『メジェド』がイサーク=フェイギンのもとから姿を消したのは、アニエスがエルセーニュに戻って程なくのことであった。イサークの利用価値が徐々に下がっていたことと、諸々、別のことで手が離せなくなってきたからだ。
 大した情報が引き出せなくなったのは、イサークが用心したというよりイサーク自身の持つ情報が更新されなくなっていたからだ。通達を受け取るだけで、自身で必要な情報を得ようとしなかった結果だった。中央に返り咲くことも望まず、ただ穏やかな南海の暮らしを享受する。ただそれだけの男だった。
 そのくせ、薬石効なくアニエスが夭折した後、大神官の次男をツァーリに差し出す名目で総督府に預かろうとしたのは…以前痛い目を見た教訓がほぼ生かされていなかったということだろう。
 リュドヴィックはそんなツァーリ総督に既に何の脅威も感じていなかった。他の誰にも真似ができない方法で、その要求を撥ねつけたのである。
 曰く、「アンリーは海神宮への奉献が決まっている」。
 余の者が口にすれば、我が子を護ろうとする儚い言い訳としか聞こえなかったに違いない。だが、リュドヴィックは自ら儀式刀で我が子の身体に供犠の印を刻み、船に乗せて白波逆巻く神域の海へ押し出してみせたのだった。…繭ひとつ動かすことなく。
 儀式の見届けのために臨席したイサークは顔を土気色にして、逃げるように中座したという。
 後日それを伝え聞いたヴァンは失笑を禁じ得なかった。あの男ならそんなものだろう。
 もともと総督府へ出府することも稀で、公邸や私邸に引きこもりがちであったイサークが、以後更にその傾向を強めたという。お陰で総督府の綱紀の弛みは甚だしく、最大の責務であったはずの監視は形骸化の一途を辿った。
 そしてそれは、ヴァンとネレイアたちに絶好の環境を与えてくれた。

 ――――――かくて、今日がある。


 ヴァンは入江の対岸に港を臨む、切り立った海岸で風を受けていた。
 順風だ。波も穏やか。

 この島リジューに帰って来て、半日ほどしか居られない時でも、アンリーは必ずヴァンの許を訪れた。今回もアンリーの船がリジューに着いたのは昨日の昼過ぎであったが、エルセーニュへ向かうための最終調整を終え、翌早朝の出帆までのわずかな時間を草廬で過ごした。
 出発する直前のことだ。薄明の青い薄闇の中で、アンリーは緩々と身を起こし…身繕いをする間にもその眉目にふと切なげな翳りを落として何度かヴァンの唇を求めた。
 ヴァンは、そんなアンリーをもう一度褥に引き倒し沈めたい衝動を抑えるのに苦慮した。
 その日発てば、次に戻ってこれるのは戦が終わった時だ。それが互いに理解っているから、いつになく…いっそいとけなくさえあるアンリーの仕草をヴァンは咎めもせずにただ受け容れたのだった。
 そうしてようやく衣服を整えたアンリーは、ひとつ大きく呼吸して立ち上がった。
 蔀戸を挙げて東の空を仰ぎ、少しずつ色を淡くしてゆく群青の空を眩しげに見て、珍しく口許を綻ばせる。
『…でも、これでようやく会える』
 それが、この島に来る前に別れたきりの友人達のことであると…ヴァンは疾うの昔に承知していたはずだった。実際に見たこともある。他でもない、「海神の御子」レオンと、旧王家の後胤たるルイ=シェランシア。ツァーリの軛から解き放たれた後のシェノレスを担う者たちだ。
 ヴァンは、大神官リュドヴィックの命を受け、彼らの股肱、爪牙、そして翼となる次のネレイアの長…アンリーを鍛え上げるためにこの島へ連れてきたのだった。
 ヴァンはその役目を果たした。だから、アンリーは巣立ってゆく。それは最初から決まっていたことであった。
 それなのに今、時満ちて旧友の許に帰れることを素直に喜んでいるアンリーを見て…胸奥に重石のようなものを感じてしまう自分を…ヴァンは嗤う。そしてただ、気怠けだるさに負けたふうを装って身を横たえ、目を閉じて言った。扉を開けて出て行く姿を見送りたくなかったのかも知れない。
『…行くか』
『…ああ』
 蔀戸を降ろす音がした。そして、足音。だがそれは扉の方へ向かなかった。
 かすかに牀が軋み、熱を孕んだ柔らかいものがヴァンの唇に触れる。
『戦が終わったら…一緒に、南の海へ行く約束だ。…だから、それまで身を厭ってくれ』
 触れたかと思うとすぐに離れ、耳朶を食むようにして囁かれた言葉は、何かを抑え込もうとするような響きを持っていた。
 ヴァンが目を開けると、間近にある潤んだ紅榴石ガーネットは透明な雫を零す寸前であった。
『そんな悲愴な顔をするな。そう簡単に死にはせん』
 手を伸べて、ヴァンはその雫を拭う。アンリーはヴァンの病を知っている。彼からは叔母にあたるアニエスのように、命を落とすこともある病だが、その予後にはかなり幅があることも。
『だから、身体を厭えといっている…』
『分かった、おとなしくしておくさ。何せ、もう俺は隠居の身だ。…行ってこい、アンリー。待っているさ、約束だからな』
 そう笑って見せた。それに応じてアンリーが浮かべたのは苦笑と言うべきだったが、ようやく区切りを付けたように身を離した。
『…行ってくる』
 立ち上がったアンリーが、扉を開けて曙光の中へ溶け込んでいく。見るつもりのなかったその光景を、ヴァンは結局微かな吐息とともに見送った。
 そのまま暫く伏せっていたが、すがしい陽光が蔀戸の隙間から薄暗い草廬の中へ差し込むのを見てゆっくりと起き上がる。…刻限だ。
 蔀戸と扉を開け放ち、草廬を後にする。そうしてここまで来た。
 細い径を降り、波打ち際の岩礁へ座を占める。穏やかな波に足先を洗わせながら、ヴァンはいまや帆を上げんとするその船を眺めた。
 いつか、南の海へ。その約束を果たす為にはこの国からツァーリという軛が取り除かれねばならぬ。そのための最初の狼煙が上がる時が近づいていた。
 ツァーリ総督府襲撃計画だ。
 エルセーニュにはツァーリから派遣されてくる総督の公邸と総督府がある。専用の港を持ち、当然だが軍も駐留している。まず最初に、此処を叩く。ツァーリ総督イサーク=フェイギンの首級を挙げ、駐留軍を殲滅するのだ。
 そのために、アンリーはエルセーニュに向けて発つ。表向きは神官府衛視寮の武官としてだが、実質的には大神官の代理者、そしてネレイアの統領として神官府の擁する「海神の御子」レオンを補弼するのである。
 ――――碧空に帆が上がり、船が波の上へすべり出る。出帆の瞬間はいつ見ても美しい…。
 帆影が碧空と水平線の狭間に消えても、ヴァンは暫くその岩の上に座していた。
 ネレイアの統領としての役目は、総てアンリーに引き継いだ。隠居の身、という言葉に嘘はない。今のところ日常生活に然程不自由があるわけではないが、もはや戦場に立つ程の体力はなかった。ついて行ったところで足手纏いにしかならぬ。

 ――――だが、まだやらねばならないことが残っている。

***


 軍を整える為に一旦エルセーニュ南方の島・オートヴィルに集結するアンリーたちに先んじて、ヴァンは単身エルセーニュに入った。
 アンリーを預かってから、ヴァンはエルセーニュの土を踏んでいなかった。『ジュスト=ブランシュ』がメリベル島の観測護衛任務中に殉職・・してから、リュドヴィックとの連絡は基本的に書簡だったのだ。死人・・があまりおおっぴらに国都を動き回るわけにはいかない。
 そうしてもう、十年近くが経つ。
 往時であれば総督府、総督公邸の周囲はツァーリの兵士たちが居丈高に固めていた。だが、滅多と出府しない総督の下で綱紀は弛んでおり、侵入するのは訳はない。夜陰に紛れれば尚更。
 ヴァンは公邸の窓の一つから、眼下の港を見た。昏い湾内を縁取るように衛士の篝火が焚かれている。だが、それだけだ。まだ静かなものだった。
 エルセーニュ駐留のツァーリ軍の拠点たるコルマール港。総督府、そしてこの総督公邸、その三カ所を同時に襲撃・制圧する計画であった。計画は数ヶ月にわたって綿密な調査と準備がされている。明け方までには…間違いなく駐留ツァーリ軍は壊滅するだろう。
 ヴァンはかつて異なる姿で足繁く出入りしたその部屋を捜し出すと、静かに扉を開けた。
「――――誰だ。呼んではいないぞ」
 灯火は中央の卓の上に置かれた灯盞ひとつ。薄暗い部屋の中で…誰何の声は、ヴァンが予想したよりもかなり間を置いてから発せられた。しかも、発した当人はこちらを振り向きもしない。広い部屋にただ独り、侍者さえ控えさせてはいないのも昔のまま。あの頃も用があれば呼び鈴で呼ぶ、と身近にあまり人を置きたがらなかった。
 ヴァンはその問いかけにいらえることなく、歩を進めた。ようやく、寝椅子に凭れていた人物が酔眼を重たげに開く。
 不審げにすがめられた眼が、僅かに見開かれる。
「…メジェド?」
 緩慢に身を起こした部屋の主…ツァーリ総督イサーク=フェイギンは、酒杯を卓に戻そうとして失敗しくじった。卓の上を酒杯が転がったが、それだけだ。杯は疾うに乾されていた。舌打ちしてから、杯を置き直して傍らの酒器から自ら酒を注ぐ。
「随分と久し振りだな。…店は畳んだと聞いたぞ。どうした、その姿なりは」
 頭に巻いた薄布の端から、陽に灼けて白っぽくなった髪が覗いているのを言ったのだろう。注いだ酒に僅かに口をつけた後、イサークがくつくつと低く笑う。…ああ、あの嗤い方だ。自分を含めた世界のすべてを嘲笑するような。
「…商売に失敗して、老け込んだというていではないな。そうか…それが本来・・の姿か」
 ゆっくりと、ヴァンが近づく。それに頓着する様子もなく、イサークは酒杯を傾けた。
「呑むか?…ああ、もう…メジェド、ではないのだろうな」
 杯を置き、酒を注ぐ。指先でつ、とヴァンの方へ杯を押しやった。
 ヴァンは寝椅子に身を預けたままのイサークの前に回り、その杯を取った。一口含んだが、咄嗟に目許が険しくなるのを止められなかった。あまり質の良くない酒だ。港の荷運び人足の溜まり場で振る舞われる安酒とまでは言わないが…少なくとも『メジェド』が出入りする頃には決して総督府ここで卓に上がることのなかった類のものだ。
 こんなものを平気で呑める程、舌がおかしくなったか。
 もともとそれほど体格に恵まれた男ではなかったが、更に痩せた。皮膚の色は悪く、唇ばかりが病的に紅い。
「そうか、不味いか。そうだろうな」
 そう言って、嗤った。酔眼を薄く開けているだけにしては、よく見ている。ヴァンは机の上から杯を取り、残りを呑み乾した。
「お前がここに来たということは…まだ…私になにがしかの用があってのことだろう?」
 口を緘したままのヴァンを一瞥し、イサークが杯を置いて濡れ光る朱唇を手の甲で拭う。
 それでも返らない答えに、イサークが俯いてまたくつくつと低く嗤う。だが、ふとその嗤いを消し…強請ねだるような…それでいていどむような上目遣いでヴァンを射た。
「お前の用事は…言い出しにくい話らしいな。では、私から訊こう。
 …もう、抱いてくれないのか?」

***

 イサークの痩せた首筋を伝い落ちる汗が、細い灯火の揺らめきを反射する。
 長椅子に掛けたヴァンの腰の上に跨がり、その屹立を身の裡に収めて…イサークは喘ぎながらその身を撓らせていた。より強い刺激を求めて狂おしい程に身を揺すり、繊弱な腕でヴァンの身体を長椅子に押し付ける。反り返った喉、開いたままの唇からは意味を成さない叫びが止めなく零れ落ちていた。
 その狂態を、ヴァンは透明な眼差しで眺めている。だが、そっとその指先をイサークの身体の中心で熱を持ち猛るものに添え、更に追い上げた。
「…あっ…んんっ…!」
 イサークはヴァンの掌の中で呆気なく達し、のたうちながら先端から白濁を、薄く開いた両眼から涙を零した。虚脱してヴァンの上に覆い被さると、今度は熟れて尖りきった紅点が汗に濡れた身体の間で押し潰される刺激に狂喜しながら、しがみついてその唇を求める。
 ヴァンがそれに丁寧に応えてやると、イサークはそのまま二度、三度と背を戦慄わななかせ…遂に果てた。
 その瞬間、強く締め付けられて僅かに眉根を寄せたものの、ヴァンはぐったりとしたイサークの身体を寝椅子へゆっくり横たえる余裕を残していた。
 ヴァンが身の裡から出て行く感触に、イサークが細く切なげな声を上げて手を伸べる。だが、ヴァンはその手に掌を重ねることで宥め、身体を離した。
 諦めたように寝椅子に沈んだイサークに、先程脱がせた服をかけてやってから…ヴァンは服を纏う。
 続き部屋の扉を押し開け、更に露台バルコニーへ出た。
 ――――眼下の港を縁取る篝火が増えつつある。始まったのだ。
 陸風が凪いで、潮の匂いを含んだ少し強い風が吹き始めている。通常の海風とは違う。嵐の予兆を孕んだ、湿り気を帯びた風だ。明け方、嵐が来る、と海神の御子レオンは明言したという。当初からその風に乗じての襲撃計画だ。
 雨の匂いのする風は、明け方には駐留するツァーリの軍船を焼く匂いに変わるだろう…。
 ヴァンの唇から深い吐息が漏れる。その吐息に、途中からこがらしのような音が雑じった。
 それに誘発された咳とともに鉄の匂いが気道を駆け上がってくるのを感じ、咄嗟に頭に巻いていた布をとって口許を押さえる。大した量ではない――――。
 呑み込み損ねた僅かな量が、口許に当てた布にあえかな緋の花を散らした。
 ヴァンは口許を拭った布を懐へ押し込み、部屋の中を見渡した。此処を執務室に使っているのも変わりがないようだ。
 昨今では総督が総督府へ出府するのを渋り、公邸に引きこもったまま決裁を行っているという情報は、執務用と思しき机に置かれた印璽の箱を見る限り、確からしかった。本来は総督府で管理されるべきものである。箱を開けて、中身を確かめる。ツァーリ総督の印璽は確かにそこにあった。
「…目的はそれか?」
 続き部屋の入り口に、イサークが立っていた。一応の身繕いはしたようだが、乱れたままの髪や少し曲がった帯がしどけない匂いをまとわりつかせていた。
 ヴァンはイサークを一瞥し、印璽を箱に戻した。
「どうした?持っていかんのか」
 イサークの声は嘲弄するような響きを含んでいた。ヴァンは薄く笑み、イサークに向き直る。
「案ずるな、じきに…緋の風神が直接、これを召し上げに来る。お前の命と共に」
「ほう…」
 イサークは動じることなく、緩慢に執務机についた。
「大侵攻の折、ヴォリスの手を焼かせたというあの緋の風神か。何処ぞの岩牢に生きながら葬られたと聞いているが…それが甦って来ると?」
 一度背凭れに身を預けてから、執務机に肘をつき、さも面白そうにヴァンの顔を覗き込む。…全く他人事。ただ無関心なのか。それとも韜晦か。達観か。
 ヴァンはゆっくりと歩み寄ると、イサークの頬に手を伸べ…するりとその喉に手を滑らせた。喉から首筋をなぞる感触に、イサークが陶然と眼を細める。
 ヴァンは静かに宣告した。
「ああ、甦った。もうじき此処へ来る。…そして今度は、お前が海神わだつみのかみへの供犠となる」

***


 その日、エルセーニュの南・オートヴィル島に集結したシェノレス軍は、総督府をルイ、軍港をレオン、そして総督公邸をアンリーが率いる隊で襲撃…翌朝までにエルセーニュに駐留するツァーリ軍を壊滅させ、総督府の公印を奪取、ツァーリ総督イサーク=フェイギンの首級を挙げた。
 大神官リュドヴィックはその日のうちに総督府による支配の無効、および総督の管掌するすべての権限を神官府へ移管することを内外へ宣言した。またツァーリに対してシェノレスの領土・領海に存在するすべての拠点からの撤退を要求したのである。
 世に言う、シェノレス国土回復戦争がここに始まる。

***


 大神殿の崖下。波荒く危険な場所であることもそうだが、基本的には祭儀場であるから人が来ることは少ない。それゆえ、ネレイア達がエルセーニュに出入りする場合の拠点ともなっていた。
 襲撃の成功にエルセーニュの市街は沸き立ち、神官府はそれまで水面下の活動に留めてきた「シェノレス軍」を公のものとして整えるために忙しい。だが、アンリーは言い知れぬ焦慮に陣を抜け、この岩角切り立つ波打ち際へ降りてきていた。
 アンリーが総督公邸を制圧し、ツァーリ総督イサーク=フェイギンを捜し当てた時、総督は公邸の私室、執務に使っていたらしい部屋の机についていた。しかし、おそらくはその時…既に息切こときれていたのだ。
 アンリーも扉を開けて2歩ほどでそれに気付いた。だが、そのまま一気呵成に踏み込みその首を刎ねたのである。
 何かの罠の可能性を考えなかった訳ではない。しかし、必要なのは『ツァーリ総督の首級しるし』であり、『総督の公印』であった。だからそこに迷いはなかった。
 首級と公印を本陣へ届けさせ、アンリーは残って遺骸と部屋を検分した。室内に争った形跡はなく、遺骸には切断面を除いてやはり目立った傷はない。ただ、刎ねた首の後ろにごく小さな刺傷があったことは、首級を届けさせる前に素早く確認していた。髪で隠れる部分であったし、文字通り針で突いた程の傷である。疑ってかからなければそもそも見つけることさえ難しいその傷の意味を…アンリーは知っていた。
 何者かが、襲撃に先んじて侵入し…最も苦痛を長引かせない方法で総督の命を絶った。そして、目的のもう一つである公印を目立つ場所に置き直し、姿を消したのだ。
 そんなことが可能な人間を、アンリーは一人しか識らなかった。
『待っているさ。約束だからな』
 リジューにいるはずだ。待っていると約束した。
 だが、鮮やかすぎる手練と、明らかに総督の首を刎ねた場所とは関係のない位置に落ちていた緋の飛沫が、アンリーの脳裏で悪い想像を掻き立てる。
 コルマールの軍港襲撃をより迅速に成功させるために最大限利用した嵐は、エルセーニュから去りつつあった。だがまだ風は強く、只でさえ波高いその海岸の視界を波飛沫で遮っていた。
 考えすぎならよい。何より事の成否はこの一戦にかかっていた。まだシェノレス軍がきちんとした形を成していない為に、とにかく戦える者は総動員したというのが今回の戦だ。あるいは急遽手空きの者が出たのでヴァンがネレイアの中から別働隊を組ませて支援に回したということだってあり得た。そうだとしたら、エルセーニュから離脱するにはここを使うはず。
 波飛沫が踊る海岸を、アンリーは歩いた。
 白と灰色と黒の世界の中に、不意に緋色が過った気がして眼を凝らす。
 波打ち際から少し陸寄りの岩場で、緋色というより淡い茜色が風で揺れていた。ヴァンがいつも頭に巻いていた布の色。昔はもっと鮮やかな赤であったが、陽で褪せていたのだ。
 岩陰に凭れかかるようにして、ヴァンはその布を手にしたまま砂の上に座り込んでいた。その布は確かに淡い茜色であったが、緋の花を散らしていた。それだけでなく、胸元から膝辺りに至るまで、その衣服はべっとりと緋に染まっている。
「――――っ!」
 おそらく、声にならない叫びを上げてしまったと思う。何と言って駆け寄ったのか、既に憶えぬ。
「――――どうして!」
 傍らに跪き、その緋色が傷ではなく喀血1 によるものであると気付いても、俄に混乱がおさまるものではない。
「済まんな。待ってるつもりだったんだが…待ちきれなくなった」
 ヴァンは緋色に染まった口許で殊更に笑い、その手をアンリーの頬に伸べる。

「悪いが、先に行く。お前が成すべきことを成したら、また逢おう」

 頬を滑る指先に掌を重ねて、アンリーは必死に言葉を探した。繋ぎ止める言葉を。
 だが言葉は見つからず、ただ氷のような指先に体温を渡そうと、頬に押し当てる。その口許から漏れるのは、微かな嗚咽だけ。
 もう繋ぎ止められない。そのことは判りすぎるほど判っている。
 判りたくなどなかったのに。いつか来るとわかっていた。避けられないと識っていた。だが、今日この瞬間でなくてもよかったのではないか。子供の駄々にも斉しいと理解っていながら、そう思わずにいられない。細い嗚咽を零しながら、波に濡れて冷え切った身体を包み込んだ。そして、唇を求める。
 いつもはこの上なく甘やかな感触だけを返すその行為が…呼吸が停まるほどに何度も深く口づけ、幾ら激しく舌を絡めても、今日ばかりは血の味しかしなかった。
 それが哀しくて、そっと離れる。啜り泣きながら、アンリーは緋色に染まったその胸元に額を寄せた。
 ヴァンの腕が緩慢に持ちあがり、優しくアンリーの震える背中を撫でた。そして背を覆う緋の髪を指に絡める。
「お前の成すべきことを成せ。そのために俺はいた。あがないきれたかどうかはわからんが…」
「あなたが贖いたかったものが何かなんて、私は知らない。でも、あなたはたくさんのものをくれた。…私にはそれで十分だ」
「そう、か…」
 ヴァンが細く吐息した。
「…いつか…海流の…向こうで…」
 そして、声が途切れた。

***

 嵐は去り、穏やかな夕凪が夕陽と共にエルセーニュの海岸線を包み込んでいた。
 典薬寮頭てんやくりょうのかみクロエは、エルセーニュ東岸の険しい海岸を歩いていた。
 今日のような嵐の日には、思わぬ寄物ヨリモノ2 と出会えることがある。貴重な薬種が拾える場合があるから、彼女は敢えて岩の多い神官府の崖下を歩いていた。
 濡れ光るような鴉羽色の髪を後頭部で結い上げて簪で留め、武官用の丈の短い神官衣と脚衣ズボン、足元は山野を歩くときには足首をきっちりと覆う革靴だが、海岸を逍遙するときには岩角にもしなやかに対応できる革鞋サンダルに包んでいる。岩だらけの海岸線をまるで整えられた庭でも歩くような滑らかな足取りで踏破する彼女は、衛視寮の猛者もさでも敵う者はないという棒術と体術を修め、典薬寮頭となった今でも本殿に居ることの方が少ないといわれるほどよく出歩く。典薬寮頭補佐が激務といわれる所以ゆえんであった。
 そのクロエが、ふと足を止めた。
 夕凪の海岸に一人佇む神官衣の青年に眼を留めたのである。夕陽よりもなおあかい緋色の髪。クロエと同じ、武官用の丈の短い神官衣と脚衣に身を包んでいるが、その神官衣の胸元や袖には大きな緋色の華が散っていた。
「…アンリーか?」
 血の緋色の髪を持つ神官なぞ、そうざらにはいない。大神官の次男、神童と謳われながら海神に奉献され波の下の者ネレイアとなってエルセーニュから姿を消した少年の名を、クロエは呼んだ。ルイと同年。生きていれば、このくらいになっているはず。
「…はい」
 立ち尽くしたまま茫洋とした眼差しを水平線の彼方に投げていた青年は、ゆっくりと彼女のほうを向き…ややあって、その名で呼ばれることを肯定した。
「久し振りだな。どうした、その姿なりは。戦傷か?」
「…ご心配をお掛けして申し訳ない、典薬寮頭…クロエ殿。私の血ではないのですよ。…今、ヴァンが…海に還りました」
 彼女の言葉が、緋色に染まった神官衣のことを指しているのに気付いたらしい。しかし、指先で沖を示して告げた言葉は、至って恬淡としていた。
 クロエはヴァンというその名が、現世と縁を切りネレイアとなった者に与えられる名前の一つである事を識っていたし、昨夜から今朝にかけてエルセーニュで行われた戦闘のことも了解していた。
 だからその短い言葉の中で…クロエは彼がたった今、戦闘で命を落としたネレイアのひとりを水葬に付したことを理解したのだった。
「そうか…魂の安からん事を」
 クロエはその場で沖に向かって跪き…死者を悼み、その魂の安寧を願う簡潔な祭文を詠じた。
 綿密に計画された今日の襲撃は、表面的には一方的な勝ち戦であった。しかし、傷つく者、命を落とす者がいなかった訳ではない。奪われたものを剣もて取り返すとはそういうことだ。
 典薬寮頭クロエは挙兵をを比較的早くに知らされていた数少ない者のひとりであるが、ツァーリへの反撥はあっても、その軛を取り除くために戦という手段を用いることに対しては…静かに粘り強く反対してきた。だが、事ここに至っては、それを言い立てても始まらぬ。自身にできることを成すだけだ。
典薬寮わたしたちもできるだけのことはするが、戦が終わるまではこれが日常になる。果たさねばならぬ責務もあろうが、まずは身を厭え。それが先に逝った者への追善となる」
 クロエは立ち上がり、瞑目し彼女の祭文を静聴していた青年を改めて見た。おそらく、旧い友人が大神官リュドヴィックの命を受けて育て上げた、〝緋の風神〟の後身。
「海に還った魂は…何処へいくのでしょう」
 その朱瞳を開いたものの、その視線は何も捉えていないように見えた。なかば呟くような言葉は、本来ならば神官たる身が発する問いではない。だが、クロエはそれを咎めだてはしなかった。神職とて、波の下の者ネレイアとて、ちかしい者が逝けば哀しい。この青年が求めているのは正しい答えではなく、抗い難いものを受け容れるための時間なのだろう。
 クロエは暮色を深めつつある水面を見て…ゆっくりと言葉を択んだ。
「…そうさな…祈禱書に倣えば海神宮わだつみのみや御祓みそぎを経て、また人の世に戻るというが…海の向こうは海神宮などではなく、人の住める地があって…いつかそこへ渡るのだと言った奴もいたからな。本当のところはわからん」
 答えながら、クロエの口許にはあえかな微笑が泛ぶ。子供の頃、旧い友人が語った夢を思い出したのだ。真実かも知れないし、荒唐無稽な夢想かも知れぬ。クロエにとっては遠い夢よりも他にやるべき事があったから、積極的な興味を持って調べたことはなかった。だが今、脈絡もなくそれを思い出したことが何故となく可笑しかったのである。
「…そうですね。誰も見たことがないのだから」
 青年の答えはやはり呟くような調子ではあったが、その朱瞳は今確かに水平線の彼方を捉えていた。
 青年が丁寧な辞去の礼をとって神官府の方へ戻っていくのを見送って、クロエは再び波打ち際に沿って歩き始めた。
 凪の時間が終わり、風が動き始める。
 ヴァン。…風か。おそらく本名ではあるまいが、佳い名だ。顔も、どんな人物だったかも知らぬ。どんな任に当たり、何故命を落とすことになったのかも。だが、祈禱書に従えば…海神宮へ還ったなら、その功も罪も総ては洗い流される。
 今はただ、安らかであらんことを。
 クロエはふと足を止めた。先年、授かった生命のことに思い至ったのだ。
 神官府寮頭りょうのかみとしての責務と自身の理想との乖離に煩悶し、薬種集めを口実にエルセーニュを離れていたときのことだ。異界に迷い込んでいたかのような半月ほどのえにし。それこそ常世国ニライカナイの御使と紛う程に憂世離れした…異国の客人まろうどとのえにしがもたらした生命。今はまだ漠然と坊やmon petit coco、と呼んでいるその子も、もうじき三歳になる。そろそろ正式な名を与えてやらねばならないだろう。
 
「ヴァン・クロード…」
 ふと、その名がうかんだ。口に出してみる。
 悪くない。クロエは再び、夕暮れの海岸線を歩き始めた。

 

――――――――Fin――――――――

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  1. 喀血…気道から出血すること。胃などの消化管から出血した場合は吐血。
  2. 寄物(ヨリモノ)…漂着物のこと。