数日に一度、ミランはシュエットの命でアンリーを見舞う。
 非機能的極まりない無位神官の装束を纏い、風の通路かよいじを通れば誰に声をかけることもなく行き着ける奥殿に、警備の衛視寮神官に労いの言葉を掛けつつ入らねばならないのは面倒この上なかったが…役目と思えばどうということもない。

 ただ、統領に逢うことができるのなら、それでいい。

 アンリーは、あれから戯れにも亡きひとの形代を求めたりはしなかった。毅然としてミランの訪問を受け…業務を代行しているシュエットへの労いの言葉を預ける。ただそれだけ。相変わらず生気には乏しかったが、風の中にとけていきそうなほどの儚さはない。そのことに、ミランはわずかばかりの安堵さえ感じていた。

 典薬寮頭りょうのかみ直下の補佐官が日を置かず通うようになったと聞いた。それが統領の退っ引きならない病状を示唆していると思えば、一概に安心してもいられないのだが…それでも、呼ばねば近侍さえ寄りつかぬ待遇よりは随分ましなはずだった。

 ある日、ミランが奥殿から退出する帰り…その補佐官とすれ違った。すれ違ったと言っても、無位神官という立場で寮頭補佐官と通路で出くわせば壁際に寄って頭を垂れねばならぬ。
 ミランは形式に従って礼を執り、レ・アスィエともレ・グラースとも言われる典薬寮頭てんやくりょうのかみ、その補佐官とやらの風体を慎重に観察した。  あの典薬寮頭の補佐官というから抜身の刃のごとき俊英奇傑を想像していたのだが、現れたのは大きな薬草籠をふたつも抱えてやや危なっかしい足取りで厨房へ急ぐ小柄な女神官であった。かつてカザル砦で鋼のクロエクロエ・レ・アスィエを間近に見た印象が強すぎるから、思わず拍子抜けしてしまう。同じと言えば長い髪を後頭部へきっちりと結い上げていることくらいか。

「すみません、ありがとうございます!」

 ミランは位階に応じた礼を執ったまでなのだが、その女神官は大きな荷物に対して道を譲ってもらったものと解釈したらしい。ミランに軽く会釈してから、やはり危なっかしい小走りで数歩踏み出し…突如均衡を崩した。
「あ…っ!」
 見かねたミランは宙を舞った薬草籠を片手で受け止め、もう片腕でつんのめった女神官の上体を支える。籠は軽いし女神官は小柄だったから然程難儀なことではない…。
 だがその時。
 受け止めた神官衣の下から存外に重い音がした。布に包まれてはいるが紛うことなき金属音。ミランの背筋を緊張が走り抜けた。療養中の統領のもとに、身に鉄を帯びて近づくなど―――!
 咄嗟に籠を放り出して女神官を取り抑えようとしたが、その足下に落ちたものに気づいたミランは苦笑とともに寸前でその動きを停めた。
 落ちたのは丈夫な布を巻いた道具入れと蝋板だった。道具入れには金属製の匙や箸、へらが帯で挟み込まれている。典薬寮医官が持ち歩く調剤用具だったのだ。下げ緒が弛んだかどうかで道具入れが滑り落ち、抑えようとして均衡を崩したものらしい。蝋板は籠と一緒に手に持っていたのか。おまけにつんのめった拍子に髪に挿した笄が飛んでしまい、軽い音と共に磨かれた床を滑っていった。
 ミランは笑いを噛み殺して腕の中の女神官を立たせてやった。
 すこし、神経質になっていたか?
「大丈夫ですか?」
「あ、はい、すみません。とんだお手数を」
 女神官が身を屈めて落ちた道具入れを拾い、帯から提げる。蝋板を手にして立ち上がる動作はさほど性急というわけでもなかったが、結い上げていた髪は留め具を失ってあっさりとほどけてしまった。
 金というより白っぽい髪は、褪せた麦藁むぎわらのような質感を持っていた。確かに纏めておくのが一番機能的であろうと思われるほどのヴォリュームがあって、縛めを解かれたとたんにふわりと広がって神官衣の肩を覆う。

 色彩がもたらす既視感に胸を咬まれ、ミランは無意識に視線を逸らした。落ちた笄が目に入ったから、籠を持ったままその簡素な笄を拾い上げ、女神官へ差し出す。
 そうして、口を開く。何か、他の言葉があったはずだった。だが。
「…よろしければ、籠をお持ちしましょうか。厨房でしょう?」
 自分の台詞に、ミラン自身軽い驚きを覚える。女神官もまた、大きく目を瞠った。
「え、あ、はい、そうして頂けると助かりますが…よろしいの? ええと…」
 所属が違えば命令系統が違う。そんな常識を棚上げした申し出に対する躊躇だろう。女神官の反応で、ミランはそれに気づいた。
「私は本殿にお仕えしています。奥殿への御用を承ることもあります。各寮の職務に便宜をはかるのも役儀ですから、差し支えはないかと」
 それは嘘ではないにしても、事実のすべてを説明していない。だがミランは敢えてそう言った。一瞬とはいえあらぬ嫌疑をかけた詫びくらいはせねばなるまい。
「では、お願いします」
 ミランの説明に一応の納得をしたらしく、女神官が柔らかく微笑む。
 際立った美貌というわけではないのだが、その微笑はあらゆる警戒心をひどく無粋に思わせる…不思議な温かさを持っていた。そして必要と認めれば余計な意地は張らない、柔軟な思考も持ち合わせているようだ。
「感謝します。でも、ひとつは持っていきますよ。籠を一つにしてくれば良かったのですけれど、途中で思いだして荷物を増やしてしまったんです」
「重くはないですが、嵩があって大変でしょう。あなたはあなたで荷物がおありのようだし」
「ああ、書板これですか…荷物というほどのものではないのですけれど。ではご厚意に甘えます」
 そう言って歩き始めたとき、女神官はもうその書板に集中していた。奥殿の雑色や神官からの連絡事項を書き留めたものらしく、本人のところへ行くまでに情報を集め、診察前にある程度処方を絞り込んでおくのだろう。
 書板に眼を走らせた直後、女神官の眉目を愁色が過る。だが、数瞬でそれを払拭し、手許の書板とミランに預けた籠との間で忙しく視線を往復させ、何やら書き留めていた。
 ミランはカザルに駐留していた頃、彼女の師であり上司たる典薬寮頭クロエの姿を間近に見る機会があった。冷静な医官であり厳格な統率者、それでいて外敵に容赦ない武人。彼女に率いられた典薬寮の医官たちは打ち揃って従順な羊のようであったが、補佐官であるというこの女神官はそのいずれとも違うように思えた。
「…そこの台の上に置いてくだされば結構ですよ。ありがとうございました」
 その声に、ミランは自分が既に厨房の前まで来ていたことに気づく。彼女は既に書板を置いて薬研やげんに掛けていた覆いをとったり炉の火をおこす準備を始めていた。
 そのきびきびとした所作は、先程の籠を取り落としかけた彼女との隔たりがありすぎて戸惑うほどだった。使命ではあろう。だが、それを超える熱がその動きを支えている。神殿近侍達の露骨な敬遠と真逆なものを、ミランは見た。
「では、よろしくお願いします」
 籠を置いたミランは、彼女に向けて思わず深々と一礼していた。彼女はふと足をとめ、ミランに向き直る。
「はい。微力を尽くします」
 その言葉は形式を保ち、おっとりとした容姿に似つかわしい穏やかな声音であったにもかかわらず、聴くものの背筋に芯を通すほどに決然として…宣するがごとき響きを持っていた。
 ミランは思わず目を瞠った。
 風を、感じたのだ。

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