後朝
サーティスが本来の房へ戻った時、周囲はまだ薄暗かった。マキがまだ戻っていないことにかすかな安堵を覚えながら、重たい身体を長椅子に預けていっとき浅い眠りを貪る。こんなていたらくでは出立もままならぬ。少しでも眠って、動けるようになっておかねばならない…そう思ったのだ。
だが朝、清々しい旭光とともに意気揚々と神殿から帰ってきたマキに…サーティスは結局、出立を一日延ばしてくれるよう懇請したのである。
マキは、それを聞いて暫くその緑瞳を瞬かせた。
サーティスの酒については「蟒蛇というより笊だよね」と言い切り既に諫めることさえしなくなったマキだが、今朝はサーティスが余程酷い顔色をしていたのだろう、怒りも揶揄いもせずにただ小首を傾げて小さく嘆息した。
「珍しいよね、サティが宿酔とか。佳いお酒は悪酔いしないって言うけど…さすがに呑みすぎた? まーいいや、とりあえず水飲んで寝てなよ。あ、水差しはここ置いとくね?じゃ私、愁の見送り行ってから神殿で遊んでくるー♪」
少女の軽捷な足音が完全に聴覚から離れぬ間に、サーティスは再び長椅子へ倒れるように身を沈めた。
宿酔か。そう思って貰うのが無難というのものだ。
愁柳の見送り、と聞いて…次に会ったときに何を言われるだろうと思うと本当に宿酔のような頭痛に襲われたが、さしあたってはマキがあっさりと納得してくれたことに安堵した。
あの後結局、もう一度閨へ引き戻され…月が沈み東の空が白むまで付き合わされた。記憶が飛んでしまうほど責め立てられ、しかもそれで何度となく昇りつめてしまったことは自分でも驚くより他ないが、ライエンと重ねている、と思われた…しかもそれで少なからずルアセックを怒らせたことは、相応に衝撃だった。ライエンとそういう関係にあったと勘繰られたこともそうだが、ルアセックにとってはそれが何やら不愉快であったらしいのだ。
自分はルアセック・アリエルという男を見誤っていたのではないか。もう少し淡泊な奴だと思っていたが。
一言も弁解させないために敢えてあんな無茶をしたのではないかと思った程だった。その癖、後朝というときになると急に優しくなり…懈さに身動きどころか口をきくこともままならないサーティスの身体を、絞った布で懇ろに拭ってから衾さえ掛けて帰って行ったのだ。…ご丁寧に昼過ぎまで誰も入れさせないからと言い置いて。
何がなんだか判らない…というのが、サーティスの正直な感想だった。
与えられる熱にすべてを預けきってしまう…あの抗い難い快美感。俯瞰することもできないほど溺れたのは、本当に久しぶりだった。だが今朝、気付いてみると昨日までのどうしようもない自己嫌悪と遁走願望だけは潮が引くように失せていたのだ。具体的に何一つ解決してなどいないのだが、思い詰めたとてどうにもならぬ、という冷えた居直りとでもいうべきものが…気がつくと胸奥にどっしりと座を占めていたのである。
説教に託けて大変な目に遭わされたものだが、ルアセックが相応に自分を気に掛けてくれていたということだけはよく理解った。誰かが気に掛けてくれる、という感覚は…存外貴重なものだ。
ただ多少、方法が常軌を逸しているから…度重なると正直、身が保たない。近寄る時には注意が必要だろう。
今朝は完全に喉が嗄れていてほとんど声も出せなかったから、あのときはただ不貞腐れていると思われたかもしれないが、これが今生の別離でもあるまい。また話す機会もあるだろう。
明日には此処を出る。逃げるためではない。歩きつづけるため。
風塵荒れ狂う砂漠でもよい。星さえ見えぬ森でもよい。
安寧に身を浸すのは…まだ早い。歩きつづけて、道を見つけなければ。自分が何を成せるのか。何を成すべきなのか。
***
翌日の夕刻。昼前にレアン・サーティスが無事国都を発ったとの報告を侍従から受けて、シルメナ国王ルアセック・アリエルは深い溜息をついた。
これは妬心だろうか。
ライエン。…おそらく名実ともにヴォリスの後嗣と目されていた当時の書記官長ライエン=ヴォリスのことだろう。丁度あの頃だ。当時、事故死とも病死とも言われるライエン=ヴォリスの急逝は様々な憶測の種になった。真相は無論闇の中だ。
明らかな事実としては、ヴォリスの将来的な支配体制を盤石にしていたはずのライエンが忽然と表舞台から姿を消し、ジェド=ヴォリスは老骨に鞭打って政権の座に居座り続け…謂われなき中傷からノーアに放擲されていた筈の末子リオライ=ヴォリスが、その経緯がなかったことのように後嗣として呼び戻される事態となったということだけだった。
ライエンという男と本当に何もなかったとして…サーティスが深く心を預けていたことには間違いはない。それを確信したとき…何か大切な部分の掛け金が外れてしまった。
手に入らない歯痒さを愉しむのも良い。そう思っていたのに。
帷帳の向こうに薄明の色彩が見え始めた頃、閨で声さえも出なくなったサーティスを抑え付けていた自分に気づいた時の情けなさときたら。
冗談事でなく怒らせたのではないか。取り繕うように身体を拭いたり衾をかけてやったりする間の沈黙が、背筋が凍るほど怖ろしかった。いつもの憎まれ口でも悪態でも良いからその声を聞きたかったが、国王としての朝課の時間が迫っていた。
結局、陽が中天を過ぎるまで、呼ばねば誰も寄せ付けないようにしておくと言い置いてそこを去るしかなかった――――――。
サーティスが出立の予定を繰り延べたことを知ったときには、実際に背に冷汗を感じた。
考えた挙げ句、その午後に果物と薔薇水1を届けさせたら…件の小公女から即座に深甚な礼状が返ってきた。
出立が延びたことで、不予と案じての見舞いを寄越したと思ったらしい。手紙には気遣いに対する鄭重な謝意が丁寧にしたためてあった。姿が男児のようでも世知に長けた細君のようなきちんとした文字と文章であったことに舌を巻きつつ、苦笑もした。
やれやれ、子供の方が余程しっかりしているではないか。
柄にもなく浮き足立っていた自分自身を嗤って、ルアセック・アリエルは窓越しに彼らが赴いたであろう西の空を眺めた。
次があるといいが。
何分にも風の竜は奔放だ。いちどこの腕に抱いたとて、次が約束できるものでもない。そしていつまた掴まえられるとも限らぬ。だが、それでもいい。
この、縛れない歯痒さが佳いのだ――――――。
――――――――Fin――――――――