だがその日、岩室で待っていた〝来客〟には…ユリスは流石に驚いた。海神の御子、現シェノレス王・レオンそのひとだったのである。
「暫く滞在される。シエルは属者 1としてお仕えせよ」
レオンは重々しいミランの言葉を打ち消すように、気楽に手を振って言ったものだ。
「済まないけど、ちょっと考えたいことがあるんで、王城を出てきた。暫く厄介になるよ?」
レオンのあっけらかんとした人柄は知ってはいたが、ユリスは一応、咎人である。いいのだろうか、という視線をミランに送ってはみたが、そのミランは伏せた目を上げようとしない。
もとより、否やはないのだ。シエルはレオンに向かって拝跪した。
「拝命します。あまり快適な場所とは言いかねますが、能う限りのお世話をさせていただきます」
「うん、ありがとう。よろしくな」
「では、陛下はこちらの部屋をお使いください。私は丁度、もう一つ部屋を見つけましたのでそちらに控えております。御用の際はこの扉を叩いて頂ければまいります」
そう言って、ユリスは小さな鉄扉を示した。あの部屋への扉である。崩落部分を除いても、ユリスひとりが雨風を凌ぐには十分だ。
「シエル、そこは…」
ミランが口を挟みかけるのを、ユリスは制した。一応…心配してくれるのか。そう思うと、笑ってみせるのも自然に出来た。
「いや、丁度いいんだ、ミラン。俺は、星が見たい」
崩落の危険があることは知っている。その上、外光は入るものの星の観測が出来るほどの隙間はない。だが、嘘も方便である。ユリスとしては流石に気詰まりなのだった。
ユリスとて少年時代のレオンを知っている。決して尊大でも権高でもなく、むしろ天衣無縫。本人には悪気は毫もないとわかっている。それでも、現在は仮にもシェノレスの国王である。戦時中陣頭に在った時の、その姿があるだけで兵士を鼓舞する特異な存在感とも相俟って、実直にユリスの方が居場所に困るのだ。
何故に国王が禁域に逼塞して凝念 2か、などと…もとよりユリスは詮索する気はなかった。
そんなことよりも、ミランが一瞬でも…此方を見てくれたことがただ嬉しかった。
***
星見台で、誰のためでもない観測を行っていたときのことである。後ろで重い扉が開く音に、ユリスは振り返った。レオン以外の誰であろうはずもなかった。
「陛下、お休みになったのでは」
「凄いな、星しか見えない」
正直すぎる感想に、ユリスは咄嗟になんと言っていいかがわからなかった。
「…そのための場所ですから」
すこし、無愛想だったろうか。そんな心配を笑殺するようにユリスの手許にある天文観測器械を興味津々で覗き込みながら、レオンは訊いた。
「なあ、星は…何を教えてくれる?」
態度だけ見ていれば、物珍しい道具に興味を惹かれる子供のようだが…その問いに込められた重さを感じて、ユリスは答えるまでに一呼吸を要した。ミランに差し入れて貰った観測用具を指先で軽く撫でながら、言葉を択ぶ。
「正確な方角と、季節を。更には…精密な道具を使えば、今自分が地図上の何処に居るのかを調べることが出来ます」
天文寮に身を置いていた神官として、できうる限り精確な表現をしたつもりだった。レオンは成程と、笑って頷き、そして僅かに俯いて呟くように言った。
「さすがに、どっちへ行ったらいいか…までは、教えてくれないよな」
どっち、という言葉が、何と何を指しているのか。だがユリスは、真摯に答えた。海神の申し子といわれるこの人物が一体何を思い煩うのか、ユリスには判らない。だから、ユリスに出来るのは天文神官としての知識を正しく伝えることだと思ったのだ。
「それは…陛下が、どちらに行きたいか…によるのでは。行きたい方向が定まっているのであれば、星は道を示します」
星は道標だ。だが、何処へ行くのか。それは、人が決める。
だが、それを聞いたレオンは、あっと小さな声を上げた。
「そうか…そうだよな」
そして、天を仰ぐ。
「どうしたいか、なんてはっきりしてるんだ。…ありがとう。おやすみ」
何らかの得心があったのだろうか。ひどくすっきりした表情で、レオンは洞へ戻っていった。
ユリスはレオンを見送ったあと、改めて天を仰いだ。
星の導き、という言葉がある。
天文寮の職務の中には占星術も含まれる。星を観測して吉凶を占い、対応策を大神官へ上申するのだ。時代によってはそれが国家の方針を左右したこともあるという。だが、かつて…占星術などただのこじつけだ、と一蹴して天文寮を離れた神官もいた。
その名を、ジュスト=ブランシュ。後にネレイアの統領となった男である。
彼は航海術と測量のための重要な手段として天体観測を重視したが、星占は鼻にもかけなかった。
ジュストが天文寮を離れたのは、遊蕩の限りを尽くして大神官リュドヴィックの勘気を被ったのだというのが専らの噂であった。だが、シュエットからの伝聞や、ユリス自身が見た限り…蓋し奔放の一語に尽きる人物ではあったが、統領としての職務を疎かにする人ではなかった。あるいは、必要な技術を習得してしまって用のなくなった場所を見限っただけではないかという気もする。
星は道を教えない。方角と、自分のいる場所を教えるだけだ。後は自分で見て、動いて、考えろ。
言うは容易い。だが、古い海図と星だけを頼りに南海へ漕ぎ出し、南海航路を開拓した実績は、その些か乱暴な言辞に盤石の説得力を与えていた。だから、その言い回しはよく憶えている。
これまでひたすら本殿の天文寮で日月星辰を観測し報告することを期待されたユリスに、修練の日々を除けば海へ乗り出して測地をするような機会は与えられることはなかった。
だが、南海の夢に心惹かれた記憶は、確かにユリスの裡にもあったのである。
一般的に南海航路とは、ツァーリの搾取から遁れるために開拓された南寄りの新航路を指している。ただ、もうひとつ…更なる南、未知の大陸への航路という密かな意味もあった。だが、海流の向こう…今まで交流の存在しなかった遙か南の大陸への渡航など、現在の南海航路以上の絵空事としか思われない。それでも、交易路としての南海航路は確かに実現したのだ。そして、ツァーリを駆逐するための資金源となった。
かつて先代統領がその可能性を示唆し、リジューに隠れ住んでいた頃のアンリーが語り、いま海神の御子が赴こうとしているのは…あるいは。