風塵夜想曲

ルアセック ー想ー

 その当時、既にレーダ大公1の地位にあったルアセックが神殿に居留していたのは、シルメナ国王の正式な後嗣としての修養の一環であった。風の神殿にまつわる儀式、儀礼…聖風王の後裔としての知識と所作を身につけるという名目で、風の神殿に預けられていたのである。
 往時の権勢はないにしても、聖風王2の後裔としての矜持を忘れてはいけない。その為だけに慣習的に定められた期間ではあるが、十代も後半のルアセックにとっては退屈以外の何物でもなかった。行儀見習いならもう少しわかくて素直なうちにさせるべきだというのがルアセックの結論だった。
 王室書庫の貴重な文献が読み放題という環境は悪くはなかったが、日がな一日老神官の繰り言に付き合うのはなかなかに忍耐心を要求される。成る程、修養とはこういうことかと毒づきつつ…時折適当に抜け出しては神殿の周囲を散策していた。

 神殿の奥の院の一隅に、よんどころない事情で匿われている貴人がいるという話は神官から聞いてはいた。神域といえど後嗣たるルアセックが立ち入りを禁じられるような場所はそう多くないが、傷を受けて療養中と聞いていたので一応訪問を憚っていたのである。
 その日突然、足を向けたのは…一寸した興味としか言いようがなかった。正式な見舞いを申し込んだところで、断られてもつまらぬ。散策のついでで立ち寄ったていでその貴人とやらの顔を見てやろうと思ったのである。
 いわゆる奥の院は神域だから、余人の立ち入りは禁じられている。その周囲には警護の兵が立てられているが、逆を言えば個々の建物について警護がついている訳ではない。神域に入ってしまえば入り込むのは容易だった。庭伝いに入れば近侍の者に見咎められることもない。…ある意味、スリルを愉しむ意図があったことは否めなかっただろう。
 庭の静穏を護る樹木は、もとは岩山であった神殿の土地へ、他所から丁寧に運ばれた土の上になされた植栽である。だから、その位置は精緻に計算されたものであった。
 木々がつくる衝立の間をかいくぐり、中庭に出た。
 中庭には滑らかな敷石で囲った泉が設えられている。神殿の最奥から湧出する水は神域内の貴重な水源であり、その豊富な水量は苑内の植栽を灌漑し麓の樹園にも供給されていた。
 その敷石の並びまでつまびらかに見えるほど透明な泉の中に、誰か蹲っている。
 この泉は水源に近く、かなり水温が低い筈だ。導水管から出た時よりも敷石でぬるめられるとはいえ、そのまま浴びるには少々冷たいだろう。
 おまけに、少々様子がおかしい。
 すこし癖のある金褐色の髪。神官の着衣であるゆったりとした白い長衣は一見して体格がわかりにくいが、水を吸って張り付いた長衣に包まれた肩はまだ細い。
 水の中に座り込んだまま動かず、とても稚気にまかせて水遊びという風情ではなかった。俯き、白い長衣の裾が濡れることなど全く頓着していない。
「そこな客人、具合でも悪いのか」
 敷石の段を降り、声をかける。反応はなかった。少し考えてから、ルアセックは皮鞋サンダルを放り出して水に入る。こちらも服は濡れるが仕方ない。
「おい、大丈夫…」
 少し伸びた金褐色の髪の下には、わずかに上気した白皙のおもてがあった。
 既視感のある面差しは、まだ少年と言っていい。十三か四というところだろう。淡い緑…萌え出たばかりの若草色の双眸は熱に潤み、自らの左肩をかなり強い力をこめて掴んでいる指先が、微かに震えている。指先のあわいから見える濡れた長衣の左肩は、微かに緋色が滲んでいた。
「…あつ…い…」
 濡れた唇がわずかに開かれ、掠れた声が漏れる。水も浴びたのだろうが、おそらく汗もかいている。傷を受けて療養中とは聞いていたが、傷の経過があまりよくはないのだろう。発熱している。
 ツァーリに嫁いだ王妹アスレイア・セシリアの遺児が、殺されかけてナステューカを逃れたという噂は知っていた。年頃は合致する。してみれば、これがくだんの遺児か。
 アスレイア・セシリアが輿入れしたのはルアセックとて物心つく前だ。回廊に残る肖像を見たことがある程度で、面識はないといっていい。歴史の長いシルメナの王家には女傑も少なくないが、ルアセックからすれば叔母にあたるアスレイアはまあ、肖像を見る限り儚げな美姫という印象しかなかった。ツァーリとの力関係から拒否は出来なかったのだろうが、父も送り出すに当たっては相応に心痛であったに違いない。
 上気した頬と熱に潤んだ緑瞳は確かにあの肖像にあった面差しと同一であったが、繊細でありながら芯の勁さを感じさせる眉目が、一瞬呼吸を停めさせるほどの艶を含んでいて驚く。
 傷を押さえていた手が、ふと緩んでルアセックの肩に落ちかかる銀の髪に伸べられる。最初はそっと触れ、指に絡めたと思うと…細い肩がぐらりと倒れかかる。その指先はしっかりと髪を握ったままだったから、背中で緩く括っていただけのルアセックの髪はあっさりとほどけてしまった。
 受け止めた身体は熱い。
 ルアセックは筋骨隆々たる偉丈夫という訳ではなかったが、線の細い少年の身体を抱え上げるのにそれほど難儀はなかった。熱にたまりかねて泉の水を求めたのだろうが、とりあえず水からあげてやらねばなるまい。
 立ちあがった時、左腕はまだ十分に力が入っていないようだったが、右腕は確かにしがみつくような動きを見せた。わずかに頭をすり寄せてもきたから、抱え易くはあった。
「どうにも、誘われているような気がしていかんな」
 ルアセックは苦笑して、客人を庇と樹木の陰になっている長椅子へ運んで横たえる。
 中庭に面した部屋の扉は開いたままだ。その先…部屋の中をを見遣ると、先程までこの客人が伏せっていたと思しきベッドがあったのだが、このずぶ濡れの姿のまま寝かせるわけにも行かないだろう。呼べば近侍の者が来るから、後は任せるのが妥当だ。
 しかし。
 身を起こそうとしたルアセックは、思わずもう一度膝をついてしまった。少年の指先はまだしっかりとルアセックの髪に絡められていたのだ。
「…おい…」
 熱で潤んだ若草色が見上げていた。その唇が熱に浮かされたように何かを繰り返し紡いでいる。それが、必死に引き留めようとする所作なのは明らかだった。
 媚びたふうは微塵もない。それなのに、この凄絶なまでのつやといったら。
 ――――こんな、熱を噴いて前後不覚のあるじを放っておく近侍が悪い。
 髪を絡め取る指先を丁寧に解き、ルアセックは自らの掌を重ね合わせた。触れているものがあれば安心する。ただ引き離すだけでは混乱を深めるだけ。
 もう片方の手を年若い客人のうなじに回して引き寄せ、熱を帯びた唇に口づける。流石に驚いたのか…ひくり、と身体を震わせたのが判った。
 遅いよ。
 触れた唇を賞玩し、舌先で歯列を割って推し入る。息を呑むような喉奥の音を聞きながら、項に回した手をするりと背に回して抱き起こす。ルアセックは木の長椅子に掛けるとそのまま年若い客人を抱え上げて自分の膝の上へ載せた。
 ようやく唇を離された時、自身の格好に気付いたのか…喉で小さな音を立てて身動みじろぎする。
「……っ…!」
 聴き取れないが、それはおそらく誰かの名前。だが、濡れて張り付いた神官衣の裾を滑らせて下肢を撫で上げると、ルアセックの首に両の腕を回し…甘い声を上げてしがみつく。
 なんと罪作りな。
 だが力が持続しないらしく、左腕が滑り落ちる。やはり傷か。片腕でその華奢な身体を支えながら、もう片方の手でルアセックが濡れた神官衣をほどいていく。胸元を肌蹴はだけけたとき、左肩の惨い傷痕が露わになった。
 熱を持って腫れている。全身の熱の原因も此処だろう。あまりのいたましさに思わず唇を寄せる。舌先でそっとなぞると、微かな鉄の味がした。傷そのものはほとんど塞がっているが、先程掻き毟りでもしたのか周囲に浅い傷がある。
 その一つ一つを丁寧になぞっていくと、苦鳴というよりあきらかな嬌声が朱唇から漏れる。
 ほそい身体をもう一度濡れた長衣の上から撫で、下肢へ滑らせた。裾を割ってその奥に触れると、既にきざしているのがわかる。
「…つらそうだな」
 そうさせたのが誰か、というところを棚上げにしてルアセックが耳許で囁く。紅く熟れた耳朶を甘く噛み、下肢の奥へ滑らせた指先を進めると、他愛もなく達した。
 しがみつく腕がわずかに緩み、ルアセックの耳朶を蕩けるような吐息がくすぐる。この年齢としで…判ってやっているなら怖いが、これが天然というならさらにおそろしいのではなかろうか。
 どれだけ煽るつもりだ、と胸中ひとりごちてさらに指を進めようとすると、熱をはらんだ身体に怯えたような震えが疾った。だが、力が入りきらなくてただ身体を震わせるばかり。
 ついには吐息が嗚咽になってしまったから、ルアセックは指先を退いた。これ以上は無理強いになる。
 もう一度…触れる程度に唇を重ねながら衣服を整えた。そうはいっても濡れているから、軽く覆うだけだ。
 生殺し、というあまり上品とはいえない言葉が脳裏を過ったが、こればかりは自分にも責任がある。大体、朦朧とするほど熱を出しているのにいつまでもこんな濡れた格好をさせておく訳には行かないだろう。…常識・・として。
 その常識・・を踏み外しかけた原因を長椅子に横たえることを諦め、ルアセックは年若い客人を抱えたまま立ちあがった。中庭に面した部屋に置かれたベッドの脇、テーブルの上には呼び鈴もあるにはあったが、両手が塞がっていてはどうにもならぬ。
「誰か有る!」
 ルアセックの声に、慌てるあまり裏返ったような返事をしながらまろび出てきたのは神殿に仕える女官であったが、すぐにもうひとり…近侍衛士と思しき者が駆けつける。鴉羽色の髪、怜悧な美貌。衛士の姿なりではあるが紛れもなく女。
「熱があるというのに水に入られたようだ。御召物を替えてさしあげよ」
 ルアセックがそう言うと、女官がやはりまだ半分裏返った声でいらえて脱兎の如く準備に走った。その近侍衛士が進み出てルアセックの腕から主人を抱き取る。
「我が主がご面倒をかけて申し訳ありません。本日こちらにお運びとは存じませんでした。お迎えに伺いもせず、重ねての無礼ご容赦下さい。
 …レーダ大公、ルアセック・アリエル殿下」
 完璧な礼儀に則った所作というのは、時に相手を居心地悪くさせるものだ。ルアセックは苦笑いするしかなかった。
「良い。修養とやらが退屈なもので抜け出して出歩いていたら、行き合っただけだ。神官共には内密にしておいてもらえると助かる」
 中庭へはいりこんでおいて偶然行き合ったもないものだが、有難いことにそこは突っ込まれなかった。女が怜悧な美貌の下で何を考えたのかは…はかりかねたが。
「御意。殿下も御召物が濡れておいでですが…」
「ああ、構うな。すぐ乾く」
 ここで長居していて女官が複数出てくれば、神官共には筒抜けるだろう。早く退散するに限る。踵を返してきざはしを降りつつ、先刻客人に引っ張られてほどけた髪を括り直していてふと思った。年若い客人の繊細な指が引き留めようとした銀の髪…この女ではあるまい。
 振り返ってから、それを問おうとした自身を嗤う。そんなもの、訊いてどうする。
 だが振り返った時、女が誰かの面影を追うように、ルアセックの後ろ姿を見送っていたことに気付いた。
 ルアセックが振り返ったことに狼狽うろたえ、すこし辛そうに目を伏せる。そして腕の中の主を、慈愛に満ちた所作で抱き締めた…その風情に先程の怜悧な印象が揺らぐ。
 この年頃のあるじに、年嵩の娘を近侍衛士として宛てる。近習どもの意図は明らかだ。ルアセックの直感では、この女は意図されたところの役責・・をまだ果たしていない。機宜タイミングがなかったのか、この女の理由なのか…どうにも、後者のような気がしたが。
 主を女官たちに委ね、改めてこちらに向けて拝跪する近侍衛士からすいと目を逸らして…ルアセックは再び歩き始めた。
 客人が、そしてあの女が、この髪に誰を見たのかは知らぬ。
 だがそれが誰であったにせよ…早晩、の客人の心は別のもので占められてしまうだろう。どういう事情か知らないが、いなくなってしまった誰かではなく…傍にいて、自身の命すら主のものであると信じて疑わぬ美しい守護者に。
「…勿体ないことをした…」
 庭を出てしばらくしてから、ルアセックは振り返って溜息をついた。
 媚びたふうは微塵もないくせに、ルアセックをして背に戦慄を疾らせるほど艶めいた所作を思い出し…もう一度かの客人をこの腕に抱く幻想にとらわれかけて…嗤う。
 父王の妹姫の忘れ形見であれば、王室が庇護しても何ら差し支えないはずだ。それを名を隠し神殿の客としているのは、ツァーリへの聞こえを憚ったからに違いない。
 ツァーリも今現在取り込み中・・・・・だ。この時期にわざわざシルメナへ手出しをしてくることは考えにくいが、もしそれを危惧するならルアセックがレーダ邦に連れ帰って匿うという手段もある。
 そうすればずっと、手許に…
 だが、ルアセックはその幻想を笑殺した。
 傷つき、羽根を折られた鳥。血反吐をはき、思うに任せぬ羽根でもがきながら、それでも飛び立つことを諦めていない。今は踠くことでさらに自身を傷つけているとしても、鳥籠に匿えば…その魂は失われるだろう。
  それがいかに美しく貴重であろうとも…ルアセックは翼持つ者を籠に閉じ込める愚を犯したくはなかった。

 ――――手を伸ばせないもどかしさを愉しむのも、また良いではないか。未来永劫、手に入らぬものと決まったわけでもあるまい。

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  1. レーダ大公…シルメナにおける王太子の異称。
  2. 聖風王…大陸暦500年頃のシルメナ王。その頃大陸全土を巻き込む大災害が起こり、当時の王アリエルが風の精霊を使役してその災害を鎮めたという伝説がある。アリエルは聖風王と諡され、以後シルメナは国力としては中規模ながら聖王の国としての尊崇を受けることになる。