路の確保は尚更だ。加えて、標的とその一行はノーアに拠点を置くだけあって、雪道には慣れている。逆に此方は雪に不慣れ。
 長弓による狙撃以外、有効な手段はなさそうだった。
 雷光箭と呼ばれる、火箭の発展形で少量の火薬を装備した箭を用いた雪崩による遂行は当初から計画のひとつには入っていた。ただし、標的を確実に葬るためにはその前に本人を射殺出来るのが一番良い。
 ミランは事前に、執行者たるアンリーへ狙撃できる地点をいくつか提示していたが、そこへさしかかる前に標的が護衛の殆どを置いて雪渓に出る、という椿事が出来しゅったいした。
 ――――好機だった。
 待機していたアンリーもミランと判断を同じくしたらしく、即座に行動に出た。しかし、一人だけ傍にいた護衛に阻まれて決定打を与えることが出来なかった。そのため最終的に雷光箭で雪崩を引き起こし、盾となった護衛諸共雪渓の下に葬り去ったのだった。
 アンリーとは別の場所から状況を注視していたミランは、雪崩が思いのほか広範囲に広がったために一時的にアンリーの姿を見失った。落ちあう予定の場所にも現れなかったため、ミランはアンリーに提示していた帰路とその周辺を捜し回った。リオライ=ヴォリスの部下達が血眼になって捜索をしている中を縫ってのことだ。氷塊を呑み込まされたような不安、膨れあがる焦慮に苛まれながら考えられる経路を虱潰しに当たった。その間、一度ミラン自身が雪渓から滑落しかかったりもしたが、暗くなりかかる頃にようやくアンリーを見つけた。
 途中で動けなくなり、雪洞をつくって露営をしていたのだった。雪洞といっても風よけ程度。身を隠すために周囲の雪を形ばかり押しやったというほうが正解だ。
 負傷はしていなかった。ひたすらに悪心、眩暈と嘔吐。ミランが発見した時は吐くものさえなくなってから嘔吐えずきを繰り返している状況であった。このまま下山させるのは危険と判断したミランは、翌朝薄明を待っての下山を提案した。
 リオライ=ヴォリスの部下に発見される危険を考えれば、ミランだけでも先に下山し一刻も早く大神官リュドヴィックに復命すべき、と突っぱねられることも覚悟しての提案だったが、アンリーは拒否しなかった。
『判った。お前の判断に委ねる』
 痛々しいほどに細い声で、短くそういらえた。弱っていても、自身の状態を正確に把握できていることには舌を巻いたが、有能で峻厳な審神官シャンタールの顔ではなく、生きた人間としてのアンリーの顔を見たのは…ジュストの骸を水葬に付した時以来ではなかったかと思う。――――ある意味、衝撃ではあった。
 見てはいけないものを見てしまった気さえした。
 何かがあった。それは確かだ。だが、ミランはそれを訊けなかった。それはおそらく、ミランにはどうしようもない何かだ。だとしたら、それを無理に聞き出すことはいたずらにアンリーの傷を広げるだけだろう。
 どうにかしてやれたであろうただひとりの人物…ジュストはもういない。
 あれほど身を厭えと言われていたのに…あの莫迦。大切だったんだろう。何故…このひとを置いて、ひとり逝ってしまったのか。
 焦慮、寂寥、悲嘆、悔恨…それらに胸を噛まれながら、ミランは二人分の雪洞を掘り、アンリーを休ませた。幸いにしてリオライ=ヴォリスの部下に発見されることもなく夜を過ごし、翌朝、憔悴してはいたがとりあえず動けるようになったアンリーと共に下山したのだった。

***

「…どうしたんだ、これは」
 俄にシエルの声が尖ったので、ミランは浅い眠りから引き戻された。
 ミランにとっては殊更構う程度でなかったから放置していたが、俯せになったミランの左肩…シエルが丁寧に舌を這わせていた肩甲骨の辺りに擦れた傷痕があったのだ。そう言えば、幾分まだ血が滲んでいたかも知れない。半醒半睡、口を開くのも億劫ではあったが、ミランは一応説明をすることにした。
「雪渓で滑った。樹に摑まって止まったからよかったが…やはり雪山ギルセンティアは怖いな。水の中なら泳ぐことも出来るが、雪の上は身体の自由がきかないのが困る。…何より、あの方を見失いかけたのが…」
 思い出せばゾッとする。自分が雪渓を滑落しかかった時には確かに恐怖したが、なによりあの白い濁流の中で統領の姿を見失った時には心臓を針金で締め上げられるような感覚を味わったのだ。
 だが、統領は無事に戻ってきた。
 あのひとは勁いのだ。自分程度が案ずるなど僭越。あれ以来…否、正確にはエルセーニュ襲撃の翌朝からずっと胸中にわだかまる不安に、ミランはそういう言葉で蓋をしていた。微睡みながら思わず口の端に昇らせた台詞に、自らその蓋を開けてしまいそうになり…ミランは口を噤む。
 すると、シエルが呼吸を停めたのがわかった。雪山、雪渓での滑落などエルセーニュを出たことのないシエルには想像し難いことであったのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら再び微睡んでいると、不意に強く抱き竦められて今度はミランの息が停まった。
「…おい、苦しいぞ」
「あ、ああ…済まない」
 シエルが腕を緩め、一旦身体を離して再び丹念に唇と舌先で傷をなぞる。シエルの柔らかく色の淡い髪がその動きに追随するように静かに擽り、癒えきらない傷をまさぐる舌先が与える痛痒いような感覚と綯い混ざって背筋を奔るから…ミランは思わず小さく吐息する。
 相変わらず少々せわしなくはあるが、それなりに快楽を得ることは出来るから好きにさせている…という状況に大きな変化はない。それでも最近は、身体が慣れてきたというのか…思わず気を遣りそうになって声が漏れることもある。そんな時、シエルが息を詰めて何かを聴き取ろうとしているのに気づいて、ミランは慎重に声を殺す…。
「…ギルセンティアか…統領の供で?」
 だが、シエルが出し抜けに舌先の動きを停めて問うてくるから、その息が鋭敏な部分を撫でて…思わず掠れた声を上げてしまう。
 背筋を駆け上がった甘い痺れに数度短く喘いでから、ミランは深く吐息した。
「…ああ、そうさ。だが幾らお前が相手でも、これ以上は喋る訳にはいかんぞ」
 統領の伝令使という立場を、シエルも判っている筈だが、一応釘を刺した。
「判ってる…」
 そういいながら、シエルはするりと前へ手を滑らせてミランの脚間で熱を持ち始めたものへ指を絡める。
「…お前はいつもそうだ。統領ゼフィールのことに話を振ると、いつもここ・・が熱くなる。あの方が触れたときも、こうなるのか…?」
 身をぴたりと寄せ、耳朶を食まんばかりの距離で熱っぽくそう囁きながら緩々と絡めた指を動かしてくるから、ミランは堪らず再び短く喘いだ。知らず、腰が浮いてしまう。
「…莫迦抜かせ…お前が…無節操にしごき立てる…からだろ…っ…」
「そうか。そうだな…」
 幽かな含み笑いを聴いた気がした。密着したシエルの身体は既に熱く汗ばんでいたが、その中でもひときわ熱を持った部分が背後から脚間を割ってくるのを感じる。滑りがよいのは汗だけの所為ではなさそうだった。
 脚間に滑り込んだ熱塊を膝に力を入れることで締め付けてやると、呆気なく余裕を喪ったシエルは息を荒らげて腰を動かし始めた。
 先走りで潤んだ熱塊が荒々しく脚間を擦りたてていく感覚は、ミランにとって決して快美とは言い難いものであった。それでも、啜り泣きながら懸命に自身とミランを追い上げようとするシエルの切なげな喘ぎ声を聴いていると…なんとなく、シエルが果てるまでくらいは付き合ってやってもいい、という気分になるのだ。
 ミランが腰を浮かせてシエルの熱塊を受け容れてやると、シエルは歓喜の声を上げて最奥まで衝き入る。…そして、いつもように暫く留まって感極まったようにミランを強く抱き竦めた。
 常のシエルならそのまま遂情してしまうことも珍しくはなかった。だが、今夜は内奥の充溢感に喉をひくつかせるミランの首筋を甘噛みしながら、前に回した手でなおも煽り立ててくる。
 それが露骨な苦痛でなければ…現金なことだが身体は正直に反応するものだ。背筋を駆け上がる衝動に唆されて内奥で脈動する熱塊を締め付けてしまい、更なる圧迫感に思わず声を漏らす。それが苦鳴などではないことを…ミランは自覚していた。
「…何故抑える…? もっと聴かせろよ。あの方に聴かせるみたいに、佳い声で啼いてみせてくれ」
 声を抑えていることなど疾うに見透かされているが、それはそれでシエルには面白くないらしかった。先に果ててしまうときはそんな余裕もないが、時折声を聴かせろと執拗にねだってくる。ただ、そこまで応えてやる義理はない。執念しゅうねく弱い部分をくじってくる指先に追い立てられながらも、ミランは可能な限り冷然と言い放った。
「…知ったことか…」
 それを聴いたシエルは、引き攣れた笑いを零したかと思うと、俄に呼吸を荒げた。そして膝立ちになってミランの腰を持ち上げると、憑かれたような律動でその内奥を数度穿ったあと、深く繋がったまま遂情して果てた。
 ――――のしかかっていたシエルが緩々と横様に頽れて身の裡から出て行く感触に、ミランは思わず溜息を吐く。
 重たい身体を起こすと、脚間にどろりとしたものが溢れた。それを敷布の端で拭って衣服を身につけ、ミランは牀に伏せたままのシエルをかえりみた。
 薄く開かれたシエルの両眼は涙目で、焦点もまだ定まらない。まだ肩で呼吸いきをしており、法悦の余韻に震えていた。それでもミランが立ち上がった気配を感じたのか、小さく身動みじろぎした。
「…もう、いくのか」
「ああ」
 丁度、船へ戻る頃おいだ。嵌め殺しの天窓から差し込む月の傾きは、潮の叶う時刻を報せていた。
 シエルは起き上がろうとしたらしいが、まだ身体がいうことを諾かないらしい。諦めたように吐息して褥に顔を埋める。
「…怪我、するなよ」
 やけに心細げな、か細い声で紡がれた言葉に、ミランは思わず動きを止めてシエルを二度見してしまった。しかし俯せたままだったから、その表情を窺うことはできない。
「ああ、そう度々ヘマはしないさ」
 詮索する程のことでもないだろう。ミランはそう思って踵を返しかけた。するとシエルは卒然と肘をついて半身を起こし、少し焦れたように
「そうじゃなくて…!」
 と言いかけ…口を噤んだ。
「…どうした?」
「何でもない。気を付けていけ。俺はもう少し休む」
 シエルがそのまま乱れた敷布に沈み込んで物憂げに眼を閉じてしまったから、ミランもまた足先を扉へ向けた。
「ああ、それがいいだろう。じゃあな」

 訂正を試みるのも徒労と判っているから、最近は言挙げもしないが…シエルは誤解している。否…誤解、というのも憚られる程強固に、ミランが統領の枕席に侍ると信じ込んでいるのだ。シエルは決してそれを詰ることはない。むしろそれを羨み、事ある毎にミランを褥に組み敷いてありもしない統領の痕跡を狂ったように追い求め、懸命になぞろうとする。
 確かに、伝令使たるミランは統領のすぐ近くで仕える身だ。だが、統領アンリーはシエルが勘繰るような意味でミランに触れる事はないし、その逆もまた同じだ。先日のギルセンティアとて…憔悴し体温の下がった統領を抱えるようにして夜を明かしたが、そこに感情が介在する余地はなかった。
 ただ、今度のことで…・当代統領の翼となり盾となることの意味に…いつの間にか役目以上の何かがあったことには気づいた。
 ミランがネレイアの一員として危険な仕事に就くのは、生きていくため。拾って育ててくれたシュエットの恩義に報いるためだ。伝令使として統領アンリーに仕えるのも、そうシュエットに命じられたから。それだけのつもりだった。
『何も望まないんだな』
 ジュストの声が去来する。望まなかった。本当にそうだろうか。
 望まなければ心は穏やかでいられる。生きていけるならそれで十分。そう言い聞かせている自分がいたのではなかったか。
 気づいた時にはもうあの男ジュストはいなかった。空に散った望みはミランの中に雪のように降り積もっていた。ミラン自身がその感情の名前を知らぬままに。
 ジュストをエルセーニュまで送ったあの日、引き留めなかったことは後悔していない。生きたいように生きて、勝手に逝ってしまった男に、同情は不要だろう。
 だが、完璧なのにどこか危うさのある、ジュストがその後半生をかけて育て上げた統領。それはジュストが生きていた証であった。ならば護ろう。ミランはそう決めた。…いつの間にか決めていた、というべきか。
 脆い雪は年月に踏み固められて強固な氷壁を成していた。
 欲しいものなんてない。でも護りたいものはある。
 そうしたい、とミランが望んだ。
 望まないんじゃない。あのときは望みを見つけきれなかっただけ。
 でも、今はもう違う――。

 部屋を出て、扉を閉める。扉が閉まる瞬間に…シエルが何か言いかけたような気がしたが、振り返ることはしなかった。

 ネレイアが使う船着き場へ着いた頃には、空は群青から碧へと色合いを変えていた。
 帆艇ヨット舫綱もやいづなを解き、櫂で風を掴まえられる沖合まで静かに漕ぎ出す。
 櫂を置き、展帆の準備をしていると、東の空が明るむのが見えた。

 ツァーリとの戦は、まだ始まったばかりだ。

――――――――Fin――――――――

  1. 雑色ぞうしき…神官府において、雑役をこなすために雇われた者。ミランは本来雑色ではないが、都合がいいので雑色の服装をしている。言ってみれば作業着なので、神官衣ほどゆったりはしていない。
  2. 喪船…棺をのせた葬送の船。