遣らずの雨

nursery rhyme

 サーティスは小糠こぬか雨の中、浜へ出た。
 烟るような雨滴は涼気を運んで心地好い。しかし水平線は深い靄に覆われて見えず、何か異界にでも閉じ込められたような気分になる。
 それまでが呵責ない晴天続きだっただけに、数日の雨はまだ恩恵とも思えた。しかし、あまり長く続けばそうも言っていられない。
 ひどい降りというわけでもなく、時に薄陽の差す日もあった。ただ、ラ・ロシェルこちらはよくてもドン・レミむこうの風向きがよくないため、迎えの船は出帆の目処が立っていないのだそうだ。
 折角集めた薬種が傷まないか、と訊いたら、加工と梱包が済んでいるから少々は問題ないとの返事であった。確かに薬種が梱包され集積された岩穴の入り口には溝が切ってあって、雨水は流入しない工夫が為されていたし、簡易ながら扉もたてられているから降り込む心配もない。陽が直接に当たらず気温変動も小さいなら、なまじ苫屋の中に積んでおくよりも保存には適しているだろう。
 この数日といえば梱包作業も終わってしまい、夜遅くまで帳面と地図片手になにやら計算に忙しいクロエと違って…サーティスは有り体に言えばすることがなかった。
 悠暢のんびりと午睡に身を浸す日々では、夜にはどうにも寝が浅くなっていけない。身体を動かさないからだ、という結論に落ちつき、今日は雨が弱まるのを見て外へ出たのだった。
 ただ、理由は他にもある。家主クロエが、それまで自らの寝所にしていた釣床ハンモックを、この数日来あっさりとただの衣類棚にしてしまったのである。
 サーティスが夜半、ふと気が付くと…すぐ傍で薬草の芳香を纏う熱塊が、至極当然といったていで眠っているのである。髪を解き、服を緩めて身を横たえると、クロエは殆どすぐに眠ってしまうらしかった。
 釣床ハンモックでは手足を思うさま伸ばして眠るというわけにはいかない。板敷きの床につくねた詰草、それに帆布が掛けられただけとは言え、荷物もなくなった今は相応に広いから、寝所を移す理由としては十分と言えばそうだ。
 しかし…正直、戸惑う。
 傷を負って漂着したばかりで、警戒する気力も体力も尽き果てていた時のサーティスとは状況が違う。どうしてここまで無警戒なのか理解に苦しむところではあった。ぶちまけた話、男だと思われていないというのが一番正答に近いのではないかという扱いである。水を浴びていると知っていて、薬草を更新するためとはいえあっさり踏み込んでくる磊落さを思えば、そんなものかと危うく納得しそうになるくらいだ。
 それでいて、昨夜のように不意に求められることもある。戸惑いはするが、拒む理由はないから応ずる。そうなると、眠るのはもう朝方というのが通り相場であった。
 竜禅・天河北面の森に居を構えていたときには、珍しくもないことだった。旧い友人からは「来る度に違う女の匂いがする」と眉をしかめられたものだが、何か特別に目的がない限り来るものは拒まないし去る者は追わないというのがサーティスの基本姿勢スタンスなので、自然とそうなる。それだけのことだ。
 ただ、あの女神官はわからない。
 縋るでも、甘えるでもなく、かといって所有したがるでもない。
 彼女の言う、生死も定かでない「莫迦な男」の身代わりかと思うと、そうでもない。
 その男を愛していたのかと問うと、「男は嫌いだ」というにべも無い反応が返ってくるのである。…曰く、「身勝手で、自身の欲ばかり押しつけて。こっちの事情は構いなし」と。
 しかし、そう言いながら繊細な慰撫を与えてくる時の、いっそ哀しげな黒檀の双眸を見てしまうと…紅を差したより紅い唇をなだめずにはいられない。
 黒髪の感触に心を囚われる度に、自身の罪科を問い直されるようでつらいのに…拒むこともせずにただ溺れている自分自身に…終いには腹が立つ。
 ――――無為の日々はよくない。
 畢竟、そういう結論に落ちつくのだ。
 けぶる水平線を眺めながら、汀に沿って歩き…クロエが教えてくれた場所を辿る。事故とはいえ、この島に逢着した最大の収穫は…彼女クロエが教えてくれた新しい薬種であった。
 彼女が蒐集した薬種には、馴染みのあるものも多かった。しかし、ところ変われば物変わる。用法が違ったり、効用が違ったり、今まで使えるとは思っていなかったものが南方では標準的に用いられることもある。なかなかに新鮮だった。
 描いてもらった簡単な地図をもとに、実際に生えているところも見ておこうと思ったのである。薬種として加工されたものばかり見慣れていて、貴重な材料を旅先で見逃すようなことがあっては勿体ない。
 ところが嬥歌かがいの祭儀のあった場所まで来て…どうにも雲行きが怪しくなってきた。そのため、サーティスはその日、それ以上の遠歩きを断念することにした。
 祭の夜は所狭しと薄縁が敷かれていた広場だが、今は人影もなく…岬の岩場の向こうにただ烟る水平線が見える。引き返す前に、サーティスはあの夜は宵闇に紛れて見えなかった岬の岩場へ足を向けた。
 神域であることを示す小さな祠の前で足を停め、沖にかかる靄を透かしてその彼方を見る。当たり前だが目を凝らしても何も見えはしない。
 風が出てきたか、沖合に兎が跳ねる1 。まだ、ひと荒れありそうだ。
 先日クロエの連絡手段に便乗させてもらう形で、ドン・レミで待っているマキには短い手紙を送った。その返事も来た。
 心配なんかしてない、と云いながら、背の傷のことを気に掛けているようだった――――。
 どうにも、あの騒がしい同行者がいないと調子がおかしい。とにかく元気が良いので時には鬱陶しくなることもあるのだが、いなければいないでどうにも落ち着かない。

 Rain, rain go awayー雨、雨、いっちまえ
 Come again another dayーおとといくるがいい
 Princess wants to playー姫サマは外で遊びたいんだ
 Rain, rain go away…ー雨、雨、いっちまえ…

 古謡、というより子供のあそび歌ナーサリーライムだ。
 クロエがマキのことを姫御前ひめごぜ揶揄からかうから、本来は子供の名前を入れるべき処になんとなくPrincessを当ててみた。それが妙に填まったのが可笑しくて、祠の前から踵を返して苫屋へ戻りながら何度か口ずさむ。
 早く雨が止めばいい…。
 苫屋が見えたとき、一羽の鳥が天空を横切ったように見えて、サーティスはふと立ち止まった。
 大粒の雨滴を落とし始めた曇天を仰ぐ。しかし空はまだ薄明るく、俄にひどい降りにはなりそうもなく思えた…。

  聴覚が、砂を踏み分けて走ってくる足音を捉える。

  明確な害意…膚を刺すような憎悪が近寄ってくる。持ち慣れない山刀を両手で握りしめ、全力でぶつかってくる…。
 目を閉じ、耳を澄ませてそれを感じ取る。…身体は、ほぼ無意識に動いた。
 身を翻し、蹴りを放って突き出された山刀を撥ねあげる。
 宙を舞う山刀を片手で捕捉し、突進してきた者を足払いで転倒させる。砂の上に引き倒し、サーティスは手の中の山刀を躊躇なく振り下ろした―――――。
 だが、突如飛来した何かがサーティスの手から山刀を弾き飛ばす。
 サーティスが膝下に捉えていたのは、あの時の娘。泣き腫らし血走った眼を見開き、震えながら…それでもサーティスをめつけている。
 その目許で、大粒の雨滴が弾けた。
 山刀を弾き飛ばし、砂の上に深々と突き刺さったのはオーククォータースタッフだった。いつも苫屋の入り口に立て掛けられていたものだ。
「――――そこまでだ、サーティス。こらえてやってくれ」
 サーティスは姿勢を崩さないまま、軽い痺れすら感じる手を握り締めた。棍を投擲した者を、おもむろに頭を巡らせて見る。
 長身の女神官が、凜然たる眉目に痛ましげな翳を落とし…ゆっくりと歩み寄って来るのが見えた。
「…こらえてやってくれ、サーティス」

***

 まばらだが大粒の雨が、苫屋の屋根を叩いている。
 娘のあげる細い嬌声が、雨滴の音に紛れ、高く、低く…苫屋の空気を震わせていた。
 褥に座したクロエの腕の中で、白い喉を反らせて喘ぐ娘。クロエの肩に頭を預け、与えられる刺激に身をよじり、下肢を震わせている。
 娘を背中から抱き締めるクロエが囁くのは、おそらく別れの言葉なのだろう。娘が泣きながら、それでも甘美な感覚に縋り…湿った音がする度に時に頷き、時に首を横に振って切なげな声を絞り出す。
 ついには大きく身をしならせ、一際ひときわ高い声を上げてから…娘はかくりと頽れて動かなくなった。
 クロエが娘の身体を愛しげに抱き締めてから、そっと褥に横たえる。
 濡れそぼつ指先でクロエが娘の朱唇を撫でた。
「…船は、明日だ」
 クロエの声は常と変わるところがない。娘が眠りについたのを見計らってそっと離れ、娘の乱れた襟と裾を直してやる。
 サーティスは薬種の目録をめくる手を止め、顔をあげた。
 クロエが娘を説得・・する間…雨の中、逃げ場もないからそのまま苫屋に居たのだが、流石に無聊なので薬種の目録を読んでいたのである。薬の種類、量目りょうめ、それに加えて移送先とその予定がびっしりと書き込まれている。このところのクロエの仕事内容がそこにあった。開いてしまってから、あるいは部外秘ではなかったかと目顔で問うてみたが、問われた方は全く頓着していないようだったから、気にしないことにした。
 サーティスは南海の地理にそれほど明るいわけではなかったから、島の名前だけではすぐには判らなかったが…一緒に置いてあった海図と照らし合わせると、待っている船の、エルセーニュまでの航路と旅程が概ね見当がついた。確保した薬種は、エルセーニュにも持ち帰るが数カ所に分けて備蓄もする計画のようだった。
「ああ、ようやく出帆できたと報せがきた。御辺の姫御前も、同乗してくるそうだ。どのみち一度ドン・レミには戻らなければならないから、あちらで待っていてもらってもよかったんだが…」
「じっとしていられない性分らしいからな。…厄介をかけてすまない」
「…会うのが楽しみだ」
 クロエがそう言って、穏やかに微笑した。
 娘が微かに身動みじろぎしたので、クロエは娘の髪に手を遣り、そっと撫でた。…覚めた訳ではなかったらしい。
「…この娘はな」
 吐息雑じりに言った。
「この間も言ったが、半年後には親の決めた男と祝言を挙げねばならん。会ったこともなく、文さえ交わしたわけではない相手と、だ」
「…珍しいことではない」
「そうだな…。心通わせた男が別にいるわけではない。親の言われるままに嫁ぐこと自体、至極当たり前の話だ」
 実につまらなそうに言い放つから、サーティスはクロエを見た。そのおもてには、苦笑のようなものが浮かんでいた。
「御身は違うのか」
「私は神官だからな。家庭を持つことが出来ないわけではないが、しないからといってやかましくは言われん…幸いなことに」
 多分、サーティスは鼻白んだような顔をしたのだろう。クロエがくすりと笑った。
「連れ添う相手を選べる訳ではない。言わば降ってくる将来に対する漠とした不安。これで未来全てが決められてしまうのではないかという畏れ。…このくらいの娘にはよくあることだ。何かに縋りたくなることだってある。それが幻のようなものであろうとな」
「…幻?」
「私にはどうしてやることも出来ん。そんなこと、この娘が一番よくわかっているさ。だが、だからこそ一刻ひとときの穏やかな夢を手放したくないのだろう。莫迦な話だが、お前がそれを掠っていくかのように見えたらしい。
 ようやく納得したようだから…こらえてやってくれ」
 納得したのだろうか。どうにも却って話が拗れていないかと思うのだが。
 クロエが娘に衣を掛けてそっと離れる。土間の隅に置かれた水甕に歩み寄ると、柄杓で水を汲み、一息に呑んだ。呑みきれない水が零れて胸へ伝い、解けかかった晒布さらしに染みをつくる。
 濡れ光る唇は、やはり紅を差していたときよりも紅い。
「…それで殺されかかったほうの身にもなって欲しいものだが」
「何を言う。あのくらい、御辺なら目を瞑っていても躱せただろう。ふ…転がすぐらいのことは仕方なかろうが、あそこまでやるとは思わなかった。まさか、本気だったんじゃあるまい?」
やいばを握っている以上、誰であろうと一瞬の油断で命を奪われることはある。…俺はまだ、死ぬ訳にはいかない」
 クロエの声が半ば揶揄うような響きを持っていることを承知していながら、サーティスは、応える自身の声がひどく硬くなるのを自覚していた。『刃を握っている以上、相手が誰であろうと』危険はある。…油断というよりおそらくその優しさ故に命を落とした人物の記憶が、脳裏をよぎったのだ。
「おやおや…どれだけ殺伐とした生活をしてきたんだ? 御辺…」
 クロエがすこし興をそそられたように見遣るのを、サーティスは瞼で遮った。
「あの距離から、あの長さのクォータースタッフを投げて、しかも精確に刃を弾き飛ばす女に言われたくはないな。身体に当たっていたらこっちの呼吸いきが停まったところだ」
「だから当てていないだろうが。
 すまぬ。私は少しばかり育ちが特殊なだけだ。そこは…〝詮索しないで貰えれば有難い〟」
 クロエが嫣然と微笑む。サーティスはあげた視線をわずかに逸らして言った。
「…もうすぐ船も来る。もう二度としないというなら…俺だって関わり合いは避けたい。これ以上の面倒事は御免だ」
「聞き分けてくれて助かる」
 大きく嘆息して、クロエは蔀戸のすぐ脇にある木箱に腰掛けると…蔀の隙間から漫然と外を見遣る。
 緩くなった雨音。雲が薄くなったようで、わずかに明るみが増す。
 窓外の緑陰を反射するのか、すこし緑がかったような薄ぼんやりとした光の中。歴然たる美女が、ややしどけない格好で造りの荒い板壁に身を預けて物思いに耽る姿は、どこか不均衡アンバランスで、ひどく艶めいていた。
 クロエはもう一度嘆息してから、口を開いた。
「御身には悪いが…私にはやはりあの娘の懊悩は理解る。
 …だが私は、もっと過酷な状況で、それでも前だけを見て異郷に嫁した女を識っている」

 ――――前だけを見て。

 そのフレーズが、胸中で一本の弦に触れたかのように響いて、サーティスは瞬間、息を呑む。
「貴賎、男女を問わず…自分で自分の生き方を決められる者はそう多くない。だが、立場によって外圧の大きさに差はあっても、全ては、置かれた状況にどう向き合うか…そこにかかっているのではないかと思うことがある。私も彼女のように…逃げず、泣かず、ただ能動的に立ち向かうことができたら…と。
 だが、誰もが彼女のような勁さを手に入れられる訳ではない」
「御身がそう・・できていないようには…見えないな」
「買い被りだ。諸々の軛から遁れたくて神官府に入ったのに、入った先には別の軛がある。…いやになるさ。私はただ、彼女を…救いたかった」
 凜然たる美貌が自嘲と綯い雑ぜになった憂色に曇るのを、サーティスは正視できなかった。
「…雨が止んだな」
 目録を置いて、サーティスは立ち上がった。

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  1. 兎が跳ねる…海が風で波立つ様を、漁師言葉でこういうらしい。白い波頭を白ウサギになぞらえたものか。なかなかに詩的。