禁域

 緋色にまみれた白い腕が、緋の泥寧のなかから伸べられる。
「・・・・終わらせて・・・・・レイ、君の手で・・・・」
 苦しげな吐息の下から、掠れた声が囁く。
 少女は温かみを失ってゆく唇に接吻くちづけ、伸べられた指先を捉えて静かに落涙した。
「どうして・・・・・どうして、こんなことに・・・・・」


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 
「a love of supreme

禁域


 それは、思考を麻痺させるほどの熱帯夜が見せた、幻だったのかも知れない。
 そう思わせるほどに幻想的で、しかし凄惨な光景だった。
 青みがかった銀色の髪の少女。透き通るような白い肌、そして紅の瞳。その紅を潤ませて、彼女は身も世もない悲しみに咽び泣いていた。
 腕の中の白い包みを抱きしめ、涙をそそぐ。愛しげに撫でさするその包みに、時おり切なげに接吻ける。
 ややあって、その包みがわずかにほどけ、中が見え・・・・・・
 ――――――――――慄然とした。
 現れたのは、美しい首。彼女と同じ銀色の髪、いや、わずかに褐色がかっているだろうか・・・・? 少女の瞳と同じ紅の唇、だがその頬は凍りついて白い―――――。
 閉ざされた瞼、その下の色彩を、彼は知っていた。
 その美しい首の所有者をも。
 彼はその名を叫ぶ。
「カヲル君――――――――!!」

***

 碇シンジは目覚ましのベルに叩き起こされた。
 気がつけば、いつものマンションの一室。何も変わらない、憂鬱な朝。
 自動人形のような動きで起き上がり、朝食を作り、胃の中に落とし込む。
 歯を磨き、顔を洗い・・・・・いつもの朝が始まる。
 碇シンジは今年で大学2年になる。親の束縛を振り切りたいという意図もあって、離れた大学を選び、マンションを借りて一人住まいを始めた。
 とっくに夏季休暇に入っていたが、何のかのと言い訳をつけて帰省も延期している。その日はたまたま、有名な教授が来て記念講演をするとかで、ここ暫く静かだった学内が騒がしさを取り戻していた。
 掲示板を斜め読みし、講義室へ入った。
 第一講義室は階段教室になっている。右側の最後列から2番目、一番右端。そこがシンジの指定席のようなものだった。
 座って、空っぽの演壇を見て、何気なく同じ机の左端を見る。
 やっぱり来ていない。
 視線を戻し、吐息する。
 そこが、彼の指定席だった。

***

「窓閉めて、エアコンいれようよ。暑くない?」
 夜、そして微風があるとはいえ、日中の熱が大気に残り、吹く風さえも熱風のようで不快だ。だが、彼はその風さえも愉しむように、ベランダのフェンスに身をもたせかけ、その銀色の髪を熱をはらんだ微風に遊ばせていた。
「・・・・そうかい?」
 事もなげに言う。素肌の上に、袖をまくり上げたカッターシャツだけの姿は確かに涼しいかもしれないが・・・・・。
「閉めよう。暑いよ」
 他の誰にも見せたくない。そんな気持ちも手伝って、シンジはエアコンのスイッチに手を伸ばした。
「うん・・・・・」
 不満というほどでもないが、彼は名残惜しげに窓を閉める。
 熱気がエアコンの空気に駆逐されてしまうまでの十数秒。
 彼が、立ちついでにキッチンへ行くのを見る。帰ってきた彼は、グラスを一つ手にしていた。
「シンジ君も、飲む?」
 差し出されたグラスの色。氷を浮かべた琥珀色。・・・・・殆どのまま。
「いいよ、苦手なんだ」
「そう? ・・・・・・ジュースでも持ってこようか?」
 いいよ、とまたシンジは答えた。子供扱いされたようで、少しだけいやなのだ。
 フロアに敷かれたマットレスに散乱するクッション。その一つを引き寄せ、彼は下肢を投げ出して座った。
 シンジは、シャツの裾から覗く白い下肢を見つめる。
「――――――シンジ君?」
 グラスからその唇を離し、不思議そうにシンジを見る。アルコールに濡れた唇。
 シンジはやおらその肩を引き寄せ、濡れた唇に接吻けた。
 ひりつくようなアルコールの味も、今だけは甘い。
 唐突な動作に、華奢と言っていい身体が揺れる。・・・が、彼はゆっくりと目を閉じて、グラスを脇へ置いた。
 空いた腕を、シンジの背に回す。
「・・・・・・・」
 横たえられ、シャツをたくし上げられる感触にも、解放された唇からかすかな吐息を漏らすのみ。だが、首筋から少しずつ下がってゆく舌先の感触に、少しずつ呼吸が不規則になってゆく。

***

 初めて会ったのが、あの階段教室。
 細かい経緯は、シンジもよくは覚えてはいない。
 さして込み入った経過もなく、この部屋に辿り着いた。
 そしてほとんど何の抵抗もなく、この腕におさめた。
 渚カヲルという名前、同じ大学に在籍しているということ、そしてこの部屋とTEL No・・・・。その他は何も知らない。
 彼はなにも喋らない。シンジの話は喜んで聞くくせに、自分の話はしたがらない。
 あからさまに隠しだてするふうでもないが、過去の生活を窺わせる何ものも、会話から引き出すことができない。
 それでもシンジは彼に惹かれ、三日と日を置かずにここを訪れる。・・・彼がそれを拒んだことは、一度もなかった。

***

 気がつくと、教授が拍手に送られて退場するところだった。
 案の定、講義の中身は右から左へ抜けてしまったものらしい。
 吐息して、シンジは席を立つ。空いた指定席を横目で見ながら・・・・。
 彼が姿を消したのは、10日ばかり前。
 一緒だった講義は前期で終了しており、電話にも出ず、直接行ってもドアにカギがかかったまま。他に連絡を取る手段もなく、シンジは無為に日を送っていた。

***

 マンションに帰ると、空気の入れ替えもせずにエアコンのスイッチをいれる。
 カーテンを開けて、はるか向こうの窓を見る。
 カーテンが閉まったままの窓。カヲルの部屋。
 あの窓に映った、幻としか思えない光景。あれを事実と信じているわけではないが、あまりにも唐突な失踪に、彼が何か事件に巻き込まれてしまったのではないかと思う事がある。
 そんな不安が見せた幻像――――――?
「・・・・・・ッ!」
 不意にシンジは呼吸を詰め、カーテンを閉めた。
 窓に背を向け、凭れて座り込む。
 しばらくぎゅっと目を閉じていたが、ある一瞬、耐えかねたようにベルトを緩め、ズボンの前を開けて下着の中に両手を滑り込ませた。
「・・・・は・・・ぅ・・・・」
 薄暗い室内を、せわしない息づかいとエアコンの駆動音が満たす。
 閉じた瞼の裏に浮かび上がるのは、背筋を駆け上がるような寒気を伴う、光景。
 はるか向こうであるはずなのに、それは目前で行われているがごとく明瞭で・・・・・
 そして、凄惨。
 だが、その情景にすら激しい衝動を覚えてしまう自分は何なのだろう。
 思い出す度に、言い知れない衝動に突き動かされ、ひとり際限なく自身を煽り立ててしまう。
 ――――――あの美しい首が目に灼きついて、離れない。
 人ひとり、殺されているかもしれないと言うのに。
 ―――――――あの閉じた瞼に、凍てついた髪にくちづけたい。
 逢いたい、どんなかたちでもいいから・・・・。
「・・・・あ・・・ぅ・・・・・・・・・・・くぅ・・・ん・・・・カヲル君・・・・あぁ・・・!!」
 腰がはねる。カーテンに頭を擦りつけ、シンジが最期の叫びを上げた。
「・・・・・・・っ!!」
 自分の手のみならず、目の前の床も汚したそれから目を逸らし、シンジは脱力した身体を窓に預けた。・・・そして、絶望的な呟きを漏らす。
「最低だ、僕は・・・」

***

「・・・愉しい?」
 また窓を開けて外の風を入れているカヲルに、シンジは半ば皮肉っぽく尋いた。
「・・・・ん、こうしてると、いろんな音が聞こえてくるよ・・・・」
「うるさいし、暑くない?」
「あはは、夏だから暑いのは当たり前だよ。でも、こうしていろんな音の中にいると、今自分がここにいるなって感じがするんだ」
 言われてみて、シンジも耳を澄ます。聞こえてくるのはtraffic noise。
「・・・・よく、わからないや」
「かもしれないね。・・そうだな、存在を許される場所があるという事実は、幸せにつながる。僕はそれを感じたいんだと思うよ」
「カヲル君は今、幸せなの」
「それなりにね。・・・シンジ君は、違うのかい?」
 シンジは返答に詰まった。だから、口にしたのは別のことだった。
「・・・誰かを、待ってるのかと思ったよ」
「どうして?」
「そんな顔してるから」
「あはは、そんなふうに見える?」
 不安を見透かされたようで、シンジはどきりとした。
「・・・・待ってるには違いないけど、果たしていつになることやら、見当もつかない・・・・」
 ついと遠くを見る紅い瞳。そのすこし切なげな横顔に、シンジは不意に胸の痛みを覚えた。

***

 シンジはその日、またその部屋の前に立っていた。
 いつもカギがかかっていて、結局はそれまでなのだが、来ずにはいられなかった。その日もただカギがかかっていれば、あるいはあきらめがついたのかも知れなかった。
 ――――――――だが、不意に思い出した。彼がいつも、スペアキィを置いている場所を。扉の側に置かれた、ドラセナの鉢。葉の陰に隠れるようにさしこまれた、猫をかたどったウォーターキーパー。
 鍵は、あった。
「――――――カヲル君?」
 暗い室内。人の気配はない。だが待機電源のLEDが、電源は生きていることを知らせていた。
 随分長いこと放ったらかしにされていたような、それでいてつい先刻まで彼がそこにいたような空気。
 カーテンからもれる薄明かりに、ぼんやりと内部が浮かび上がる。
 部屋の中央に置かれたマットレス。いつも彼は、ここで寝起きしていた。
 周囲を見る。
 メタリックブルーの目覚まし時計、散乱するクッション、倒れたままのグラス。何もかもが前のままなのに、彼がいない。
 グラスを手に取る。
 彼は酒豪ではなかったかもしれないが、全く飲めないシンジから見れば十分よく飲んだ。それも、かなり強い酒。
 だが、酔ったふうに見えたことはなかった。顔を赤らめることさえ。
 静かと言えば、行為のさなかも。応えてくれない訳ではなかったし、呼吸を乱しはするが、シンジ程の狂熱を見ることはなかった。
 拒まれているのかと思うほどに。
 いつかの会話を思い出す。彼の過去と現在、そしてひょっとすると未来を暗示するような言葉。
『・・・・待ってるには違いないけど、果たしていつになることやら・・・』
 彼はこの部屋で、誰を待っていたと言うのだろう?
 シンジではない、誰を?
 そして待ち人が来たら、彼はどこかへ行ってしまうつもりだったのか・・・・?
 あるいはその待ち人が、彼を連れていってしまったのか・・・・?
 胸の痛みを思い出す。・・・そう、これは妬心。名前も顔も知らない彼の「待ち人」に、シンジは嫉妬していた。

***

 月の、明かり。
 啜り泣き。
 シンジははっとして跳ね起きた。
 いつの間に眠り込んだものだろう。気がつくと、カーテンの合わせ目から漏れてくるのは、月明かりだった。
 そして、さながら差し込む月明かりが投射するホログラムのような儚さで、彼女はそこに座っていた。
 いつかの夜のように、その腕に白い包みを抱いて。
「・・・・君は・・・・君はだれ!?」
 上げた声は、うわずっていた。
「・・・ではあなたは誰?・・・・カヲルの何? ・・・どうしてこんな酷いことしたの?」
 不相応に錆びた声と裏腹に、紅い瞳は、激しい弾劾の彩をこめてシンジを突き刺していた。
「・・・僕が・・・・!?」
 頭を殴られたような、衝撃。
「・・・あなたが殺したのよ。 カヲルはあなたをすべて受け入れたのに、あなたはカヲルのただ一つのことを許せずに、殺したのよ」
「殺した・・・・そんな・・・嘘だ・・・」
「・・・・・・そうやって、嘘で塗り固めて」
 包みを胸に抱いたまま、彼女はこちらへ向き直った。直後、巨大な光源が室内に現れる。それは翼。光の翼・・・・。
「私達の翼が、あなたたちに何かしたと言うの? 私達は他に何も望まない、存在を許して欲しかっただけなのに」

***

 どんなに呼吸を乱しても、彼は意識を手放すことがない。それが不満であり、不安であった。追い上げても、いつも上手に躱される。それがひどく隔てられている気がして。
 多分、そんな気持ちが仕掛けさせた悪戯。
 アルコールと一緒に摂取することを禁じられている、一種の睡眠導入剤。シンジ自身が常用していたものだが、飲酒しないシンジには、そんな禁止事項は慮外のことであった。
 意識を残したまま四肢を麻痺させた彼は、悲しげな紅瞳で覆いかぶさるシンジを見、そして静かに意識を手放した。
 ―――――――瞬間。
 柔らかな羽根に頬を撫でられたと思ったのは、シンジの錯覚か。
 暗い部屋に、巨大な光源が現出する。
 翼―――――震えながら蛍火のような飛沫を撒き散らす、光の翼。

***

「あなたも同じよ。私達はただ静かに暮らしたかっただけなのに、私達が何者かを知ると、平気で裏切るのね」
「違う、僕は・・・ぼくは・・・・」
「何が違うの? あなたの手をご覧なさい。何故あなたの手は汚れてるの?」
 はっとして自分の両手を見たとき、シンジの喉が乾いた音を立てた。
 両手は緋色に染まっていた。
 気がつけば、足元には同じ色に染められた果物ナイフが。
 あのとき・・・・のナイフ。あのときの・・・・・!!
 シンジが声にならない叫びを上げる。
「裏切ったのよ。あなたはカヲルの気持ちを裏切ったのよ。・・・・私達が見てきた人間達と同じに、裏切ったんだわ!!」
 彼女の紅瞳が熾烈な光を放つ。
 不意に、シンジは息苦しさを感じて喉元に手を遣った。
 そこには何もない。何も見えない。しかし確かにシンジの首はゆっくりと締め上げられていた。
 喘いでも、空気はシンジの肺に流れ込むことはない。
 涙でぼやけ、暗転してゆくシンジの視界が最後に映したのは、表情一つ変えずにその様を見つめる少女の姿。

***

 チガウンダ。
 コロスツモリナンカ、ナカッタンダ。
 ツバサナンカ、キリオトシテシマオウトオモッタンダ。
 ソウシタラ、キミハズットココニイテクレルンダロウ・・・・

***

「ねえ、起きてよ」
 薄明。少しずつ冷たくなってゆく身体を揺すって、シンジは言った。
「仕方ないなぁ。・・・じゃ、また来るからね。午後の講義には出なよ?」
 カギをかけたのはシンジ自身。
 ウォーターキーパーの中にはなにもなかった。最初からシンジが持っていたのだから。
 ただ、認めたくなかっただけ。

***

「・・・・それでも、カヲルは・・・・・・・・」
 放り出される感覚。だが、床にぶつかる痛みなど、空気を吸えたことに比べれば。
「・・・・・・・・」
 少女の言葉は咳込んでいるシンジには届かなかった。
 少女は転がったまま咳込むシンジを一顧だにせず、踵を返した。そして窓を開け、月の光を呼び込む。
「帰りましょう、カヲル・・・。もうすぐ時が満ちる」
 包みを抱き、月が投げかける光の粒子を浴びるかのように、軽く目を閉じる。
 窓の外へ踏み出す、その姿が少しずつ淡くなる。
「・・・って・・・・・・待って!」
 嗄れた声で、シンジは叫んだ。
 這うようにして、窓辺へ。だが伸べた手は空を掴んだ。
 そこにあるはずのベランダすら、触れることはできずに。
 耳元を風が切る。風に混じって、少女の声が聞こえた。

「あなたは二度と、ここへくるべきじゃなかった」

――――――――Fin――――――――



Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 
「a love of supreme

「禁域」に関するAPOLOGY…


・・・ところで、何度殺したら気が済むんだい?

 ごめんよっカヲル君(;;)生首になっても愛されてるカヲル君が書きた・・・わーっっ嘘です嘘っっ(汗)多分、帰るとこへ帰って再生処理でもすれば生き返るでしょう。なんせ今回も人間じゃありませんから(爆)
 事のはじめは、「夏はやっぱり怪談よねー!」という、至極まっとう(<大嘘)な企画だったのです。学校の怪談は昨年大家がやってますので(とはいえ万夏ていすとで学校の怪談やるのも一興かなぁ)、何の変哲もない街の一隅にそっと存在する異界、そこで起こる怪事というシチュエーションが書きたかったのです。
 ・・・が。しかし。
 はい、ご覧の通り見事に破綻致しました。ちゃんちゃんっ!(<既にやけくそ)
 しかしうちのシンジ君は、どうしてこう非道な役回りが多いのでしょう(^^;;万夏は決してシンジ君が嫌いではない筈なのですが(^^;;(<しかしカヲル君を幸せにはできないだろうとは思っている・・・) 

 今回に至ってはおロク相手に盛り上がるは、一服盛って動けなくしてから手にかけるは、あげく無茶苦茶効率の悪い果物ナイフで凶行に及ぶは(<死に至るまで刺そうと思ってもなかなか刺さるもんじゃありませんぜ、普通(ーー;;)ヒドいどころか極悪ですね。(<させたのは誰だよ(ーー;;)
 しかし信じてください、万夏は決してシンジ君が嫌いなわけではありません<(_ _)>
 たまにはハッピーエンドSSでも書いてみやがれ!!という声が聞こえてきそうですねぇ、いい加減・・・(ーー;;
 それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
1998,8,12

暁乃家万夏 拝