『私はツァーリへ行く』
潮風に向かって立ち、彼女は決然と宣した。
その緋の髪が纏う仄かな花の香。花の精油を塗り込めるようになったのは、おそらく、決意した日からだったろう。その香りは甘く、魅惑的ではあったが…ジュストにやりきれない断絶をも感じさせた。
拒むのではなく、逃げるのでもなく、赴いてツァーリに地歩を固める。そして、彼の国に在ってシェノレスを護る。彼女の決意を…止められなかった後悔はいまだにある。
そして、彼女はツァーリに行き…ツァーリの王太子を生んだ。
ジュスト=ブランシュは、病を得て帰郷した彼女が半年ばかりの病臥の後に身罷るまで…結局会うことはなかった。
涙痕
――◇*◇*◇――
――――絹糸を血で染め上げたような。
大神官家に出る「血の緋色」と呼ばれる髪。月のおぼろげな光の下、粗末な褥に散乱するその色彩を、ヴァンは手に取って唇を寄せる。放心したように見開かれたままの紅榴石は、今まだ薄く涙に曇ったままだ。
その頬には、数行の涙痕が刻まれていた。
***
名を明かすことを拒んだ自分を、少年は〝風〟と呼んだ。教えてくれないなら勝手にそう呼ぶ、と。
くだらない韜晦を揶揄された気もしたが、それもよかろう、とその名を受け容れた。
〝風〟。知ってか知らずか…それはネレイアに与えられる名でもあった。ネレイアが現世と縁を切る時に本来の名を棄てることは必須ではなかったが、そうする者は少なからずいたのだ。そうして名を棄てた者に便宜的に与えられる名のひとつ。
その時は明確に自分の立場について話した訳ではなかったが…おおよその見当を付けていたに違いない。聡い子供だ。
『アンリーだ。緋の髪の子。…海神の御心に適う子だ』
アニエスと同じ血、同じ髪、同じ眸。
リュドヴィックから話があって、最初に神官府で遠目にその子供を観察したときは、然程に思わなかったのは確かだ。しかし、仄暗い海蝕洞の中で…初めて間近に見た時、思わずそう口にしていた。
『成る程、よく似てる』
アニエスと同じ色彩の双眸には、己の夢のために波の下へ身を沈めることも厭わない強い意志が宿っていた。だが、絹糸を血で染め上げたような緋の髪は、その時まだ年齢相応に陽と潮の匂いしかしなかった。
ネレイアの統領として育て上げよ、というリュドヴィックの命を過酷と思わなかった訳ではない。知識はともかく、それに応じた訓練を全く受けたことのない子供なのだ。
それでも、『奉献』は行われた。
『奉献』…表向き海神への供犠として差し出されたその少年を、ヴァンはリュドヴィックと共謀の上で海の中から掬い上げ…この島へ連れてきた。
彼は決して父のいいなりに、シェノレスのためというお題目だけを信じてここに来た訳ではない。南海航路という…周囲の大人達から一笑に付される夢物語のような目的のため、来るべきツァーリとの戦のために身を捧げる覚悟を固めて来たのだ。それが実現可能である、というヴァンの言葉を信じて。
南の海に対する純粋な憧れ。自由への渇望。それは至極少年らしいといえば少年らしい希望であっただろう――――。
その希望を糧に過酷な訓練に耐えるアンリーを見るうち、アニエスの面影との類似は薄れていった。アンリーは訓練によく耐え、期待に応えた。そして当初あった警戒は、日を経るにつれ無邪気ですらある信頼に姿を変えた。
――――戸惑いを感じる程に。
花の香と、決して『ジュスト=ブランシュ』を捉えることのなかった紅榴石が刻み込んだ…やりきれない断絶。
潮と陽の香を纏い、全幅の信頼を湛えて風を映す深い紅瞳。
アニエスによく似た甥。連れてきたときにはただそれだけだった。だが、背が伸び、その膚が陽を受けた褐色に変わっていっても、その抑揚、一寸した仕草が似てくる。
同じ血を受けてはいるが、彼女ではない。それはわかっている。
だがその紅瞳の真っ直ぐな眼差しが痛い。ひとつしかない褥で並んで横になる時の、ひどく無警戒な様子が腹立たしくなることさえあった。
…だがある日、ふとしたことから気付いた。
無警戒なのではない。それどころか、触れられることに対して極度の緊張感があり、身体が動かなくなるほどに酷使しなければ眠ることもできないのだ。
***
大神官リュドヴィックが『奉献』を強行したのには、ツァーリから派遣されていた総督にも一因があった。アニエス亡き後の、総督イサーク=フェイギンからの打診は、王都からの勅命によるものではなかったのだ。
以前、フェイギンは私兵を使ってアンリーを誘拐しかけたことがある。
まだアニエスが病を得て帰郷する前のことで、当然アンリーもまだ十歳に届いていなかった。市井の子供ならあるいは気付かれなかったかもしれない。だが、アンリーはほかならぬ大神官の直系だ。忽ち神官府衛視寮の察知するところとなり、神官数名で監禁されていた場所を急襲して事無きを得た。監禁場所が総督府ではなかったこと、動いたのが総督府の兵ではなくフェイギンの私兵であったことが幸いし、フェイギンも事をおおやけにできなかったため事件は闇に葬られた。
だが人の口に戸は立てられない。それから暫く、エルセーニュではちょっと見目のよい子供は昼間でも一人で外へ出すなと囁かれる始末であった。
腕ずくで失敗ったら権力ずくというわけだ。アンリーが正式にツァーリへ赴くことになれば、どうあってもその身柄を総督府へ預けることになる。大神官リュドヴィックは他の誰にも真似できないほど強硬な手段でフェイギンの要求を撥ねつけたのだった。
幼時から図抜けて肝の据わった子供であったようだが、誘拐未遂は流石に相当な衝撃だったのだろう。アンリーはその時の事を憶えていない。だが『ジュスト=ブランシュ』は奪回に動いた衛視寮神官のひとりだったから、その場に居合わせている。アンリー自身が割った灯盞の欠片でフェイギンの腕を切り裂いていなければ、もっと凄惨な場面に踏み込まねばならぬところだった。
憶えていないのは却って幸いなことだ。周囲はそう考えたが、何も傷痕を残さなかったというのは楽観に過ぎたのではないか――――――。
***
報告書、指示書が堆く積まれた書机に投げかけられる灯盞の炎を消して、ヴァンは立ち上がった。
先程までリーンの国情について話をしていたが、途中からふっと返事がなくなった。案の定、アンリーは牀に半ば俯せるようにして眠っていた。
連れてきたばかりの頃は、アンリーは連日傷だらけになった。それでも体力の続く限り追従しようとする。だから、毎夜のように手当てもそこそこに眠り込んでしまった。
修練はその身体に耐久性をつけ、この数年で手足は伸びた。肩幅も同年代に比べればやや細いとはいえ、相応にはなったであろう。ただ、こうして眠っている時の顔は相変わらずだ。
肩を押してそっと仰向かせる。上げた蔀戸から淡い月光が滑り込み、牀の上に広がる緋の髪を滑った。顔や手など陽に晒される部分は相応に灼けていたが、襟から下…服に隠れる部分は生来の白皙を残している。
服をほどき、その首筋から胸元を指先でそっとなぞる。鋭敏な部分への刺激を敢えて避け、鎖骨の線や脇腹を撫でるように触れていくと、色の薄い唇の間から細く吐息が漏れた。
指先をその唇へ移し、軽く撫でる。
掠れた声が漏れ、月の蒼い光の下にも明らかにその頬が朱を刷く。
ふと紅瞳が見開かれ…不信と隔意の眼差しに射られることをどこかで懼れながら、頬からその顎の線へ指を滑らせると、顎を捉えて唇を重ねる。舌先で歯列を割り、舌を絡めても…すこし鼻に掛かったような声が漏れただけであった。
その反応を悉に観察していると、得体の知れない痛みが胸奥を疾った。その痛みを噛み潰し、ヴァンは一旦身体を離して立ち上がる。
壁に造り付けられた戸棚には、薬種が置かれていた。乾燥させただけのものから、粉や精油に加工されたものと様々だ。貿易の見本品でもあったし、荒事の多い生活の中では治療に用いることもある。旧い友人から教わった薬。
その中から、ヴァンは手の中に収まるほどの小瓶を取り、牀へ戻った。
単価が高く効率のよい商品のひとつ…花の精油から作った塗香。蓋を開けると、華やかな中にも清爽な香が広がる。
商品としては塗香だが、傷薬としても使う。この島に連れてきた頃、毎日修練の度に傷だらけになったアンリーに塗ってやったものだ。
その必要がなくなってから、どのくらい経っただろう…。
蓋を開けたままの瓶を牀の脇にある粗末な机に置く。そうすると花の香りがふわりと褥に降りた。
牀に掛けて、ヴァンはアンリーの頬に手を伸ばす。
頬から顎の線をなぞり、襟もとからさらに下へ指先を滑らせても、目を覚ます気配はない。
時間をかけてゆっくりと昂らせる。触れては離れ、また触れた。離れる度に細い吐息が漏れ…頬の朱がより強くなる。それが全身へ広がっていくのを、ヴァンは努めて冷静に見ていた。
「…っ…あ…」
反り返った喉から、遂に細い声が漏れる。下肢の間に触れると、服越しにも兆しているのが判った。
ヴァンは自身の頭髪を包む布を解いた。そのまま身を屈めると、陽と潮で褪色した金髪が零れ落ちて色づいた胸の上を滑る。それが擽ったさとはまた別の感覚をもたらしたものか、アンリーがひくりと身を撓らせた。間を置かずにヴァンが胸の紅点に舌先で触れ、唇で抓む。
掠れた声が漏れ、アンリーが身動ぎしたのがわかった。だが構わずに舌先で紅点を撫で、引き締まった下肢の内側を服越しに撫でる。おそらくその意図を以て触れたことなどないであろうその部分への刺激に、悲鳴に近い声があえかに漏れた。
隠れもない怯えをその中に聴き取り、ヴァンは一旦唇を離した。
頼りない月明かりの下で、開かれた紅榴石の両眼は確かな恐怖を湛えて微かに潤んでいた。喉を、肩を震わせ、その唇は声を発することもできないありさま。奉献の儀の後、海中から掬い上げた直後でも…ここまで竦んだふうは見せなかったものを。
――――そんなに怯えるな。
そんな言葉と、胸奥の痛みを噛み潰し呑み込んで…ヴァンは指先を進め、再び唇を震える首筋へ落とした。
抗うことなど思いもよらないほど身を竦ませ、呼吸を揺らしながらも、ヴァンの手の中のものは硬さを増している。押し寄せる感覚を持て余しているのだ。浮かんだ涙は未知の感覚に対する恐怖が半分。残りは自分に対する不信・不安か。
…無理もない。
身を起こし、すっかり解かれて腰の周りにまとわりつくだけだった衣服を取り去る。下肢を広げさせ、開けたままだった瓶から塗香を一掬いして鋭敏な部分へ塗り込んだ。
「――――っ!」
上がりかけた悲鳴を口づけで吸い上げ、ヴァンは塗香を纏った指をそのまま侵入させた。
***
薄く涙に曇ったまま、放心したように見開かれた紅榴石。呼吸を弾ませ、震える身体はまだ塗香の残した花の香を纏い、微かな汗の匂いと雑じって凄まじく煽情的だ。
怯えと惑乱に震える唇が紡ぐ声なき声は、確かに自分を呼んでいた。何も説明しようとしない自分に、信頼を裏切られたと感じているのかも知れない。
しかし実際に零れるのは紛れもない嬌声だけだ。与えられる感覚を持て余し、追い詰められて何度となく達していた。だが、抗うこともできずただ震えるばかり。
アンリーはネレイアの統領として必要な知識はほぼ備えている。その身体能力も順当に仕上がってきた。しかし、やはり受けた傷痕は思いのほか深かった。
触れられることへの、恐怖・嫌悪・思考停止。あんな目に遭った後の防御反応としては至極妥当だが、その不安定性はゆくゆくは統領となる者には致命的な脆さになる。
その肢体は武器となる。そう使うには、制御が必要だ。実用に供させるかどうかは別の話としても、そう認識させる事で、傷痕を傷痕でなくす。それがヴァンの判断だった。
だが、震える身体をそっと撫でながら…ヴァンは自問する。全ては言い訳ではないか?
手に入らなかったものの代わりを、この腕に抱くための。
あるいは、かつて決して自分を見なかった紅瞳が、今…全幅の信頼を載せて自分を映すのに耐えきれなくなったから。
そして、理不尽とわかっていて怒りすら感じる。いっそ不信と隔意で突き刺してくれれば、こんな痛みを覚えることもないのに。
――――痛み。その頬に刻まれた数行の涙痕がもたらす、切り刻まれるような胸の痛み。
***
アンリーの昼間の様子は常と変わらない。狎れることもなければ、敢えて距離を置こうともしない。有り体に言えば何事もなかったように振舞う。だが、決して憶えていない訳ではない。
涙を見せたのは最初の夜だけ。次の夜からはヴァンが引き寄せれば唯々とその身を委ねた。当初の怯えはすぐに影を潜め、ただ逃げず、抗わず、全て受け容れた。そのくせ、喘ぎ、嬌声とともに総身を撓らせても、その紅瞳が感情を載せることはなくなった。
閉じたか。
身体と精神を切り離したのだ。
必要だからそうする。そう割り切らせる。最初からそのつもりで抱いた。それに痛みを感じるなど欺瞞であろう。
瑕疵なき冷静なネレイアの統領。そのために旧い傷を切り開いて血膿を流させるが如き行為に、正しさなどない。傷痕を傷痕で上書きすれば、一歩間違えば壊れる。
――――それでも。
アンリーがただ身を委ねるだけでなく、自身から快楽を求める動きを見せるようになっても、ヴァンの胸奥に刺さる痛みは変わるものではなかった。島に備蓄倉庫を備えた相応の規模の砦が築かれ、牀を別にするようになっても、それは変わらなかった。来いと言えば来る。従容とその身をこの腕に預ける。…だがその瞬間、いつも双眼の紅榴石は、鎧戸を落としたように昏くなった。
半ばその痛みを味わうために、その緋の髪が纏う陽と潮の匂いを、ヴァンは褥に沈めて塗香の花の香にかえた。
アンリーは抗わない。
抱けばその膚は薄紅に染まり、朱唇は嬌声を零して総身を撓らせる。だがヴァンはその美しさよりも、ひどく昏いその両眼がもたらす胸の痛みを欲している自分に気付いていた。
何のことはない。捕まったのは自分の方か。
アンリーはもう、心と身体を切り離す術を身につけている。これ以上、互いを傷つける関係を続ける必要はない。…そう思いながらも、また腕を伸べてしまう。それを、アンリーは決して拒絶しなかった。
ヴァンはそのことに理不尽な怒りを感じ、また笑殺する。
そう仕込んだのは自分ではないか。
そのうち、南海航路の準備がほぼ整い、リーン・シルメナ両国との折衝が始まろうかという頃…ヴァンは自身の身体の異状に気が付いた。
繰り返す発熱。倦怠感。寝汗。…初期症状の特徴は、旧い友人から聞いていた。
アニエスと同じ病。
***
『いずれネレイアはお前に任せる』
ヴァンがそう伝えたとき、アンリーは無感動に頷いただけだった。
来るべきツァーリとの戦において、大神官リュドヴィックの耳目となり、神官府が推戴する次代王の股肱となるべきネレイアの統領を育て上げる――――その使命はほぼ果たされた。少なくともヴァンはそう感じていた。
もう十分だ。
リーンとの折衝の殆どはアンリーがやり遂げ、シルメナとの交渉も下地が整いつつある。後はシルメナの銀狐との直接交渉が成れば、南海航路は対ツァーリの戦を支える巨大な海運ルートとして脈動を始める。銀狐と畏怖されるシルメナ王ルアセック・アリエルⅤ世の許へも、ヴァンはアンリーを行かせるつもりでいた。
発熱、倦怠感といった症状は増悪と緩解を繰り返していた。感染る病なのかどうかはわからない、と旧い友人は言っていたが、用心に及くは無い。皮肉なことに、病は絶ちがたい誘惑から身を遠ざける助けになっていた。
ヴァンとしては昼間から伏せっている姿を余の者に見られるのも業腹だったから、調子が悪くなると大概あの、牀のひとつしかない茅屋に転がり込んでいた。
年数の経過と共に傷みが激しくなって、蔀戸を下ろしたままでも数条の光が室内へ漏れ入る有様ではあったし、捜しに行くのが面倒だから砦で休んでくれとアンリーからも散々小言を言われたが…その静穏は得難かった。
不意に関係を絶たれても、アンリーは表面上何の変化も見せなかった。ただ、病のことは薄々感づかれていたようだ。その日、やはり茅屋に伏せっていたヴァンを探しに来たアンリーは…用件を伝えた後も何か去り難いふうではあった。
そんなに弱って見えるのか。
侮るつもりはなかったのだろう。この青年…ああ、もう青年と言っていい年齢になった…は、言葉遣いと呼び方はともかく師、上司、年長者としてヴァンを立てることは忘れない。ここのところ茅屋へ引っ込んでいることが多いのを、彼なりに心配している。言挙げすればヴァンが気分を害するであろうことまで配慮している。
――――だが今は、それが妙に腹立たしかった。
身を起こし、立ち尽くしていたアンリーの手首を捉えて引き寄せ…そのまま自身が伏せっていた牀へと押し倒す。
「…どうした、隙だらけだが」
紅榴石が見開かれる。アンリーが息を呑み、一瞬身体を硬くしたのがわかった。
これまで、どんな場所であろうと陽のあるうちに行為に及んだことはない。特に理由があったわけでも、何か線引きをしていたつもりもなかった、言わば暗黙の約束。それを自ら破ったことを、ヴァンはその反応で気付いた。
「寝惚けてると思って侮ったか?…困るな、そんなことでは」
微かだがどうしようもない苛立ち。それが、身の奥に火を点ける。
抑え込み、襟を緩めた。その首筋に口づけ、舌先で鋭敏な部分をなぞると、ひくりと身体が撓る。
「…ヴァ…ン…!」
既に甘やかなものを絡みつかせた声が、ごく僅かな怯えをもまた含んでいることに気づいてはいたが、構わず指先を進めた。苛立ちが、いつになく強硬にさせていたかもしれない。ほどいた襟の間に滑り込ませた手で、首筋に這わせた舌先で、少し強引に煽り立てる。
アンリーは掠れた声をあげ、もどかしさに膝を立てて僅かに腰を浮かせさえしたが、紅く熟れた耳朶を責めていた舌先が、潮に似た味を感じて…ヴァンは身を離した。
片手で蔽っていたアンリーの両眼から、数行の涙が伝い落ちていたのだ。
その喉奥からはかすかな嗚咽さえ聴き取れた。
その涙痕に胸を衝かれ、ヴァンは動きを止めた。アンリーの手をそっと外させると、縁を僅かに紅くした目許が露わになる。
「…まだ、泣くほど苛めちゃいないつもりだが…どうした、何かあったか」
アンリーが顔を背ける。
「…何でも無い。私の用は済んだからもう帰る。邪魔して悪かった。身体が辛いならもう少し休んでいればいい。何かあったらまた来る」
そう言って身体を起こし、身繕いを始める。ヴァンはそれを止めなかった。
「俺ももう戻るさ。お前こそ、その目の腫れが引くまでもう暫くここにいろ。そんな顔、誰かに見られたら何があったかと思われるぞ」
そう言ったとき、アンリーが服を整える手を止め…その紅瞳でひたとヴァンを見た。
「…誰の所為だと…?」
睨むような…涙痕鮮やかな目許は、もう一度押し倒したくなるような艶を放つ。
「…俺の所為か?」
衝動を呑み込んで、ヴァンは笑って見せた。
アンリーは口を噤んだまま俯き、再び身繕いを始めた。その所作を惜しみながら見遣り、ヴァンが牀から降りる。立ち上がって、午後の陽が透いて差し込む粗末な扉へ足を向けた。
「じゃあ、先に帰る。いいな、その腫れが引くまで出てくるなよ」
そう言って、扉を押し開けた。その時、やや鋭い声でアンリーが言った。
「ジュスト!」
思わず、足が停まった。
「…誰のことだ? 俺はヴァンだ。お前さんがそう言った」
振り返ったヴァンに、アンリーが坦々と告げる。
「ジュスト=ブランシュ…衛視寮神官。メリベル島の観測護衛任務中の殉職。…ツァーリ妃アニエスの幼馴染みで、又従兄弟。天文寮が是非にと欲しがった逸材でありながら、それを蹴って衛視寮に身を置いた…」
その目許はまだ朱を刷いている。だが、先程の儚げな風情など幻であったかのように、紅榴石の両眼は完全に据わっていた。
調べればすぐにわかったことだ。驚くには値しない。だが、ヴァンは平静を装って言葉を絞り出すのに、存外労力を要した。
「調べ物もいろいろ達者になったようだな…それでどうした?」
アンリーが、声を呑む。何かを押し込めたのは確かだった。閉ざすな。言え。そんな台詞が喉元まで上がっていたが、ヴァンが口にしたのは別のことだった。
「…そういう男もいたらしいな。だが俺には関係ない。じゃ、先に戻るぞ」
ああ、見苦しくも逃げるのだな。ヴァンは自身をそう嘲笑しながら、茅屋を出た。
***
本当の名を明かそうとしないヴァンから、正体を聞き出そうとする遊びは昔のこと。
アンリーが何を思って記録を探ったのか、ヴァンは読みかねていた。
ジュスト=ブランシュはもういない。
海神に奉献されたアンリーを禁域の海から引き揚げてこの島に連れてきたのも、それまで人を傷つける道具など一切手にしたことはなかったであろうその手に、武器を握らせ人の殺し方を憶えさせたのも、触れられる恐怖に竦む身体に快楽を教え込んだのも全て〝ヴァン〟だ。〝ジュスト=ブランシュ〟は関係ない。
何故、今になって。
朱を刷いた目許。その奥で完全に据わった両眼の、思い詰めたような紅榴石の色彩が、妙な薄ら寒さを感じさせた。
『…誰の所為だと…?』
もの問いたげな…それでいて訊くことを躊躇っている。〝ジュスト=ブランシュ〟が何者かを知った上で、まだ訊きたいというなら、それは…
ヴァンの胸奥を痛みが走る。
全ては言い訳。かつてお前が手に入れられなかったものをその手にしようとする、醜い弁明に過ぎないではないか。
そんな囁きが、今再び氷の掌となってヴァンの心臓を鷲掴みにする。
***
不安はあったが、ヴァンはアンリーをシルメナへ送り出した。
シルメナ王ルアセック・アリエルⅤ世との直接交渉。最後の詰めとでもいうべき大仕事ではあったが、アンリーは見事仕遂げて帰ってきた。
ヴァンの許に帰ってきたアンリーは至って平静だった。いつものように。
南海航路を対ツァーリ共同戦線の動脈として本格運用を始めるべく、取り交わした協定の内容を大神官リュドヴィックに上奏するためにエルセーニュへ赴いた時も、また。
此処まで来れば、あとは開戦への秒読みが始まる。もう良いだろう。ヴァンは退き時だと感じていた。
ネレイアの統領をアンリーに引き継ぐ。アンリーがエルセーニュに戻ってきたら、ヴァンはその話をするつもりだった。リュドヴィックの了解は既に得ている。
呼吸をすれば時に胸の中で凩に似た音がする。少し長い航海にさえ耐えられなくなった自分が、此処に居てできることはもう何もない。もう少し南へ行ったところにある小島…そこも備蓄倉庫が置かれていたが、そこの倉庫番でもするのが似合いだ。
命を取られるとは限らない。良い風に触れ、滋養を摂り、相応に身をいとえば相応の寿命は享受できる。旧い友人はそう言った。相応の寿命。それがどの程度を言うのかわからない。
ただ…見たいものがある。
この海の更に南には…人の住める土地がある。ただ、見てみたいのだ。南海航路の更に先を。
大神官家の血筋だけに閲覧が許される古の記録に記された南の海…その先の大陸。かつて〝ジュスト=ブランシュ〟を駆り立てたのと同じ夢を見、それを追う者が現れるとは…正直思っていなかった。そこへ漕ぎ出すには、ツァーリの軛を断ち切らねばならぬ。だが、アンリーなら仕遂げるだろう。
待つことができればいいが…。
その茅屋は牀に伏せていても潮騒を聞くことができる。静謐の中、ただ潮の音だけに包まれていると落ち着いた。南海の夢を見ることができるからかも知れない。
砂を踏み分ける音に、浅い夢から醒める。聞き慣れた足音。…戻ったか。
微熱の所為か寝返りさえ大儀。だが、ヴァンはゆっくりと身体を仰向けにした。本当は起き上がるつもりだったが、倦怠感に引き摺られて仕損なったのだ。
午後の陽は、蔀戸の隙間から茅屋の中に数条の光を差し入れていた。それが、開かれた扉から差し込む光でかき消される。ふと眩しくて、ヴァンは目を閉じた。そのまま、扉のところで立ち尽くす者へ問う。
「…報告は済んだか?」
応えはなかった。ヴァンが重い瞼を開けてそちらを見ると、立ち尽くしたアンリーがようやく扉を閉めるところだった。
「――ヴァン…」
その双眼の、思い詰めたような紅榴石の色彩。
「どうした…?」
躊躇い、何度か口を開きかけて噤む。ああ、聞いたのだな。そう直感して、ヴァンは小さく吐息し瞑目した。
「…この島を出て行くのか」
だが、ようやくのことでアンリーが口にした言葉に、ヴァンは再び目を開けてアンリーの方を見た。…そっちか。
「お前がネレイアの統領となる。来る戦で次代王の股肱となれ。俺はそうするべくお前を育てた。そのためにここへ連れてきた。…以前からそう言っていたと思うが。
そうなれば俺がここにいるべき理由もなくなる。それだけのこと…」
ヴァンの言葉を、今度はアンリーが瞑目して聞いていた。だが、ヴァンがそれを言い終える寸前、微かに震える声でそれを遮る。
「私は何だ…」
裡で沸き立つものを必死に抑え込んでいる。怒りか。…無理もない。知らず、ヴァンの口許は苦笑の形に歪んだ。ゆっくりと、片肘をついて半身を起こす。
「弟子で、協力者で、後継者。俺はお前にそう言わなかったか」
「だったら、何故抱いた…!?」
初めてアンリーが声を荒らげ、起こしかけたヴァンの肩を両腕で褥に押し戻す。
まともに組み敷かれた格好である。いつもと逆だな。ヴァンはアンリーを見上げて、薄く笑んだ。
「必要だったのは完き璧の如き…瑕疵無いネレイアの統領だからだ」
胸奥に氷塊を感じながら、ヴァンは坦々と告げた。そうしなければならなかった。
「触れられるだけで竦み上がるような孺子では…事は成せぬと?」
「…俺は間違っていたか?」
両肩に食い込まんばかりの、繊麗だが強靱な指がもたらす痛み。だがそれすらも、いっそ愉悦。
――――――憎んでくれればいい。
だが、その指は震えている。
「何故、あなただった…? 誰でも…誰でも良かったじゃないか。孺子ひとり仕込むだけのこと…なんで、よりによってあなたが…!」
絞り出すような声音もまた、震えていた。
「弟子で、協力者で、後継者。それは理解ってる。抱いたのが仕込む為だってことも理解ってる。…でも、あなたが徒らに優しいから…期待してしまう」
紅榴石がふわりと滲む。だが、その口許が苦笑に歪んだ。
「…シルメナの銀狐は、私を供犠として受け取った。…鄭重に。何度も…何度も声も出ない程に追い詰められた。おそろしく巧みだった。…何度気を失ったかわからない。
でも、何も感じなかった」
ヴァンを褥に抑え付けたまま、不意にアンリーが身を屈める。
自分から唇を重ね、歯列さえこじ開けて舌を絡める。達しかけて忘我のうちに見せる動きさえも…及びもつかぬほどの熱を孕んだ口づけ。
肩を褥に押さえつけていた片手がそっと滑り、腕に沿って下る。ヴァンの掌を探り当て、指先を絡めた。ようやく離した唇を耳朶に寄せ、微かに唇を震わせながら絞り出すようにアンリーが囁く。
「…あなたがいい…」
啜り啼きながら、その緋色の頭を擦り寄せる。
「あなたがいい。…あなたでなくては嫌だ」
耳朶を震わせる掠れた囁きは、嗚咽混じりでありながらひどく甘い。ヴァンの頭の芯を痺れさせる程に。
「あなたがそれが必要だというなら、一刻銀狐の褥に侍ることなど何とも思わない。身体は善がり狂っても、ここは怖ろしいほど冷たかった」
片手をヴァンの掌に絡めたまま、アンリーが片手で自身の胸に爪を立てる。
「あなたにしたら…供物として仕込む為だったとしても、叔母の形代でも…私は嬉しかった。ただ
、あなたが徒らに優しいから…期待してしまったんだ。弟子で、協力者で、後継者…ほんのわずかな時間でいい、それより他の何かで在れたらいい…と」
そこまで言って、アンリーが上体を起こす。
「やっぱり…あなたは私を置いていくんだ。わかっていたつもりだった。望んでも意味がないことくらい。何故、ただ仕込むためだけに…いつもあんなに優しくした。もっと酷く扱ってくれていれば、望みなんか持たなかったのに。
…あなたの眼に映るのが私でなくても、なにも感じずに済んだのに…!」
潤んだ紅榴石から透明な雫が滑り、ヴァンの胸の上に落ちた。
「それでも、ただ…いつか一緒に南の海へ征けるのなら…それでもいいと思っていた。最初はそう思っていたんだ。元々、そうしたくてここへ来たんだから。
…それさえも、私はもう望んではいけないのか…!?」
あとは、ただ肩を震わせる。ヴァンは手を伸べ、その緋の髪に指を絡めた。そのまま、涙の滑り落ちた痕をそっとなぞる。
「…もっと酷く…? そんなこと、できるわけないだろう」
頬から顎へ滑らせた指で唇に触れ、さらりと撫でる。アンリーの伏せかけた睫が切なげに震えた。
「いつ壊してしまうかと思って…いつも怖ろしかったからな」
引き寄せ、口づける。その動作でアンリーが均衡を崩し重なるように倒れ込むと、ヴァンは態勢を入れ替えた。アンリーが小さく呻くから、一度唇を離す。
「ヴァン…」
離された唇が、甘く掠れた声でその名を口にする。堪らず、もう一度今度は貪るようにして唇を重ねた。先刻アンリーがしたように、歯列を割って舌を絡める。上顎を舌先で撫ぜると、鼻に掛かった呻きが漏れて、絡めた舌が動きに応える。態勢を入れ替えたときに離れてしまった掌は、ヴァンの背に回された。
そうして唇を重ねたまま、少しずつ互いの服を緩めて牀の下へ滑り落とす。しかし途中で流石に呼吸が続かなくなり、惜しみながら離れた。
喘ぎながらも離すまいとするのか、背に回されたアンリーの腕に力が籠もる。ヴァンの耳朶に唇を寄せ、熱に浮かされた声で囁いた。
「もっと酷く扱ってもいい…」
その間に最後の布が取り払われ、自由になった下肢をヴァンのそれに絡ませてくる。
「壊してもいい…から…」
「あまり…煽るな」
牽制するように、ヴァンが首筋に口づけを落として更に下へ滑らせた。紅点のひとつを唇で捉え、甘噛みする。アンリーの背が反り返り、下肢が痙攣した。声が漏れなかったのは、たまたま息を吸った間だったからにすぎない。
ヴァンの背に回していたアンリーの両手が、ねだるようにその背を撫で…ふと、いつもヴァンの頭髪を包んでいる薄紅の布をひっかける。布は他愛なくほどけて、ヴァンの褪色した髪がはらりとアンリーの身体の上を滑った。
広がった髪に弱い部分を擽られ、薄紅の布を握りしめたまま、アンリーが今度こそ紛れもない嬌声をあげる。
「もっと酷く扱っても…っ…壊してもいいから…出て行くなんて…言…っ…!」
熱に浮かされながらとはいえ、とんでもないことを口走る薄い唇を…ヴァンはもう一度唇で塞ぐ。一糸まとわぬ下肢の間で兆しきったものから溢れる露を掬い、それで鋭敏な部分を潤すと、やや性急に指を侵入させた。
知り尽くした指先に弱い部分を擦られ、アンリーが総身を撓らせる。
「お前が望むなら、此処に居る。だから、あまり恫喝してくれるな…」
熱を孕んで紅い耳朶を甘く噛みながら、そう囁く。
「恫…喝…?」
与えられる熱に悶えながら、アンリーが問い返す。
「『壊してもいい』…なんて…怖ろしいことを言わんでくれ。これ以上、なくすのは御免被る」
「…あなたが喪ったのは…アニエス妃?」
「喪う…というのは…一度この腕におさめたものに言うことだろうな」
「…届かなかった?」
「容赦がないな、お前は…」
苦笑して、ヴァンがまた指を進める。その動きにアンリーが喉を反らせて喘ぎ、ヴァンの背に回した腕に力がこもる。もどかしげに腰を浮かせた。
「私は…あなたがいい。あなたで…なければ嫌だ。何処にも…行っ…ぁ…」
不意に引き抜かれ、アンリーが紅瞳を潤ませて狂わんばかりに頭を振る。それを宥めるように口づけ、ヴァンは震える下肢を開かせて抱えた。
意図を悟って、アンリーが静かに頭を擦り寄せる。
「ああ、わかった。何処へも行かんよ」
そう言ってほぼ一息に刺し貫くと、アンリーが愉悦に震えながら再び喉を反らす。胸元から耳朶まで、その煽情的な曲線をゆっくりとなぞりあげた舌先で…更に時間をかけて耳介を賞玩する。最後に、耳孔へ舌先を忍ばせるようにして…ヴァンは囁いた。
「…行くときはお前と一緒に、南の海…海流の向こうだ」
そして始まった緩やかだが大きな律動にただ身体を預け、アンリーがちいさく頷く。
「…一緒に…海流の向こう…に…」
アンリーが花のように微笑んで達し、くたりと動かなくなった。背に回していた腕が滑り落ちる。
身体は繋げたまま、ヴァンは僅かに身を起こした。
膝の上にアンリーの身体を抱き上げ、凭れさせる。自身は茅屋の粗い壁に身を凭せかけ、片手で蔀戸をわずかに上げた。
開いた蔀戸の間から清爽な潮風が忍び込み、汗ばんだ身体を緩やかに撫でていく。繋げたままの部分がもたらす感覚と相俟って、目が眩むほどの愉悦にヴァンは思わず眼を閉じた。気を遣ってしまいそうになるのを…緋の髪を指に絡め、その所有者を強く抱き締めることで堪える。
意識を失ったままのアンリーの目許…その涙痕はもう、ヴァンの胸に痛みを刻むことはなかった。ただ、こうしていても漠然とした不安が胸を食む。
いつか、南の海へ。
その約束を果たすときまで、待てれば良いが――――――――。
――――――――Fin――――――――