胡琴啾啾
「砂礫のアリア」拾遺
岩室のやや淀みがちな空気を、密やかではあるが追い詰められた呼吸が微かに揺らす。
岩の床にただ薄縁1を敷いただけの褥。野宿に慣れた身にはさして問題では無いが、決して柔らかくはないから…リヒャルトがその繊い身体を組み敷けば、サーティスが忽ち苦鳴を発するのも無理はない。だから概ね、胡座を組んだリヒャルトが膝の上に若木のような肢体を乗せて愛しんだ。
『何が佳いのかわかりませんけれど。…あまり酷いことをされると、発作的に喉を掻き切るかもしれませんからそのつもりで。この剣を汚したくはないんですが、あなたはいろいろ隠し持ってるから』
昂然とそう言い放ちながら、サーティスが拒むことはほとんど無かった。あまりにも寛容に、ひどく透明な表情のままその望みに応える。
かつて慈しんでくれた者の形見と思しきその剣に手を掛けることなく、かといってリヒャルトが身につけている暗器2を抜き取って実用に供する訳でなく…。ただ大抵その両眼はかたく閉じられたまま…与えられる感覚にひたすら身を委ねている風情であった。
命を助けられた恩義に報いるため、望まない行為にもただ黙して耐えている?…見目はともかくサーティスがそんなしおらしい玉でないことくらいは、リヒャルトにもよく理解っている。
その朱唇の間からは時折紛れもない嬌声を聞いたし、ひどく稀ではあるが、促せば自分から動いてみせることさえあった。ただ、それでも…サーティスが行為を快楽と捉えているようには見えなかったのだ。
――――だから、読み切れない。
膝の上に抱えられていては、逃げることさえままならぬ。自重で深く繋がれた部分の圧迫感に喘ぎながら、リヒャルトの腕の中でサーティスが強く総身を撓らせた。
「…っ…」
限界まで反らされた喉から微かに漏れた声は、苦鳴と嬌声の危うい境界線上にあった。そのことに微かな苛立ちのようなものを感じて、リヒャルトは思わず抱く腕に力をこめてしまう。すると、今度こそ紛れもない苦鳴が上がった。
「…痛…い…!」
掠れた声もまた、衝動を揺り起こすような艶を孕んでいたが…そこは抑えて腕を緩める。
それでもゆっくりと弛緩していく身体を離すのが惜しくて、腕の中におさめたまま…宥めるように首筋に唇を這わせた。
すると、達したばかりの身体を撫でられるのが辛いのか…微かに肩を震わせて細く息を漏らす。
「…いい加減で、少し休ませて貰えませんか」
相変わらず眩暈がしそうなほどの艶を含んでいるくせに、そろそろ非難がましい響きさえ伴ってきた声音に、リヒャルトは思わず苦笑する。
「…ああ、すまんな」
余計な弁解は却って怒らせる。だから素直にサーティスを薄縁の上に横たえると、そっと離れた。
リヒャルトが身の裡から出て行く感覚に再び小さく身を震わせ、サーティスは殊更大儀そうに深く息を吐く。そして少し拗ねたように岩壁のほうを向いてしまった。
それを声を立てない苦笑と共に眺め遣ったあと、リヒャルトはふと枕元に無造作に置かれている見たことのない弦楽器に注意を惹かれた。こんなもの、前に来た時はあっただろうか?
リヒャルトはそのまま暫くその楽器らしいものを見ていたが、それへ手を伸ばした。緩い弦の音に、サーティスが物憂げに身を返す。
「そのままじゃ…鳴りませんよ。弓がないと」
「提琴3か…変わった形だな」
「変わってるでしょうね。参考にしたものはありますが、私が作ったんだから。ただ、仕組みに興味があって…形なんてうろ覚えだ」
「…何だって?」
「だから、私が作ったから。何か変ですか?」
リヒャルトが思わず沈黙する。シェンロウの仕事を手伝う上で、この少年が道具を修理したり工夫を加えて作り直したりしていることは知っていた。器用といえば器用なのだろうが、そもそも提琴を作ってみようという動機がよくわからない。
「…あの隊商の中に、旅芸人の一団がいたんです。その中の一人が持っていた楽器の音が…とても綺麗だった。少しだけ触らせてもらったけれど、簡素な仕組みなのに面白かったな…と。
一緒にいたのはほんの短い間でしたが…生きた者が私の他にいなかったというなら、彼女も殺されたのか…あるいは、連れ去られたのか…したのでしょうね」
その言葉に込められたものは、愛惜というにはあまりにも恬淡としていた。
話にでてきた〝彼女〟があの剣の持ち主でないことは、なんとなく察しがついた。言っては何だがあれは芸妓風情に扱える剣ではない。ただ、サーティスの口から初めてシェンロウ以外の人間の話が出てきたことに…リヒャルトは軽い驚きを憶えていた。それと一緒に、不可解な感情も。
「…だから、作ってみたのか? …その、〝彼女〟を偲ぶために?」
そう問うて、薄縁の上に横たえたままの…少しまだ気怠げなその肢体に片手を伸べる。腰の線をそっと撫で上げても、サーティスの言葉はやはり淡々としていた。
「…さぁ…?よく、わかりませんね」
透徹した若草色が、無機的にリヒャルトを見上げる。
嫉妬か。その、名前も顔もわからない、旅の芸妓に? …リヒャルトは嗤った。
この…翠眼の魔物に捕まってしまってから、どのくらいになるだろう。
不意を突いたとはいえ、アースヴェルテの怪狼リヒャルトに傷を入れた、妖艶な魔物。それでいて、どれほどに傷つき汚れても生きることを諦めない強い輝き。それらを平然と同居させる不思議に惹かれ、家主に疎まれながら用もないのにこんな砂礫の谷に通いつめた。
欲しいのだと気付くまでに随分と時間がかかったのが、今となっては可笑しい。だが、「手に入れた」と言っていいものかも実は微妙ではあった。
望めば応えてくれる。この岩室で拒まれたことはなかった。ただ、師父たるシェンロウを慮ってか、あの家にいる時には指一本触れさせてくれない。そして苦痛な行為は苦痛だとはっきりと言い、気が乗らない時にはあからさまに迷惑げな視線をぶつけてくる。そもそも、サーティスがこの岩窟にごく簡素ながら起居出来る程の調度を持ち込んだのは、シェンロウから譲り受けた古文書の解析のためで、寝食を忘れかねない没入ぶりでシェンロウに気を揉ませるほどだったのだ。だからそちらへ興が乗っている時には、かわされる言葉といえば睦言とはほど遠い。
露骨に気乗りがしていない相手を無理矢理押し倒すほど飢えてはいないつもりだったから、リヒャルトはそれを約束事と解釈していた。
手を伸ばせば触れられる。だが、決して掴まえておくことはできない。…そんなもどかしさにさえ、ひどく唆られる。
サーティスがリヒャルトの手をするりとほどき、身を起こした。申し訳程度に身体を覆っていた上衣がはらりと滑り落ちたが、些かも頓着していない。そしてリヒャルトの手から提琴を受け取ると、空いた片手で枕元…棚の隙間に倒れ込んでいた弓を引っ張り出した。
普通、提琴は竿と逆側を顎の下に当てて固定するが、そのサーティスはその提琴を膝の上に置いた。体部も随分小さくて厚みがあり、それに比して竿が長い。弦は2本。弓で擦る楽器と聞いて咄嗟に提琴と言ったが、どうにも別のものであるようだった。
「私も詳しいことは知りませんよ。彼女は、胡琴4、と呼んでいましたね」
そう言いながら、短く弓を当てて簡単に調弦した。
構えて、軽く息を吸う。
次の瞬間、澄んだ音と流麗な旋律が岩室の空気を揺らした。
一緒にいたのはほんの短い間だという。具体的にどの程度の期間だったのか知らないが、その間に楽器の構成を理解し、弾き方まで憶えたというのか。十分に鑑賞に耐える音色に、リヒャルトは今更ながら舌を巻いた。
そう言えば、竜禅あたりの伎芸団がこんな音色を含んだ演奏をしているのを聴いたことがあった。そうしてみると、隊商にいたというのは竜禅へ帰る途中の芸妓だったのかもしれない…。
ふと、曲が途切れる。
「どうした。最後まで聴かせてくれないのか?」
勿体をつけるな、というつもりだったが、弓を下ろしてしまったサーティスのひどく疲れたような表情にリヒャルトはその台詞を引っ込めた。
「…忘れてしまったようです。指が動かない」
胡琴を措いたサーティスの表情は、疲れというより何か心細そうな…言ってみればひどく寂しげに見えた。
「そうか…」
表情の理由を問うても詮無いことは理解っていた。だから今度はすこし強引に、もう一度その身体を膝の上へ抱き上げる。
そして背中から抱き締め、強靱な筋力を内包している筈なのに華奢としか言いようのない肩の線を唇で擦った。乾いた音と共に、サーティスの手から弓が滑り落ちる。だが、サーティスが掠れた声を上げたのは、前に回されたリヒャルトの指先が胸の紅点を探り当てた所為だっただろう。
「…っ…」
リヒャルトの膝の上で、繊い身体が小さく撥ねる。サーティスの身体を支えていた手をそのまま膝裏に潜り込ませて下肢を撫で上げると、少し浮いたような…不安定な姿勢にサーティスが腕を泳がせた。
ようやく触れた膝にしがみつくように爪を立てるから、リヒャルトが耳朶を噛むようにして囁いた。
「怖いか…?」
「…別に」
爪を立てていた指先が緩む。一瞬にして醒めたような声音であった。
「…いつもこうなんですよ。いろんなものに興味を持つ。でも、あらかた出来てしまったら…気が失せてしまって。大成できない見本ですね、私は。大夫が課題を与えて下さっているから、日々を無為にせずに済んでいるようなもので。
よかったら胡琴…差し上げますよ。持って行って下さい」
サーティスを悲惨な記憶から遠ざけようと、シェンロウは書を与え、仕事を与え、自身が半生をかけても解読しきれなかった古文書と石版さえ与えた。それは結果として正しかったのだろう。この驚くほど多才な少年は、此処での生活に慣れるに従って確かに生気を取り戻していったからだ。そして、師父が成し得なかった古文書の解析さえもかなり具体的なところまで進めているらしい。…シェンロウはその才を衷心から慈しみ、優秀な助手であり後継者たる彼がこの地に馴染めるように心を砕いていた。
サーティスもまた、あの少々短気ではあるが博識な好々爺を師父と仰ぐ穏やかな生活を……静かな歓びとともに受け容れているように見える。
だから時折見せる、ひどく渇いたような翠の眸が理解らなかった。
リヒャルトの肩口に頭を預け、サーティスは膚を滑る指先が与える感覚に意識を集中するかのように眼を閉じた。朱唇から熱っぽい吐息が漏れる。
「…いつから…なのかな…気が付いたら、何を見ても、何を聴いてもあまり何も感じなくなってしまったんです。それでも何か…していないと落ち着かない」
だから、リヒャルトにも唯々諾々と身を委ねるのか。
彼にとっては、この行為さえも研究対象なのではないか。自身の裡に呼び起こされる熱さえ、冷静に観察しているのではないかと思うときがある。呼吸を乱し、総身を桜色に染めて震わせながらも、サーティスは自分の身体に起きる変化を俯瞰していた。時折うっすらと開かれる翠眼は確かに身の裡から噴き上げる熱に潤んでいるのに、そこに感情めいたものはないのだ。
それを歯痒く思うのは傲慢か。最初から、この翠眼がリヒャルトを映したことなどないことくらい…解っていた筈だ。
それでも、欲しかった。
その気になれば何にでもなれそうな才に恵まれながら、身の無力を歎き、ひたすらに渇いている。この渇きが癒やされる時は来るのか。どうしたら癒やされるのか?
これは素なのか挑発なのか。あまりにも哀しい台詞を淡々と言い放つから、リヒャルトは敢えて少し強引に指を進めた。
「昔から…こう…だったわけじゃ…な…い……んっ…ぁ…っ…」
鋭敏な部分に与えられる刺激に言葉は途切れ、意味を喪っていく。終には先程の胡琴の音のように細く高い…繊細な音だけが喉を震わせる。
最後には声も出ないほど追い上げられた息遣いを耳許で聴き、桜色に染まった肢体を震わせるのを腕の中に感じても、その体温がまったく伝わってこない気がして…胸が軋む。
リヒャルトは繊い身体を抱き締める腕に更に力を込めながら…ただ低く呻いた。
***
「…で、何さ。これ」
場所を取るから、という理由で半ば押しつけられた胡琴を結局ルフトシャンツェへ持ち帰ったリヒャルトは、アーニィの呆れたような一言に思わず暫く返答に窮した。
「何と云われても…土産だが」
「誰に」
「誰でもいいんだが。お前、弾くか?」
「喧嘩売ってるか、リック」
「あの山猫嬢ちゃんにでもやれよ。どのみち貰いものだ」
「…解った。一応訊いてみる。カッツェが駄目でも、レナーテかレベッカ…パウラあたりが欲しがるかも」
革袋ごと握って出て行くアーニィを見送って、リヒャルトは嘆息した。素直さにかけては一級品というのが、そもそも刺客向きとは言い難い。しかしいつの間にあれだけさらさらと、女の名前が出るようになった?
埒もないことに引っかかった思考を振り払い、リヒャルトはあの岩室の褥ほどでは無いが…固い寝床に身を横たえた。
――――――――Fin――――――――
Page2で言い訳させて下さい…↓