遣らずの雨

well-timed shower


 サーティスが苫屋に戻ったとき、そこはからであった。
 凜然たる美貌が自嘲と綯い雑ぜになった憂色に曇るのを正視できなくて、サーティスは雨止みを理由に外へ出た。
 …逃げた、というほうが正しいだろう。
『私はただ、彼女を…救いたかった』
 落涙しても不思議はないほどの哀しみを湛えながら、決して折れない。その毅然たる横顔に、思わず手を伸ばしそうになったのだ。
 だが触れて、抱き寄せたとして。自分に何が出来るだろう。
 また、誰かを傷つけて終わるだけではないか。苦い記憶は、痛みすら伴っていまだに胸中で燻っている。
 彼女クロエはセレスではない。マーキュリア・エリスでもない。そんなことは判っている。それでもなお、あの射干玉の髪の感触に、見てはいけない夢を見ようとしている自分に気が付いて嫌になる。
 何て、狡い。
『…足掻いてどうにかなることとならないことの区別が付くようになって、諦めることも上手になって…それでも持て余すときは…少々、狡くなるしかない』
 そう言って細められた黒檀の双眸。見透かされた気がした。その上で、赦されたような気がして、思わずこの腕を伸ばした。
 都合のいい幻想。判っていて、目を閉じて、何かを見逃した。
 受け容れられた事に甘えて、惰性で夜を重ねた。
 だがもう終わる。雨が上がり、船が来る。
 それでいい筈だった。そう望んだ。――Rain, rain go awayいっちまえ.
 だが、この空っぽの苫屋を見た時の苦しさは何だ。石を呑まされたような胸苦しさ。すこし覚束無おぼつかない足取りで窓際まで寄ると、先程まで彼女が座を占めていた木箱に腰を下ろす。
 暮色は刻一刻と深くなり、月光が落ちる中でかすかに虫が叢で啼き始めているのが聞こえた。
 外が賑やかになるほどに、屋内の静けさが沁みる。
 知らず、胸を押さえて蔀戸を支える柱に凭れかかる。何だろう、これは…。
 不意に…かたりと音がした。
 ゆっくりと、眼をあける。薄闇の中、扉のところにクロエが立っていた。それまで静かだった鳥籠の中の鳩が、低い啼声を立てる。
「何て顔をしてるんだ」
 クロエが呆れたように嘆息をする。
「…姿が見えなかった」
「娘を送っていっただけだ。それと、刃傷沙汰の件はさておいて両親に話をしてきた。…このままでは祝言の前に海神宮わだつみのみやに身を供してしまいかねん。婿殿と一度逢う機会を作るなり、不安を取り除くように配慮してやってくれ…とな。不安だからといって逃げていても、どのみちあの娘にはいいことにならん。
 それより御辺、ひどい顔色ではないか」
 いつしか、東から昇る月が…蔀戸の隙間からその淡い光を差し入れていた。
「…月が蒼いだけだ」
 そう言って、月の光から遁れるように、サーティスは蔀戸から離れ…薄闇に沈む板敷きの床へ座り込んだ。その光は淡いのに、ひどく明るすぎたのだ。全てを見透かされそうな気がする。
「月の所為、か…」
 クロエが嗤った。そしてゆっくりと歩み寄り、サーティスの頬に指先を滑らせる。
「こんな…今にも胸が潰れそうだというような顔をして」
 ああ、やはりか。この黒檀の双眸は全て見透かす。何を言っても…もう虚勢にすらならない。
 サーティスがクロエの伸べられた指先を捉えた。引き寄せ、その胸に軽く凭れる。衣の上からでも、安定した鼓動が聴こえた。
「温かい音が、する…」
 そうだ。漠とした不安から逃げ続けても、どうなるわけでもない。
 生きている限り、あやまつことはある。それを危ぶむあまり何もしなければ、儚い人間の身のことだ。何を成すことも出来ないまま須臾の間に終焉を迎えてしまうだろう。
 それが怖い。
『前を…前だけを見つめ、あなたの道を歩んでください』
 自分の道とは何だろう。聖風王の裔、ツァーリの王族としてか。『継承者』としてか。どちらにしたところで、何から手をつけていいのかまだ判らない。それを知るところから始めなければならないのだ。
 何処に行けば答えが見つかる。それすらもわからぬ。だから歩きつづけている。
 でも、少しだけ…疲れた。
 繊麗な指が…するりと髪の間に滑り込むのを感じた。
「道を探して草臥くたびれたか。常世国ニライカナイ御使みつかい殿よ」
「…そうかも、知れん…」
 不思議な名で呼ばれた気がしたが、髪の間を緩々と滑る指先が泡沫あわのようにはかない疑問を黙殺させる。そう、草臥くたびれた。丁度、旅に疲れた足が何かに躓いて、路傍のくさむらまろび入ったまま動けなくなったような。
「明日には船がくる」
 低く、深い…。凜然としているのにあたたかい声が、耳許に寄せられた紅唇から零れてサーティスの鼓膜を優しく震わせる。しかし注がれたのは、ただ甘やかすだけの言葉ではない。いまこのときの休息を許しても、その先を見据えている。
 ――――何とも手厳しい。
 理解っている。転んで動けなくなって…一刻ひととき、歩きつづけることがつらくなったのだ。だが、いつまでも臥しているわけにはいかない。もう一度、起きねば。また踏み出すために。
「…だが、明日・・だ」
 サーティスは捉えていたクロエの手を放して、神官衣に包まれた…たおやかでありながら鍛え上げられた曲線を持つ細い腰にその腕を回した。だが、不意の動きにもしなやかな身体は均衡を崩すことはない。板敷きに片膝をついて、逆に距離を詰める。
「…そうだな。明日だ」
 どちらからともなく唇を重ねる。口づけを繰り返しながら、互いの服を緩めていく。紅をさしたよりも紅い唇を舌先で割り、その奥を撫でると…彼女が小さく呻いたように聞こえて…サーティスは一旦身を離した。
 濡れ光る紅唇の間から吐息を押し出して、彼女がまた嗤う。
「…度し難い程に優しいな、御辺は」
 そう言って自身の唇を軽く舐め、首筋に口づけを落としてくる。湿り気を帯びた熱塊がゆっくりとその重みを預けてきた。サーティスは受け止め、その弾力を賞玩する。
 膝の上でクロエが微かに背を引き攣らせ、喉奥で掠れた声を上げても…今度は離さなかった。緩められ、纏わりつくだけになった衣を丁寧に取り去り、露わになった部分を細緻を尽くして慰撫する。朱く熟れたいただきを含むと…クロエは小さく身体をしならせただけでなく、呼吸いきが浅くなり、床についた膝が震え始めた。
 サーティスは唇を離し、かるく汗ばんだクロエの背を片手で支えながら、震えている引き締まった腿をゆっくりと撫でた。
 すると、片手をサーティスの肩に置き、髪にもう片手の指を潜らせていたクロエが、髪に潜らせていた指先に微かに力を込め…背をひくつかせながら苦しげな呼吸の下から絞り出すように言った。
「…やめ…るなっ…!」
「…悪かった」
 クロエがわずかに苦しげでさえあるから、手を緩めたのを悟られたらしい。素直に謝って、今度は反対側の頂を含んで丹念に舌先で転がす。一気に追い立てられ、クロエが大きく身体を撓らせた。
 瞬間的に指先へ力が入ったらしく、うなじや肩に食い込んだ爪はサーティスに僅かながら痛みさえ与えた。だが常は落ち着きはらった低い声の、あえかに掠れてひどく艶めいた響きを耳許に流し込まれながらというのでは…それも愉悦。
 弛緩していくクロエの身体を抱いたまま、サーティスが緩々と褥へ身体を倒す。されるままに身を横たえたクロエだったが、荒れた呼吸が少し戻ってくると、ひとつ嘆息して拗ねたように言った。
「…御辺、存外意地が悪いな。…いや、度し難い程優しいのか恐ろしくタチが悪いのかわからんというべきか。焦らされるなんて生易しいモノではない…あそこで放り出されたら、ヘタをすると気が狂うぞ」
 人の腕枕でなんとも昂然たる言い種だが、まだ少し荒れた呼吸を宥めながらの、いっそ凄絶なまでの艶を纏った叱言に敢えて逆らうほど無謀にはなれない。まるで自分自身も達してしまったかのような気怠さも手伝って黙って聞いていると、クロエが乱れた髪をかきやりながらゆらりと身を起こして、殊更に耳許に唇を寄せてとんでもないことを口走る。
「女か男かは知らんが…実は今までにねやで何人か死なせていないか、御辺?」
「何の話だ、何の…。人を志怪1 本の妖物ばけものかなにかのように…」
「ああ、詮索はしない約束だったな。今の話は忘れてくれ」
「…そうさせてもらう」
 不貞腐れたような返事になったのは、この際仕方ない。だが、薬種の芳香を帯びた熱塊はそれに頓着することなく、如何にも無造作に…サーティスの傍らへ再び身を横たえた。
「御辺が何者であろうと…もう、構わぬ。
 嗤ってくれるなよ。私は神官であって巫女ではないが、御辺の傍にいると、時々異界の扉が開く音を聴く気がする…」
 繊麗な指先が伸べられ、サーティスの頬を撫でる。頬から首筋、首筋から肩…
「俺は異界にちかいのか…?」
「…理屈の説明は求めないでくれ。ドン・レミから生きたまま身一つで漂ってきたという時点で、十分神懸かっているということは理解できると思うが」
「僥倖、という言葉で片付けられないと?」
「御辺が流木だか木っ端微塵になった船体の材木だかに掴まって、余計な体力を使わず、ひたすら耐え続けた結果ではある。ただ、此処へ吹き寄せられた事に、何かの力を感じるということだけさ。潮目が悪ければ、何処か洋上で力尽きるということだってあり得た…」
「そういうものか」
「そういうものだ」
 気怠さに負けてゆっくりと両眼を閉じかけていたサーティスは、問答すら大儀になっていった。だが、優しく膚を滑る指先の感触に半ば陶然としていると、不意に背の傷を擦られて息を詰めた。
「すまない、鱗のようで綺麗だったから…つい、な」
 そう言ってくつくつと笑いながらクロエがもう一度背の傷を撫でる。構えてさえいれば、耐えがたい激痛では決してない。ちくちくとした痛みと一緒に、またいくつかのかさぶたが落ちたのがわかった。乾いた痂は軽く触れれただけで容易に落ちる。乾きかけた傷の上を、触れるか触れないかという微妙な圧で繊麗な指先が優しく滑るから…その度に背中に軽く電流が奔る。
「西方では…世界の海は四方に分けられ、それぞれの海を統べる竜王がいると信じられているそうな。南の海を統べる竜王は緋色の鱗を纏うというが…そうだな、見事な辰砂の朱色バーミリオンレッドだ」
 竜王か。サーティスはその名に相応しい者をひとり識っているが、その心象イメージは漆黒の鱗に覆われている。
 その双眼にどんな深い淵も及ばぬ深緑を湛え、いっそ羨ましい程質朴に、唯一人の女のために地位も国も棄てて北の国に渡った紫電竜王。あれほど解脱できる日が、自分にも来るだろうか。…今以て、そんな気がしない。
「残念ながら…俺のは只のかさぶただ。傷が癒えればいずれ落ちる。…御身の背の傷だってそうだっただろう」
 ふと、背を滑っていた指先が停まる。
「自分の背中は見えないものだからな。…そうか、残っているか」
 その声が、自嘲の色濃い微苦笑を纏っていた。思わずはっとする。…また、やってしまった。
「時々、うっすらと見えるだけだ。…済まなかった」
「何故謝る」
「余計なことを言った気がする」
 片腕はまだクロエの枕に供していたが、サーティスは両腕で芳香を纏う熱塊を抱き締めた。クロエは先程の自嘲の色を吹き払った、いつもの揶揄からかうような笑いでサーティスを抱き返す。

「気にするな。古い話だ。…もう、痛みはない」

 皓々たる月の光が蔀戸の隙間から土間に落ちる。
 雨は止んだ。窓外から虫の聲が聞こえる。
 明日は、晴れるだろう――――。

――――――――Fin――――――――

言い訳させてください

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  1. 志怪…中国の小説の一類。怪奇な出来事を短い文に綴ったもの。いわゆる志怪小説。有名なところで「聊斎志異」。