「とことん間の悪い人ねェ!! だから連絡寄越すか鍵持ってなさいっていうのよ!」
真夏の昼下がり。
例によって例のごとく、一同留守中にひょっこり帰ってきて待ちぼうけをくらったサキは、さらにミサヲやリエにお叱言をくらって肩を竦めた。
「ひとり足りないな。夏休みだってのに大学に残ってひとり勉強か?」
「タカミなら帰ってきてるよ。今朝、図書館の君に逢いに行ったけど」
「・・・・・は?」
Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「”prayer”」
彼女と夏と学術書<前編>
真面目くさってカヲルがそう答えたが、サキは一瞬反応できなかった。
生まれた空隙を埋めたのは、イサナの笑声だった。
「大学の先輩らしいよ。専攻は違うけど、同じ講義を受けてたらしくてね。待ち合わせは常に大学の図書館。だから人呼んで、“図書館の君”」
「タカミらしいよなー。意外性がなくて面白くないや」
リビングで寝転び、チェスをしていたナオキが無責任なコメントをする。傍らに天文年鑑を広げたままその相手をしているユウキ、そしてナオキは共に15歳、名前も似ているし顔だちも似ているから双子と思われがちだが、血縁はないことが確認されていた。
「・・・それでもうちの連中で浮いた噂があるのは、タカミだけだよ」
寡黙だが、言うときには空気が固まるほど鋭いツッコミをするのがユウキだった。
「・・・そぉいう・・・自縄自縛な発言をしながら・・・そぉいうテにでるか・・・? 待て、そのビショップ待てっっ!!」
慌てて盤面に取りつくナオキ。
一方遅い昼食にありついているサキの向かいで、おやつをつつきながらユカリとミスズが感心したようにつけ加える。
「・・・タカミってさぁ・・・もともと優しいけど、図書館の君に逢いに行くようになって、特に優しくなったよね」
「そぉよね。それと、なんてゆうかぁ・・・綺麗になったんだわ」
10歳と11歳の会話に、イサナがダイニングテーブルに突っ伏して笑う。
「好き勝手言われてるなぁ・・・本人が聞いたら泣くぞ」
憮然とするサキ。その前にミサヲが食後のお茶を置いた。少し、音が高かったかもしれない。
「でもひと頃、ずっと落ち込んでたしね。元気になってくれて良かったわよ」
その言葉に、トゲを感じたのはサキだけだったかどうか。サキは苦笑したが、苦笑ではすまない爆弾を放り込んだのは、やはりというかカヲルだった。
「心配事が、暫く遠ざかっててくれたからじゃない?」
・・・誰か、フォローしろよ・・・。
白い沈黙が降りたが、結局カヲルの言葉は丁重に無視された形となった。
誰と誰が無視して、誰と誰が意味を取り損ねたのかは判然としないが・・・・。
***
「どうにも、嫌われたな」
春以来締め切りだった部屋のブラインドを上げ、窓を開けて空気を通しながらサキがぼやいた。
「・・・・心当たりがないとは言わせないわよ」
ミサヲの口調はつい鋭角的になる。だが、ふと和らげて言った。
「あの子も一寸寂しいのよ。やっぱり、出てる時間が増えたもの。それはそれでタカミにはいいことだと思うけど、以前が猫可愛がりだったから、どうしてもね」
「“猫可愛がり”ね・・・そこでなんでこっちに矛先が向くかな」
思わず吐息する。あれはそんなレベルではない。溺愛、盲愛の類だ。
「鋭いもの、あの子。何処まで気づいてるか、何処まで理解しているかはともかく、タカミの憂鬱のタネがどこらへんにあるかぐらいは気づくわよ」
「厳しいなぁ・・・・」
サキは開いた窓に手をかけて、軽く身を乗り出した。ミサヲが段ボール箱を片づける手を止めて彼へ向き直ったのを気づいていたが、そのまま夏空を見て、木洩れ陽に目を細める。
「私、兄さんのこと好きよ」
「・・・・・そりゃありがとう」
「でも同じくらいタカミも好き。カヲルも、イサナ、ユカリ、ミスズ、ナオキやユウキ・・・皆大好きだし、大切よ。だから、傷つけあったりなんかして欲しくないわ」
「・・・・分かってる」
「その言葉、信じるわよ」
常になく硬い声。サキは少し視線をおとして答えた。
「・・・・ああ」
沈黙を、蝉の声が埋める。
ややあって、サキが言った。あるいは、話を変えようとしたのかもしれない。
「・・・・イサナ、退院できたんだな」
だが、ミサヲの声は明るくならなかった。
「したのよ、無理矢理。どうせ敷地内だって。点滴治療くらいなら、通えるって。今朝も、朝の分の点滴やってから出たのよ。夕方には、また夕方の分があるわ」
「・・・・・」
「ICU入りになるまで・・・・絶対に入院しないって。ここにいたいって・・・・」
窓枠にかけたサキの指先に、力がこもる。ミサヲの声は、僅かに震えていた。
「・・・・兄さんに、言ったっけ。私、看護師の資格取るの。誰でも望む間、ここにいられるように」
何を言おうとしたのか。開きかけたサキの口は、何も紡がないままに閉じられた。ややあって口にしたのは、おそらくは最初の意図とは違っていた。
「・・・がんばれよ」
「・・・ええ」
その時、もうミサヲの声は震えてなどいない。
ミサヲが部屋を出ていく。サキは小さく吐息して、片手を窓枠にかけたまま、片手で髪をかき回した。
ミサヲは勁い。自分などよりも、はるかに。いっそ羨ましいほどに。
多分、ミサヲが彼の立場なら、もっと違う途がとれたはず。そんなことも思ってしまう。
―――――――――もう来るまい。
そう決めてこの部屋を立ち去ったのは、この早春のことだった。
もう干渉するつもりなんかなかった。
・・・・・・してはいけないと思っていた。
しかしただひとつ、気になる噂を聞き込んでしまったことが致命的だった。
「“大切”・・・・か」
それは俺も同じだよ。僅かに苦しげに眉を顰め、そう言いかけて、サキは口を噤んだ。
あらゆる感情を押し込め、窓から離れて振りかえる。そして最低限の居住空間を残して部屋を占領している段ボールの山を一瞥した。
積み上げられた箱の中から目当てのラベルを探す。彼自身は決して整理整頓というやつが得手ではなかったが、ここを片づけるときにはミサヲが手伝ってくれた。ラベルもミサヲが張ったものだ。
ひときわ重い箱。本ばかりだから無理もない。おまけにハードカバーの学術書ばかりときては。
ラベルを見、封を開け、数冊の本を取り出した処で手が止まった。
表紙を確認して、数頁を捲る。
ある頁に行き当たり、再び動作を止めた。
その一冊を残して、箱を元に戻す。本をベッドの上に放り投げて、自身も上体を投げ出した。
暫時天井を凝視していた。そして、不意に頭を掻き毟る。
***
夕刻。午後からすこし曇った所為か、微風は涼しく、心地好い。
タカミは病院と宿舎群を隔てるように設けられた緑地を抜けながら、行く先を案内するように飛ぶ蜻蛉を見ていた。
不意に、蜻蛉が透明な翅を震わせて高く舞い上がり、タカミの視界から消えてしまう。と、櫟の巨木の下、黄昏時にもはっきりわかる銀色の髪が蹲っていた。水色の虫籠を後生大事に抱えている。
「・・・カヲル君。どうしたんだい?」
タカミを見つけると、立ち上がって半ズボンの土を払い、駆け寄る。
「虫を捕りにきたんだ。それと・・・そろそろ帰ってくると思ったから、迎えに」
「ありがとう」
タカミは笑って小さな銀色の頭に手を置いた。
「何か捕れたかい?」
「うん、これ」
カヲルが肩にかけている水色の虫籠を差し出す。その中で、今はもう珍しくなった甲虫の一種がもぞもぞと蠢いていた。
「あとから何を食べるか調べてみようか。飼育ケースは確かあったと思うから・・・」
それへ答えないのでふとカヲルを見る。カヲルは顔を上げずに言った。
「――――――――――高階さん、戻ってきてるよ」
TO BE CONTINUED