珠が触れ合う音がする。
 澄んだ音だ。そしてひどくあえかな…
 眼を閉じていても、深い碧と乳白色の珠…それが淡い月光を受けた時の輝きがうかぶ。
 それが現実の音でないことはアンリーにもわかっている。だが、耳の奥で微かにその音がするとき、先程から身体を揺さぶり続ける底なしの快楽が…ほんの少しだけ温かみを添えるのだ。
 柔らかな褥から引き起こされ、膝に載せられて丁寧にいつくしまれれば、身体は正直に善がり狂う。しかし、狂えば狂うほどに身体の奥は冷えていった。総身を震わせ、嬌声に喉をらせても、それは我が身に起こっていることと思えないほどに遠い。
 だからただ、アンリーはその音が聞こえる度に胸奥に点る細い灯火がもたらす、僅かな熱に意識を向けた。
 それは、どんな快楽も及ばぬ…幸福感の欠片。

玉響たまゆら

玉響【たまゆら】

勾玉まがたま同士が触れ合ってかすかに音を立てること。
転じて、(振りかえて思い起こせば)その状態がほんの短い時間であること。
はかないこと。一瞬。

おき

 海神に「奉献」されたアンリーを禁域の海から掬いあげたヴァンは、アンリーを『瑕疵なきネレイアの統領』とするために文武にわたるあらゆる教育を施した。
 そして、記憶さえ定かでない幼時の体験から、触れられることに尋常でない恐怖を持つようになっていたアンリーに…その肢体が武器となることも教え込んだ。
 ――――快楽と共に。
 当初、アンリーが恐怖し、混乱したのも確かだ。だが、武器として使うには制御できなければならない。そうすることが必要なら、ただ受け容れるだけ。手段のひとつにできるようこの身体を仕込む為であったとしても、あるいはヴァンにとって自分の『血の緋色』の眼と髪が…手に入らなかったアニエス形代かわりであったとしても、別に構わない。…アンリーは努めてそう考えるようになった。
 しかし、いつの頃からであったろう。沈黙を前置きに褥に沈められる時、ヴァンがいたずらに優しいことが…徐々につらくなっていった。
 期待してしまうのだ。ほんのわずかな時間で構わない、弟子で、協力者で、後継者…それより他の何かで在れたらいい…と。だから過ぎた快楽に狂わされながらも、ヴァンの眼に映るのが自分でないことに…どうしようもない寂寞を感じてしまう。
 何かを求めること自体が間違っている。そう自身に言い聞かせることで、均衡を保っていたと思う。ヴァンが胸を病んだ頃から、抱かれる回数が減ったことも寄与していただろう。
 教える必要がなくなった。それだけ。他の課題と同じなのだと思えば何も感じなくて済んだ。
 そしてまた、同盟成立のための交渉が大詰めを迎えつつあり、その実務がほぼアンリーの双肩にかかってきたことが…その胸中に石塊いしくれのようにわだかまり続ける寂寞をアンリーの意識から遠ざけてくれていた。
 …銀狐の許へ遣わされるまでは。
 シルメナ国王ルアセック・アリエルⅤ世。即位したばかりの新王は、その容姿と抜け目のなさから銀狐と呼ばれ、その若さにもかかわらず周囲の国々から警戒されていた。ツァーリが戴冠式への列席にかこつけて暗殺しようとしたのも一つにはそれ故であろう。
 彼自身はツァーリの魔手を排除したものの、ツァーリに利用された妹姫ラエーナ・カティスはあえなく落命している。シルメナをツァーリを倒すための同盟に誘い込むにはまたとない好機であった。
 既にリーンとの盟約を九分通り固めた実績は、アンリーにある程度の自信を与えていた。だから、身持ちの堅いことでは定評のあった〝銀狐〟がアンリーの話に耳を傾ける代償として枕席に侍ることを要求した時も、驚きはしたが怯んだわけではない。
 誰の身持ちが堅いと?世評など当てにならぬ。そう思っただけだ。銀狐が供犠を欲するなら差し出せば良い。いずれ、海神に奉献された身だ。それで目的が達せられるなら。
 アンリーは要求を受け容れ、代わりに銀狐を交渉の卓に引きずり出した。交渉の結果も大神官リュドヴィックの命を十二分に果たすものであった。
 それを引き出すまでに、銀狐の褥で何度となく善がり狂わされた。だが、何も感じなかった。銀狐の巧みで執拗な手練手管は、身体を熱くはしても…ただそれだけだったのだ。
 ただ、胸奥の冷たさだけが記憶に残った。

***

 交渉を成功させ、アンリーはその報告をするためにエルセーニュの大神官リュドヴィックのもとへ帰参した。しかしその時、ヴァンがネレイアの統領であることをやめて本拠であるこの島から出て行く…と聞かされ、目の前が昏くなるような感覚に襲われる。
 健康を損なっていることは知っていた。だからこそ、アンリーを交渉の実働に就かせ、自身は後方からの指示に徹していると。
 だが、何故島を出て行く?
 弟子で、協力者で、後継者。だからいつかは自分がネレイアを率いねばならないことは理解していたつもりだった。そのつもりで修練を積んだ。だが、ヴァンがいなくなることは全く別だった。
 南の海への茫漠とした憧憬に背中を押され、父リュドヴィックの命でエルセーニュを離れた孤島に来てからとて…目的を思えば厳しい訓練も過酷な環境も、然程苦痛と思ったことはなかった。
 だがそれが、ヴァンの存在があったからだと初めて気付いた。
 片時も離れていられない、とは言うまい。だが、この島へ帰ってくればヴァンが待っているという思いが、アンリーを支えていた。
 エルセーニュから島へ戻ると、一番に茅屋へ行った。必ずいると思った。そしてそれは間違っていなかった。例によってやや気怠そうに茅屋に身を横たえていたヴァンを見て、堰が切れた。
 緩々と身を起こしかけていたヴァンを褥に押し戻し、初めて…自分から求めた。
 およそそれまで、本気で何かを欲しがるということはなかったと思う。だがその時、はっきりと分かった。銀狐の褥で狂わされる時の…身体と対照的な胸奥の冷たさは、今までアンリーの中にわだかまってきた寂寞とは全く別のものだった。
 自分はただ、ヴァンに必要とされたかったのだ。弟子でも、協力者でも、後継者でもなく。
 後から思えば、なりふり構わぬ狂態としか言いようがなかった。拒絶され叱責を受けるであろうことよりも、自分の裡に見つけた衝動に従うなど…あるまじきこと。
 瑕疵なきネレイアの統領?そんな大層なもの、此処にはいない。
『何故、ただ仕込むためだけに…いつもあんなに優しくした。もっと酷く扱ってくれていれば、望みなんか持たなかったのに…!』
 もう、どうなってもいい。いずれ喪うものなら、今まで積み上げてきたもの全てを壊してでも…それを伝えたかった。
『あなたがいい。…あなたでなくては嫌だ』
 師を組み敷いて泣き叫ぶ姿は、狂気を疑われても仕方なかっただろう。だが、ヴァンは…アンリーに宥めるような口づけを返し、いつものようにその腕に抱いた。ただひとつ、違っていたのは…
『お前が望むなら、此処に居る』
 囁きに近いほど抑えられてはいたが、はっきりとそう告げたのだ。
『何処へも行かんよ。…行くときはお前と一緒に、南の海…海流の向こうだ』
 受け容れられたことに安堵し、狂喜し、銀狐の褥に侍った時でさえ口にしなかったような言葉を…熱に浮かされながら何度口走ったか分からない。
 それでも、いつものように…ヴァンは、傷つけないように細心の注意を払いながら、アンリーを丁寧に追い上げた。それがいつになくもどかしくて、アンリーはもっと強く深く刻み込んで欲しいと泣いてせがみさえした。
 ――――それはおそらく、この幸福な時間ときが…須臾にして消え失せてしまうものだと感じていたからだ。

***

 ――――言葉通り、ヴァンは島に留まった。しかし実務からほぼ手を退き、茅屋に居を移した。
 正式にアンリーがネレイアの統領となった以上、止めだてする理由はなくなったから…アンリーもそれに異は唱えなかった。
 ただ、午睡の仮屋ならともかく、住居としては流石に傷みも激しい。そのため、茅屋の改修はさせた。ネレイア達の中でもヴァンの病を知る者は少なからずおり、砦から少し離れた静かなところで養生させたい、というアンリーの指示は至極尤もなことと受け止められたのだった。
 ツァーリとの開戦が間近に迫っていた。アンリーはシェノレス本島とリーン・シルメナの間を忙しく往復し、その間隙を縫ってネレイアの本拠へも戻った。
 そしてその時は、必ずヴァンの許を訪う。
 改修前は室内なかにいても陽が透いて入る有様、茅屋と呼ぶに相応しいところであったが、さしあたり草廬程度…人家じんからしくはなった。ただ、ひとつしかない牀と机、戸棚はそのままである。統領不在時の至急の案件を捌くために砦へ出向くこともあったが、ヴァンは概ねそこで静かな日々を過ごしていた。
 アンリーが島に滞在できる期日は大抵ごく短いものであり、補給を済ませてすぐにまた発たねばならないことも珍しくはない。
 その日も、夕刻にはエルセーニュに向けて出帆せねばならなかった。
 扉を開けたとき、ヴァンは窓に寄せた机に寄りかかり…蔀を上げて仮寝うたたねをしていた。
「…戻ったか」
 おもむろに眼を開け、ヴァンがゆらりと立ち上った。窓の蔀戸からそっと忍び込む微風が、陽と潮で洗われてすっかり白っぽくなった金髪を揺らす。扉の音で眼を覚ましたばかりといったふうである。眼が覚めきらぬ気怠さか、あるいはまたすこし発熱しているのか。
「夜にはまた出帆する」
「そうか…外は、暑かっただろう。いつもながら慌ただしいな」
 そう言いながら、ヴァンが水差しとコップに手を伸ばす。だが、アンリーはすいと距離を詰め、ヴァンの手が水差しに掛かる前に捉えた。
「…ああ。夕刻までしか居られない」
 捉えたヴァンの手に、掌を合わせて指を絡める。もう片方の腕はうなじに回した。ヴァンを身体ごと引き寄せ、自ら唇を重ねる。
 少し爪先立つような姿勢になったのは、アンリーの背丈がヴァンのそれよりもまだ僅かに低かったからだ。
 呼吸いきをする間も惜しんで、重ねた唇の間から舌を絡める。不安定な姿勢は崩れる寸前にヴァンの腕で支えられたから、アンリーはそのまま身を委ねた。
 唇がようやく舌先に銀糸の橋を架けながら離れたとき、ヴァンが吐息混じりに言った。
「慌ただしいというより…せわしいな」
「…時間が惜しい」
「そうか。…そうだな」
 そのまま、ヴァンがアンリーを抱き上げて傍らの牀に沈める。互いが互いの服を緩め、牀の下に滑り落とし、素肌に指と舌先を滑らせた。
「…少し…痩せた…?」
 ヴァンの胸板に指先を滑らせていたアンリーが、与えられる刺激に身を捩りながら…ふと気遣わしげに薄目を開けて囁く。ヴァンが苦笑して応えた。
「さぁな…お前こそ、きちんと食べて眠っているか?」
「…眠ることぐらい…何処でもできる。でも今は…眠りたくない…っ…あ…」
 首筋から胸へ滑ったヴァンの舌先に紅点を擦られ、アンリーが切なげな声を上げた。
「そうだな…眠らせてやれそうにない」
 唇と舌先で紅点を賞玩しながら、指先をアンリーの下肢の間に滑らせると…兆したものの中心は既に蜜を溢れさせていた。それを指に絡めて、兆しきったものを更に煽り立てる。ねだるようにアンリーの腰が浮いてくるのを、ヴァンは身を起こすことでとどめた。
「…ヴァン…んっ…早…く…」
 不意に刺激を中断され、どうしようもないもどかしさにわずかに潤みさえしている双眼の紅榴石ガーネットが、咎めるようなまなざしで見上げる。それを苦笑で受け止めながら、ヴァンは枕元の台に置かれた塗香の小瓶に手を伸ばした。
 昔からヴァンが傷の治療に使っていたが、その香りは心身を調律する作用があるから、ヴァン自身が荒事から離れても常に手元に置いていることもアンリーは知っていた。
 蓋を開けると、華やかな中にも清爽なあの香りがふわりと褥へ降りる。
 それは確かに懐かしい香りではあったが、何か焦らされているような気がして…アンリーのまなざしが更に非難がましくなる。
「…要らないのに…」
 珍しく拗ねたような物言いに、ヴァンがただ北叟ほくそんだ。ヴァンの指で煽り立てられ兆しきったものから溢れた蜜は、もどかしげに震える下肢の間を流れ下って既にその部分まで潤していたからだ。
 アンリーの不満げな唇を舌先であやしながら、ヴァンは塗香を纏った指先を深い部分へ潜らせる。薄紅色に染まった若鮎のような身体が跳ねた。潤った入り口をほぐし、更に奥に指を進めて弱い部分をさする。うらみがましい呟きは忽ち気息奄奄たる哀訴に変わった。
「ヴァ…ン…もう…」
 解っている、というようにもう一度口づけて、ヴァンがアンリーの震える下肢を割り開いた。
 待ち侘びたものをその身に深く受け容れ、アンリーは両腕を伸べて、往時よりやや痩せたとはいえなお精悍な首筋にしがみつく。
 紛れもない嬌声が迸り、褥に押し付けられた緋の髪がのたうった。
 ヴァンはいつも、すぐには動かない。繋げた身体が馴染むまで、耳や首筋を優しく撫でてくれる。その間に少しだけ落ちついて、アンリーは一度眼を開けるのだ。
 ゆっくりと開いた紅眼に、細紐につらぬきとめられた、深い碧と白色の勾玉が映る。ヴァンがいつも身につけている宝珠。それが…おもむろに揺れはじめる。
 珠が触れ合ってかすかに立てる音が耳に心地好く、アンリーは自身を貫く律動に身を任せながら、目の前で揺れるその珠へ手を伸べた。
 珠に触れ、細紐を指に絡めては離し…その音に口許を綻ばせる。
「…つらいか?」
 ふと律動がみ、その珠の立てる音とはまた違った甘美な響きを持つ低い声が、アンリーの耳朶をくすぐる。
 アンリーが僅かに首を横に振り、細紐に絡めた指をほどく。そして細紐が結ばれた先…声の主の汗ばんだ首筋に再び腕を回した。
「綺麗な…音だから」
 珠と珠が触れ合って立てるのは、かすかというにも か細すぎる音だ。衣擦れや、追い詰められた呼吸いきに容易に紛れてしまう。だが、熱に浮かされての譫言のようにも聞こえるであろうアンリーの言葉を、彼は嗤わなかった。
「そうか…」
 そしてただ、回された腕の懇請に応えて口づけを落とす。アンリーはそれを受け止めて、促すように指先を彼の背に滑らせた。
 要求は正しく報われ、律動が再開される。
 アンリーは愉悦に強く背を撓らせ、絶え絶えの呼吸の下から…あえかな声でその名を呼んだ。
「――ヴァ…ン…」
 底なしの快楽。ただそれだけなら、かの聖風王の裔も与えてはくれる。
 供犠として差し出されたものを心ゆくまで味わい愉しむことにかけて、あの銀狐は全く手を抜かない。おそろしく繊細で…執拗。いつも意識が飛ぶまで追い上げられ狂わされる。しかし、胸奥を風が吹き抜けるかのような冷たさが残るだけだった。
 しかし、ヴァンと身体を重ねている時は違う。かつてアンリーの胸奥にのしかかっていた寂寞という名の石塊いしくれは、常に熱を与え続ける…燃え尽きることのないおきに変わっていた。ヴァンに触れ、触れられている時、それは風を送られて焔を上げる。冷え切った胸に確かな熱の存在を感じさせてくれるのだ。
 胸奥の熱。多分それは、幸福感と呼ばれるもの。生きて、傍にいられることがただ嬉しい。それがたとえ、珠が触れ合って微かに音を立てるような、ほんの短い間であろうと…
 律動に追い詰められ、アンリーが総身を震わせて掠れた声を上げると…ヴァンが動きを止め、反らされた胸に唇を当てて印を刻んだ。
 果てた後、身体を重ねたまま互いの体温ねつを感じる緩やかな時間。ヴァンの首筋を撫で、細紐に指先を滑らせ…そして貫きとめられた宝珠を弄びながら、アンリーがまだ少し掠れたままの声で囁く。
「戦が終わったら…一緒に…南の海…海流の向こうへ…」
 まだ始まってさえいない戦。ツァーリの圧迫から海の自由を取り戻すためとは言え、戦であるからには命を落とすこととて覚悟しなければならない。
 それでも、その向こうに希望の海があるなら。
 窓から漏れ入る日の傾きに急き立てられ、アンリーが切なげな吐息とともに身動ぎする。ヴァンが惜しむようにもう一度口づけを落とした。

「――――ああ、約束したからな」

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