病み衰えてなお、
そのひとは火輪のごとく…天翔る鳶を惹きつける。
全てを喪ったユリスは、
闇の中で瞼に残ったその姿をみつめていた。
道標
気が付けば、天窓は薄明を映して薄青い――――。
薄闇に慣れているとはいえ、起き上がって身繕いするミランの姿は、ユリスからはまだ影でしか捉えられない。
「…いくのか」
幾度となくかけた言葉。そこに引き留める意図があっても、叶えられたことなどない。それでも、口にせずにいられない。返ってくるのはいつも通りの、素っ気ない応えだった。
「…ああ」
いつもならそこで諦めて、ただ褥の残り香…陽と潮の匂いに埋没し、ただ閉まる扉のかすかな音を聴く。だが、その日…ユリスは両拳を握り締めて身を起こし、思い切って問うた。
「…マティアス=デュナンの件、お前は何か知らないか、ミラン」
明らかに、ミランの動きが止まった。だがそれは本当に僅かな間で、また坦々と衣服を整え始めた。
「…知らない。知っていたところで、俺が喋る訳はないだろう」
ミランは総領の伝令使だ。その役務上知り得たことは決して外には漏らさない。それがたとえ、ネレイア内部であってもだ。情報は受け取るべき相手にだけ渡す。それがミランの役目であり、存在意義。判ってはいたが、突き放すような声音にユリスは一瞬呼吸を停めてしまった。
「…そうだな、済まん。忘れてくれ」
褥に再び沈みながら、ユリスは言った。落胆を悟られたくはなかったから。
「…気を付けていけ。今夜は天気はいいが、風が強い」
「ああ、ありがとう」
一瞬の空隙をなかったもののように、ミランが立ち上がって部屋を出て行く。ユリスは牀へ沈み込んだ。
教えてくれるわけがないだろう。誰にも見られないとは判っていたが、ユリスは懸命に羞恥に赤くなった顔を覆い隠した。
***
――――エルセーニュ決起後、和約が成立するまで当然ながらナステューカとの連絡は途絶していた。だが、最近になってようやくその間の出来事が徐々に、断片的ではあるがシェノレスにも伝えられるようになっていた。
そのひとつがマティアス=デュナンの失踪である。
マティアスは、アニエス妃の近侍として共にツァーリに赴き、アリエル生誕後は乳母となった女神官ルネ=デュナンの子である。マティアス自身は王太子としてのアリエルに近侍衛士として仕える身だった。
エルセーニュからアニエスに随行したシェノレス人はほとんどがアニエスと共に帰されたため、アニエス没後、デュナン一家は遺児アリエルを奉じ、僅かな人数で敵地に取り残されることになる。それでも細々と書簡のやりとりは出来ていたのだが、開戦直後からはそれも叶わなくなった。
戦後になってデュナンの係累が一族の安否をナステューカへ問い合わせて判ったのは、ルネは存命であったものの、息子マティアスが館を出て行方不明という事実だった。開戦直後、天嶮ギルセンティアで遭難したというのである。
しかも、宰相ヴォリスの後嗣リオライに随行してノーアへ渡る途中だったという。
主君たるアリエルはマティアスに館を出る許可を与えた事実を文書にしていたから、マティアスが勝手に役儀を放擲したのではないことは判っている。ただ、デュナンの係累は近侍衛士たる身が主の身を守ることもせず、しかも異郷で消息を絶ったことを愧じ、状況的に事故死であろうとしてそれ以上の詮索しなかった。
マティアスはルネがツァーリに赴いて後に生まれており、ユリス自身は面識がない。今回この話がユリスの耳に入ったのは、他ならぬオリヴィエ家がたまたまそのデュナンの係累だったからである。
実家で最初にその話を聞かされたユリスには、「そんなことがあったのか」程度の認識しかなかった。顔を見たことがあるわけでもない、名前さえ初めて聞くような人物の訃報をいきなり突きつけられたところで、それ以上の感慨は湧いてこようはずもない。
だが知る人とてない異郷、天嶮ギルセンティアの何処かでいまもその骸がまともに弔われることもなく埋もれているとすれば…流石に惻隠の情を催すというものである。
ルネは既に若くはなく、このまま命終焉るまで彼の地でアリエルを弔いたいとして帰国を希望しなかった。そのため終戦後ほどなくルネの今後の生活を整えるとして、神官府からも数人が派遣されることになる。実相としては将来的にサレン館をシェノレスとの正式な国交の拠点とするための人員なのだが、その中にユリスの族兄 1が含まれていた。
この族兄からの便りでユリスも戦時中のナステューカの状況について幾許かの情報を得ていたのだが、有り体に言えば最初からユリス自身がそれほど熱心に情報を集めていたという訳ではない。異郷での、しかも何ら報われない横死を気の毒だなと思うと、関連した情報に自然と耳を傾けるようになっていただけだ。
だがそのうち、ユリスは戦慄すべき可能性に行き当たる。
リオライ=ヴォリスと王太子アリエルは、開戦直後の段階で三国同盟、および南海航路のことを薄々感づいていたという。それは、神官府にとって非常に好ましくない状態であった筈だ。
――――マティアスは、ネレイアによるリオライ=ヴォリス暗殺の巻き添えをくったのではないか?
丁度あの頃だ。ギルセンティアへ行っていたというミランが傷を負って帰ってきたのを、ユリスは知っている。大した傷ではない。だがあの夜の、ミランの挙動が気になった。
いつものように素っ気ないのだが、何かが違った。何かに耐えるような。押し込めるような。そちらに気を取られてか、どこか防御が甘かったのだ。
いつもならどれだけ丹念に撫で摩り愛しんでも、虫が止まったほどの反応も返してくれないミランの喉奥から…切れ切れに堰かれ掠れた声が漏れた。赤銅色の膚は確かな熱を帯び、時折何かを押し込めるように呼吸を停める。そんな様子がいつにもまして扇情的で、ユリスをひどく昂らせた。
身体は此処に在るが、心はここにない…そんな残酷な愉悦にさえ、ユリスは慣れきってしまっていたから、その時は何も考える余裕などなかった。だが、今にして思えば…あるいは、主命とはいえシェノレスの人間を手にかけることになってしまった…その苦衷ではなかったのか?
そう思い始めると頭にこびりついて離れず、かといって面と向かって訊くには憚られる。係累であることにことよせてマティアス=デュナンの名を出してみるのが精一杯だったが、それだけで凄まじい労力を必要とした。
結果として…やはりというか、ミランは言質をとらせるようなことは何も喋らなかった。だが、ミランが残した一瞬の沈黙は…ユリスにある確信を与えたのだった。
***
日月星辰が暦とのずれなく運行していることを確認し、変事があれば本殿に報告する。それが天文寮の仕事だ。日蝕、月蝕を予測し、星の動きに凶事が予想されるならそれを祓うために星祭を行う。星の動きは地上世界の動向を反映し、また星を祀ってその力を借りれば凶事を避けられるとされていたからだ。
ここのところ大神官を示す星の光が徐々に弱くなっている。それは大神官リュドヴィックが病篤いことと矛盾していなかった。ツァーリを討ち払うという大事業を成し、後継者たるリシャールが主席枢機官としてほぼ実務を代行しているから、神官府はそれらの事象を来るべきものとして受け容れていたと言っていい。ユリスもその例に漏れなかったが、気になるのはほ審神官アンリーの容態であった。
ツァーリとの戦は終わったが、今度はシルメナとの間で紛争が持ちあがっていた。
国を作り直す最中のことである。新国王となったレオンはエルセーニュを動くわけにはいかず、その腹心ルイ=シュランシアがマルフ島への派遣・駐留を余儀無くされた。そんな中、ルイと共に新国王レオンの両翼といわれた審神官アンリーは病に倒れ、マルフへ赴くどころかエルセーニュでの実務にも就けない状態となっていた。
エルセーニュ決起以降、常に海神の御子レオンを支え続けた審神官、同時にネレイアの統領でもあるアンリー。緋の風神、アレンの後身と呼ばれ、まさに自らを海神への供犠となした生き様は、火輪の如く眩く…熾烈であった。
戦が終わった今、審神官としての役目は一段落している。彼のもう一つの貌である、大神官直属の細作機関〝ネレイア〟統領としての実務については先々代統領が管掌するところとなり、現在アンリーは神官府本殿の奥殿で静かな療養の日々を送っていた。
間欠的な発熱に苛まれて衰弱し、人事不省に陥ることもしばしばある一方で、卒然と奥殿から姿を消し、半睡半醒で海辺を彷徨っているという話である。あまりにも気配なく姿を消してしまうので、審神官は生きながら海精に変じつつあるという噂まで立つ始末であった。
もとより軽々に傍に寄れる相手でもないが、いまや公務の全てから身を退いており、一般の神官はおろかネレイア達でさえ、目通りを許されていないと聞いた。誰も会えていないのだから、勝手な憶測が飛び交うのも致し方ないところではあった。
あの緋の風神の纏う熾烈なる静謐。その輝きが喪われつつあるということに…ユリスは傷ましさとともに戦慄を感じる。
火輪を喪った時、鳶はどうなってしまうのだろう…?
伝令使であるミランは変わらず多忙のようだった。それでも、渡り鳥が翼を休めるように…ふらりと牀を借りに来る。そのことに、自惚れてよいのかどうか…ユリスには判断がつきかねるのだ。
その日も勤務から帰ってみると、天文寮内にあるユリスの宿房、さして広くもない牀に…ミランは眠っていた。
扉を開けた音に片目だけ開き、やや物憂げに口を開く。
「…借りてるぞ」
「…ああ」
ミランはユリスの返事に再び瞑目し、小さく吐息する。
ユリスは牀の端に腰掛け、小さく起伏する赤銅色の肩にそっと触れた。
「忙しそうだな」
「…何が変わったわけでも、ないんだがな…」
ミランは身を返して仰向けになり、覆い被さってくるユリスの口吻を素直に受ける。
いつになく素直に、ユリスの舌先が口腔に侵入するのを許容するだけでなく…いつもならなすがまま蹂躙するに任せている舌を積極的に絡めてくるから、ユリスは思わず夢中になってそれを追った。知らず、牀から腰を浮かして這い上がり、鳶を褥に抑え付けていた。
舌と舌を絡めあう、濃密な感触。その感触が呼び起こす狂熱にユリスは翻弄される。雑色の粗末な装束を身体に結わえ付けている荒紐を解く間さえ、ひどくもどかしい。
肉体労働に従事することの多い雑色の装束は、神官衣と違って身体の線が如実に出る。硬い生地越しに精悍な身体の線を弄りながら、ユリスは自身の脚間で熱を持ち始めたものを、ミランの身体に下肢を絡めることで擦りつけた。自らの熱塊を思うさま押し付け、しなやかな筋肉に覆われた下肢が返してくる感触にのめり込む。
「ミラン、怪我…してはいないか」
「ああ、昨今は荒事とは疎遠だからな…っ…」
ミランの声が掠れたのは、ユリスが衝動のままにミランの緩めた装束を押し広げて胸の紅点に吸い付いた所為だった。熟れた野苺のような突起に舌を這わせ、巻き付けるようにして吸い上げると、ミランの喉奥から切なげな息が漏れ出る。よく鍛えられた胸板を緊張が奔り抜け、ミランが微かに背を反らせたのを感じてユリスは狂喜した。
シェノレスとの戦は終わった。だが、今度はシルメナとの紛争だ。マルフでは散発的な遭遇戦があるばかりで、大規模な衝突はないと聞くが…伝令使であるミランはそういった戦況とは無関係に危険へ身を晒すこともあるだろう。
統領アンリーの役に立つなら、その身をユリスに投げ与えることも厭わぬ強く優しい鳶。この行為がその優しさに付け入っているのだとしても…ユリスは今この刻を味わい尽くす。
神官府の者はネレイアの存在を知ってはいても、だれがそうかなど知らない。そうでなければ意味がないからだ。ユリスとて〝シエル〟の名を持つネレイアだが、その事実は寮頭級以上の神官にしか開示されない。世間的には、ユリス=オリヴィエは一介の天文寮神官なのだ。
一方で天文寮神官であるユリスとほぼ同等の教育を受け、統領の側近としての激務をこなしながら…ミランには神官としての身分はない。ミラン自身はそんなことに頓着しているふうは全くないのだが、累代の神官として生まれたユリスからすると粗末な装束に身を包み、神官府では雑色として扱われるミランの立場は理不尽でしかなかった。
だからユリスは、自身がミランの真価を識る者であることに、誇りすら持っている。
天翔る鳶が見ているのは火輪だけ。そんなことはわかっている。それでも、翼を休めに来る僅かな時間…この鳶は自分のものだ。自身の歪みを自覚してはいたが、それでもユリスにとっては、その痛みや苦しみさえ愉悦だった。
***
星辰台。神官府天文寮の観測所は、人が登れる高さとしては神官府本殿よりも高い位置にある。
その払暁、ユリスは星辰台に上がって定期の観測を終え、必要な記載を済ませた。ふと海岸線を見遣った。先夜の陸風は弱く、神官府周辺は既に朝凪の中にある。
神官府東岸の高い崖に白いものが見えた気がして、ユリスは望遠鏡以外の道具を階段の脇へ置いて胸壁に歩み寄った。
見間違いではない。ユリスは手にした望遠鏡を向けた。だがぶれてしまって上手く視野に捉えきれない。急ぎ三脚架台を取りに戻り、設置して改めて崖を見ると…やはり、風にはためく神官衣であった。
普通なら到底人が行き来出来る場所とは思えないのだが、神官府大神殿の真下にはネレイアが出入りする通路がある。通路とはいえ峻険な隘路であり、踏破するにはそれなりの鍛錬は必要だ。だが、その神官衣を纏った人物はそこを滑るように降りてゆく。
すぐに岩陰に隠れてしまって見えなくなったが、神官衣の白と対照を成す鮮烈な緋色が、この遠目でもそれが誰であるか教えていた。
「…統領…」
噂が脳裏を過る。曰く、審神官は生きながら海精に変じようとしており、だれも気づかないうちに寝所を抜け出し、海辺を彷徨っていると。
ユリスは三脚架台を畳んで身を翻すと、星辰台の階段を駆け下りた。片付けもそこそこに天文寮を飛び出し、思いつく限り最短の経路で海岸線へ降りた。
ネレイアのみに許された通路。あの隘路を出入りしていたとすれば、幽霊話じみた噂も決して荒唐無稽な話ではなくなる。だが、極端に弱っているという今の統領であの道が降りられるのか。
ひとつ間違えれば墜死は免れぬ。道を急ぎながら、ユリスはあの美しい火輪がまさに血の緋色に彩られて岩場に仰臥する幻想に囚われて思わず呼吸を乱した。自分のほうが足下が危うくなりそうだったが、なんとか海岸線まで辿り着く。
いまでこそ文官生活のユリスだが、かつてはミランと共に体術の鍛錬をした身である。荒事には関わらないものの、基礎的な体力維持のための修練は怠っていない。岩場を歩き回るくらいのことは本来雑作もなかった筈だが、不安と焦燥が平衡覚を揺さぶり、ユリスの軽捷さを奪っていた。
声をかけても届く状態ではないだろうから、足を停めて呼ばわることはしなかった。ただひたすらに岩場を飛び移りながら波打ち際を縦走し、あの炎の如き緋色を探す。
風神アレンの後身と呼ばれ、ツァーリと戦うために生を享けたかのように言われる統領アンリー。だが、その望みはひたすらに、南海の彼方にあるという新しい世界なのだという。ツァーリの軛を打ち砕き、誰憚ることなく南の海へ漕ぎ出す日のために…全てを犠牲にする覚悟でその身を波の下の者としたのだと聞いた。
それを果たせる日が目の前にありながら、今は明日をも知れぬ病床に伏せる。心中察するに余りあるが、今のユリスの思いは更に複雑だった。
入り組んだ峻険な岩場だ。だが今は幸いにして引き潮だから、所々砂浜も姿を見せている。だが岩のひとつに飛び移った瞬間、昇ってきた陽の光条に目を射られてふらつき、ユリスは初めて足を停めた。
その瞬間だった。
波間に洗われる岩礁に沖を見て佇立する、神官衣を纏った影。風にはためくのは白い神官衣と、血の緋色と称される緋の髪。完全な逆光であったにもかかわらず、その色彩がユリスの視界を埋め尽くす。
着衣がはためくほどの風を受けながら、身体は巌のように微塵も動かない。
「統領…」
その圧倒的な美しさに思わず呼吸を停める。波の音、風の音、啼き騒ぐ海鳥の声さえもユリスの意識から飛んだ。
これほどの近さで統領にまみえるのは久し振りだった。
だがそれは、かつての輝きとは異なっていた。海精に変じつつあるという噂もむべなるかな。生気がなく…有り体に言えばその気配は人外の者に近かった。
風に、溶けてしまう――――!
引き留めようとしてユリスは思わず足を踏み出し、手を伸べた。転落と大差ないていたらくで砂浜に降りたが、砂に膝をついただけで何とか立ち上がった。
「お待ちを、統領…!」
波打ち際を走り寄るユリスの声は、やはり全く届いてないようだった。
アンリーは無造作に波間へ踏み出した。そこに見えない橋でも架かっているかのように。ユリスが声にならない悲鳴を上げる。
だが、アンリーの姿が水中に没することはなかった。
波の下は岩礁が続いているのか、下腿の半ばまで波に洗わせながらそれを感じさえしていないような足取りで沖へ進んでいく。
アンリーの足取りは至ってゆったりとしていたから、すぐに追いつくことができた。だが、引き留めようとして伸ばした手は、まるで実体がないかのようにすり抜けてしまい…ユリスはたたらを踏む。
一瞬、自分の感覚が信じられなくて、ユリスは思わず自分の両掌を凝視した。
だが精霊が掴めないのとは違い、そこには確かに質量があるが、流水の如き体捌きで見事に躱されたのだと気が付き、猛然と追い縋った。
「統領、統領…ッ!」
ユリスは後ろから体当たりをかけて態勢を崩し、揺らいだアンリーの身体を抱き竦めるようにして水中へ引き倒す。
下になったユリスの背を相応の衝撃が襲った。即座にアンリーを抱えて身を起こしたが、アンリーは幾分水を飲んだのか激しく咳き込んだ。
「申し訳ありません…こうでもしないと…」
ユリスは咳込むアンリーを背に担いで陸へ上がり、砂の上に座らせた。その身体の哀しいまでの軽さに思わず息が詰まる。
その間も、アンリーは時折身を折って咳込んだ。
「しっかりなさってください、統領…」
アンリーは元来、堂々たる偉丈夫という訳ではない。どちらかと言えば線が細い。その上、食物をまともに摂れていない所為かさらに痩せてしまっている。その背をおろおろしつつ擦りながら、骨ばっていると評される一歩手前のその感触に…ユリスの胸は痛んだ。
ようやく咳は落ち着いたものの、うっすらと開いた暗赤色の双眸は昏く淀んでいる。焦点があっていないのだ。背をさすっていた手を放そうとすると、アンリーの身体はそのまま横様に砂の上に倒れてしまう。
まるで、糸の切れた人形のようだった。
慌ててまた抱き起こそうと手を伸べたとき、僅かに震えながら上下する細い肩、それに張り付く濡れた神官衣とまつわる緋の髪に…ユリスはイェルタ海戦直後の皆既日蝕を思い出さずにいられなかった。
月の影に喰われる火輪。それは確かに予測された天体現象ではあったが、その一方であからさまな凶兆でもあった。数時間で元通りになると理解っていても、人々の間に不安が広がり、ちょっとした事件が暴動に発展することもある。だから天文寮は人心の不安を除くために星祭を行う。火輪の力の弱まる間に不吉なことが起こらないよう、祈りを捧げるのである。
あの日蝕の時も、天文寮はエルセーニュにおいては勿論、各地で星祭を行っていた。カザルでは祭儀などより、海神の御子の檄のほうが余程効果が高かったらしいが。
自分は今まさに、日蝕を見ているのだ。しかも、終わりの見えない日蝕を。
火輪を喪った時、鳶はどうなってしまうのだろう。その不安が、ユリスをじわじわと蚕食していた。その時こそ、この腕の中に墜ちてくれるのか。それとも、消えゆく炎に身を投じて諸共にその身を焼き尽くしてしまうのか。
この不安は、どうしたら拭えるのだろう。
このまま、弱り朽ちていく火輪を見なければならぬくらいなら、いっそ。
ユリスは身の裡から昏い衝動がせり上がってくるのを感じた。
砂の上に投げ出された腕を取ると、抱き起こすことなく、ゆっくりと仰向かせる。暗赤色の双眸はうっすら開いていたが、先程のように躱されることはなかった。ただ、なすがまま。
かつて、あの鳶を抱いたであろうしなやかで強靱な腕は…今、痩せ細ってユリスが掴んでも無反応であった。かつて鳶を愛しんだであろう指先は、血色を喪って白い。
この指が、この腕が。
ユリスはゆらりと身を起こすと、仰向かせたアンリーの腰を跨いで両膝をついた。そして捉えた指先にそっと口づけ、咥える。いつもミランにそうするように、体重をかけてしまわないよう細心の注意を払いながら。
繊細な指を舌先で賞玩する。潮の味と砂のざらついた感触も一緒だったが、構いはしない。指先から手の甲、掌、手首、腕と、舌と唇を遡行させる。重く濡れた神官衣の胸元を引き開けて、喉元を唇だけで軽く食んだ。
この胸が。
胸骨に沿って舌を滑らせる。紅点を食み、舌を巻き付けて吸い立てる。
下肢の間に熱が凝り、自分自身の中心で熱塊が勃ちあがるのを感じた。
お前も感じたのか、ミラン。この指で。腕で。胸で。昂められて、追い詰められて。
片手で前を寛げ、自身の熱塊を掴み出す。握ったままだったアンリーの指先をそこへ導き、握った指先ごと扱きたてた。その凄まじい快楽に、ユリスはあっという間に達してしまいそうになる。
この指が、掌が。
がくがくと、ユリスの膝が震える。快楽に悶えながらも、痩せ細った身体の上に腰を落としてしまわないために、ユリスは刺激と中断を何度も繰り返して…その度に呻きながら激しく背を波打たせた。
だが、とうとう耐えきれなくなり…全身を震わせながら膝立ちのまま遂情する。
やがて…溢れ出したものでぬめったユリスの手は、ついに捉えていた冷たい指先を取り落とした。がくついた両膝だけでは身体を支えきれなくなって、両手を砂地についた所為でもあった。
砂の上に投げ出された血色の薄い手。その指先に纏いつくぬめりと白濁を目にして、ユリスは背筋を奔る余韻もそこそこに…・自分が何をしていたか思い知る。
「…あ…あ…」
暗赤色の双眸は、やはりまだ薄く開かれていたが…何も映してはいない。ただ、白い頬は飛び散った白濁で汚れていた。ユリスが神官衣を押し広げて露わにした胸も、また。
ユリスは目の前が昏くなるのを感じていた。自分は一体、なにをした?
次の瞬間、ユリスは背中から大量の水を浴びせかけられて跳び上がった。
アンリーの上から離れ、しりもちをつくようにして後ろを見る。だが、そこには誰もいない。ただ、満ちてきた潮が岩礁で砕けて飛沫を散らせたのだった。
暫く、ユリスは茫然としていた。