その日、ミランは来るなり何も言わず小さな鉄扉に歩み寄ると、古びた鍵を手に取って、重々しく口を開いた。
「今日も…客がある。こんなものは必要ないと判ってはいるが、形だけかけさせてくれ」
 硬い口上に、ユリスは苦笑した。
「俺は咎人だぞ?わざわざ断るほどのことか。相変わらず真面目だな」
 すると、いっそいたましいほどの苦渋がミランの横顔をよぎった。
 レオンが判っているならそんなことしなくても、と言いかけるのを制して…ユリスは素早く隧道に身を滑り込ませると、自ら扉を閉めた。
 鉄扉に身を寄せ、そっと額をつける。錠前の重い音を、ほとんどしないその足音が離れてゆくのを…ユリスは静かに聴いた。

 程なく、聞こえてきた声にミランの苦渋の意味を知った。
 客は二人。あの中庭にいた典薬寮の女神官と、子供の声は…あの童だ。
 〝シエル〟はあの子供に刃物を当てたのだ。ユリスの姿を見れば、どういう反応があるか…考えるまでもない。
 なんの怨みもない…無手のいとけない子供。その襟首を掴み、喉を掻き切ると脅した。自分が陥った狂気の深さに、ユリスは眩暈さえ覚える。自身の首筋に手を遣って、深く吐息した。

 あの時…鋼のクロエクロエ・レ・アスィエが白砂の上にねじ伏せてくれなければ、どうなっていたことだろう。
 首筋にはその時の傷が僅かに残っている。ユリスはその薄い傷痕を指先でなぞりながら、最悪の光景を思い描いて慄然とした。

 あの時、ユリスの中であの小さな童は火輪に囚われた鳶と重なっていた。
 ――――奪わないでくれ。
 滑稽としか言いようがない。奪われるもなにも、ミランがユリスの腕の中にいてくれるのは、はなからあの狭苦しい天文寮の宿房にいるときだけだった。
 玉響の幻だった。

 額を寄せていた鉄扉に、錠に手を掛けた振動が伝わってきて、ユリスは我にかえった。扉が開かれる。
「…シエル、出ろ。統領からの命令を伝える」
 ユリスは扉を押し開け、岩室へ出て拝命の礼を執った。童を驚かせてしまわないように、極力ゆっくりと。
 ミランが再び口を開くまでの沈黙は、それに比べれば寸刻であっただろう。しかしそれは、ユリスにとって永劫に近かった。
「天文寮神官・ユリス=オリヴィエは、マルフ紛争における戦病死とする」
 重い声。ミランが告げているのは、おそらくはアンリーの遺詔・・なのだ。
 内容自体は、ある程度自分の中でも予測が出来ていた。衛視寮の関与が発生した段階で、内々で処理することは不可能になった。だから、存在を抹消することで、刑の執行を完了とする。アンリーの意向を、本殿も了承した。そういうことだ。

 だが、それに続けられた言葉に思わず呼吸を停める。

「〝シエル〟には以後、南海へ旅立つ御子レオンの水先案内を命ずる。知識と経験のすべてを注ぎ、統領に代わって御子の旅を支えよ」
 確かにそれは、場合によっては首と胴を別々にされて神官府の断崖から放り出された方がましと思えるほどの過酷な道程となるであろう。しかし、ユリスの答えは決まっていた。詰めた息を吐き、改めてその言葉を発するために口を開く。
「拝命します」
 過酷な道程みちのり。それでも、アンリーは渇望していた。そこへ至る前に命の尽きる日が来るとしても、彼はその願いをつなぐ術を模索していた。それが今、目の前にいるこの青年なのだ。未知の大陸から、かつて唯一人生きたままこのシェノレスに辿り着いたという少年。レオン起源ルーツを探すことは、それ即ち常世国の向こうにあるその大陸を探す旅となる。

 ユリスは更に深く頭を垂れた。

 ならば、自分はその願いの一端を引き受けよう。その全てを背負うなど、ユリスには重すぎる。だが、それを助けるくらいのことは出来るかもしれない。
「アンリーが望んだってことは、お前はアンリーの名代ってことだろ。肩こる言葉遣いはなしにしよう、な?」
 そう言って差し出されたレオンの手に、ユリスは顔を上げた。
「はい…」

 征く先はレオンが決める。
 だから自分は、持てる技術の全てを注ぎ込んで日月星辰を読み、このひとの道標みちしるべとなろう。そして常世国への航路を拓くのだ。
 それがかの火輪の望み。シエルの名で生かされることの意味だから。
 シエルはなんとも言えない表情で此方を見ているミランに精一杯微笑みかけ…ただ心の中で呟いた。

 ――――ありがとう。

――――――――Fin――――――――

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