影響力の大きい天文現象については、後日詳細な観測結果、および対応策として実施された星祭の記録をまとめた一冊の独立した記録文書が作成される。
 無論原本は天文寮で保管されるが、その写本は本殿書庫に収められるのが通例である。終戦直前に起こった日蝕の総決算とでもいうべきその文書を本殿書庫へ移送する役目は、今回ユリス=オリヴィエに下された。
 言い知れぬ重苦しさに倦んでいたユリスは、師を訪う口実が出来たことに気づいた。
 本殿書庫の書司ふみのつかさトリスタン。今ひとつの名を、シュエットという。ユリスがシエルの名でネレイアとしての立場を持つのと同様、シュエットとは大神官とネレイアしか知ることのない彼の先々代統領としての名であった。
 シエルはかつてこの人物から、ネレイアとしての知識を叩き込まれたのだ。
 この一見して人畜無害、いたって穏やかな初老の神官は、現在療養中の現統領アンリーに代わってネレイアを実質的に統轄していた。戦時下においてもエルセーニュにおける情報集約の拠点を担っており、ネレイアが関わることで知らぬことなどない筈だ。
 だったらおそらく、デュナンの件についても…。
 ネレイアはその組織の性質上、たとえ神官府内であっても不用意な接触は戒められるところであった。十代前半の頃は、あくまでも見習神官が本殿の教師に教えを請いに行くというていであったから…なかばおおっぴらに通うことも出来たが、正式に天文寮神官として着任したユリスが書司トリスタンに会うには、相応の理由が必要だったのである。
 書司トリスタンは神殿書庫の最高責任者だが、言ってしまえば名誉職なので実際の維持管理については専従の神官が配されている。トリスタン本人は片脚義足ということもあって殆ど神殿書庫の最奥、大神官家とその係累だけに閲覧の許された棚のある一郭に引っ込んで、本来は滅多と外部に姿を見せることはなかった。
 その日、写本を携えて本殿書庫を訪れたユリスは、管理担当の神官へ写本の引き渡しを行うと共に、昔講義を受けた者として書司トリスタンに挨拶したいと言い、目通りの許可を貰ったのだった。

 その一郭は通常の書庫とは完全に分けられている。中央書庫を通り抜け、細長い廻廊を進んだ先にあるのだった。
 その廻廊は高い造りで、仄暗いためにその天井がしかと見えないほどである。東南側の壁、高い位置に明かり取りの孔が横一列に設けられているから昼でも灯火が要るということはないが、天候次第では昼間でも薄闇に閉ざされ、一種の禁域へ踏み込むかのような雰囲気さえある。
 禁域。事実、そこは本来余人の立ち入れぬ奥殿に併設されており、出入り口は奥殿にもある。むしろこっちが本来の出入り口であって、神殿書庫からの通路は言わば後世の後付けというから、この一見奇異な造りも相応の意味があるのだった。
 仄暗い廊下を渡りきり、前室に掛けられた木鉦を打つ。こころもち懐かしささえ感じる、布沓と硬質な木の音が混じり合う特徴的な律動リズムを持った足音。それが書架の奥の仄暗い静謐の中から近づくのが判った。
「お久しぶりです、シュエット」
 その姿を認め、ユリスは膝をついて礼を執った。
「おや、ユリスか。大書庫おもての方にはだれも居なかったかな?」
「あ、いえ…文書の方は恙無くお渡し出来ています。今日は、久し振りですのでご挨拶を」
 初老の神官が相好を崩す。
「そうか、そりゃ丁寧に。ありがとうよ、こんな老人としよりのところにわざわざ」
 ご謙遜。ユリスは声に出すことなくただ頭を下げた。そう、白々しいばかりの謙遜である。あの頃からそうだった。不自由なのは下肢だけで、手の届くところへ身を置いていると一瞬たりとも気を抜けないのは今も同じだ。油断すると前触れなくひょいっと投げ技を食らってしまう。
「さて…奥で話すか?私をシュエットと呼ぶからには、立ち話で済むような案件じゃなかろう」
 その瞬間に、自分が重大な失敗ミスをしたことに気づく。その名は軽々しく口に出してはならない。シュエットがユリスをシエル…ネレイアとしての名で呼んで初めて、それが許されるのだ。だから最初は、表の方の名で呼びかけるべきだったのである。
「よい、シエル。問題は無い。ここは奥殿と同じだからな。聞くものはおらん」
 ユリスの身体を奔り抜けた緊張など疾うに見透していたらしく、シュエットは笑いながらそう言った。
「…恐縮です」
 ユリスはもう一度深々と頭を下げた。この老人にはかなわない。齢を重ねようが、荒事と無縁な生活をしていようが、この人物は間違いなくかつてのネレイア統領ゼフィールだったのだ。

「このところ天文寮は忙しかったろう。星祭は一応の準備はされているとはいえ、来るときは突然だ。慌てるなと言う方が無理だからな」
 書棚と書棚の谷間、書見台と作業用の卓がひとつずつ。後は数脚の椅子があるだけだ。その椅子のひとつをかつての弟子に勧め、シュエットがくつくつと笑った。
「いえ…」
 確かに日蝕とその記録編纂は大事業であるが、終わってしまえばなんということもない。次回の日蝕に向けてより精度の高い計算が出来るよう、常に新しい計算方法が試みられているが、それはユリスに割り当てられた仕事ではなかった。
 それよりも今…ユリスはこの老人に、何と言って切り出したらいいのか考えあぐねていた。何を、どこから、どうやって?頭の中でいろいろな事柄がぐるぐると回り始め、ユリスは眩暈に近いものさえ覚えていた。
「…当代アンリーのこと、かね?」
 ユリスは思わず呼吸を停めて、顔を上げた。好々爺の苦笑が視界に入る。
「病が、篤いと…伺っております。いえ、統領が現在療養の身でいらっしゃるのはよく判っているのですが、その…」
 言い淀み、思い悩んだ末。ユリスはその一言を絞り出した。
「…シュエット…あなたは、マティアスの…マティアス=デュナンの件について、何かご存知ではありませんか」
「そう言えば…クレマンがナステューカに派遣されていたな」
 さらりとツァーリへ赴いている族兄の名を出されて、ユリスは思わず背筋を伸ばした。
「はい…マティアスは…いえ、私とて一面識もあるわけではないのです。ただ、アニエスさまの遺児に近侍衛士として仕えながら、ヴォリスの嗣子についてギルセンティアを越えようとして、事故に遭ったと。
 事故、なのでしょうか。その…」
「…事故ではない可能性、か?」
 答えに窮して、ユリスは沈黙した。
 こんなことが聞きたいのではない。事故死であれ、謀殺であれ、顔も見たことのない親類が、異郷の地で信じるもののために命を落とした。それはそれでひとつの結果だろう。ユリスが容喙するところではない。
 …ただ、同国人を手に掛けることになった苦悩に苛まれ続ける鳶を見るのが辛かった。
 戦が終わり、統領が倒れたという噂を聞くようになって以降…ミランを覆う翳は少しずつ濃くなっていくようだった。最初は、統領の病状を案じているのだと思っていたが…以前と違って、特に用事がなくてもふらりとユリスの宿房を訪れるようになったミランを見ていて、何か思い悩むことがあるのではないかと思うようになった。
 訊いても何も答えてはくれないのはいつものことだから、答えが返らないことを然程不審に思っていた訳ではない。だが、2年前の、ギルセンティアから帰ってきたというあの日のことを思い出してから後…答えないのではなく、答えられないのだと思い至るのに、そう長くかからなかった。

 あるいは今まで、ギルセンティアでヴォリスの嗣子とともに葬ったのがマティアス=デュナンであったことを、ミランは知らなかったのではないか。終戦と共にナステューカの状況が判ってきた今、主命で葬ったのがシェノレスの人間であったことを知り、苦しんでいるのではないか?

 顔を上げた時、高窓から差し込む細い光の中に…初老の神官のやや沈鬱な横顔があった。
「なあシエル…その問に答えがあるとして…お前さん、それを知ってどうするね?」
 ユリスは、思わず呼吸を停めた。

***

 目が眩むような熱と指一本動かせないほどの重怠おもだるさの中で、胸奥だけが冷たい。そんな、時に声を上げて泣きたくなるほどの落差を噛み締める。

 牀に俯せていたユリスは、薄闇の中で身を起こしたミランがひどく遠くを見ていることにぼんやりと気づいた。窓から差し込む月の加減を見ていたようでもあり、もっと遠くの何かを見ていたようでもあった。
 ミランの表情に落ちる翳は日々濃くなっていくようだった。なにより、以前は用務がなければ寄りつきもしなかったのに、このところ、特に何もなくても牀を借りに来る。
 …態度は相変わらずつれないのだが。
 ミランにとってはユリスの宿房などエルセーニュに用があったときの、ただの仮宿かりやどに過ぎぬことは解っている。一刻ひととき身を委ねてはくれるが…共寝していても、ミランはほとんど気を遣ることすらない。ユリスだけがいつも勝手に昇り詰め、惑乱のうちに果ててしまう。翌朝、ユリスが目を覚まさないうちに姿を消してしまうこととて珍しくはなかった。

 ユリスは重い腕を伸べて、身を起こしたミランの腕に触れた。その所為か、ミランがふと現実に引き戻されたかのようにユリスを見る。
「…疲れて…いるのか」
 そうユリスが問うと、ふと考え込むような間があった。だが、ミランは静かに頸を横に振る。
「…何も。何も変わりはしない…」
 自分に言い聞かせるかのような口調であった。

 いよいよ、火輪の炎が燃え尽きようとしている。その事実が精悍な横顔に深い翳を落としているのだ。そしてまた、その火輪のために同国人をも手に掛けたミランの心中を思うと、胸を抉られる心持ちがした。

 先日、ユリスは海辺で意識も定かでないまま彷徨い、海へ入ろうとしていたアンリーを見つけた。そして生きながら海精に変じようとしている、という噂を一笑に付すことが出来ない光景をそこに見た。
 必死になって陸に押し留めたものの、身体は確かにそこに在るのに、魂が何処かへ連れて行かれてしまったようなその様子に…ユリスはいたましさと共に、昏い衝動も感じたのだ。

 誰も触れることが出来なかったはずの火輪たいようが…その炎を喪い、徐々に暗く冷えていく様を見なければならないくらいなら、いっそこの手で息の根を止めてしまおうか。あるいは… そう、ミランが焦がれてやまぬ火輪をけがすことで、鳶の絶望を自分への憎悪に変えてしまおうか。
 ――――埒もない妄想に駆られ、抜け殻のようなアンリーを砂地に横たえた傍で…ユリスは孤独な悦楽に身を委ねた。満ちてきた潮が文字通り水を浴びせかけてくれなければ、もっとおぞましい行為に及んでいたかもしれない。…そう考えると、恐ろしかった。

 ミランがいつものようにするりと牀を抜け出し、脱ぎ散らかされ床の上にわだかまった衣服を拾い上げる。それに目を留めて、ユリスはふと口を開いた。

「珍しいな。…と言うより、初めて見たぞ」

 ミランが拾い上げたのは、無位神官の装束である。いつもは雑色の装束に身を包んでいるミランが、今日は無位神官の装束を纏っていたのだ。いつも通り、褥に引き込むが早いか脱がせてしまったので、しげしげと見る余裕などなかったのだが。
「…ああ、今日は奥殿へ行ったからな」
 雑色の装束だろうが、神官のそれだろうが、ごく自然に身に纏う。ミランにとっての衣服は周囲を欺くための小道具に過ぎないから、どんな装束だろうがいつもそうしているように身につけることができるのだ。ユリスにはとても真似が出来ない。それはそれで似合ってるぞ、と言おうとして、あることに気づいた。
「奥殿…? 統領に、目通りできたのか」
 統領には誰も会えない状態だと聞いていた。何か変事かわりごとだろうか。
「シュエットの指示さ。本当に様子を見に行くだけだ。全ての案件はシュエットで捌いているからな。実務については、訊かれなければ答えないことにしている。…そうでないと、あのかたも休養にならないだろう」
 話すことなど特にない。ただ、様子を見に行くだけ。おそらく今日が初めてというわけではなく、定期的に訪れていたのだろう。それを聞いて、ユリスは思わず身体の芯が熱くなった。紛れもない妬心に駆られ、ミランの腕を掴んで褥へ引き倒す。
「おい…!」
 さすがに少しミランの顔が険しくなる。だがユリスは構わず、簡素な神官衣の襟許を押し開いた。
 憂色に曇るミランの横顔に、宥めるような口づけを落とす。そんな統領の姿態が詳細に脳裏に浮かび…下腹の奥がどうしようもなく滾るのを感じた。
 マティアスの死が事故死でも故殺 1でも、もっと言えば謀殺だったとしてもユリスは驚かない。
 ただ、そうして鳶の爪牙を同国人の血で染めさせた統領に…その時、ユリスは今まで覚えたことのない昏い怒りのようなものを感じたのだ。
 鳶は端からその全てを統領に捧げる覚悟でいる。それなのに何故、統領は罪の意識で鳶を縛ろうとするのか。

 ――――――理不尽だ。

 身体の奥から突き上げてくる衝動に任せて、ユリスは再びミランの首筋に顔を埋めた。

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  1. 故殺…一時の激情によって生じた殺意で故意に人を殺すこと。類義に謀殺があるが、この場合、殺害の手段・方法をあらかじめ計画・考慮して人を殺すこと。