彼女と夏と学術書<初期Ver.>

穏やかな午後には

君を想う

倖せになることを

ずっと 祈っている・・・・・


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「”prayer”」

彼女と夏と学術書<後編>


「ご苦労さん、もう起きていいぞ。問題なし、約束通り退院OKだ」
「そりゃどうも」
 マサキは診察台から起き上がり、慣れた動作で自分の胸に張りつけられたECG導子を剥がしてシャツを羽織った。
「それにしても心臓が強いな、君は。今回だけでも何度ヒヤヒヤしたかわからん」
「強いついでに、トラブってくれなけりゃ言う事ないですがね」
 ボタンを止めながら憮然とする。
「それはそうだが・・・・。1クールの集中投薬で3カ月もてば、結果としては良好だよ」
「今度も3カ月保てば、でしょ。最初は半年以上は保ったと思いましたがね」

***

 カヲルが捕ってきた昆虫に年少組はそれなりの興味を示し、リビングに置かれた飼育ケースの回りは夕食後も暫く賑やかだった。
 しかし夜が更けてその年少組が寝室に追い立てられるに至り、ミサヲたちもおのおの部屋へ引き上げてしまって、リビングは甲虫が節足を動かす音すら聞こえそうな静寂に包まれた。
「・・・・もう、帰ってこないつもりかと思っていました」
 食後のお茶の片づけを終え、キッチンの灯を落として出てきたタカミは、ソファに身を沈めながらそう言った。
「そのほうがいい、と思ったのは確かだがな」
 飼育ケースの蓋をあけて甲虫の角を突っつきながら、サキが笑う。
「・・・何がありました、今度は」
「何かがないと戻ってこないような言いぐさだな」
「実際そうでしょう」
「・・・・違いない。まあ、俺だって皆が元気にしてるか気になることだってあるさ」
「イサナのこと、聞いたんでしょう」
「聞いた。・・・ミサヲは看護師の資格を取ると言っていたよ」
「この春から、付属の学校に行っているんですよ。知ってました?」
「向いてるよ、ミサヲにはね」
 飼育ケースの蓋を閉め、ゆっくりと立ち上がる。
「・・・・余計なお節介かも知れないし、もう知ってることかも知れないが・・・・・一つだけ、おまえの耳に入れた上で、確かめておきたいことがある。
 ・・・・・・そう怯えた顔をするな。取って喰やしないよ」
 サキの冗談めかしたもの言いに、タカミは反応しなかった。サキを真っ直に見、冷然と言い放つ。
「・・・・怯えてなんか、いませんよ」

***

 ミサヲあたりに懐疑のまなざしで見られそうだが、サキはこれでも件の“図書館の君”の話を好意的にとらえていたつもりだ。
 妬心にかられなかったといえば嘘になる。でもそれがタカミには好ましいことだという認識があったから、余計なことを言ってしまわないように暫く遠ざかっていた。
 タカミが相談したがっているのを知っていて、あえて黙殺して。
 つくづく残酷なのだ。本人がそう意識していないぶんだけ、余計に。
 春にこっちへ帰ってきたのは、失敗だったと思う。結局、良くないと知っていて流された。そしてまた、タカミがそれを拒まない。苛立ちを覚えるほどに。
 だから、もう本当にここへ戻るまいと思っていた。


 ――――――――――しかし、聞いてしまったから。

***

 開けっ放しだった窓を締め、ブラインドをおろして、サキは昼間探し出した本を入り口で立ち尽くしているタカミに放って寄越した。
 数年前の、ある種の生物学について最新のトピックスを集めたムック。
「・・・・知っているのか? ・・・知っていたのか?」
 折り畳んだ書籍広告でブックマークされたページを、タカミは無言で開いた。
 暫くそのページに視線を落としていたが、ややあって静かにそれを閉じた。
「・・・・出会ったときは知りませんでした。・・・・でも、今は知っています」
 その返答に、サキはあらためてまじまじとタカミを見た。
「でも、あのひとには関係のないことです。そうでしょう?」
 タカミは真っ直にサキを見ていた。・・・・数年前のあの夜のように、狂気の一歩手前まで追いつめられた眸ではなく。
 そのページに載っている、論文自体はさほど興味の対象となるものではない。問題は著者・・・・その筆頭者に上がっているのは、爆発した研究所の所長だった男の名。街一つを消滅させながら、『たまたま』不在で命を永らえた男の名であった。
 そして、共同研究者として数人の名前が挙げられている。そのうちのひとつが“図書館の君”の母親の名前であった。
「確かに博士はあのひとの母親だし、今はその手伝いをしていますよ。・・・・でもあの時に、あのひとがいくつだったと思ってるんです?」
「あの事件自体にかかわっていたなんて、俺だって思っちゃいないさ」
「だったら何故、そんなことを?」
「・・・・冷静に聞けよ。・・・・お前は、あの爆発の生き残りだ。数万の人間が一瞬にしてこの世から消え去った大爆発の・・・・な。そして未だ、データ的にはなんの異常も見られていない」
 タカミが沈黙する。その顔から、血の気が引いていた。
 罵倒されるのも覚悟の言葉だった。・・・だから、それだけに沈黙は耳に痛い。
「・・・・タカミ」
 沈黙に耐えきれなくなったのは、サキの方だった。
「・・・・・・・・・・・ませんよ」
 その声は、すこし聞き取りづらかった。
 あるいは、サキが聞きたくないと思った所為なのか。
「・・・・興味本位だったとしても・・・・僕はいっこうに構いませんよ。あるいは、データをとるためだったとしてもね。それでも、僕は本気なんですよ。
 ・・・・・・莫迦みたいでしょう。その通りですよ!」
 いつもは少し伏せがちな、優しげな睫の下で、マラカイトグリーンが閃いた。
 タカミが激したのを見たのは、多分あの夜以来だと思う。
 重すぎる事実を抱え、誰にも言えず、自分で自分を狂気の淵まで追いつめてしまった、子供。

 でも、今はもう違う・・・・・・・・。

 ―――――――――やっぱり、来るんじゃなかった。

 タカミの身体を壁に押しつけ、すぐ側にあったスイッチを半ば叩くようにして灯を消した。
 顎を捉え、唇を捉える。触れるというよりは侵入に近かったが、さして拒まれることはなかった。
 タカミの手から、本が静かに滑り落ちる。床にぶつかってページが開いた一瞬、栞にしていた書籍広告がひらりと舞った。
 栞がカーペットの上に音もなく舞い落ちたとき、サキが静かに離れた。
 少し荒れた呼吸の下から発したタカミの声は、僅かに掠れている。
「・・・・ひとつ大切なものができたら、他のすべてがそうじゃなくなるなんて・・・・そんなことがあるわけがないでしょう」
 迷いもなく抱きかえす腕に、サキのほうが戸惑う。
「・・・・あなたも莫迦ですよ。・・・・この春の入院で3回も心停止したなんて・・・そんなこと、この前一言も言わなかったじゃないですか!」
「・・・・ばれたか」
「“・・・・ばれたか”じゃありませんよ。ミサヲちゃんがどんな気持ちになったかわかってますか!? 黙ってたら心配させずにすむとか、そういうレベルのことじゃないんですよ!?」
「タカミ、あのな・・・」
「あなただけが、どんなことでもひとりで耐えられるなんて・・・そんなこと誰も信じちゃいませんよ。僕らはあなたの何なんですか?」
 言いたいことはまだ山のようにあるのに、とりあえず語彙を使い尽くしてしまった・・・そんな空隙を、サキの吐息が埋めた。
「・・・・まったく、長生きはしてみるもんだな。タカミが息きらして怒鳴るところなんか、めったにお目にかかれるもんじゃない」
 ゆっくりとタカミの腕をほどく。
「・・・あまり挑発するなよ。ひとの決心、フイにするつもりか?」
 そんな科白でタカミをたじろがせておいて、退がる。・・・・二歩、三歩。
 タカミが落ちた本を探すために灯をつける。本は見つかったが、栞がどこかへ飛んでしまって分からなかった。そして、栞の挟まれていたページも、今となっては。
「・・・・今日の話は忘れてくれ。実は一度だけ、俺も会ったことがある。いひとだな」

 一寸潔癖そうな面ざしに、脱色と見える金髪がすこしアンバランスにも見えた―――――。

「自分の気持ちを大事にするってことは、悪いことじゃない。イヤミで言ってるんじゃないぞ。・・・・だから、あんまり自虐的な思考に走るな。自分の倖せまで逃しちまうぞ」
「・・・その科白、熨斗つけてあなたにも進呈しますよ」
「はいはい、じゃ、おやすみ」
 苦笑してベッドに寝転がると、ひらひらと手を振って見せる。
「・・・・・おやすみなさい」
 タカミはまだもう一言ふたこと言いたげではあったが、結局拾った本を箱の一つの上へ置いて、出ていく。
 遠ざかる足音が虫の音に紛れるまで聞いて、サキは再び灯を落とし、ブラインドを傾けた。

 ――――――――四角い星空の真ん中に、月が出ていた。

***

 高階マサキはその2年後の夏を、四角い青空を見て過ごした。
 最後の夏であった。

――――――――Fin――――――――

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