ユリスは衛視寮に引き渡された。
衛視寮の仮牢は、寮の宿房と大きな差異はなかった。ただ、扉が監視窓つきの鉄扉であり、通気と明かり取りの高窓に硝子の代わりに格子が嵌まっているというくらいのものである。
夜、牀に横たわっていると…その格子の狭間から月が見えた。
ユリスとて天文寮神官の端くれである。朔望を駆け巡る月を望むことが出来れば、暦がなくとも今日が何日かを知ることは容易だったが…既にユリスは日を数えることをやめていた。
あの白砂の中庭で、ユリスの時間は既に止まっていたと言っていい。自分のしたことがどんな罪にあたるか、よく判っていた。いずれ処刑を待つだけの身だ。
岩室に差し込む細い光の中で見た、血に濡れた刀身をぼんやりと思い出す。
『…誰の血だ、これは。たった今だ。誰を斬った!?』
クロエ・レ・アスィエの詰問が、繰返し雷鳴の如く脳髄を走り抜ける。
ああ、そうだ。俺が斬った鳶の血だ。俺が刃を持っているなどと毫も疑わなかったであろうあの鳶を、無造作に斬り払って海蝕洞の薄闇の中へ突き落としたのはこの俺だ。
奪われたくない。そう思った。だが、結局全てを永遠に失った。愚劣としかいいようがないではないか。
何を訊きたかったのか。いや、訊きたいことなど実は何もなかったのではないか。
ミランは統領しか見ていない。そんなことは判っている。それでもいいと思っていた。だが、蝕まれ消えなんとする火輪の中へ鳶が身を投じる姿を見ることには耐えられなかった。
だから斬ったのか。昏い波間に鳶を突き落として、自分の腕の中に何が残ったか?
奪われる前に誰の手にも渡らないようにしたところで、昏い満足感さえも湧いてこないではないか。
ユリスは既に啜り泣くほどの気力もなく、仮牢の牀に凭れかかってただぼんやりと月を見ていた。目を閉じてしまえば、瞼の裏に灼き付いた統領の姿を見ることになるからだ。否、目を開けていてもなお…その残像が見えるような気がした。
病み衰えてなお、かのひとは天翔る鳶を惹きつける。
白砂の庭に立つ統領は、確かに火輪だった。しかしあの海辺で見た、蝕まれ消えゆく火輪ではなかった。身体は病み衰えても、その双眸は…はるか海流の向こうを見ていたのだ。
過日、リジューの沖合をゆったりと北上する海流を指して…彼方にあるであろう人の住む大陸を熱く語った紅榴石。
ミランは知っていたのだ。あの美しい火輪が、翳に蝕まれ消えゆくことなどないと。たとえその身がもう航海に耐えられないとしても、その魂はいつかあの南の海を目指す。
ならば、ミランはどんな形であれ、きっとそのために命を懸けただろう――――。
そのミランを、ユリスは手に掛けてしまったのだ。ユリスの腕の中に残ったのは、底のない絶望だけだった。
ユリスにとって暦が意味をなくしてからどのくらいが過ぎたのか。その日、不意に扉が開かれた。食事を差し入れる小扉ではなく、重々しい鉄扉が開かれるのはユリスがここへ入れられてから初めてのことだった。
投獄された身とはいえ、水と食物は与えられる。だが、いつからか食事を摂るのも億劫になっていた。食事をあまりまともに摂らず、動くこともなければ身体は衰える。ユリスは既に、扉の音にも殆ど反応できなくなっていた。
いよいよか。
ぼんやりとした頭で、ユリスはそう思った。だが、聞こえた声に思わず飛び起きる。
「起きろ、シエル」
衰えた下肢は所有者を裏切った。慌てて起き上がったユリスは牀を滑り落ち、冷たい石の床に這い蹲ることになる。無様に踠きながら身を起こしたユリスの前に、手が差し出された。
「あまり食っていないと聞いた。立てるか」
恐るおそる、ユリスは顔を上げた。そして、息を呑む。
「…ミラン」
無位神官の装束に身を包んだミランの姿がそこにあった。
差し出された手を借り、ふらふらしながらも立ち上がる。そうして、言葉を継ごうとして口を開閉させたものの、結局何も言い出せないままに俯いた。
借りた手を離す。何とか立っていられた。
「お前の身柄は統領の預かりとなる」
聞き誤る余地のない…至って事務的な通告。
「…処刑の通達だと思っていた」
俯いたまま、ユリスは言った。その声は自嘲に濁っていただろう。だが、ミランの返答はやはり端的であった。にべもないほどに。
「俺には、それを告げる権限はない。歩けるなら行くぞ」
流石は統領の鳶。模範解答というべきだった。
「わかった…」
幾分ふらふらしながら、ユリスはミランに続いた。
夜であったことは、有難かった。いくら、もはや喪うものも無い身とはいえ、晒し者になるのは辛い。
手足を戒められるでもなく、傍目には護送というていではなかったが、実のところ歩くのが精一杯のユリスに枷は不要であった。ミランはそれをよく理解っていたのだろう。牢の外で衛視寮が用意していた枷は、ミランが謝絶したのだった。
「…ミラン、傷は…?」
逡巡の末にようやく押し出した台詞は、微かな困惑を以て報われた。
「傷…?」
ミランは立ち止まり、振り返った。だがその瞬間に気づいたらしく、すいと視線を逸らして歩き始めながら、言った。
「別に…どうということもない。もともと浅手だ。…倒れた時に頭を打ったから気を失っただけだ」
一切の感情をまじえない返答に、ユリスは心臓を抉られた気がした。
「そうか…すまなかった」
何に対して謝ったのか、自分でもよくわからない。それでも、言わずにはいられなかった。
「…ああ」
いつものように素っ気ないミランの応えは、決してユリスの想像の域を出ていなかった。ただ、わずかな空隙が何を意味したのか。…あさましくも何かを期待してしまいそうで、考えるのが怖ろしかった。
ミランの後について黙々と歩いて行くと、本殿書庫のほうへ向かっているのがわかった。そうだろう。統領預かりというなら、今実質的にその任を帯びているのは…。
果たして、ミランは本殿書庫の奥の奥…古い書架へとユリスを導いたのだった。
先々代統領・シュエットは書架の間に設えられた文机で古い書物に目を通していた。
「…では、これで」
ミランは言葉少なに上司に一礼すると、さらりと立ち去ってしまう。もっと言葉を交わしたいと思う一方で、何をどう言って良いのか判らず、ユリスは結局、声と呼吸を呑み込んだ。そしてただ、先々代統領の前に崩れるようにして跪いた。もはや、立っているのも限界だったからでもある。
「…申し訳、ありませんでした」
膝をついて蹲り、額を床につけんばかりに頭を垂れる。シュエットの前にまるで亀のように身を縮めたとき、降ってきたのは、紛れもない歎息だった。
「やれやれ、なんでそこまで思い詰めちまったもんかね。ほれ、頭を上げなさい」
過日のように、軽量だがよく使い込まれた杖の頭で頭をつつく。この飄然とした教師は、講義の最中に居眠りをする生徒によくこうしたのだった。
「アンリーに感謝するんだな。本来ならお前さん、今頃首と胴が別々になってここの裏手から崖下へ投げられていたぞ」
「…はい」
ユリスは頭を上げたが、まともにシュエットの顔を見ることが出来なかった。この師にも、ユリスは剣を振り上げたのだ。
そしてやはり、ユリスが助命されたのはアンリーのはからいだった。あの場で、アンリーが可能なら内々にことを収めてしまおうとしていた節はあったが…物音を聞きつけた衛視寮の神官が駆けつけたためにそれが叶わなかったのだ。
侮り、穢そうとした。そして刃を向けた者でも、赦すのか。
まさに火輪。全てを灼き尽くすような熱量を蔵しながら、生きとし生けるものに命を注ぎ続けるのだろう。その生命が尽きる一瞬まで、きっと。
ユリスは、自身の視界が滲み歪むのを見た。水滴が零れ落ち、石の床とついた両手を濡らしていく。
「まあ暫くここに身を隠してわたしの手伝いでもしていなさい。無論、無罪放免というわけにはいかないんでな。何、少々窮屈だろうが衛視寮の仮牢よりはましさ。お前、飯も食わなくなったというじゃないか。まさかと思うが、悔いた証にあのまま即身仏にでもなってしまうつもりだったか?
やめとけ、そんなことしたところで、誰も喜ばん。むしろ、それで全てを清算するつもりだったとしたら…それはそれで度し難い。甘ったれるな、蹴飛ばすぞ、と説教せにゃならんところだ」
ユリスは声を上げて泣きたかった。だが、余人に聞きつけられることを思えばそれも今は許されない身だ。
だから再び、平伏する。額を床に摺りつけながら、声を殺して…ユリスは咽び泣いた。
***
それから暫く…ユリスは奥殿の書架で隠れ住むことになった。
書司の宿直部屋に寝泊まりする場所を与えられ、時には外で運動することも許された。奥殿側の斜面…風の通路のある方角は、鍛錬にうってつけといえた。
一時は衰弱し歩くことが精一杯だったユリスも、徐々に体力を取り戻しつつあった。
シュエットの言葉を素直にとるなら、ユリスにもまだなにがしかの役目が与えられるのだ。もはや天文寮神官としての職務に戻ることは出来まいが、徒に自罰的になったところでだれも救われない、という師の言葉を、ユリスは謙虚に受け止めることにした。そのためには、働ける身体を維持しなければならない。
そんなある日、卒然とミランが奥殿の書架に姿を現した。
「シュエットの命でお前を移送する。ついてこい」
相変わらずというか、つくづく語彙の選択に労力を割かない奴だ。浮かびかけた苦笑を、ユリスは拝命の礼をとることで隠した。
ミランはユリスを帆艇に乗せた。かつて、共にリジューまで航海した時の帆艇とはまた別物だろうが…ユリスはふと、懐かしさを感じた。
向かった先は、海神窟だった。巨大な海蝕洞はミランの帆艇が帆柱を立てた状態でゆうに出入り出来る。内部には小さな桟橋も設えられていた。そこへ船を寄せ、載せていた幾許かの積荷を下ろしたミランが言った。
「墓所の近くに、寝泊まり出来る場所がある。当座、要りそうなものは揃えてきた。中は自由に動いていい。…時々、補給に来る」
「判った。…ありがとう」
ユリスは微笑みかけた。だが、ミランは視線を合わせようとしないまま黙々と舫い綱を解いた。
そして、離岸していった。
海神窟。風神アレンの墓所。聖所でもあるが時に崩落が起きることもあって基本的には禁域となっているから、ユリスのような咎人を匿うには恰好の場所ではある。神官府東岸の海蝕洞などとは規模が桁違いだ。巨大な主洞から無数の支洞が延び、迷宮を成していた。隠れる場所などいくらでもあるだろう。
エルセーニュからシェノレス軍を駆逐して間もなくのことだ。反逆者として岩牢に封じられたままだった風神アレンの遺骸に対し、鄭重な葬礼が執り行われた。開戦直後でもあったから、ツァーリに対する戦意を発揚させる意味もあったのだろう。故にここには何も残ってはいないが、牢の跡は鉄柵を取り払われ、遺骸があった場所には簡素だが社が建てられている。それが通称〝墓所〟と言われていた。
ユリスはまずそこへ詣でた。発見時、風神アレンの墓所には紅い水が溜まっていたという話だが、現在は崩落か地震で水の道が変わってしまったらしく、壁も床も乾いていた。ただ岩壁にうっすらと残る紅色が往時の残影を映すのみである。
そして、ミランの言った寝泊まり出来る場所を確認するために海蝕洞の中を歩いてみた。
心当たりはある。社の造営の間、神官や人足の宿舎としてつくられた岩室があると聞いていた。まだ朽ち果てるほどの年数が経った訳ではないし、将来的に礼部寮から祭祀のために神官を常駐させるという話もでたことがあるから、まだ使用には十分耐える筈だ。
果たせるかな、数人が生活できるほどの岩室が見つかった。牀も机もあり、使用に差し支えはなさそうだった。ミランが置いて行った物資をそこへ運び込み、生活する場所を確保した。煮炊きの火は桟橋のある主洞でなければ起こせないだろうが、灯火程度なら問題ないように通気孔も開けられていた。 それらが一通り終わった頃、外はもう夜になっていた。
岬の突端は、往古に星見台を兼ねていたという。現在の星辰台のように高い塔が築かれている訳ではないが、周囲に日月星辰の上がる日付や位置が書き込まれた壁があったはずだ。しかし今はそれも一部崩れて岩がちの土地に残された只の窪地と聞いた。
外へ出るなといわれているわけでもない。ユリスは、その古い星見台へ出てみることにした。
海神窟の支洞は自然の洞窟と人為的に掘られたものが組み合わさってかなり複雑だ。しかし、天文寮の古い記録から概略を知っていたユリスは、深更になってその場所に辿り着くことが出来た。
錆び付いた鉄扉をこじ開け、ユリスは窪地の底に立った。
耳が痛いほどの静寂の中、星の光だけが降り注ぐ。
ユリスは疲れた四肢を草間に投げ出し、仰臥して星を仰いだ。
周囲をぐるりと囲む、崩れかけた低い塀が周囲の山や水平線を視界から消し去るから、一瞬自分が何処に居るのかがわからなくなりそうだった。呼吸が停まりそうな圧倒的な星空…というものを、ユリスはひさしぶりに見ていた。
天空に輝く星々に何も変わりはない。星の観測を生業にするユリスは、その位置で見える主立った星々の名前をすべて挙げることが出来た。
全ての天体は法則に従って動き、奇異なものなど何一つなかった。それなのに、不思議な程に新鮮に見えた。
***
シュエットの下にいた時は、まだしも書司の下働きのようなこと…有り体に言えば書庫の掃除や本の整頓をするという仕事もあったが、この海蝕洞の中ではそれもない。身体を維持するための運動は欠かさなかったが、それでも時間を持て余してしまう。
無為な時間というものは…考えても仕方のないことがぐるぐると頭の中を駆け巡る。これでは、衛視寮の仮牢にいたときと同じだ。
仕方なく、ユリスは鍛錬がてらこの海蝕洞の中を歩いてみることにした。作図して何の益があるというわけでもなかろうが、ユリスは無為に耐えられなかったのだ。
墓所と岩室を起点に、星見台とその周囲の通路を図に起こしていった。最初、渡された衣類の一部に草の汁で描いていたら、それを見たミランが次に来た時には、紙と墨と羽根筆を置いていった。
崩落して通れない洞もあり、いくつか危険箇所もあったから、ユリスはそれらもすべて書き留めていったのだった。役に立つかどうかはこの際、気にしないことにしていた。
――――そんなある日、岩室の奥に小さな鉄扉があることに気がついた。
数日来、外は風雨が強かった。とはいえ主洞で荒れ狂う波の咆哮が微かに聞こえるだけで、岩窟住まいの身の上ではあまり関わりがない。その日も日課の鍛錬が終わり、作った地図を見直していたところだった。
そもそも自分の寝る場所と物を置くところぐらいしか気に掛けていなかったから、あまり岩室の奥の方まで見ていなかったのだ。牀というより寝棚の間…おそらくこの岩室が作られた時からあったのだろう。だが、何らかの理由で使われなくなり、調度に覆われてしまったのだ。
近づいてみると、掛金はかかっていたが、錠前は鍵が刺さったままぶら下がっていた。
身を屈めて潜るような小さな扉だったが、内部はすぐに広くなった。どうやら固い岩盤の一部が迫り出ていて、開口部を広くとろうとしてもとれなかったらしい。すこし下降している隧道の先は仄明るかった。
着いてみると、そこは崩れた岩室の跡だった。幅、奥行き、天井の高さとも、今まで使っていた岩室とは段違いだったが…その天井から壁にかけて十字に入った亀裂からは外光が差し込んでいた。岩室として作り込む途中で崩落があり、使用を断念したのだろうか。
大小さまざまの岩がごろごろと転がる巨大な伽藍。細い亀裂から淡い光が差し込むが、その影は深い。今でも時折崩落があるのかもしれぬ。そこかしこに風化していない断面がいくつか見受けられた。
荒涼とした光景であった。
外光とともに水や草木の種も流れ込むのか。雨上がりの澄んだ光の中、崩れた岩の隙間には澄んだ水が溜まっていた。堆積した砂や岩の狭間からは草花が茎を伸ばし、花さえも咲かせていたのである。
ユリスはその水溜まりの傍に膝をつき、手を伸ばして水面に触れた。
心地好い冷たさであった。掬ってみると、真水であった。飲める。潮をかぶることがない高さにあるから、純粋に雨水が岩や砂の隙間を通り抜けて溜まっているのであろう。これなら、真水の供給源として問題なさそうだった。それまで飲用の真水は定期的に運んで貰っていたのだ。
天地有情、森羅万象は遷り変わる。地も、海も。億万の年月の向こうでは、日月星辰さえも。人間もまた確かにその一部。だが天地に比べて人間のそれはあまりにも短い時間であり、成せることなど高が知れている。
古い書物の一節が、あるいは年長者の陳腐な教戒が、あるとき突如として現実味を帯びることがある。ユリスは今、それを感じていた。あの日見た、統領の透徹した穏やかさの理由が、不意に理屈でなく腑に落ちたのである。
我知らず、落涙していた。
あの日、白砂の庭に描かれていた線が、南海の海図であったことに気づいたのは最近のことだった。ユリスの狼藉でかき消してしまった上、その意味を悟るまでに呆れるような時間を要したが、不思議とユリスの目にも灼き着いていたのだ。
その身体は病み衰えても、統領の心はあの中庭、白砂の地図を越えて南海を飛翔していた。
ユリスが海岸で見たのは、残された身体が、魂に惹かれて海縁へ降りていた姿だったのかも知れない。
涙は、夜来の雨で少し嵩が増えているであろう水溜まりに落ちて波紋を描いたが、もうユリスは啜り泣くことはなかった。
自分に出来ることはなんだろう――――。
「――シエル!」
不意に肩を掴まれ、喉から心臓が飛び出そうなほど驚いて、ユリスはしりもちをついた。
「…ああ、ミラン」
他の誰であろうはずもない。薄明かりの中に、ミランが立っていた。
ユリスほどではないにしろ、驚いたふうではあった。この泰然自若とした鳶を驚かせられたことに、ユリスはかすかな歓びのようなものを感じて思わず口許を綻ばせる。
「心配しなくても、いまさら入水なんかしないぞ。尤も、ここではどうやっても無理だが」
ミランは、言葉に詰まったようだった。何かを言おうとして、結局諦め、ようやく口にしたのは、全く別のことだったに違いない。
「こんなところが、あったんだな。知らなかった」
「俺も今日見つけたんだ。多分昔、岩室として利用しようとして、できなかったんだろう」
「姿が見えないから、どうしたかと」
「すまない、探させたか」
あの日以来およそ初めて、会話らしい会話をした。そして、ミランが自分を見て話をしてくれることに、ユリスは安堵した。
随分長いこと、視線を合わせたことがなかった。
もとより、ユリスがミランにしたことを思えば…視線が合ったところで向けられるのが汚物を見るような目であったとして、それも仕方ないところだ。
だが、そうではなかった。いつものように、口調は穏やかなくせに素っ気ない。大切なのは統領ただひとりであり、残余悉く些末という意味において全き平等な眼差し。
「珍しいな。荷だけ置いて帰ることだってあるのに」
苦笑混じりにユリスが言うと、ミランは再び視線を伏せた。その面に隠しようのない翳りが落ちる。何かがあった。それだけは確実だ。吉凶でいえば、間違いなく凶。
顔を上げることなく、ミランは告げた。
「来客だ。それと、統領の命令を伝える。戻ろう…」
その言葉に、胸腔に氷塊か石を吞まされたような重さを感じて…ユリスは一瞬声を失った。
「わかった…」
ミランの後について歩く。衛視寮の仮牢から本殿の書庫まで歩いたときのことが脳裏を過った。はっきりと目覚めていたのに、その時のことが記憶には曖昧だ。思い出そうとして考えていると、不意に岩角に躓いた。
「…っ!」
一瞬、呼吸が停まる。ミランの腕が、ユリスを支えていた。
「まだ少し、足が弱っているな」
鍛錬はしているぞ。ただ躓いただけだ。そう言おうとして、口を噤む。
跳ね上がった鼓動に、支えてくれる腕の温かさに、思わず泣きたくなる。だから、言葉に出来たのは至極短かかった。
「…そのようだ」
「大丈夫か」
「ああ…」
腕に、肩に、その胸に。縋りつきたくなる衝動を抑え込んで、ユリスはそう応えた。赦してくれなどとは言えない。お前を失いたくないばかりに、愚かな衝動に身を任せた挙句がこのていたらくだ。
傷は癒えたか。痛まないか。そう問いたくて、問えなくて。だから、支えてくれる腕からそっと身を離して背筋を伸ばす。
「手間をとらせて済まなかった。…行こう」