本殿奥殿の書庫を管理する書司トリスタン。いまひとつの名を、梟という。
ミランの養父であり、ネレイアの先々代統領。若い頃に負った傷で片脚義足であるために本殿から出ることは滅多にない。しかし当代の統領が療養中の現在、ネレイアの中枢機能はこの人物が担っていた。ミランの任務は、今はこの傑物の耳目となることであった。
ツァーリとの戦は終わったとはいえ、ミランは変わらず多忙だ。しかし、養父のいるこの奥殿の書庫で、僅かな自由時間を過ごすこともあった。
自由時間といっても、一日か…あるいはほんの半時かすらわからない沙汰待ちの隙間である。梯子を掛けねば上がることさえできない書棚の更に上、明かり取りの天窓の傍にあるさして広くもない足場が、ミランの定位置であった。
ミランにとっての至高の贅沢―何者にも邪魔されない静謐―を味わうことが出来る唯一の場所である。
外は、細い雨が降り続いている。
明かり取りの天窓はさほど大きいわけではないが、窓の傍に寄ればある程度周囲の様子を見渡すことが出来る。位置が高いからそれなりに見晴らしはよい。
静謐の中…潮風を遮るための植栽が、そぼ降る雨に重く濡れていた。花がある時期ではないが、濃い緑のなかに芽吹く若芽の淡い色が、雨に濡れながらも花と紛うほどに鮮麗である。
「梨花一枝 春の雨を帯ぶ…か」
書板を見た女神官の、あの一瞬の深い愁色は…古詩に謳われる麗人の悲嘆を彷彿とさせた――。
ソランジュ=フォーレ。典薬寮頭補佐といえば、医官としては一流の部類に入る筈。それでいてどこか危なっかしいあの女神官の名前を調べるのは、ミランにとって然程に難しいことではなかった。あれ以降顔を合わせてはいないが、何故か注意を惹いたのである。
『はい、微力を尽くします』
あの言葉には、自らを全能でないと識りながら、それでも一歩も退かぬ決意が滲んでいた。
かのひとのために、それだけの覚悟を口に出来る者がまだいた。…それが単純に嬉しかったのかも知れない。シエルのような狂信に近い信奉者とは違う。冷静な熱意とでもいうべきものを、ミランは見た気がしたのである。そういう意味ではやはり、いくら温雅に見えてもあの女傑の直弟子なのかもしれない――。
しかしこの雨天に窓をあまり長く開けておく訳にもゆかぬ。ミランはその景色を惜しみながら蔀戸を下げた。ここはシュエットの執務室であると共に、湿気を嫌う書庫なのだ。
もとより窓が少なく薄暗い書庫は、蔀戸を下ろせばさらに暗く、夜の海底にも似た闇と静謐が支配する。
その最深部に、ひとつだけ角燈が灯されていた。
「長生きはしてみるものだ。お前さんが古詩を吟じるなんぞ、およそ初めて聴いたな」
「…起きてたんですか」
ミランは下を覗き込んだ。ぼんやりした灯火の傍、書見台の前に置かれた椅子の上で、シュエットがゆっくりと身を起こす。暗く深い海底にいて、角に燐光を灯し餌となる魚を呼び寄せるいう魚のことを思いだして、ふと嗤いそうになった。
そのまま足場で闇と静謐を愉しんでいても良かったのだろうが、ふと思い立って梯子を下りる。養父の傍へ降り立ち、ミランは問うてみた。
「統領の件…典薬寮頭は何と」
少し前に、典薬寮頭クロエの訪問があったことは知っていた。あるいは預かっている子供の件かも知れないが、統領アンリーの容態について、ネレイアの暫定統括者たるシュエットへ何らかの報告があったのではないかと踏んだのである。
「うん…」
シュエットは曖昧に頷き、椅子に再び身を沈めた。
「…おそらく、統領はアニエスと同じ病であろうと」
予感はあったが、流石にミランは一瞬呼吸を停めた。
〝死病とは限らぬ。滋養を摂り、休息し、よい風に当たれば人並みの寿命を享受することもできる〟。そう聞いていた。
だが、どうあっても…ミランの胸に去来するのはエルセーニュ決起の朝にアンリーの腕の中で息絶えたジュスト=ブランシュの姿なのだった。
「いま私たちに出来ることは、あれを休ませてやることだけだ。あれを此岸へ引き留められる何かが、見つかればいいが…」
師父の歎息を、ミランは重く聴いた。思わず眼を伏せる。
「まあ、それも気掛かりなんだが、もう一つ」
「…なにか、不穏な動きが?」
「不穏といっていいものかどうか。シエルは、マティアス=デュナンの死に疑問を感じているようだ」
先夜のシエルの言葉が去来する。ミランは背筋をぞわりと悪寒が走るのを感じた。
「シュエット…!」
「まあ慌てるな。あれもネレイアだ。理解ってはいるのだろう…」
「そうだと…いいんですが」
ミランは感情を抑えたつもりだったが、声が幾分硬かったのかもしれない。シュエットが宥めるように…だが、やや嘆息も混じったふうな苦笑を浮かべた。
「……暫く、気を付けてやってくれ」
シエルは先々、エルセーニュにおける情報中継拠点としての役割を担うことになっている。一端とはいえシュエットの後継者であった。彼はそういう家に生まれたし、そのように教育を受けた。だからこそ、シュエットはシエルの優秀さを評価しつつ、些か生直に過ぎるところを案じている。ミランは養父の苦笑にそれを汲み取り、ただ黙して拝命の礼を執った。
***
荒々しい律動に同期していた呼吸が…その一瞬で、切なげな苦鳴にも似た細い声に変わる。がくがくと震えながら撓垂れかかる、汗に濡れた身体を受け止めて、ミランは細く吐息した。
余韻に身を震わせ、シエルは啜り泣くような声を漏らしながら絶え入るようにやがて動かなくなる。悦楽の証に塗れた下肢を弛緩させ、それでも両腕はしっかりとミランの頸に回したままだ。
いっそ稚くさえある姿態を強いて引き剥がすほどの理由もなくて、ミランはそのまま暫く然程広くもない牀に身を横たえていた。
なんとなく、目の前の色の淡い髪を撫でながら。
影に過ぎないミランを欲望の対象とすることで、これほどの歓楽に浸ることができるシエルが、ある意味で羨ましくはあった。身代わりを求めることは空しい。それはあくまでもミランの感性であって、シエルは違うのだろう。
身代わりか。
不意に奥殿での一夜のことが去来して…ミランは中途半端に昂った身体の奥に、ふと熾火を感じた。…だからそれを振り切るように身を起こす。帆艇へ帰りたくなったのだ。
帆艇で沖に出て、冷涼な海流の中に身を委ねたい。
シエルを脇に寝かせ、まさに立ち上がろうとしたその時…不意に腕に触れられて我に返る。
「…疲れて…いるのか」
ミランが視線を落とすと、気怠そうに褥に身を投げ出したまま…シエルが此方を向いて手を伸べていた。まだ頭をもたげることも出来ないようだった。
疲れて…?そう見えるのだろうか。
「…何も。何も変わりはしない…」
そう言って牀から立ち上がると、冷たい石床の上に脱ぎ散らかされた衣服を拾い上げる。
「珍しいな。…と言うより、初めて見たぞ」
伸べた手を躱された態のシエルが目を留めたのは、ミランが纏っていた神官の装束である。いつもは雑色の装束に身を包んでいるミランだが、今日は無位神官の装束であった。
先刻お前が脱がせた癖に、今気づいたか。そう毒づきそうになるのを呑み込んだ。今ここで下手に喧嘩を売って、引き留められでもしたら目も当てられない。
「…ああ、今日は奥殿へ行ったからな」
そう言って、さらりと袖を通す。
「奥殿…? 統領に、目通りできたのか」
声音が変わる。振り返ると半身起こしたシエルの目の色は完全に変わっていた。失言だったと思いながら、表面上は冷静に返す。…どのみち、隠しだてすることでもない。
「シュエットの指示さ。様子を見に行くだけだ。全ての案件はあっちで捌いているからな。実務については、訊かれなければ答えないことにしている。…そうでないと、あのかたも休養にならないだろう…っ!」
その言葉が終わらないうちに、俄に身を起こしたシエルに腕を掴まれる。先程の遠慮がちな触れ方が幻であったかのような、獰悪なまでの力だった。爪が食い込む痛みに、ミランは思わず眉を顰める。だが、振り払う間もなく褥に引き倒された。
「おい…!」
まだ緩く羽織っただけだった神官衣の襟許は、容易に開けた。シエルはそれをさらに押し広げ、ミランの首筋に顔を埋める。鎖骨に歯が当たり、痛みが走った。
痛みよりも驚愕で、ミランの動きは停まってしまった。
のしかかって抑え付け、シエルが唇を奪う。こじ開けるようにしてミランの口を開かせ、舌先で口腔内を蹂躙した。一方で神官衣の裾をまくり上げ、脚間の熱を掌で弄ろうとする。
執念く内腿を滑る掌がもたらす感覚を、ミランはいっそ倦むほどに識り尽くしている。だがこのときだけは、それは悪寒さえ伴って背筋を駆け上がった。
まるで冷水でも浴びせかけられたかのようだった。
ミランは身を捩って片脚の自由を取り戻し、シエルの腹に膝で一撃をいれた。…兆していたことを悟られたくなくて、
「…いい加減にしろ」
他愛なくむせ込んで横倒しになったシエルから素早く身を離して、ミランは立ち上がった。
シエルは暫時咳込んでいたが、ややあってそのまま褥に身を沈め…か細い声を絞り出した。
「…すまない。どうかしてた…」
ミランとしてもなんと声をかけて良いか判断がつかず、そのまま黙って身繕いをするしかなかった。
「統領…統領…」
上掛けに包まって身を縮め、震えながら…もはや譫言のようにそればかりを繰り返すシエルの姿は、いっそいたましいほどだった。だから、余計に言葉に詰まる。
支度を終えても結局掛ける言葉をみつけることができず、仕方なく…ミランは緩々と扉に歩み寄り、何も言えないままに扉を開けた。
***
目覚ましい回復があったというわけではない。
だが昨今、少しずつではあるが…アンリーの双眸は紅榴石のごとき深みと鋭さを取り戻しているように見えた。それは間違いなく、あのソランジュという褪せた麦藁のような髪をした女神官の功績だろう。
寮頭補佐官という地位は伊達ではないようで、知識も経験も相応に有している。だがそれよりも、近侍でさえ遠巻きにしていたアンリーの傍に畏れもなく踏み込む姿は、あの独特な危なっかしさを越えて…ミランにはこの上なく恃もしく思えたのだった。
彼女が出入りするようになってから、奥殿から祭文を誦する声が聞こえるようになった。飛び抜けて美声というわけではないが…朗々とよく響き、それでいて耳にした者を何か穏やかな気持ちにさせる不思議な声だった。
祈りを込めた歌は神への供物であると共に、魂に響き、人の身体と心を癒す。風の頌歌は神官の初等教育に含まれると聞いた。ただ、神官ではないミランとしては…肚の底ではそれで病が平癒するなど噴飯ものだと思っていたのである。実際、典薬寮神官の中でもさほど重視されている訳ではないようだった。
だがアンリーの遊離しかけていた魂を、今ひとたびその身体に落ち着けたのは…間違いなくあの歌声だろう。
なにより彼女が傍に在るときのアンリーの目許は、とても柔らかい。
ミランはシュエットの指示による正式な伺候とは別に…時折、俗称〝風の通い路〟と呼ばれる大神殿裏の小径を辿って奥殿に入り、様子を伺う機会を作るようになっていた。
ミランが受けた命令は、伺候した際の統領の様子を報告することだ。自身の行動が命令を越えていると理解していたから、シュエットにも正直にそう告げた。
だがシュエットはそれを格段咎めだてすることはなかった。『そうだな、そのほうが素のアンリーの様子を見られるなら、それもいいだろう』と言っただけだった。
その膚は相変わらず血の気に乏しい。しかし双眸にあるのは同じ紅榴石でありながら、血の通った温かみを感じさせる。それは伝令使としてのミランが訪れた時には、決して見せることのないものだった。
アンリーを子か孫のように案じているシュエットを安心させてやりたいという気持ちも、確かにあった。だがなにより…ミラン自身が、今一度夢を見たかったのだ。
あの男の腕の中にいたときのような、満たされ安らいだアンリーの微笑を…無惨に枯れてゆくばかりと見えた花が、再び咲く姿を見たかった。
そして、赦されたいのだと思う。
おそらく、人生で一番支えを必要としていたであろうあの日…あの瞬間のアンリーを…最も残酷な台詞で突き放してしまったことを。