薄曇りの空で、今まさに陽が翳りつつあった。日蝕だ。
ミランは、薄ら寒い風に身を晒しながら、欠けゆく陽を仰いだ。この数日、という予測はシエルから聞いていた。人心に広がる不安を払拭するため、今頃天文寮は星祭の準備に追われている頃だろう。
その時、ざわつくカザルの城内、風も強いというのに…その声は驚くほどはっきりと響き渡った。
「――――――戦は終わる!」
声の主の姿は胸壁上だ。ミランの立つ岩壁からは見えないのだが、確認するまでもなかった。
海神の御子、レオン――――。
日蝕
「陽はまた戻る。戦は終わる。皆よく戦ってくれた。…皆でシェノレスに帰る日はもうすぐだ!」
一瞬の沈黙の後、うねりを伴った波のような歓声が城内から沸き起こった。
蝕が、海神の御子レオンがカザルへの帰還を果たした後だったのは幸いだった。これがレオンが捕らえられた戦の直後だったら、一歩間違えればシェノレス軍そのものが瓦解するところだった。
「終わるか、戦が…」
ミランは思わず吐息する。ミランはネレイア統領直属の伝令使という役儀上、一般の兵士よりも表裏の事情に明るい。それでも、日蝕という天体現象のもたらすえも言われぬ不安から完全に自由ではなかった。それが海神の御子レオンの朗々たる宣言で一瞬にして氷解するのを感じ…改めてその銘の意味を反芻することになる。
そして、直接の主たる審神官アンリーが海神の御子レオンに心服する理由も。
ミランは、海神の御子の託宣に従い急遽行われたカザルの津波対策…その最終確認に回っていた。殆どの者は既に城壁内に避難しており、浸水が予想される区域からは可能な限りの物資が撤去されている。…ただし、あくまでもツァーリ軍に悟られぬよう、整然と。
短時間ではあったが出来ることはすべて行われていた。また、対岸…ツァーリ陣周囲に立てられた歩哨の数には変化はなく、いまだツァーリ軍がカザル砦の動きに気づいた様子はない。
必要な情報をすべて得たミランは、岩壁を飛び移りながら自らも城壁へ避難した。程なく、イェルタ湾岸に集結したツァーリ軍を呑み込む津波が…水平線の彼方へ姿をみせる。
その身の毛もよだつような光景を視界の隅へ追いやり、ミランは城内に主の姿を捜した。ミランの上司はあくまでもネレイアの統領たるアンリーである。
だが、ミランがその場に辿り着いた時、そのアンリーは蒼白な頬に冷汗を滴らせて俯き、胸壁に寄りかかって今にも頽れそうな有様であった。
ミランは胸腔に氷塊が滑り落ちるのを感じた。
「…統領!」
***
アンリーの傍にはレオンとルイがおり、既に医術神官が喚ばれた後であったから、ミランはその場で主の傍に馳せ着けることはしなかった。他ならぬミランが極力、衆目に身を晒すことは避けなければならない立場にあった所為もある。
城内へ運び込まれた主の身辺が静かになった頃を見計らい、ミランは音もなくその房を訪れる。室内は灯火もなく、ただ静寂に満たされていた。
だが、ミランには主が既に目覚めているという確信があった。
床頭へ立ち、徐に拝跪する。
「…統領、下知 1を」
薄闇の中で、すっと暗赤色の双眸が開かれる。頭を枕につけたままだったが、言葉は確固としていた。
「…ルイの騎馬隊は?」
「既に準備は完了。津波で道がゆるんだ箇所があり、その補修を待っている状況です。明朝には出立可能と」
アンリーが幽かに口許を歪めた。
「そうか、流石だな」
そう言って緩慢に牀から身を起こす。アンリーは何かを振り払うように軽く頭を振った後、足を牀からおろした。慄然とするほどに血色の薄い素足が視界に入り、ミランは思わず視線を上げる。
端座するアンリーの顔はまだ血色に乏しかったが、その双眼の奥にある暗赤色は熾のごとき熱量を湛えている。そう、熾だ。暗く、表面はひび割れているが、その奥に赫々たる炎を蔵する熾。
「ナステューカに入り、状況を確認せよ。先方がどこまで正直に伝えてくるかによって対処が変わる。私は御子に随行し、和平交渉に向けてそのままサーレスク大公領に布陣することになる。明後日の朝までには私の許へ戻れ」
海神の御子レオンの、城外でさえ朗々と響き渡る声とはまた違う。決して声高ではないのに、僻聞く 2ことなどありえぬほど肚の底まで届く声。
ミランは、それらを目に、そして耳にすることで胸につかえていた何かが霧消するのを感じ、再び頭を垂れた。
「承知」
***
考えすぎだ。
潮位は通常に戻っていた。ミランは砦から少し離れた低い崖から静かな海面へ身を投じ、夜の海を自分の帆艇へ向かって泳ぎだした。
カザル沖合へ係留していたミランの帆艇は、津波に舫綱を千切られることもなくミランを出迎えた。各部を点検し、航行に支障があるような損傷がないのを確認して、即刻出帆する。
胸壁に身を預けるようにして倒れた統領アンリーの様子に、ミランは氷塊を呑み込まされたような不安、膨れあがる焦慮を感じた。だが、目を覚ました後の毅然たる姿に安堵し、主命を果たすためにこうして再び海へ出た。
だが、ほんとうにそれでよかったのか。
風は好い。先端にカザル砦が鎮座する半島の東側、イェルタ湾からは半島をまたいだ反対側を北上しながら、ミランは自問する。
統領アンリーの、あの血色に乏しい肌の色は、ある男を思い出させるのだ。
――――先代統領ジュスト=ブランシュ。いくつもの名を持っていたが、アンリーは彼をヴァン…風と呼んでいた。
ミランがその男を思い出すとき、最初に思い浮かぶのは人をくったような微笑を浮かべる口許と…精悍な影だ。潮と陽で洗われた、麦藁のような髪をいつも雑にまとめていた。死の前日まで飄々としていたが、その胸腔には病魔が巣喰っており、アンリーに統領の座を譲ってからは、丁度あんな血色に乏しい肌の色をしていた。
アンリーは南海の夢に身を投じ、十やそこらでネレイアとなった。10代にして統領となった。素地もよかったのだろう。大神官の血筋として、そうなるべくして送り込まれた経緯もある。だが、そこには想像を絶する修練があったことを、ミランは識っていた。
冷静な仮面の下で血涙を絞り、審神官として海神の御子の隣に立つのも、ひたすらに…いつか海流の向こうへ征く約束のため。それがようやく叶おうとしているこの時に、まさか。
違う、と絡みつく不安を振り切るように…ミランは頭を振る。
疲れておいでなのだ。開戦から2年…ほぼ休みなく働き続けているようなものだ。支えとしてきたヴァンを開戦直後に喪い、それでも毅然として自らの職務に精励してきた。疲れていない訳がない。
ミランはこの2年というもの、故人に向かって何度となく『何故このひとを置いて、ひとり逝ってしまったのか』と毒づいてきた。だが最近になって、時折…疲労の滲む主に寄り添うようにして立つ、あの男の在りし日の姿が見えるような気がして…ふと薄ら寒い感覚に襲われるのだ。
――――あんたが呼んでるのか。ジュスト。
得体の知れない焦慮に囚われかけ…ミランはこめかみを軽く押さえ、再び頭を振った。
焦慮は重大な過失を招く。聞くものがないのを幸い、ミランは大きく息を吸い込むと、波と風の音だけが駆け抜ける波間の静謐の中に、肚の底からの怒号を放った。
「あんたはやりたいようにやって、勝手に逝ったんだ。今更…!」
***
ミランがナステューカで収拾した情報を携えて、サーレスク大公領内、シェノレス騎馬隊の駐屯地に戻ったのは、シェノレスとツァーリ両国の第一回会談が終わった夜のことだった。
なだらかな丘陵地帯だが、潮風が届くために耕作には適さず、夏場は放牧地として利用される場所だ。しかしいま冬女神の袖の中では草を食む家畜の姿とてない。
丘陵には双方の幕屋が設営されている。戦端を開くための協議ではなく、いかに丸く収めるかが勝負。決して事を荒立てるわけには行かないのは双方同じだったから、その間を縫って目的の幕舎へ近づくのはさして難しいことではなかった。
既に深更。協議も終わり、辺りは静かだった。篝火にくべられた薪の爆ぜる音ばかりが高い。
審神官アンリーの幕舎は、神官府の印を掲げているからすぐに判る。そして、戦の旗印たる海神の御子レオンや、事実上のシェノレス軍統括者ルイ=シュランシアの幕舎に比べれば、その警備は比較的緩い。神官府の審神官であるとともに、ネレイアの統領という立場からの必然であった。
ミランは幕舎の内に身を滑り込ませた。だが、その瞬間。
細い灯火の下、幕舎の主が机に寄りかかるようにして…というより、倒れ伏しているのを目にして、ミランは肺腑が凍り付く感触を味わった。
「…統領!」
周囲に気取られる寸前、ぎりぎりの声量となってしまったことを悔やむ暇もない。ミランが駆け寄ろうとしたとき、ふと緋色の髪が動いて、アンリーが顔を上げた。
「…ああ、ミラン。戻ったか」
「はい」
刹那で足を止め、その場に拝跪する。声の調子はいつもと変わらない。だが、双眼の暗赤色は伏せがちな睫に遮られて判然としなかった。
「…ご報告、よろしいか?」
アンリーは頷くことでそれを肯った。
「王太子アリエル殿下は…朝議の後、居館にて自害」
努めて端的に、ミランは告げた。アンリーの膝の上に置かれた手が、指先が皓くなるほどに握り締められるのを視野におさめてはいたが、坦々と続ける。
「講和は遺詔としてラリオノフ公リュースに継承され、その執行者にはリオライ=ヴォリスが指名された由」
「…猛き守護獣の言い分と、齟齬はないな。だが、何故国王、宰相は沈黙を?」
「国王カスファーは朝議の場にて卒去。…乱心して廷臣を斬ったとの噂も。そのときに宰相ジェド=ヴォリスもまた傷を負った由。リオライ=ヴォリスは無位無官なれど、王太子の遺詔に指名された執行者として会談に臨むこととなりましたが、他に対処しうる者なしとて朝議はそれを追認したようです」
――――――吐息が聞こえた。ひどく、疲れたような。そして、ミランは無惨なほど掠れた声を聞いた。
それは、赦しを乞う…祈りの祭文であった。
***
和約は成った。
海神の御子レオンはエルセーニュに還御し、シェノレス国王として立つ。シェノレスは占拠したカザルを手放す代わり、大侵攻前の領土を取り戻すことになる。
だがその矢先、審神官アンリーは発熱して倒れた。
程なく起きたマルフ紛争に赴く船団の出発寸前、人事不省に陥るほどの高熱に苛まれ…アンリーは結局随行が叶わなかった。それを契機に枕も上がらぬ病人の様相を呈するようになっていく。
局面は駆け引きから、如何に現実を処理するかの実務段階に入っており、ネレイアの実務は先々代統領シュエットこと書司トリスタンに引き継がれた。このため、ミランは事実上シュエット麾下に戻ることになる。
そのシュエットはミランに時折アンリーの様子を報告させたから…ミランは加療中の統領に接することの出来るほぼ唯一のネレイアとなった。
夜毎その魂が抜け出ているのではないかと思える程に憔悴していくアンリーの様子を見るにつけ、ミランは暗澹とする。
リジューの茅屋とは比ぶべくもない壮麗な神官府本殿、大神官家の一員として与えられた広壮で清潔な居室で、天蓋つきの褥に横たわっていても…その姿は只々傷ましかった。
砂がちな土埃が舞い、草熱れが立ちこめ、そして時折苛烈な潮風が吹き付けるうら寂しい離島。茅屋で辛うじて雨風を凌ぐ生活をしていても…あそこにいた頃のアンリーの表情は、ミランが知る限りとても穏やかだった。困難はあっても、自身の夢に向けて歩を進めているという実感があったのだろう。そして、おそらくは…支える者がいたから。
エルセーニュ決起の翌朝、凪の海岸…あれ以来、アンリーの顔から感情が消えた。元より、あまり激することなどない気質ではあったが、良くも悪くも感情の起伏らしいものが窺えなくなったのだ。そしてただ冷徹に神官府・大神官の意向に沿ってツァーリと戦う緋の風神、審神官としての役目を果たし続けた。
それが…一線を退いた途端。ミランが訪れても、会話が成立するかどうかは半々というところだった。眠っているか、眼は開いていてもどこか遠くを見ている。
何かが、アンリーの心を折ってしまった。そうとしか考えられなかった。
ミランに考えつくのは、ひとつにはやはり…王太子の件だ。
かの王太子はシェノレスとの和約を成立させるため、自らの命さえいっそ昂然と絶った。それは確かに王太子の意志だったが、アンリーはそう追い込んだのが自分だと思っている節がある。
もうひとつ…ギルセンティアでアンリーがヴォリス暗殺を実行に移した時のことだ。
この時、アンリーの弓の前に割って入った衛士がいた。アンリーが最終的にヴォリス諸共雪渓に叩き落としたその衛士は…ヴォリスの部下ではなく、王太子アリエルの近侍衛士・シェノレスの神官の流れを汲むマティアス=デュナンだったのだ。
マティアスが何の理由、どんな思惑があって主たるアリエルの元を離れ、よりによってツァーリ宰相の後継者の身辺を警護していたのかは今となっては知る由もない。だが、あの時点でリオライ=ヴォリス暗殺は大神官の勅命であり、たとえシェノレスの人間だったとて容赦できる場面ではなかった。
それでも…シェノレスの人間を手にかける羽目になったことが、アンリーにとって少なからぬ打撃になったのは間違いない。ギルセンティアでの一件はそれをミランに確信させるには十分だった。負傷した訳ではなく、ただ悪心、眩暈と嘔吐。憔悴し、いつもの覇気は微塵もなかった。今にして思えば、たった一晩でよくあの状態から回復したと思う。
ヴァンが遺した統領は、確かに勁い。だが、何処か危うい。だから護りたいと思った。だが時々、問い返してしまう。ミランに出来たことはあっただろうかと。
何度問い返したところで、答えは否だ。そして今また、アンリーの病床を訪うたび、ミランは無力感に拉がれるのだった。
***
――――神官府本殿、大神官家の住まう一郭は奥殿と通称される。
ミランがそのつもりになれば、本殿・奥殿といえど衛視寮の神官程度はいくらでも煙に巻いて侵入することは出来るのだが、アンリーを見舞う時のミランは書司トリスタンの部下ということになっている。ゆえにこの時ばかりは無位神官 3の装束を纏い、割符を示して正面から入るのだが…ミランの歩調が重いのは、着慣れない神官衣の所為ではなかった。
大神官の直系は風御使 4の後裔として他国で言えば王族に準ずる扱いがなされ、奥殿には家宰を含めて側仕え専任の神官が配される。だが、生きながら海精に変じようとしている、とさえ噂される審神官アンリーの身辺に侍ることを畏れ、職を辞する者が続出しているという。
治療に当たる典薬寮神官も定期的に派遣されており、今日も今日とて、退出する典薬寮神官とすれ違ったが…その表情からも状況が芳しくないことは窺えた。
加えて、同じくシェノレス勝利の立役者であるレオンやルイに比べて、アンリーは周囲からは明らかに遠巻きにされている。緋の風神・アレンの後身。そんな異名がそうさせるのか。彼が細作集団の統領であることは周知の事実でもあったし、感情を全くといっていいほど表に出さないために大神官の依代と陰口を叩かれることさえあった。だからシエルあたりは「身を削って戦い続けてきたあの方に対して、皆あまりにも冷たい」と憤りを口にする。
ミランの意見は少し違う。アンリー自身ははおそらく称揚も栄達も望んではいないのだ。南の海が開かれた今、彼のただひとつの望みは真の南海航路へ漕ぎ出すこと。だからただ…アンリーがその望みすら叶わぬまま、緩々と弱っていくのが不憫だった。
奥殿には普通、近侍がいる。だが、アンリーの寝所に関しては呼ばれなければ踏み入らないように言い含められているから、入室をことわる相手もいない。部屋の主が寝んでいたときのことを慮って、ミランもそっと入るのが常であった。
その部屋に足を踏み入れて、ミランは足を停める。頬に風を感じたのだ。
アンリーの居室には、かつてアニエス妃が療養していた部屋が当てられている。中庭を通じて潮の香を含んだよい風が入り、庭へ降りられるようにもなっている。アニエス妃もよく中庭へ出ていたらしいが、アンリーがそこを居室としてからはその扉が使われたことはないと聞いた。
その扉が、開けられている?
起きているのだろうか。居室にはその姿はなかった。居室の窓も開けられてはいない。その奥、寝室へ続くほうへは扉がなく、紗幕が下ろされているだけだが…その紗幕が風に揺れていた。
「統領…?」
紗幕をそっと払う。中庭に向かって開け放たれた扉の前、白く淡い立ち姿が目に入り…ミランは小さく呻いて呼吸を停めてしまった。
――――審神官は、生きながらにして海精に変じようとしている。
無責任な流言だ。だが、薄暮の風の中…何かに牽かれるように扉の外へ出ようとするその姿…ゆったりとした白い衣が緋の髪とともに風をはらんで揺れる様は、その流言に嫌な説得力を与えていた。
得体の知れない危機感に煽られ、ミランは踏み込んだ。アンリーは振り返ることなく歩を進め、両手を風上へ伸べて清爽な風の中に身を預けていく。
その表情は、いっそ陶然としていた。このところ白を通り越して蒼白だった頬が、淡く朱を刷いてさえ見えた。
「統領っ…!」
ミランは風に溶けてしまいそうな身体を必死に抱きとめた。その瞬間、その身体の繊さに愕然とする。
「統領、気を確かに…!」
そう叫んでしまってから、呼吸を停めかねない力でアンリーの胸郭を締め上げてしまっていることに気づいて慌てて腕を緩める。途端に、腕の中でアンリーが咳込んだ。そのまま頽れそうになるのを、ミランは再び支えなければならなかった。
咳がおさまり、アンリーはようやく顔を上げた。
「立てますか…?」
暗赤色の双眸がゆるゆると焦点を結ぶ。その頬はやはり蒼白い。
「…ああ」
一度俯き、そして顔を上げる。アンリーが自らの足で立ったのを察し、ミランはその腕を緩めた。
アンリーはミランの腕をすり抜け、中庭の中央までゆっくりと歩を進めると、天を仰いだ。先程まで風上に伸べられていた両腕をだらりと下げたまま、蒼白な面を暮れかけた空に向けて、呟く。
「喚ばれた…気がしたんだ。風に…」
雲の多い空は残照を受けて紅い。その反射を受けた地上の景色もまた、仄かに紅く染まっている。神官衣さえ染まって見えるのに、アンリーの痩せた横顔だけが白かった。
「風が…風の中に、声が…聞こえた気がした…」
喉奥から無理矢理押し出されたような、ひどくか細い声。
ミランは息を呑んだ。風の中に溶けていきそうな立ち姿を座視できなかった。思わず数歩を踏み出し、腕を伸べる。その繊い身体からまさに彷徨い出んとする魂を引き留めるように…もう一度背中から抱き締めた。
「…もう、いないのですよ。あのひとは…」
この2年というもの、アンリーの前では決して口に出来なかったその言葉を、ミランはようやく絞り出した。
今度は、アンリーが咳込むことはなかった。小さく…細く吐息しただけ。
「そうだな…」
その眼差しは、虚空を仰いで微笑んでさえいた。久しく見ることが出来なかった、紅榴石を思わせる深い紅の輝きがそこにあった。
「風は行ってしまった。海流の向こうへ…」
だが、幽かに睫を震わせて紡がれたその声音は、ミランに心臓を鋼線で締め上げられるような感触をもたらした。思うように呼吸が出来なくて、ミランは小さく喘ぐ。
「でも…あの時も、お前がいてくれた」
「統領…?」
「あの朝も…カザルでもそうだ。…私が、この足で立っていられなくなりそうなとき…お前は必ずいてくれたな。
そして言うんだ。〝統領、下知を〟…と」
その言葉に、先程からミランの心臓を締め上げている見えざる鋼線が、遂に血管を引きちぎり食い込んだ気がした。このひとを追い込んでいたのは…あるいは、この自分だったのか?
「統領、俺は…!」
胸の痛みに思わず腕を緩め、一歩退がろうとした。喉奥に支えたものを駆逐するように、声をあげかける。
だが、次の瞬間。驚いてそれを呑み込んだ。
アンリーが、不意にミランの胸に背を預けたのだ。頽れた訳ではなかった。
ほどきかけたミランの腕にそっと自身の指先を重ね、アンリーが小さく吐息する。
「お前は…同じ匂いがする。陽と、潮と…安息香の混じった塗香の匂いだ」
「…あなたから賜った薬です」
アンリーの肩を受け止めたものの、何を言われているのか咄嗟に判らず、愚にもつかないことを口走ってしまう。リジューにいた頃、確かにアンリーはよくミランに傷薬を渡していた。ただ、日々そんなものを使わなければならなかったのは、遙か昔のことだ。それを聞いたアンリーが幽かに笑い、重ねた指先をそっと絡める。
「いつも傷だらけだったからな。余計なことだったかもしれないが。…あの頃の私には、そのくらいのことしか思いつかなかった」
「統領…」
「…こうしていると、同じ匂いなんだ。本当に」
陽と、潮と…安息香の混じった塗香の匂い。それはアンリー自身からも発せられていた。ただ、今はそれに鎮咳処方特有の清涼感ある甘辛い匂いが混じっている。
「もういないのはわかってる。それでもこの2年…時々、膝が震えるほどに心細くなるときがあった。そんなときでも、この匂いがすると…落ち着いたんだ。だから、立っていられた」
ミランの胸へ、緋色の髪がすり寄せられる。その稚い仕草に、胸が痛んだ。だが、突如アンリーの肩に緊張が走り、ミランの手に重ねた指先が震える。その手に縋ろうとして、また引き剥がそうとして。その狭間で震えているのだ。
「…済まない、嗤ってくれていい。
私は狡いんだ。この匂いがすると、ヴァンが傍にいるような…ヴァンの息遣いが聞こえる気がして…それだけでっ…」
感情の揺らめきを載せることなど久しくなかった声が、無惨に掠れる。その喉奥からは、嗚咽すら漏れ始めていた。ミランはそれをとどめるように、色の薄い唇を指先で触れる。アンリーが声を呑んだ。
ミランはそのまま、すこしかさついてしまった唇をゆっくりと撫でる。そうして、もう片方の手でもう一度アンリーをしっかりと引き寄せた。ただし、息を詰めさせないように…あくまでも柔らかく。
アンリーが素直に身を委ねる。ミランはアンリーの唇に触れていた指先を滑らせて緋の髪を掻きやると、横髪の下から現れた耳朶の輪郭を唇で優しくなぞっていき…その動きを止めて、囁いた。
「…俺でも、あなたの役に立てることがあったんですね」
***
一度だけ、アンリーのこんな表情を見たことがある。
汗ばんだ膚を桜色に染め、幽かに眉根を寄せて…半開きになった朱唇から切れぎれの嬌声を零す。総身を撓らせ、下肢を震わせて法悦に身を委ねるその姿を思い出す度、ミランは思わず身体の芯が熱くなったものだ。
あの時、アンリーを抱いていたのは、あの男だった。だが、あの男がその時どんな表情をしていたかは…意外と記憶に残っていない。後に緋の風神とも呼び倣わされる統領の、凄絶なまでの艶姿に衝撃を受けた所為だろうか。
病み衰えたとはいえ、その膚は却って皓さを増している。だがそこに今仄かな紅みが差し、薄闇の中で凄まじいばかりの艶を放っていた。
腕の中で跳ねる緋の髪。ミランはその緋色の一房を捉えて指に絡め、そっと口づける。そしてあの男が懊悩しながらも溺れずにいられなかったその香りと感触を賞玩した。そして震える腕で縋りつき、更なる刺激を強請る繊細い身体を優しく慰撫し、ゆっくりと昂らせていく。
それはミランが身体で憶えている、あの男の手管だった。
沖合の大きな波に身を任せているときのように、なす術もなく追い上げられ、いつも穏やかに達した。今にして思えば、あの時は幸福感に似たものさえ感じていたかもしれない。だが当時のミランは、アンリーのように素直にのめり込むことはできなかった。だからあの男が離れていっても、然程の感慨を持つこともなかったのだ。
そしてエルセーニュ決起の朝、アンリーとたった二人でヴァンの骸を水葬に付した時も、いっそ自分に失望する程冷静でいられた。むしろ、深い悲嘆に声もなく落涙するアンリーの姿に、ミランは身勝手な男に対する憤りすら感じていたのだった。
あれほど身体を厭えと言ったのに。
死病だった。理不尽な怒りと知っていた。だが、涙に暮れるアンリーの稚くすらある姿が、それほどに心に刺さったのだと思っていた。
しかし今ならば判る。ミランは、知らず押し込めてきた想いの陰翳を見ていたのだ。
あの時おそらくミランもまた遺骸に取り縋り、声を上げて泣きたかったのだ。でも泣けなかった。だからただ、声なき慟哭に身を震わせるアンリーの前に拝跪して言ったのだ。
『統領、下知を』
――――自分はなんと残酷だったのだろう。
腕の中で、与えられる刺激に身悶え啜り泣く美しいひと。その頬を滑り落ちる悲傷とも喜悦ともつかぬ涙を、ミランは舌先で掬い取った。あの男の手管をなぞることが、本当にこのひとを悦ばせているのかどうか…ミランには判らない。ただ、そうすることでミラン自身がひどく昂っていくのは感じていた。
俄に急所には触れず、身体の芯に遠い部分から微妙な圧でそっと撫で上げ、焦れてくると唇を重ねて慰撫す。熟れた紅点を下唇か舌先でそっと掠める。それだけでこの美しいひとは若鮎のように身を撓らせるから、またさらりと離れて腕や下肢から撫で上げる。そんなことを繰り返していると、追い詰められた息遣いがいつか啜り泣きに変わって、四肢を絡めて刺激を乞うようになる…。
遠い記憶を辿るミランの胸奥には氷塊が居座っていたが、細い声とともに汗に濡れた身体に縋りつかれると、無関係に身体の芯が猛り勃つ。慎重に衝動を抑え込みながら細腰を抱え上げ、ミランは緩やかに…嫋々たる懇請に報いた。
一瞬だけ…背に回された腕に力が入り、浮き上がった下肢がひくりと震えた。その後は、細い吐息だけ。受け容れられたことに安堵して、ミランもまた小さく吐息した。
深く繋げた身体を抱き上げ、向かい合って座るかたちで腰の上に据える。その動きに内側から刺激され、緋の髪を振り乱して喘ぐアンリーをミランは軽く抱き締めて宥め、腰を跨がせた。
より深く繋がる感覚に、朱唇から再び溜息が漏れた。
――――このまま。
溜息雑じりに耳孔へ流し込まれた声に、ミランの背筋に電流が奔った。同時に、繋がった部分を締め上げられる感覚に思わず呻く。受け容れた側が締め付けたのか、挿入た側が嵩を増してしまったのかはわからない。ただ、押し寄せた充溢感にアンリーが再び声を掠れさせてミランの背に回した腕に力を込めた。
密着した身体に挟まれ、アンリーの熱塊もまたゆっくりと頭を擡げ、先端から露を零していた。零れた露は互いの身体を濡らしながら熱塊を伝い落ち、やがて繋がった部分をも潤していく。
どちらからともなく、僅かに身体を揺らせた。零れた露で潤った身体の間で熱塊が刺激され、アンリーが喘ぐ。手で宥めるのとは違い、ひどくもどかしいからその動きは徐々に大きくなっていく。それとともに膚の擦れ合う音は湿り気を帯びた。
たまりかねたアンリーがその部分に手を伸ばしかけた時、ミランはやんわりとそれを阻んだ。アンリーは素直にミランの指先に熱塊を委ね、吐息とともにもう一度ミランの背に腕を回した。
ミランは片腕でアンリーの身体を支えながら、片手で委ねられたものを丹念に追い上げていたが、ふと気づいて手を止め、身体を後ろに倒す。アンリーが動き易いように。
再び内奥を刺激されたことでその変化に気づいたアンリーが、薄目を開けた。赦しを乞うような涙目。ミランはただ、頷いて優しく頬を撫でることで応える。
身体を繋げたまま、ミランが招くように背を褥につけた。アンリーは褥に手を突き、内奥を抉る刺激に呻きながら身体を起こす。そうして…緩々と腰を動かし始めた。
徐々に激しくなっていく動きに合わせ、ミランは再びアンリーの熱塊を掌におさめて追い上げる。
手折られ、無惨に枯れてゆくばかりと見えた花が、一掬の水でその命をもう一度咲かせるさまを見る気がした。ひび割れかけていた唇は繰り返す口づけで妖しく濡れ光り、気も狂わんばかりに身を撓らせ、のたうちまわりながらも、その姿は美しかった。
――――その一瞬。
アンリーの背が大きく撓り、ミランの胸と掌に鮮烈な白い華が散る。
がくりと、アンリーがミランの胸の上に頽れた。肩で息をしながら、のろのろと敷布を引き寄せ、ミランの胸の上に散ったものを拭おうとするから、ミランはまたやんわりとそれを止めた。そして、ただ宥めるようにその緋の髪を指先で梳いた。
それ以上抗うこともなく、アンリーはそのまま眠りに落ちた。涙は残っていたが、子供のような寝顔であった。
ミランは露を纏わらせたまま力尽きた指先を捉え、引き寄せるとそっと唇で触れた。…生命の味がした。
このひとが求めているのはあの男の幻影だ。幻影と知っていて、なお今ここに立ち続けるためにそれを必要としている。
既に海神宮 5はこのひとを手招いているのかもしれない。だが、このひとの心はまだ死んでいないのだ。差し招く手を至近に感じながら、その迎えに身を預けるのは今ではない、と必死に踏みとどまろうとしている。一刻身代わりを求めることでこのひとの魂が踏みとどまれるなら、ミランはそれでよかった。
…それが自身の傷を抉る行為と識っていても。
自分がこのひとの救いにはなれないと、理解っていても。
***
払暁。ミランは薄闇の中、衣擦れを聞いて立ち上がった。
「統領…」
あんな姿の統領を近侍の目にさらす訳にはいかなかったから、ミランは勝手に奥殿の中を探って必要なものを揃え、眠ったままのアンリーの身体を丁寧に拭き清めた。
もとより家捜ししたところで不用意に音を立ててしまうようなミランではなかったが、もし近侍に見咎められたら「汗をかいてご不快とのことだったから、整えさせてもらった」と言い抜けるつもりだった。しかし、呼ばれなければ誰も来ない、というのは本当のようで、深更を回っても誰も顔を出さなかった。
病者の世話が本当にそれでいいのかという気がする。薬やそれを飲むための水差しは入れ違いに出て行った典薬寮神官が整えていったようだが、呼ばないからといって夕餉の伺いにさえこないというのはどうなのだ。
寝所を整え、服を替えて休ませはしたが、あまりと言えばあまりな無関心ぶりに、ミランはそこを立ち去ることが出来なかった。
結局、不寝番さながら牀の足下に一晩中胡座していたのだった。
「…ああ、いてくれたのか」
起き上がったアンリーの声は、ひどく嗄れていた。無理もない。ミランが水差しから水を注いで勧めると、牀を降りて椅子に身を沈め、素直にそれを受け取った。
「…何か、召し上がりませんと。近侍を呼びますか」
「いや、まだ夜だ。いい…。もう少ししたら、誰か来るだろう。私がおかしくなるのは明け方が多いらしくてな。朝は大概だれかが様子を見に来る」
そう言って、乾いた笑みをした。
「…昨夜は、済まなかった。手間をかけさせたな」
乾いた笑みに、自嘲の翳が重なる。
水の入った椀を置き、アンリーがゆっくりと立ちあがる。そのまま、流れるような動作でミランの頬に手を掛けたと思うと、僅かに伸び上がって唇を重ねた。
強引とは程遠い動作だったが、瞬く間に歯列を割って舌が滑り込む。
知らず、応えていた。
だが、不意を突かれたミランが息が続かなくなるギリギリのところで、アンリーはすいと離れる。
「判っている…判っているんだ…我儘に付き合わせて、済まなかった」
そう言って、アンリーが中庭に通じる扉を押し開ける。まだ暗いが、明け方の清爽な風がふわりと滑り込んだ。だが、今度は風上に向けて何かを求めるように手を伸ばすことはしなかった。ただ、凜と背筋を伸ばし、吹き抜ける風を静かに感じている。
「統領…」
あなたが望むなら、俺は。そう言いそうになり、ミランは寸前で呑み込んだ。そしてただ、その場で拝跪する。あれは日蝕だったのだ。ほんのわずかの間、陽が翳っただけ。
「…統領、下知を」
――――――――Fin――――――――