Nirai Kanai
止んだといっても、相変わらず細い霧雨が降っていたが…サーティスはまたふらりと外へ出て行ってしまった。
降っている、というより…雲がそのまま降りてきたようである。霧に蔽われた空…薄雲の向こうに、月と紛うばかりの頼りない陽の姿が見える。クロエは水場へ出ると、軽く汗ばんだ身体を泉水に浸した布で拭い、衣服を改めた。
――――何故、行きずりの客人に…あんなことまで喋ってしまうのだろう。
潮流や風によって浜に流れ着くものを寄物といい、神域に親いとされる。物であればそれが何であっても拾うときには一定の作法が必要だし、骸であれば相応の礼を以て弔われ、生きていれば一定期間神域から遣わされた生神に類する扱いを受けるのが慣例だ。先日の神事でサーティスが上座に迎えられたのはそういう理由であった。
神域…常世国か。
クロエは水鏡に映る自身の姿を瞼で閉ざした。あるいは、常世国からの使いに一度全てを預けてしまいたかったのかも知れぬ。
無意識に、肩に手を遣る。しかし、本当は届くわけもない。とっくの昔に消えてしまった、古い傷。
アニエスがツァーリによってエルセーニュから連れ去られる前日のことだ。
当時既に典薬寮に身を置いていたクロエは、シェノレスを離れるアニエスに届けるための薬種を捜して山に分け入り、傷を負った。丁度…今回サーティスが負ったのと同じ、浅いが広範な傷だ。やはり熱を出して寝込み、結局…彼女の船を見送ることさえ出来なかった。
少し前から姿をくらませていたジュストは、その数日後の夜、どんな荒野を彷徨ったかというひどい形でふらりと病床のクロエを訪った。
無力感に打ち拉がれているのは皆同じなのだ。そう思ってクロエはジュストのとりとめもない話に半ば熱に浮かされながら付き合った。だから何を話し、何を答えたのか…実のところ殆ど憶えてはいない。確かなのは、同夜、ジュストが熱で朦朧としているクロエを抑え付けて事に及んだという事実だけである。
常のクロエなら、初手で投げ返して肋の二、三本でも叩き折っている。些か熱で弱っていたとはいえ、本来男が相手であろうと一対一で後れをとることはない。
人質同様に連れ去られるアニエスに何もしてやれなかった自責、悔恨、無力感。そういったものに拉がれやつれ果てた幼馴染みの姿に…当初、クロエが惻隠の情を催したことは否めない。だが、癒えきらない傷に全く斟酌することなく抑え付けられ、唯々欲望を押しつけられたクロエに残ったのは…心身双方の苦痛だけだった。
結局、事が表沙汰にされることはなかったが、ジュストはそれ以降、典薬寮には事実上出入り禁止となった。それまで天文寮からいずれは寮頭にと嘱望されていたのに、自らそれを辞して衛視寮に入り、そこすらも出仕したりしなかったりで度々譴責処分を受けることになる――――。
ジュストを心から憐れむことが出来る程、今のクロエは達観できていない。
狼藉を受けた後、出血した背の傷は再度膿んで暫くクロエを苛んだ。爾来、男に触れられると総毛立つような嫌悪感が奔る。職務や鍛錬の時は自身の中で何かが切り替わるらしくそこまで気にならないが、不用意に触られると咄嗟に投げ飛ばすか蹴り飛ばしたくなる。
『典薬寮頭クロエに言い寄るなら、肋の二、三本は差し出すつもりでゆけ』
神官府でそんな警句が囁かれていることはクロエ自身も承知している。ただ、典薬寮の人間は元より、男の友人もいるにはいるが、皆よく心得ているから滅多とそんな惨事をひきおこすことはなかった。
――――だから、不思議なのだ。
蛍火の汀で拾ったあの男は、そんな感覚がない。汀で拾い、治療を施す間は職務であるから当然であったとして、身体が快復してきてから船を待つ間、肉親でもない男とひとつ屋根の下で寝泊まりしている事実にクロエは全く違和感を感じていなかった。あの娘がサーティスを見る眼に気付いて、初めて勘繰られても仕方ない状況に気付いたくらいのものである。
弟ほど離れてはいないが、おそらく歳は下だろう。だが、まるで数百年をたったひとりで生きてきた者のような…老成した雰囲気を纏っていた。そうかと思えば知識に関してはひどく貪欲で、まるで童のような好奇心を持ち合わせている。医者だというからそれなりの素地はあったにせよ、このごく短期間にいますぐ典薬寮に欲しいくらいの知識と実践手順を身につけてしまった。
詮索しないで貰えれば有難い。彼はそう言った。そして程なく迎えが来れば、二度と会うことはない。それが判っていて、興味を持った。クロエがサーティスを神事に引っ張り出したのは、確かにそんな興味の所産に他ならない。
しかしその夜のことは、全く想定外だった。
神事で振舞われた神酒の勢いもあっただろう。しかし…クロエが誰かに触れたい、と思ったのは、随分と久し振りだった。そして、触れられたい、と思ったのも。
とっくに消えてしまったはずの傷の疼きと、苦痛の記憶に身を竦ませたのは一瞬であった。
どんな道程を歩んできたかは識らぬ。おそらく、神官府の中でいわば安定した生活をしていたクロエに比べれば、想像も出来ないほど波乱に満ちたものであったことは間違いない。それでも、心通わせた誰かに丁寧に愛しまれた記憶は確かに持っているのだろう。そうでなければ、あんな触れ方はできまい。
砂の褥で時折見せた、微かに切なげな表情は、彼は彼で古い傷の痛みと同衾するが如き夜だったからかも知れぬ。だが、あくまでも優しく、慎密で…細やかな丁寧さを以てクロエを愛しんだ。
男共から距離を置かれる一方で、女神官や巫女達には懐かれるから、これまで褥を共にする相手がいなかったわけではない。ただ、クロエは今まで、あの夜ほどの安寧と快楽を享けたことはなかった。
戦は始まってしまう。その事実はクロエの胸に重くのしかかる。
戦がどんなものか。過日、草木に埋まった王城址を見せながら、祖父はまだ童女でしかないクロエに訥々と語ったものだった。150年も昔のことだ。祖父とてその戦の中に身をおいたわけではあるまいに、その語り口はさながら地獄のようなその光景を目の当たりにした者のような現実感を持っていた。
祖父はクロエにあらゆる武術を仕込んだが、最終的にクロエは剣でなく棍を取った。
守りたいものがある。だから、武器を持つことを否定はしない。しかし…人を殺すための刃は持たぬと決めた。
大神官リュドヴィックは、剣もて奪われたものは、剣で取り返すという決断をした。そして、今もこの南海の何処かで…大神官の命令と自らの妄執のために全てを棄ててその準備をしている男がいる。
それを止める力はクロエにはない。だから、それによって傷つき苦しむ者をひとりでも減らすのがクロエの責務だ。
だが、その決断を自らの臓腑に叩き込むための時間が欲しかった。それだけのこと。
しかし、か。だから、か。船が来るまででいい。不思議な客人のもたらす底のない安寧に、一刻身を浸していたかったのだ。
「そうか、私は…」
この時季外れの長雨は、あるいは自分が降らせていたのかも知れぬ。霧のような雨に身を晒しながら、クロエは曇天を見上げて細く息を吐いた。