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ファルーカ1 の商人メジェド。それが、その時の名だった。
「…それで?」
身繕いを終えて机上にある別件の報告書を手にしながら、大神官リュドヴィックは、感情と疎遠な声でそう尋ねた。
エルセーニュ、神官府。シェノレス大神官の私室である。
ジュストは緩慢に褥から身を起こした。…身体が重い。つい先程まで褥を共にしていた相手が平然と職務に戻っているのを見ると、妙な敗北感にさえ似たものが胸奥に蜷局を巻く。
褥での激しさに比し、牀を離れたその瞬間に総身が氷に置き換わっているのではないかというような…リュドヴィックの無機的な言動は、いつもの通りであった。
「孺子相手にしか勃たぬかと揶揄ったら、堕ちるのは早かったな。…何のことはない、自分より非力なものにしか手を出せなかったというだけのことだ。おおかた、手を出すより出されるほうだったのだろうよ」
緩々と服を纏ってから、落ちかかる薄墨色の髪を些か雑に括る。もともと陽に灼けて白っぽくなっていたから染め易くはあったが、『メジェド』として振る舞うために染めた髪は、あまり手触りが良いとは言い難い。
「使えそうか」
「腐ってもヴォリスの一門だ。…それなりに」
「わかった。では、予定通りに」
ファルーカの貿易商を装って近づいたジュストの、醜聞の証拠を握っているという恫喝に…若い総督はいとも簡単に動揺した。
「貿易商メジェド」が最初に要求したのは、総督の財布に打撃が来ない程度の金銭、そして通商上の優遇措置。それらは真意を隠すための小道具に過ぎない。
ジュスト、そしてリュドヴィックが真にイサークから引き出そうとしたのは、王都の内部情報であった。
醜聞をちらつかせて脅し、小金をせびってみせることで油断させ、秘密の共有を背景に甘い言葉を流し込む。出させた金銭にさらに色をつけた進物を届ける。終にはそもそも恫喝が近づく為の方便であったように思わせて、味方であると信じ込ませる。そのために利用できるものは何でも利用したのだった。
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――――――ツァーリ総督、イサーク=フェイギンが着任したのは、大神官リュドヴィックが即位し、それと引き換えるようにその妹アニエスがツァーリ王太子カスファーのもとに入内して数年後のことである。
前総督の逝去に伴う人事であった。イサーク=フェイギンはヴォリスの係累ではあるものの…いわゆる末流である。ナステューカの要職にありつけず、辺境の総督府にようやく職を得たのは見え透いていた。
大侵攻後百五十年を経過し、ツァーリ総督という役職の意義は忘れられつつあったのだ。
その前任者と同様、イサーク=フェイギンもまたツァーリ総督の地位を蓄財の拠点としか考えていなかった。過大な欲は張らない。ただその地位に座ることで恣にできる権力だけを望む。有能ではないが、度外れた無能者でもない。決められた枠内での放蕩に身を浸す、小心な若いツァーリ貴族。大神官リュドヴィックにとっては、端から御しやすい相手と見えてはいたであろう。
だが、そのリュドヴィックさえ想定しなかった事態は発生した。
イサークは私兵を以て、エルセーニュで子供を掠わせていたのである。一度に何人もというわけではなかったし、その間隔も月の単位であいていたから俄に露見しなかっただけだった。最後に姿を消したのが、他ならぬリュドヴィックの末子でなければ…もうしばらくは誰にも知られぬままであったかも知れない。
アンリー。叔母によく似た緋の髪と深い紅瞳、整った顔立ちの子供であった。神童との呼び声も高く、既に神官としての勉学は始めていたが、世間並みに街の子供たちと遊んだりもしていた。そのため単独で神官府のある東の丘とエルセーニュ市街を往復することも珍しくはなかったのである。
東の丘とエルセーニュ市街を結ぶ道は相応に人通りがあるが、沿道にずっと人家があるわけでもない。一歩道を外れれば薄暗がりも存在した。イサークの私兵はおそらくそういった場所に伏せて、これと見た子供を掠っては主人に供していたと思われる。
その道を通る子供といえば多くが神官府から使いに出された巫女か神官見習いで、身寄りのない者も多くいた。姿を消しても修行の辛さに逃げ出したと思われた例もあっただろう。しかし他ならぬ大神官の直系が姿を消せば、衛視寮が動く。当時既に衛視寮に身を置いていたジュスト=ブランシュはその捜索と奪還に関わった。
イサークにも、それなりに後ろ暗いことをしているという認識はあったのであろう。掠った子供が監禁されていたのは、幸いなことに公邸とは別にイサークが名を隠して借り上げていた邸であった。だからこそ、衛視寮が踏み込めたのである。総督公邸に隠匿していれば、わかっていても手が出せなかったところだ。
アンリーは無事保護された。ただ、相手はツァーリ総督だ。たとえ大神官といえど表立って非を鳴らすことなど出来よう筈もなかった。
だが、当然だが総督なら何をしても許されるというわけではない。子供を掠って私邸に隠匿していたという事実は、王都に知れれば流石に失職もあり得る醜聞だ。リュドヴィックにとっては奇貨というべきであった。
イサーク=フェイギンという駒は利用できるか。ジュストはファルーカの商人メジェドとして近づき、探りを入れていたのだった。
***
「緋の姫が…近々帰されるぞ」
気怠げに寝返りを打ちながら、イサークが呟くように言った。『メジェド』は一瞬その意味が繋がらなくて、思わず声もなくイサークの姿態を凝視する。
「病を得ている。故郷に帰り、その身を癒やせとの御諚だ。…ニコラ陛下がご存命ならそんな話にもならなかっただろう。ただ、言っちゃ悪いが、今上は宰相の言うなりだからな」
くっくっと、褥に伏せたまま裸の肩を揺らしてイサークが嗤う。
「緋の姫、アニエス妃…先王ニコラ陛下の覚えめでたく、今上陛下もぞっこん。美しく聡明で、人当たりが良い。ヴォリス宗家のレリアなんぞとは雲泥よな。それでも…いや、だからか…ジェドが警戒すること甚だしい。…まあ、立派な世嗣の御子まで産みまいらせたとあっては、無理もなかろう。
だが、人質は一人いれば十分だ。療養を口実に王都を逐われる、というのが真相だな」
思わず、ジュストは奥歯を噛み締める。呆れる程に繰り返された、ツァーリの論理。彼らにとってのごく常識的な見解。それが解っていても…咄嗟にイサークの首根を抑え込み、その呼吸が停まるまで締め上げたい衝動に駆られる。
しかし、『メジェド』はその衝動を辛うじて抑えた。その代わり慎重に…イサークの首筋から脇をゆっくりと撫でながら訊く。
「宰相閣下はやはり、ヴォリスの血を受けた王子を登極させることがお望みか」
俯せたイサークがねだるように僅かに上体を捻るから、望みの場所に指先を滑らせてやった。先程からの動きで褥と擦れ、紅く熟れた紅点を探り当てると、可能な限り優しく摩り立てる。掠れた声を上げてイサークが腰をひくつかせた。
「…さてな、ノーアの姫君さえ…娶ったはいいがよく言って飼い殺しにしたような御仁だ。あの鉄面皮の下で何を考えているかなどと、この世の誰も理解るまいよ」
「しかし宰相閣下の娘御も男児を産みまいらせた由。まずは順調、狙い通りというべきだろう」
メジェドが褥とイサークの身体の間に手を差し込んだまま、震える背に身を重ね、背骨に沿って唇を滑らせながら問う。イサークは蕩けた眼を半ば閉じたまま前後同時に与えられる感覚に息を乱し、下肢を震わせながら答えた。
「そうでもない…娘所生の子は繊弱で…成人どころか3歳まで生きられるかどうか…というていたらく。対して緋の姫所生の男児は至って健康、なかなか利発でもあるそうな。まあ、利発過ぎても扱いにくかろうが…あの御仁にとっては…自分の手許で上手に育て上げれば手駒と変わるまいて。
だが、緋の姫の子からしたら…むしろその方が、幸せかもしれんな。多少窮屈かもしれんが、いずれは国王陛下だ。…ぁ…っ…」
褥から浮き上がった身体を滑る指先が、下肢の間…再び熱を持ち始めた部分まで到達し、イサークが息を停めた。
「そう…か。…それで?宿下がりはいつ頃と?」
一瞬だけ握り込まれた後、柔らかく摩られ…イサークが震えながら詰めた息を逃がす。
「もう間もなくだ。…多分、来月には。
メジェド…精々、商品をしっかりと仕入れておくのだな。王子の乳母一家以外、殆どの側近が帰される。…そうなれば何かと物いりだから、暫く市場が活気づくだろう」
「それはよい…」
メジェドはそう言って笑ったが、笑声をたて、口許に笑みを浮かべても、自身の目が笑っていないであろうことは自覚していた。つくった笑みが引き攣りそうだったから、敢えてイサークの弱い部分に指先を進めて、幾分強引に煽り立てる。
イサークが嬌声を上げて身を反らすのを冷えた眼差しで見遣り、メジェドは敷布を千切れんばかりに握りしめることで…噴き上がる感情を押し込めた。
追い上げられ、熱の解放を求めて浮き上がってきたイサークの腰を些か手荒く引き上げると、メジェドは望みのものを与えた。
呵責ない動きになったのは、企んでのことではなかったが…イサークが褥に顔を埋めて喘ぎ、高価な敷布に涙を零しながら遂に果てるのを見下ろした時、冷たい石塊のようなものが胃の腑へ転がり落ちた気がした。
『メジェド』には、それが何であったのか…まだ解らなかった。…その時は。
***
もう、明け方が近い。リュドヴィックは例によって既に牀を離れ、椅子に身を預けて机に置かれた数枚の書簡を繰っていた。
「…ひとつ、訊いていいか」
漸う身繕いを終えて立ち上がり、リュドヴィックの私室を出て行きかけて、ジュストはふと足を止め、問うてみた。
「リュディスは俺が…逆に丸め込まれてお前を刺しにくるという可能性は考えてないのか? この状況なら、俺がお前の息の根を止めることはそう難しくないぞ」
リュドヴィックの膂力が見た目より遙かに凶悪であることは、ジュストが身を以て経験済みだ。だが、ジュストが暗器を持ち込んで不意を突けば。
しかし…一応顔をあげて応じたリュドヴィックの答えは、やはり淡々としていた。
「…そうだな、お前ならできるだろう。だが、お前があの程度の男に丸め込まれる理由がない」
「…信用されていると思っていいのか、それは」
「解釈は自由だ」
そう言ってまた報告書に目を落とすリュドヴィックを見遣って…ジュストは思わず嘆息を漏らす。そうだ、こいつはこういう男だ。
理由などいくらでも立つ。例えば、報告に戻る度に褥に引きずり込まれることにいい加減で嫌気が差したとか。あるいは総督の地位を餞別に、身内から態の良い厄介払いをされて孤立感を募らせているところへ…この大神官にいいように利用されていることに気付きもしない哀れな男に同情したとか。
だが、現状からあり得ないと判断すれば全く頓着しない。畢竟、イサーク=フェイギンも自分も…リュドヴィックの掌の上ということに関して何ら違いはないのだろう。
そう思うと…正直あまり心地好くはない。
リュドヴィックの細作として動くようになってからは各地を転々とする生活であったが、商人メジェドとしてイサークに近づき、情報を引き出す任についてこのかた、エルセーニュにいることが増えた。自然、リュドヴィックに報告しに来る機会も多くなっている。
リュドヴィックがジュストの報告を執務室で聞く事は決してない。それはジュストの扱う情報の性質上、至極当然なことであった。
だが私室に入れば、リュドヴィックはほぼ例外なくジュストを褥に沈めた。報告を終えてからの事もあるし、その逆もある。だが一番困るのは、最中だ。
物も言わずに牀に押し倒し、意識を保っていられるぎりぎりのところまでジュストを追い上げてから、ゆっくりと耳朶を食むようにして経過報告を要求するのだ。…愉しんでいるとしか思えない。
何を愉しむ?…達し損ねて喘ぎ悶えるジュストの狂態以外の何物でもなかろう。そこまでして…苛まれなければならない理由があるというのだろうか。
快楽に屈服させられることに馴れたくはない。だが、馴れなければ狂いかねなかった。
「…なあ、リュディス」
ジュストの呼びかけに、最初リュドヴィックは顔さえ上げなかった。だが、続けた言葉におもむろに顔を上げ、ジュストを見た。
「俺が…赦される日は来るのか…?」
答えまでには、暫く間があった。
「赦す? …誰が、何を?」
大概、命令形か断定形の言葉が、珍しく疑問形だった。
「何でもない…」
もう一度嘆息して、ジュストは閨を出た。