砂礫のアリア Ⅱ
少年は、シェンロウが与えた杖で少しずつ歩き、程なく傷の回復もあって屋内は問題なく歩けるようになっていた。病臥にも飽いだか、よく倉庫へ行っては蔵書を捲っていた。
シェンロウがなんとなく部屋に置きっぱなしにしていた手書きの写本を手に取っていたので、興味があるなら読んでみるがいいと場所を教えたのである。シルメナやツァーリなど東方の言葉で書かれた写本もあるが、竜禅語が多い。顔立ちを見る限りおそらくは前者のほうが本来の母国語なのだろうが、それら全てをこともなげに読んでいた。
「本草学1ばかりだが、面白いか?」
倉庫の床に座り込んで頁を捲っている少年に、シェンロウはそう声をかけた。病床にあるときは痛々しい程に生気を喪っていたが、書に没頭していれば身に降りかかった苦難を忘れるのか…最近は少しずつ年齢相応の表情を見せるようにはなった。
「はい、沈大夫。
竜禅語の本でも竜禅の系統とは異なる知見のものもお見受けします。大夫が書かれたものですか?」
「よくわかるな。私が旅の途中で見たり聞いたりしたものを書き留めたり、旧い写本を写させて貰ったものも混ざっているよ。…えらく詳しいようだが、何処で学んだのだね?」
「私は神官の血統という訳ではありませんが、暫く…シルメナの風神殿に寄留していた折、必要があって学んでおりました」
必要、と聞いてシェンロウは少年の肩に刻まれた惨い傷痕を思い出した。本人だけでなく、身近な者がやはり傷を負うか患うかしていたのだろうか。しかし、そう話す繊細な面にかかる、微かな翳りを見てしまっては…そこに踏み込むのは流石に憚られた。消息を伝える先も無いというなら、その者を療養の甲斐なく喪ったのかもしれない。あるいは、盗賊の襲撃を受けた際に殺されたか。
自身も傷つき、護りたいと想う者を喪い、帰る処さえも無くした子供。興味を持てるものがあるなら、暫くはそれに意識を振り向けさせてやるのが最良というべきだろう。
シルメナの風神殿といえば長い歴史を持ち、医術に限らず学問に携わる者なら垂涎の蔵書を抱えることで名高い。そんな処に寄留していたというだけあって、少年の基礎的な知識量は神官並みと見えた。…あるいは彼にならば、シェンロウが此処に居をさだめる契機になったものを読み解くこともできるかも知れない。
「行くところがなければ、ここで暫く手伝いでもしてゆくか。お前さんほど詳しければ、儂も何かと助かる」
少年がはっとしたようにシェンロウを見上げた。
「…よろしいのですか、私は…」
「儂とて素性を云々出来る身の上ではないよ。お前さんさえよければな」
少年は一度瞑目し、そして居住まいを正した。深く一礼する。
「感謝いたします、沈大夫」
***
写本の収集は、実益も兼ねてはいるがシェンロウがこの地に居を定めてからの唯一の道楽だ。医業をいとなむために入手したり、借り受けてシェンロウ自身が書き写したりしたものもあるが、この家を手に入れた時、一緒に譲られたものもある。
油紙で何重にも包まれた、特異な質感を持った石板と、石版の由来を示したとされる写本もそのうちの一つである。
数カ国語に渡り、同じ内容で写し継がれたと思しきそれは、受け継ぎはしたものの…シェンロウの手には余るものだった。自分の代では読み解ききれないとあらば、理解できないまでも保存状態を維持するためには新たな写本をつくっておかねばなるまいか。そう思っていたところだった。
読み解いて何が得られるとも判らぬ。だが、少年の興味は本草学に限ったものでもなさそうなので、身に降りかかった苦難からすこし意識を逸らしてやることができれば重畳と思ってそれも与えた。
〝遺産〟。石版とその写本は、そう呼ばれていた。
***
「…何しに来た、化け狼」
「…った、ご挨拶だな」
出迎えたシェンロウの露骨な渋面に、リヒャルトは苦い顔をした。
「荷物を預けた手前、一応様子見に来ただけじゃないか。だいぶ顔色が良くなったようだな」
戸口に立ったシェンロウの肩越しに、件の少年が奥の作業台で薬草の仕分けをしているのをちらりと見遣る。少年はいちど立ち上がって透明な表情でリヒャルトに目礼し、何事もなかったように作業へ戻った。
「…丁度畑に水をやる頃合いだ。突っ立っとらんと手伝え」
シェンロウはリヒャルトを外へ促した。
イェンツォは砂礫の地だが、シェンロウの家の前には薬草を育てるための小さな畑がある。すぐ傍に天水桶が据えてあるが、ここのところ渇水気味であまり水量はなかった。
リヒャルトが裏手の井戸から水を汲んできて天水桶に足す傍から、シェンロウが柄杓で水を掬い、整然と植えられた草木の根元へ丁寧にかけていく。手桶に三杯ほど運んだリヒャルトが天水桶の傍に座り込んでしまうと、シェンロウがゆっくりと口を開いた。
「…特に行くあてがないというから、しばらくうちで預かる」
「ほう」
「本草学だけではない。シルメナの神殿で学んだというだけあって知識も豊富だ。気働きもいいから、儂も助かる。
…儂が面倒を見るから、お前は変な気を起こすな」
「…本っ当に信用無いな。それで?多少は喋るようになったか」
「名前以外は何も…な。神殿の話もあれからしたことはない。でもそれでよいさ。気が向けば話すこともあろうから、無理に訊かん。足の方も順調だ。おそらく鍛錬をする習慣があるのだろう。自分で少しずつ歩く距離を伸ばしているな。それと…」
「…剣か」
「急激な重心移動は足首の痛みを再燃させる可能性があるから無理はするなと言ってある。素振りを見ただけだが…あれは、きちんとした訓練を受けているな。体捌きが整っている。それと、あの剣…大切なものなんだろう。傍に置きたがる。
血糊をつけていたから手入れして返してやったが…リヒャルト、あの血糊…」
シェンロウが言いかけて口籠もる。質実剛健な造りの剣は、少年の唯一の持ち物であった。詮索はしないと言いながら、人を診るのが商売だけについ考えてしまうのだろう。
「あぁ、心配すんな。あんたが面倒みてくれるってんなら余計なちょっかい出したりはせんよ。酒甕で頭を割られてもかなわんしな」
笑い飛ばすように、リヒャルトが言った。
***
降りてみた崖下。灌木の狭間には、見飽きた光景があった。
造りの粗い革鎧が乱雑に脱ぎ捨てられた先で、蹲った男が下卑た息遣いとともに腰を動かし続けている。その下に組み敷かれた…襤衣を纏わらせた細い身体から伸びる、白い下肢。それは男に抱え上げられてもだらりと垂れ下がり、与えられる律動のまま無惨に揺れていた。
これはもう、間に合わない。
リヒャルトは、自分が崖下まで降りてきた最初の意図を棚上げにして思わず嘆息した。山中で賊に襲われるとはこういうことだ。刃向かえば殺され、捕まれば売られる。
殺してしまっては売り物にならぬ筈だが、売る前に味見を企てて自害されでもしたか。ないしは誤って殺してしまったか。それでも構わず売り損なった商品の上に伸し掛かって欲望を吐き出そうとする三下なぞ、珍しいものではない。
…が、見慣れているからといって看過できるかどうかは別物。
仲間達は疾うに引き揚げてしまったというのに、略奪の取り分にあぶれた鬱憤晴らしなのかも知れぬ。リヒャルト自身もあまり大きな声で喧伝できる生業ではないが、この醜悪な光景には我慢がならなかった。間に合わないのはわかっている。だがそれでも、このまま行き過ぎるのは後味が悪すぎた。
余程具合がいいのか、男が泣くような声を上げて仰け反る。
せめてその聞き苦しい雑音を止めてやろう。
リヒャルトは眉ひとつ動かさないまま、男の後頭部へ投げ刃を打つ。
だが、男の声を遮ったのは過たず盆の窪へ突き刺さった投げ刃ではなかった。
――――――銀光一閃。
投げ刃が刺さるのよりも一瞬早く、男の頸部は喉側から九割方切断されていたのだ。
仰け反った勢いのまま、自身が噴き上げた緋色に塗れて男が仰向けに斃れる。投げ刃の与えた衝撃も手伝ってか、どさりと身体が倒れたはずみで首が捥げ、リヒャルトの足下へ転がってきた。
リヒャルトは不覚にも一瞬呆然とした。
まだ十四、五というところか。少年と呼ばれる年頃である。たった今まで、組み敷かれ力なく仰臥していた筈だ。もう間に合わない、とリヒャルトも判断した。それが今、炯々たる光を双眸に湛えて上半身を起こしながら、振り切った白刃を取り落とすでもなくゆっくりと傍らに下ろしたのである。
土埃にまみれた金褐色はわずかに癖があり、乱れ波打って肩をわずかに越すだろうか。辛うじて上半身に絡みつく、もとは良い仕立てと見える旅装は襤衣と化し、衣服を剥ぎ取られ血の色を纏わらせる下肢は先程までの惨状が夢でも幻でもないことを残酷に証明する。
ひどく不自由な体勢から、頸骨さえ叩き斬った一撃。凄まじいばかりの発条だ。襤衣の下にある身体は確かに総体としては繊いが、その一閃が妖術の類ではなく、まぎれもなくその腕から繰り出されたものだと確信させるしなやかな筋肉の存在を窺わせた。
繊細な美貌というべきだったが、その熾烈な翠色の双眸が、ふとリヒャルトを捉える。その時になって、リヒャルトは自身が気配を消すことも忘れて立ち尽くしていたことに気づいた。
その翠色は、足下に転がる醜悪な骸を、もはや一顧だにしていなかった。
荒れた呼吸に揺れる肩は華奢という印象を拭うにはもうすこし幅が足りまい。片脚を引き寄せて体勢を整えかけ、痛みが走ったか眉を顰める。長剣を握ったままの腕に力を入れようとしたが、もう一度振るうだけの力は残されていないようだった。瞬間的に莫大な力を消費した腕は、痙攣を起こしている。
万策尽きた口惜しさを滲ませて、緋を散らした口許をかすかに歪める。その様さえも凄絶なほどの艶をはらんでいた。傷つき汚れ、それでもなお美しい。
こんな予定ではなかったが。
「…なにもしやせん。剣は措け」
そう言ったところで、この状況で賊と変わらぬ風体の男が近寄ってくれば警戒するなという方が無理だろう。
半身を起こしたまま、身を硬くしている。だが、昂然と上げた面に怯えはなかった。
ただ、力が入らないのか、投げ出されたままの片脚。擦れた傷だけでなく、腫れ始めていた。転落したときに傷めたのだろう。逃げるはおろか、立ち上がることも難しい筈だ。
だから逃げなかった。逃げられないなら、身を汚しても確実に敵を仕留められる瞬間を狙った。
――――暗殺者の手管だ。
同業者かとも思ったが、リヒャルトはそれを即座に否定した。
腕の震えは過大な出力の反動だけではない。…この少年はおそらく初めて人を斬った。鍛錬した身体ではあるが、生きた人間を斬ったのはこれが最初なのだ。
逃げることもままならぬ身体で、唇を噛み切るほどの苦痛に耐え、自分の命を守るために初めて人を斬った。だがそのすぐ後にまた新たな危機―リヒャルトのことだ―が目前に現れる。…それでも、折れない。
生き延びる、という強い意志がそこにあった。
リヒャルトは首のない骸を靴先で横へ転がし、少年の傍らへ膝をついた。全身から放たれる警戒感が静電気のようにリヒャルトを刺したが、構わず剣を握った手を取り、硬直したまま震える指を一本一本、ゆっくりと開かせる。その時になって初めて、少年の声に怯えに近いものが混じった。
「…やめろ…」
最後の支えを奪われそうになっているかのような、悲痛でさえある響きを、リヒャルトは黙殺した。こんなもの、今握っていてもどうにもならぬ。
そして、その掌から剣を抜き取る。
「…っ…!」
叫ぼうと肺腑へ息を吸い込んだ一瞬に激痛に襲われたか。少年が掠れた声とともに身体をがくりと折る。
リヒャルトは、頽れた身体をその腕で受け止めた。
***
襲撃のあとに辛うじて形をとどめていた一台の幌馬車。その荷台に壊された積荷の詰め草を敷き、リヒャルトは少年を横たえた。動き出せば振動が凄まじいから決して楽ではなかろうが、歩かせるのはもとより騎行もまず無理だから仕方がない。馬も連れ去られた後だから、仕方なく自身の乗騎に車を牽かせた。
何をやっているのだか。馬車を駆りながら、リヒャルトは自分で自分に毒づいた。
それほど重くはないにしても、人ひとり抱えて崖を上がるのは楽なことではなかった。案の定、既に日が暮れかけている。明るさのあるうちに宿場街まで辿り着くのは無理だ。
劫掠の跡から馬車までせしめておいて、今更通報もあるまい。リヒャルトはその峠道を所管する役所への通報、という大陸街道の作法を放念することにした。
峠は越えたが街に着く前に日没を迎えたから、適当な場所を見つけて野営した。そうは言っても、せしめた幌馬車があるから夜露には濡れずに済む。
荷台…少年の様子を見てみると、寝かせたときとほぼ同じ格好で臥したまま、時折肩が緩やかに動くのでなければ生きているのかさえ危ぶまれた。握っていた剣を取り上げた瞬間、ふつりと糸が切れたように意識を失ってしまったあとから…覚醒したかどうかも怪しい。
リヒャルトが携行食で自身の食事を済ませたあと、食欲どころではあるまいが水くらい飲ませないと拙いだろうと思い、一度揺り起こしてはみたが、反応がなかった。
とりあえず呼吸が停まったり、脈が途切れてしまった訳でもない。医者に診せて判断を乞うよりないと結論し、リヒャルトも休むことにした。
怪我人を寝かせた敷き藁の隣に横になる。手持ちの毛布は怪我人に貸し与えてしまったから上掛けもないのだが、野営に慣れた身であるから、幌があり床があるだけ上等な褥というべきであった。
鏃が突き抜けた痕であろうか。幌の天井あたりにあいた細い孔から月光が落ちて、少年の憔悴した貌をあえかに照らす。かさついた唇から細い息が漏れていた。…口の中はもう渇ききっているだろう。
「…ええい」
寝にくいことこの上ない。
リヒャルトは布を椀に汲んできた水に浸し、かさついた唇を湿した。ついでに噛み切ったらしい唇の端…その痕に張り付いた、乾いた血塊を拭う。傷に沁みたのか、少年が微かに眉を顰めた。
そして、ゆっくりとその双眸が開かれる。熾烈な翠と見えたその色彩は、朧な月明かりの下で柔らかな若草色を呈した。茫漠としたふうだったのが、緩慢に焦点を結ぶ。微かに唇が動いた――――。
起きたか、飲めるか。そう問うつもりだった。
しかし、リヒャルトがしたことは…意図したものとは違っていた。
その顎を捉え軽く仰向かせて、唇を重ねた。水を含ませた布で拭ってやったばかりの唇はまだ湿りを残している。それを舐め、舌先で歯列を割り、渇ききった上顎に舌を這わせると、少年が喉奥で呻き、身を硬くしたのがわかる。力なく投げ出されていた手が動いてリヒャルトの胸板に当てられたが、押し返すほどの力を出すこともなく滑り落ちた。
全てを諦めてしまったように。
唇を解放されても、微かな吐息とともに貌を背けただけ。勝手にしろとでも言いたげな姿態。
――――だが、その時。
リヒャルトが弾かれたように身を起こして片腕で防御する。その腕に緋色の線が疾った。
「…っ、お前…!」
仰臥したままの少年の口許には、紛れもない嘲笑が浮かんでいた。
まったく予備動作が読めなかった。身を起こし防御したのは全くの勘だ。自分ともあろう者が、自身の服の下に吊った投げ刃を抜き取られたのにも気がつかなかったとは。
「…俺も相当、焼きがまわったな…」
リヒャルトが、自嘲と畏怖をこめて低く呟く。
貌を背けたまま、低く嗤い続ける少年が、まったく別のおそろしい生き物のように見えた。昼間見た筈だ。この少年が一撃で頸を両断する姿を。判っていてなお、察知できなかった事は…衝撃でさえあった。
嗤いをおさめ、ひとつ嘆息してからゆっくりと向き直る。
「これで私は本当に詰みだ。…好きにするがいい」
他でもないリヒャルトの鞘から抜き取られ、浅手とはいえその腕に傷を入れた投げ刃。それをリヒャルトの眼前に突きつけた後、これ見よがしに荷台の隅に放り投げる。投げ刃が荷台の床にぶつかって乾いた音を立てた。
絞られた月明かりが差すだけの薄闇。先程は柔らかな色彩と見えた若草色がひどく挑発的な光を放った。まだあまり色は良くないが、濡れ光る唇。浮かべられる笑みといい、それは身の裡に確かな熱を揺り起こす。
だが。
リヒャルトは、ただ金褐色の髪をそっと撫でた。
「…悪かったな。ふざけるにも程が過ぎた。…水、飲めるか?」
少年はそれを聞いてわずかな間リヒャルトをじっと見ていたが、身体を起こして大人しく水を飲み、何事もなかったように身を横たえた。だが、その若草色の双眸を閉じる前に…低く呟く。リヒャルトはもとより、誰に向けて言ったというわけでもない。歎くようであり、嗤うようでもあった。
ただ、年齢不相応に錆びた声であったことだけが確かだった。
「――――我の力無きが故…」
***
そんな経緯があったものだから、シェンロウに少年の身体についた傷について叱責を受けても、リヒャルトは嗤って流すしかなかったのである。
まったく濡れ衣というわけでもない。
シェンロウ…お前、こいつの見目に騙されてるぞ。
そう喉元まで出かかっていたが、まさに余計なお世話だから口にはしない。サーティス、とだけ名乗ったその少年は、シェンロウには至って真摯に師事していたし、シェンロウはシェンロウで、昨今身体が弱ってきたところへもってきて良い生徒、そして後継者候補を得たことを喜んでいる。当面、と言っていたが、サーティスという少年がこの地に居場所を得られるよう様々な配慮をしているのは明らかだった。
シェンロウがイェンツォに落ち着く契機になった古文書のことは、聞いてはいてもリヒャルトの興味の埒外にあった。サーティスはそちらにも興味を示し、独自の解析を進めているようだとシェンロウが言っていた。シェンロウを扶けて薬草を採り、育て、加工し、シェンロウの家を訪ねる病人や怪我人の面倒を見る。足の怪我はほどなく本復したようで、裏山にも時々上がっているらしい。
あれさえ見ていなければ、何の違和感もない光景。
このまま、人を癒し、書を愛で、砂礫の地に一本でも多くの緑を根付かせる…そんな穏やかな生活を手に入れることが出来るなら、それが一番良い筈だ。少なくともシェンロウは、サーティスの抱える何かを感じながらもそう望んでいたし、今のサーティスを見る限りはそれを静かな歓びとともに受け容れているように見えた。
『我の力無きが故…』
年齢不相応に錆びた声で呟いた、翠の眼の魔物。殺気を完全に消したところから放つ、完璧な一撃。リヒャルトが避けられたのは全くの僥倖だ。長の依頼を受けたリヒャルトが数年をかけて丁寧に仕込んだアーニィさえいまだ及ばない域に、最初に遭遇した最悪の修羅場で到達してしまったサーティス。ちょっと育ちの良い利発な少年、で片付けられないのは明らかだった。アースヴェルテの怪狼に、気にするなという方が無理だ。だから、仕事で本拠を離れる度になんとなくイェンツォに足が向いた。その都度シェンロウに渋い顔をされてもだ。
ただ、それが…何故、気になるのかといわれると、リヒャルトにも説明がつかなかった。