「…豪胆な方だな、あなたは」
漸く落ち着いてきた呼吸を、少し大きな息で整えてから…アンリーは広い褥の上で片膝胡座を組み、その膝の上にいくつかの書簡を置いて目を走らせている人物にそう言った。
「豪胆?私がか。…それは随分買い被られたものだな」
喉奥で低く笑えば、世の人に銀雨の如しと讃嘆される髪は細く揺れ…鈴にも似た音さえ立てそうであった。
――――聖風王の裔、現シルメナ国王ルアセック・アリエルⅤ世。
今その身は、少し蒼みを帯びた月光だけを纏っている。玉座に在るときの…風のように涼やかな美貌と肢体は、纏うものがない時は驚くほど精悍さが際立った。
「私はいたって小心な臆病者だがな。…御身は何を以てそう思う?」
笑いをおさめて再び書簡に目を落としながら、ルアセックはそう問うた。閨にいてさえ寸暇を惜しんで政務と向き合うこの国王の行動は、アンリーにとってはまだ読み切れない部分が多い。
アンリーは軋む身体を叱咤して起こした。いつの間にか掛けられていた薄地の衾がはらりと落ちる。衣服はすっかり肌蹴て両肩とも露わになっていたが、然程寒さは感じない。
…いまだ身体の奥で燻る熱の所為でもあろう。
それを払うように頭を振って襟を軽く整えると、顔を上げた。
「寝首を掻かれる…とは、思われませんか」
「御身にか?」
その言葉に、侮られた気がしてアンリーは表情を硬くした。だが、ルアセックは書簡を脇机に置いてその手を伸べ、アンリーの顎を捉える。
「拗ねるな。御身を侮った訳ではないぞ」
そして微かに笑いながらアンリーを身体ごと引き寄せた。
ルアセックの動きを予測出来なかったわけではないが、アンリーは抗わなかった。しかし、取らされた姿勢に思わず四肢を一瞬だけ強張らせる。
「…陛…下…っ…」
向かい合わせに、ルアセックの伸ばした下肢を跨ぐようにして座らされ、ついた膝に思わず力が入る。浮いた腰を引き寄せられたことで均衡を崩してしまったアンリーは、精悍な肩に縋るしかなかった。
侮っていないと?交渉の使者として此処を訪れた者を玩弄物にするのは、侮ったことにならないのか?
まだ熱と潤みを残していたその部分への無遠慮な侵入に、アンリーは掠れた声を上げて総身を撓らせる。反らせた喉を柔らかな唇と舌先で撫で上げられて、背筋を電流が疾った。
褥についた膝も、精悍な肩にしがみついた指先も、とても身体を支えきれなくなって…アンリーは不承不承ルアセックの胸に身を預けた。結果としてより深く繋げられることになるが、もうそんなことに頓着できなくなっていた。
整えたばかりの襟はいとも簡単に滑り落とされ、肩から背を強靱で繊細な指先が撫でる。その一方で顎まで滑った舌がゆっくりと胸へ降りてきて、剥き出しになった紅点を捉えた。それらが与える感覚に浅く喘ぎながら、どうしようもないもどかしさにアンリーは思わず銀糸を纏う項に手を滑らせて引き寄せる。
行為自体への嫌悪感は然程ない。海神窟の岩室で、島に建設中の拠点で、時には船の中でさえ、風は執拗にアンリーの身体に快楽を教え込んだ。最初こそ驚き、怯えもしたが、程なくそんな感情は摩滅した。
まともに抵抗しても到底勝てる相手ではないのは解っていたから、初めはただ与えられる感覚をひたすら享受するしかなかったのだ。しかしそのうち、伸べられた手に進んで身を委ねるようになっていった。
もとより、そう酷く扱われたわけでもない。むしろ壊れやすい珠を彫琢するかのような、慎重とも言える丁寧さでいつも意識が飛ぶまで追い上げられた。
しかしその意味について、ヴァンは一切説明しなかった。いつも何の前触れもなく抱き寄せられ、ないしは組み敷かれた。ヴァンは普段が饒舌であったから、ふと訪れる沈黙が予兆といえばそうだった。ことの最中にヴァンの口から何かを聞いた記憶はない。そしてアンリーが目覚めた時…ヴァンは大抵、褥にいなかった。
自分ひとりの体温しかない褥で起きあがり、身繕いをするときの空虚な感覚は、アンリーをひどく戸惑わせた。不安と言ってもいいだろう。あるいはただ単に、ヴァンは手近なもので無聊1を慰めただけのことだったのかもしれないのに。
だが、シルメナとの交渉にあたってこの心底の読めない国王に身体を求められた時、アンリーはヴァンがこの状況を想定していたのかと思った。
あり得なくはない。自分の身体が交渉の道具となりうることを、アンリーはいつの間にか計算にいれることが出来るようになっていた。目的のためには使えるものは何でも使う。そこに感情が介在する余地はない。
…だから、何とも思わない。
この身が熱に浮かされ、声も出ない程に追い詰められようと、今更何も感じない。
ルアセックの…自身も愉しみつつ何よりアンリーの反応を面白がっているのが明らかな笑みが腹立たしくはあったが、それでこの銀狐が交渉の卓に就くと約すなら安いものだ。
身を裂かんばかりの充溢感にさえ快楽を拾い出し始めている自分自身へ、アンリーは朦朧とした意識の中で悪態をついた。
供犠 ~sacrifice~
***
大神官リュドヴィックがアンリーを『奉献』というかたちでシュテス島から去らせたのは、アニエス亡き後ツァーリ総督が新たな人質としてアンリーに白羽の矢を立てたからである。
リュドヴィックはアンリーをツァーリの手に渡すつもりはなかった。アンリーには果たすべき役割があったのだ。だからリュドヴィックはツァーリの要求を、折からの悪疫を海神に鎮めてもらうための供犠として差し出す事が決まっている、という理由ではねつけたのである。
更にそれを総督府に納得させるため、儀式へツァーリ総督を立ち会わせた。
儀式刀で奉献者の身に供犠の印となる傷を刻み、薬で眠らせたうえで小舟で沖へ流す。本殿の崖下、普段は禁域として人を立ち入らせぬうら寂しい浜に設えられた壇上…そこで行われた一連の「儀式」に立ち会わさせられたツァーリ総督は、船が出されるが早いか蒼白になって総督府へ帰っていったという。
本殿の崖下の海が禁域とされる理由の一つは、その潮流にある。流された小舟はあっという間に潮流によって沖に運ばれ、岩礁に打ち割られるか転覆する。その小舟が早く波間に消えるほど神に喜ばれたとされるので、そうなるまで見届けるのが神事の本来の姿だ。しかし通常捧げられる供物といえば御饌や酒樽である。神事とはいえ、親が子の身に傷を付け、生きながら水葬に付すという光景を目の当たりにすれば…まあ、至極当たり前な反応と言うべきだった。
結局、新たな人質の話も本国から特に督促がなかったため沙汰止みとなった。
表面的にはそれで収まった格好だが、芝居を打つほうは決して楽ではなかった。
奉献者に与えられる薬は、本当の供犠であればほぼ致死量の眠り薬である。無論そんなものを飲んで海に投げ出されれば総督府を欺く前に本当に常世国へ旅立つことになってしまうから、アンリーに与えられたのは色や粘度を似せただけの薬湯だった。
この際欺くのは総督府だけでなく、大神官リュドヴィックと共謀者たるヴァン、あとは件の薬を調合した典薬寮の神官を除くほぼ全員であったから、杯の中身、その見てくれにも気を配る必要があったのだった。
万が一見張られていたときのことを考え、実際に行動をおこすのは仕掛けを以て故意に転覆させた後である。ヴァンは近くに潜んで転覆させる仕掛けを発動させ、一度その身を波の下に深く沈めたアンリーを回収したのだった。
事前に手筈の確認が出来ていたとはいえ、アンリーとて怖ろしくなかったと言えば嘘になる。岩礁に叩きつけられる危険はあったし、血を流したまま海に入れば、弱った魚を捕食する大型の魚の餌食となることだってあり得た。
事実、供犠の印として付けられた傷が存外深く、アンリーが失血で一時気を失った間にそういった魚が寄ってきたらしい。ヴァンが仕留めて事無きを得たが、一歩間違えば本当に捕食されるところだった。
そんな話を、ヴァンが笑いながらするものだから…信憑性としては多少割り引きたいところであったが、その膾を見せられてはそうもいかぬ。
――――ヴァン。大神官直属の細作組織であるネレイアの統領の地位にあった。ツァーリの干渉を受けない南寄り航路を確立し、リーンーシェノレスーシルメナに至る新たな交易路を拓くことによってツァーリとの戦の準備をするため、少し前にやはり死を装って身を隠したのだという。
その頃で、二十代の後半と見えた。
奉献の儀よりも半年ばかり前のことだ。海神窟で最初に出会ったとき…ヴァンはアンリーの顎を無遠慮に捉えて洞窟の天井から漏れ入る僅かな光に当て、こう呟いた。
『…成る程、よく似てる…』
この男は、自分に似た誰かを識っている。その時のアンリーは、それが誰なのかを詮索するよりも、なにか揶揄われているような、品定めされているような居心地悪さを覚えた。
自らを幽霊といい、本当の名前は最期まで明かそうとなかった。だから、風という名はアンリーが勝手にそう呼んでいただけだ。しかし、「過ぎた名だな」と笑いながらその名で呼ばれても適当に返事をしていたのだからいい加減なものである。
天文・航法・地理に関しては上級神官並みの知識を蓄えており、饒舌な皮肉屋で、しかもその饒舌がどこまでが韜晦でどこからが本音なのかをひどく掴みづらくさせていた。
元は温かな色合いの黄金色であったと思しき頭髪は、潮と風と陽に晒されて白く褪せている。その貌はやはり陽に灼けて浅黒く、端正な顔立ちと体躯は精悍そのもの。細作組織を纏めるだけのことはあって武器一般の扱いのほか体術にも長け、アンリーを細作としての役目を果たすべく鍛え上げたのもヴァンだった。
厳しく面倒見の良い教師であったが、その分、決して手は抜かなかったから、修練を始めた頃のアンリーはかなり酷い目にも遇っている。それでも、この人物についていくことで自身が夢見たものに近づけると信じて…それに耐えた。
***
アンリーの天文や航法の知識については、ヴァンの許に身を寄せる前から相応に下地は出来ていたからそれほど問題は無かった。その一方で武器の扱いや体術については、ヴァンが要求する水準がかなり高かった為にアンリーは毎日の修練で限界まで身体を酷使することになる。そのため夜ともなればいつも牀に入るが早いか気を失うように眠り込んだ。
修練で負った傷を、ヴァンはいつも手当してくれた。しかしアンリーとしては眠さが先に立って、打ち身や擦過傷といった小さな傷を構われることが煩わしく…半覚半睡の態でヴァンの手を払いのけることもあったようだ。そんな時もヴァンは笑って、文句を言うなと殊更手荒く処置をしていた。そうなるともう手を動かすのさえも億劫になって、されるままに眠り込むこともしばしばであった。
少々手荒かったとしても、アンリーがすぐ傍にあった温かさに幾許かの安心感を得ていたのは確かだろう。また、正体を教えようとしないヴァンと探りを入れようとするアンリーの、ひとつしかない牀にはいったあとの諧謔をまじえたやりとりは、アンリーが睡魔に敗北を喫するまでのほんのわずかな間という暗黙の了解の上に成り立つ言葉遊戯のようなものでさえあった。
そして、アンリーが成長するに従い傷を負うことも稀になった。そうなると傷の治療や言葉遊戯は近隣諸国の直近の政情や言語・文化の講義へ姿を変えていった。
ただ、興味を持って聴き始めると、ヴァンの許に来たばかりの頃のようにアンリーがすぐに寝入るようなことはなくなってしまったから…ある程度の区切りでヴァンは話を切り上げるようになっていった。
ヴァンにはネレイアの統領としての職務があったのだ。アンリーを休ませたあと、各地に散っているネレイアからの報告書に目を通し、新たな指示書や神官府本殿への報告の書簡を書いていた。
ヴァンが使う灯火の揺らめきを瞼に感じることで、アンリーはかつて傷の手当てをする指先が触れる時の安寧と同じものを得ていたように思う。その所為か、そこから眠りに落ちるのはいとも容易かった。
だからこそ…ふと目を覚ましたある深更の闇の中で、触れる指先が安寧以外のものを揺り起こすのを感じた時、アンリーはその恐怖に声も出なかった。
***
上げた蔀戸から細い月光が差し込み、乱れた敷布を掴んで無様に震えているアンリーの指先を朧に照らし出す。
そこはいずれ南海航路の拠点として整備される予定の島ではあったが、当時はまだ人も通わぬ離島である。どんな声を上げてしまおうが、今は誰にも聞かれるおそれはない。だが、他でもない自分自身が、それを聞きたくなかった。
アンリーの喉奥から漏れる声は、ひとつしか無い牀の軋みと同期していた。しかしそれと紛れてしまうことなく耳に届いてしまう。自分の声だというのが信じられなくて、その度に耳を塞ぎたくなった。
『何故』
アンリーはその一言を口にすることが出来なかった。
疑問を持ったら問う。時に直截、時に迂遠に、あるいは諧謔をまじえて答える。それは本来、二人の日常であるはずだった。
だが、この時だけは違った。与えられる感覚に慄くアンリーに、ヴァンは何も告げてはくれなかった。韜晦するための饒舌さえも、そこにはない。ただ、その指先で、掌で、唇で、舌先で…何度でも追い上げた。ヴァンの腕の中で達してしまい、アンリーがその両眼に涙を浮かべて総身を震わせても、何の言葉もかけてはくれない。ただ更に指先を進め、新たな刺激で報いた。
苦痛だったわけではない。むしろ、傷を付けないように細心の注意を払われていただろう。だが、安寧を与えてくれていた掌が、指先が、全く未知の感覚を刻み込み、意識を掠っていこうとする。それが怖ろしい。そして、ヴァンが何も言ってくれないことが…物のように扱われている気がして何よりも怖かった。
溜まった涙が滑り落ちて敷布を濡らし、アンリーの喉奥から漏れるのが声というより嗚咽に変わる頃になって…ようやくヴァンがその身を離した。
穿つものがその身から出て行くときの感触に、アンリーがもう一度背を撓らせる。嗄れきってしまった喉から掠れた声が漏れ…アンリーは虚脱して俯せに褥へ沈み込んだ。
視界は滲んだ涙で茫洋とし、何も見えない。
だから、身を起こしたヴァンが自分を見下ろしているのはわかったが…そこにどんな表情があったのかは皆目わからなかった。
優しい手が降りきて、アンリーの伸びてきた緋の髪を掬う。ヴァンがそれに顔を近づけたような気もしたが、そこでアンリーの意識は途切れてしまったからわからない。
翌朝目を覚ましたとき、アンリーの身体は丁寧に拭われていた。身体の裡に残った違和感を除けば、昨夜のことが悪い夢のようにも思える程だった。
ヴァンは前夜のことについては何も言わなかった。そして、何の変哲も無い一日。ただ、修練がいつもより少しだけ課題を減らされていた。
***
だが、その日から、夜だけが変わった。
昼間の饒舌はそのまま。ただアンリーをその腕に抱くときだけは違う。脈絡の無い沈黙を予兆にやおら組み敷き、あるいはその両腕の中に捕捉える。そうなったら最後。声が出なくなるまで喘がされ、身体が動かなくなるまで何度でも追い詰められた。それでもヴァンはアンリーになにひとつ声をかけることはなかった。行為の最中、短く無機的な指示はあったかも知れない。だが、ヴァンが耳許で何か囁いたとしても…その時のアンリーは既に、ただ闇雲に頷くことしかできなくなっていた。
『何故』。
ただ無聊を慰めるための玩具か。「よく似てる」誰かの形代か。それとも。
アンリーは絶え絶えの呼吸の下、何度ヴァンにそう問うただろう。
だが、それは決して声に出来なかった。
そのうち、訊くことが怖ろしくなった。行為の意味…ヴァンにとっての自分が、生徒であり助手であり後継者以外の何であるのかということを、確かめることが怖くなっていった。そしていつしか、突き詰めることに何の益もない疑問だと、アンリーは努めてそれを押し込めるようになった。
だから、困惑と恐怖は…冷えた諦観に変わった。
苦痛を伴う訳でもない。夜を重ねるごとに、快楽を快楽として享受することができるようにもなった。理由など、どうでもいい。形代でも、玩具でも、それはアンリーに何の関係もない。ヴァンがそれを必要と考えるなら、それに応えるだけだ。ヴァンの言動には相応の理由があるという根拠のない確信だけが、アンリーを支えていた。
***
ヴァンは胸を病んでいたらしかった。
南海航路の物流拠点として整備が進んできたその島から出ることが徐々に少なくなっていた。その代わりにアンリーが渉外の任に当たり、やがてはヴァンからは大まかな方針だけを伝え、委細はアンリーに任されるようになった。アンリーの留守中に時折寝ついているようだったし、目に見えて痩せた。
『いずれネレイアはお前に任せる』
いつからかヴァンはそう公言するようになっていた。各地に散っているネレイア達も、大神官リュドヴィックも承知のことであるらしい。
アンリーは最も成長著しい時期になっていた。手足は伸び、積年の修練の結果として相応の膂力がつく。武器の扱いや体術についても、ヴァンが殊更に教えることもなくなった。
島には物流の倉庫を兼ねた砦が築かれ、ネレイアの拠点もそちらへ移った。
アンリーがこの島に来た直後に住んでいた、牀のひとつしかない茅屋は取り壊されるでなく残っていたが、ヴァンが体調の良くないときに静かなそちらで休んでいる以外、使われる事は無くなった。
アンリーは離れた茅屋まで捜しに行くのは面倒だから砦の部屋で寝(やす)んでくれと言っているのだが、砦は出入りが多くて騒がしいといって聞きいれない。結局アンリーが折れるかたちで…ヴァンの姿が見えなくなると、アンリーがそこへ捜しに行くのが常となっていた。
その日も、まだ陽が高いというのにふいとヴァンの姿が見えなくなったので…アンリーはそこを訪れてみた。
蔀戸は年数の経過で傷みがひどくなっており、下ろしたままでも数条の光が室内へ漏れ入る。その光が落ちる牀の上に、ヴァンが伏せっていた。
「…調子が悪いのか」
「いや…眠いだけだ。どうした、なにか変事か」
気怠そうに身を起こしながら、ヴァンが言った。
「ローランの到着は二日ほど遅れる…そうだ。気にしていたようだったから」
「…あぁ、そうか…。二日ね。まあ、どうにかなるだろう。ジャックにはローランの報告を待ってから動けと伝えろ」
「了解した」
短くそう応えたものの、ヴァンの様子がひどく怠そうだったから…なんとなく去り難く踵を返すのを躊躇っていたアンリーを見て、不意にヴァンがやや悪戯っぽい笑みを閃かせた。
すっと手を伸ばしてアンリーの手首を掴むと、流れるような動作で引き寄せ、今まで自身が伏せっていた牀へと押し倒した。そこにはいつもながら無駄な力が一切無く、吸い込まれるような自然さで…しかも完璧に動きを封じられる。
「…どうした、隙だらけだが」
思わず、アンリーは息を呑んだ。まさか、この昼日中に。
「寝惚けてると思って見縊ったか?…困るな、そんなことでは」
あっという間に襟を緩められ、暴かれた部分にすこしかさついたヴァンの唇が触れる。奉献の時に付けられた旧い傷を擽り、それが下へ滑ったかと思うと、紅く熟れた部分を湿った舌で擦られて思わず背を撓らせた。
「…ヴァ…ン…!」
ヴァンはここ暫くアンリーに触れようとしていなかったから、油断した。胸から甘い痺れが広がって、四肢から力を奪う。だがそれよりも、あることに驚いて茫然としてしまい、なすがままに衣服を殆どすべてほどかれてしまった。
ほどかれた服の隙間から忍び込んだ指先が膚を滑る。性急に鋭敏な部分に触れたりせず、そのすぐ脇を時間をかけて丁寧に撫で上げられ、アンリーは掠れた声をあげた。背筋を駆け上げるもどかしさに思わず腰を浮かせた時、不意にヴァンが動きを止めた。
「どうした…?」
身体を離し、ヴァンが問う。
アンリーは片手で目を蔽っていた。蔽った目許から涙が数行下る。
「…まだ、泣くほど苛めちゃいないつもりだが…どうした、何かあったか」
アンリーの喉奥から漏れた微かな嗚咽に気づいたのだろう。幾分困惑気味に、ヴァンが目を蔽うアンリーの手を退けさせる。目の縁を僅かに紅くした目許が、蔀の隙間から漏れる淡い光にもはっきりと見えたことだろう。
「…何でも無い。用は済んだからもう帰る。邪魔して悪かった。身体が辛いならもう少し休んでいればいい。何かあったらまた来る」
そう言って淡々と身繕いを始める。ヴァンが呆れたように言った。
「俺ももう戻るさ。お前こそ、その目の腫れが引くまでもう暫くここにいろ。そんな顔、誰かに見られたら何があったかと思われるぞ」
ふと、アンリーが手を止めてその紅い眼でひたとヴァンを見た。
「…誰の所為だと…?」
言いかけて、口を噤む。
「…俺の所為か?」
いつもの、晦ますような笑み。アンリーは口を噤んだまま俯き、再び身繕いを始めた。ヴァンが牀から降りる。
「じゃあ、先に帰る。いいな、その腫れが引くまで出てくるなよ」
そう言って、粗末な扉を押し開けたヴァンに…アンリーは言った。
「ジュスト!」
ヴァンの足が止まった。振り返らぬままに応える。
「…誰のことだ? 俺はヴァンだ。お前さんがそう言った」
「ジュスト=ブランシュ…衛視寮神官。メリベル島の観測護衛任務中の殉職。…ツァーリ妃アニエスの幼馴染みで、又従兄弟。天文寮が是非にと欲しがった逸材でありながら、それを蹴って衛視寮に身を置いた…」
ようやく振り返ったヴァンの顔には、些かの感情も浮かんではいなかった。
「調べ物もいろいろ達者になったようだな…それでどうした?」
アンリーは、言葉を継げなかった。
「そういう男もいたらしいな。だが俺には関係ない。じゃあ、先に戻るぞ」
扉が閉まる。薄闇の中に残されたアンリーは、のろのろと服を整えたものの…その場にもう一度座り込んでしまった。
おそらく自分の不調を韜晦するために仕掛けたのだろうが…アンリーの記憶にある中で殆ど初めて、ヴァンが行為の途中で話らしい話をしたというのに。…やはり、訊けなかった。
ヴァンにとって自分がなんなのか。弟子で、協力者で、後継者。そんなことではない。
行為の理由が知りたかった。
ヴァンにとって自分は、アニエスの形代なのか。アニエスを護れなかったリュドヴィックの子…憎しみの対象なのか。ただ無聊を慰めるだけの玩具か。…それとも。
どれでもいい。現在を壊してでも、答えが欲しかった。
――――もう、疲れた。
――◇*◇*◇――
『血の緋色』とはよく言ったものだ。
シルメナ国王ルアセック・アリエルⅤ世は、自身の膝の上で緩やかに揺蕩う緋の髪をそっと梳いた。まるで血で染まった絹糸の束。細く艶やかで弾力を有しており、絡めた指先を持ち上げれば緋の飛沫が散りそうでさえあった。
シェノレス大神官の年若い使者は、そんな凄惨な幻想を纏っても違和感のない美貌であった。…ただ、今は疲れ果てて眠っており、いっそ稚くすらある横顔を見せていた。
シェノレスの大神官家は聖風王の下に仕えた風の眷属の裔という。『血の緋色』はその眷属の血を濃く引いた者の髪に現れると。…お伽噺に属する逸話と思っていたが、大神官リュドヴィックが何を思ってこの使者を送り込んできたのかを考えると、中々どうして興味深い。
「供犠か、陥穽か、真に使者か…」
ルアセックが低く笑って、その緋色に縁取られた白い頬に指先を滑らせた。仰向かせ、その繊細な顎の線を指先でなぞる。そんな微かな刺激にも微かに身を震わせる所作は少々罪作りではあった。
使者としては若すぎる。供犠に差し出すにはいかにも惜し気が無さすぎて胡散臭い。陥穽に嵌めようとしているとすれば反応が硬すぎる。
だが、あんな傷ついた表情で…寝首を掻くと言われては、可愛らしすぎて思わず揶揄ってみたくなるではないか。あまりにも必死だから終いには揶揄うのも可哀想になってくるが。
ルアセック・アリエルともあろう者が…その時点で既に嵌められていると言えなくもない。
意図してのことかどうか…よく仕込まれている。その容貌、肢体だけでも十分に陥穽として機能するだろうに、相応の時間をかけて丹精された稀有の鳥は、腕の中で愛しめば理性を蕩かすような佳い声で啼いた。
しかし、本人は…誰かに差し出すために丹精されたとは思っていなかったに違いない。
ルアセックの要求を受け容れた時の、地獄の深淵を覗いたかのような絶望を湛えた双眼の紅榴石を見た限り…ルアセックの要求はこの使者の矜恃を少なからず傷つけたのだろう。
――――大人達の思惑はどうあれ…少なくとも本人は、使者として此処へ赴いたのだ。
それをつまみ食いしたのはまごうかた無きルアセックの出来心である。ここのところ心愉しまぬ事が続いていたところだったから、つい…というのは、言い訳にもなるまい。
それでも彼が応じたのは、何が何でもこの交渉を成立させねばならぬという使命感か。その為なら矜持を枉げ、自らを供犠に差し出すのも厭わない覚悟を背負って、此処へ来た。
血を分けた我が子にかくも悲愴な覚悟を植え付けた上で送り込んできたシェノレス大神官リュドヴィック。…やはり本気か。
不意に、緋の髪の使者が目を開ける。自身が王の膝に頭を預けて眠っていたことに気付いたのか、幾分慌てたように身を起こし、襟を整えた。
「…ご無礼を」
ルアセックは薄く笑って、自らも上衣を纏った。そして牀から立ち上がる。
「いや、私こそ御使者に非礼であったな。
では、シェノレス大神官リュドヴィックの提案とやらを改めて拝聴しよう。このオアシスを再び楽園たらしめる策か否か…シルメナ王ルアセック・アリエルが篤と吟味させて貰う」
――――――――Fin――――――――