風の通路かよいじ

 大神殿の真下、波の荒い海岸から岩の崖道を上がり、本殿奥殿に通じる小径は、そんな名で呼ばれていた。ネレイア達が大神官の下知を受けるために人知れず奥殿へ出入りするための、言わば裏口である。小径は断崖を曲がりながら這い上がり、岩角や樹木に隠れるようにして通され、その間には自然のものを掘り広げた隧道も存在するという。いずれもひと一人ようやく通れるような、それも決して足弱の者では通り抜けられない道。その起点は、海蝕洞である。
 ユリスはその黒々とした洞の入口に舟を寄せた。
 海岸線を辿って来ることも不可能ではないが、舟を寄せる方がまだしもというべきであった。それでも、洞の中まで舟を入れるのは容易ではなさそうだ。
 ユリスは洞の外に舟を舫い、岩の上に降り立った。決して平坦ではないが、水路沿いに細い道が洞の中へ続いている。
 道がある、という話だけは聞かされていたが、実際に通ったことがあるわけではない。だが、長く病臥した統領が夢現ゆめうつつのなかでも降りることが出来た道だ。辿れないことはないと踏んでいた。
 水路を抱いた磯臭い隧道は緩く曲がり、奥へというより海岸線と並行するように続いていた。おそらくは崖沿いにある道の何処かへ繋がっている筈だ。
 洞の中には点在する岩の隙間から漏れ入る光があり、真の闇というほどではない。なおも進んでいくと、行止りの天井の一部分にひと一人十分に通れるだけの孔が空いており、そこからも光が差し込んでいた。孔は樹木の陰になっているのか、岩壁に微風に揺れる枝葉の影が落ちている。壁面には細くはあるが確かに足がかりとなる溝が彫られているのが判った。
 あそこだ。

「どこへ行くつもりだ、シエル」

 その声に思わず足が停まった。
 天井からの光の所為で、一層闇の深い岩の隙間…そこに、声の主はいた。光の届かぬ薄闇の中に蹲るようにして座していたのだろう。声をかけられるまで、全く気配を感じることが出来なかった。
 徐に立ちあがる間だけ、その姿が天井の孔から差し込む光の中に浮かび上がる。
 他の誰であろうはずもない。ミランが、いっそ沈痛ですらある表情で…薄闇の中に佇立していた。
 ミラン、やはりお前か。お前が立ちはだかるのか。統領の為に。

「…統領に目通りを」
「無理だ」
 逡巡の欠片もない。即答であった。
「あの方は今、療養の身だ。お前だって判っているだろう」
「お前は、目通りが叶うのだろう…?」
「シュエットの命で、様子を報せているだけだ。あの方には休養が必要なんだ。…そっとして差し上げるべきだろう」
「何を…むきになっているんだ?ミラン」
 自分が引き攣った笑みをうかべていることを、ユリスは自覚していた。
「俺は…ただ、訊きたいんだ」
 ユリスはなおも進んだ。ミランが道を塞ぐように立ちはだかるが、らしくもなくその視線はユリスから僅かに逸れていた。
 それが、何か苦しげな表情に見えた。…そう、苦しげだった。いまや燃え尽きんとする火輪に呪縛された、可哀想な鳶。

「訊きたいだけなんだよ…」

 ユリスは俄に自分の間合いまで踏み込み、外套の下に吊っていた長剣を抜き放った。
 抜き放つ動作は、ミランの立つ位置を両断出来る深さを持っていた筈だ。手応えなどわからない。はっきりしているのは、ユリスの動作とともにミランは後方の岩陰へ倒れ…暗闇に血臭が広がったことだけだ。
 ミランが警戒していれば、決して避けきれない一撃ではなかった筈だ。ユリスが武器をしのばせているなどと、ミランの想像の埒外だったに違いない。
 ユリスは薄闇の中で刀身についた血糊をしげしげと見遣り、それから天を仰いだ。
 あるいは、マティアスを手に掛けたのは統領なのかも知れない。だが、ミランはそれを自分の責と考えているのではないか?
 どちらでも同じだ。統領の下知で、マティアスは死んだ。ミランはそれを、己の罪として苦しんでいる。
「シエル!」
 ユリスは振り返った。いつの間にか、シュエットが立っていた。足の悪い老人が、よくもこんな足場の悪いところまで出かけてきたものだ。
 だが、ユリスはその老人を動けなくする方法を識っていた。
「無理はいけませんよ、シュエット…」
 ユリスは微笑い、踏み込んでシュエットの大腿部を斬った。正確には、シュエットの義足を足に結びつけているベルトを切り払った。避けようとしたか、老人は水路へ落ちる。固定のためのベルトを斬り落とされた義足が、岩角に当たって跳ね飛んだ。
 片脚だろうが、溺れるような老人でないことをユリスはよく知っていた。
 身を翻し、差し込む明るさを頼りに洞の壁に近づく。岩の狭間に倒れ込んだであろうミランの姿を、ユリスは探さなかった。ただ一心に、洞の壁に刻まれた足がかりを登る。

 もう少しだけ待っていてくれ。俺が解き放ってやろう。

 岩穴を出ると、予想通り…ひと一人がようやくではあるものの、そこは確かに道があった。風吹きすさぶ斜面と言うより断崖を、ユリスは一歩一歩進んだ。
 噂通り、険しい道だ。しかしアンリーがこれを夢遊状態で度々通り抜けたという話も、あの海岸での身のこなしを見た後では決して荒唐無稽とは思わなかった。
 暁闇から薄明に傾くあの海岸で…追い縋るユリスを、アンリーはまるで風がすり抜けて行くように、見事に躱した。あの時一瞬自分の感覚が信じられなくて、思わず自身の両手を凝視してしまったが…あれは流水の如き体捌きの賜物だった。アンリーは最小の動きでユリスの両腕をすり抜けたのだ。
 ただ、身体が弱っているのは確かだろう。力押しにぶつかったことで容易にバランスは崩れた。そして一度バランスを崩されると、立て直しは難しい。

 そして――――。

 燃え尽きようとする火輪。終わりなき日蝕を、ユリスは見た。美しい火輪がゆるゆると蝕まれ、消えてしまう。そう思うとたまらなかった。
 そしてまた、ミランが燃え尽きようとする火輪に身を投じてしまうさまがあまりにも容易に想像出来てしまうことが恐ろしかった。

 ――――今なら、まだ止められる。

 それは、理屈を越えた確信だった。

 道は、唐突に終わった。
 灌木の茂みが目の前を塞いでいたが、身を屈めれば通り抜けられるほどの隙間がそこにあった。大神官一族の居館である奥殿…その中庭を海風から護る植栽だ。
 ユリスは身を屈め、茂みをくぐった。そうして進んだ先に、光に溢れた光景があった。

 ぐるりと植栽がなされ、白砂で整えられた中庭。その庭一杯に、線が描かれている。そこに描かれたものを、ユリスは咄嗟に理解できなかったが…白砂に棍の先で描いただけと見えるその線には、縦横無尽な躍動感があった。
 眩くさえある光景の中…涼やかな緑陰に、火輪は坐していた。
 その身は痩せ、皮膚は血色に乏しい。しかし緋の髪は変わらずに紅蓮の炎の如く、双眼の紅榴石ガーネットおきのように熱を湛えて輝いている。
 その光は、確かに往時とは異なるだろう。だが、蔵する熱量は決して劣らぬ。
 熱を湛えた両眼は、庭に描かれた何かをみつめていた。その口許には、蕩けるような笑みすらあった。

 その、輝きに満ちた微笑。

 …思わず、呼吸が停まった。
 輝きに圧倒された記憶が…刹那、ユリスをその場に縫い止める。

「…だぁれ…?」

 その時、呼吸どころか拍動さえ停めかねない近さで、その声は発せられた。
 灌木の茂みの中に蹲るユリスを、間近で見つめる瞳があった。
 深淵を湛えた大きな双眸。あどけない顔を縁取る髪は黒い。
 火輪に囚われた鳶…何故、ここに。
 つい先程、この剣にかけた。奪われたくなくて。
 奪われるのが恐ろしくて。
 惑乱したユリスは、その幼児の胸元を掴み上げた。幼児は小さな声をあげた。拒絶の響きを、ユリスは聴き取った。
 何故、拒む。
 幼子のあるかなきかの抵抗に、ユリスは理不尽な苛立ちを感じていた。そう、理不尽だ。それは判っている!
 白砂の照り返しでまばゆいばかりの光景の中で、アンリーがゆっくりと立ちあがるのを見る。
「……シエル…?」
 ユリスは幼児の襟首を掴み上げ、持っていた剣を擬した。

「動かれるな…!」

 幼児が呼吸を呑み込むのがわかった。怯え、息を呑み、涙目になって震えるその姿を、ユリスは苛立ちと、哀しさと、一抹の諦念とともに見遣り、鳶の血を纏わらせた白刃をその頸部に近づける。
「何事か、シエル。私は逃げも隠れもしない。先ずその子を放すことだ」
 病み衰えたといえど、その凜然たる立ち姿はやはり美しい。それに圧倒されて、問いは歪んだ。

「…答えてください、統領…あなたがマティアスを殺したのか、本当に…!」

 ああ、こんなことを訊きたいのではなかった。

 力の限り頭を振り立てたい衝動に駆られるユリスの前に、アンリーは昂然とおもてを上げ、武器を持たないことを示すように、両手を広げてゆっくりと進み出る。
 ユリスの喉は震えた。息を吸うごとに喉が妙な音を立てそうになる。喘ぎ、それでも吸い込んだ大気の全てを吐き出して、ユリスは吠えた。

「答えてくださらなければ…このわっぱの喉を掻き切る!」

 違う、違う、違う!
 ミランを連れていかないでくれ。俺から奪わないでくれ。ただそれだけが言いたい。それなのに、俺は何を叫んでいるのだ?

「私は逃げない。問にも答える。…だからやいばを退き、その子を放せ。
 お前の為に言っているのだ。お前は今、誰に刃を突きつけていると思う…?」
 燦然たる双眸に射られ、既にユリスは動けなかった。

 次の瞬間、眉間に雷が落ちた――――。

***

 まさに晴天の霹靂。一瞬で天地が逆転したかのようだった。
 中庭の白砂に仰臥したユリスは、胸骨を抑えられて微動だにできない。衛視寮の武官に寄ってたかって棍で抑えつけられても、こんな圧迫感はないだろう。片膝だけでユリスの動きを封じ、先程までユリスが握っていた剣を地に突き立てている黒髪の女を、ユリスは識っていた。

 鋼のクロエクロエ・レ・アスィエ――――。

 現典薬寮頭てんやくりょうのかみ氷のクロエクロエ・レ・グラースとも言われる冷徹峻厳な女神官。それが今、夜叉羅刹もかくやという形相でユリスを組み敷いていた。この女でも、これほど烈しい表情をすることがあるのか。

「クロエ・レ・アスィエ…! 何故ここに…」

 息苦しさに抗いながら、ユリスは声を絞り出した。クロエは一瞬訝しむように目を細め、いつでもユリスの頸部を両断出来る位置に突き刺した剣の柄を僅かに傾ける。

「何故と訊くか。場所が何処であれ…療養の場であるからには、そこは典薬寮の管轄。その内での乱暴狼藉は寮頭の裁量にてこれを処罰するのは神官府内規の定めるところだ。
 これだけのことをやってくれたからには、御辺には相応の覚悟があると思っていいのだろうな?」

 声は低く、決して激してはいない。その口許には艶麗でさえある薄い笑みが浮かぶ。だがそれらがユリスにもたらすのは、無形の氷刃を呑まされたような戦慄であった。
 初めて、ユリスは少し離れた場所で先程の幼子を抱いて立ち尽くすもう一人の女神官に気づく。典薬寮の医術神官だ。そう言えば、病状の思わしくないアンリーのもとに寮頭直下の医術神官が専属で派遣されているという噂は聞いた。
 そして、傍らにいる黒髪の幼子。数年前、クロエ・レ・アスィエがひとりで産んだという子供…あれがそうか。
 ユリスは、自分が虎の尾を踏んだことを知った。
 もとより、武器を持って奥殿へ忍び入るなど…露見すればそれだけで首が飛ぶ。そんなことはわかっていたが、その上に怒らせてはならない人間を怒らせたのだ。…全ては終わった。
 ユリスは詰めた息を吐き出し、瞑目した。

 ――――それでも、訊きたかった。

 アンリーがユリスの傍まで歩み寄り、深々と一礼した。
「申し訳ありません、寮頭。私の不始末です。  ……どうか、後のことは私に」
 ユリスは、喉が堰かれるのを感じた。…ああ、このひとは。

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