***

「『お約束が守っていただけそうにないというなら、僕は本当にATフィールドで首が落とせるものか実験するチャンスをいただくことになりますけど、それでもいいですか?』…って…それってひょっとしなくても立派な恐喝だろう!?」
「…ま、実験して成功してたら、たとえ目撃者がいたとしても、立件は難しいわね」
 リツコが紅茶を一口啜ってから、さらりと言い放った。
 葛城家のリビング。その夜は珍しく、リツコのほうが客になっていた。
「はっはー。世の中にゃ聞かなきゃよかった、って話があるってこと…ちょっとは学習した?」
 頭を抱える加持の背をばんばんと叩きながら、すでに出来上がっているミサトが缶ビールを傾ける。そのはす向かい、リツコの隣でミサトと同じ銘柄のビール…しかも3本目を開けている筈なのにほとんど素面しらふの女性は…真希波マリだった。
「ま、榊君のホントに怖いトコは、そこじゃないけどねー。一歩間違えたらガチで抹殺されてたよ、キミ。どっちかってゆーと社会的に。あ、それとも心理的にかなぁ?」
 何故彼女までここにいるのか、というのがそもそも不可解だが、加持としては自宅でありながらどうしてここまでアウェー感に苛まれねばならないのかがもっと理不尽であった。
 今朝の午前中のことである。加持は突如として「知りたがってた話、教えてあげますよ」と榊タカミに呼び出された。
 そして録音・録画、一切のメモを禁じたうえで、他言無用が約束できるなら、と20年前の真実を明かされたのである。
『現在の平穏は、ゼーレの中でも殲滅派と共存派、およびその中間派の均衡の下に成り立っています。どう傾いても結局大量の血が流れることになる。…もう一つ言えば、すでに今生きている人たちのどのくらいの割合に感染者、場合によっては使徒細胞の保有者がいるか見当もつかない。そんな事実もの、公開したらどうなるか…想像つきますよね?
 20年前はまだ、感染者はCODE:Angel…あの事故の生存者のみという認識だった。だがその後、碇…いや、今は綾波博士か。彼女のように、よくよく調べてみたら感染していた、休眠状態だけど使徒細胞も保有してたというケースが発見されて、そんなこと言ってられなくなった。初期型のウィルスは、存外広がっていたんですよ。僕らのような被験者だけじゃなく、あの研究所に関わった者、もっと言えばそれに接触した者すべてにその可能性があると言ってもいい。
 …言ってみれば、誰が死海文書の指し示すところの〝使徒〟で、誰が人類リリンなのか…もうわからないんですよ。あなただってよくよく調べてみないと、真性のリリンかどうかなんてわかりゃしないんです。サキが自分の生命と引き換えにCODE:Angelの監視および追跡をやめさせたのも、決して感情論じゃない。全く以て無意味だからです。
 それでもまだ、開示を望みますか?
 僕はまだ、赤木ナオコ博士のように人間の理性というものを信じ切れない。ちゃんと理解っている筈のことが、ちょっとした心の揺れで正確に把握できずに間違いを犯す。それが人間です。
 それは…それでいいと思うんですけどね。人間は感情の影響を受ける。そこの処を否定してしまったら、人間の人間たる所以を否定しちゃう結論に至りそうな気がしますし。
 自ら万物の霊長を謳うヒトという種が、ほぼ同じ…場合によってはプラスαの能力を有する近縁種・・・なるものを受け容れることが出来るようになるまで、このことは開示すべきじゃない。それが僕の結論。
 決して選民思想的な見地でモノを言ってる訳じゃないんです。
 あなたにこれをお話したのもそういう理由です』
 穏やかな微笑が、あれほど怖ろしいと思ったことはなかった。ミサトではないが、『聞かなければ良かった』という話はあるのだということを実感した。そして、先の台詞である。
『そこまで覚悟して…どうして俺に話す気になった?』
『まだ何も知らない子供達に、あるコトないコト吹き込んで混乱させて欲しくないからですよ。もう一つ言えば…いえ、他じゃありませんが…今ちょっとトラブルを抱えてましてね。少し荒事・・になりそうな雰囲気なんです。残念ながら、僕はご覧のように荒事向きとは言い難くてね。ちょっと腕っぷしの強そうな人に助けて貰いたいなーっと。
 勿論、無償タダとは言いません。記事にはできない話を延々と聞かされた代償が要るっていうのなら、ウチで雇って差し上げますよ。時間の融通が利くだけが取り柄の、えらいブラック企業ですがね』
 加持は…微笑みながら恫喝する、というスキルが世の中に実在することを生まれて初めて知った。
 しかもあの場にいて、結局何が出来たわけでもない。〝まだ何も知らない子供に、あるコトないコト吹き込んで混乱させ〟た上に、衝動的にとはいえ刃傷沙汰にまで及ばせてしまったといういう最悪な役回りが付加されただけだった。忸怩たる思いとその鬱屈は、何処へ持って行きようもない。
 自然、女三人が楽しげに宴を催す傍ら、水割り片手にひたすらぶつぶつと愚痴を零すことになる。
「『荒事に向いてない』だと?耐刃ジャケットを着ていたとはいっても、向かってくるのがまったくのド素人だったとしても、全力で刃物ごとぶつかってくるのをいなして自分は転落したフリとか…どんだけ修羅場くぐってんだ奴は!?」
「失礼ね。至って真面目に勤め人やってるだけよ?…誰かさんと違って」
 ――――――氷刃一閃。
 リツコが傾けるティーカップには、わずかだがブランデーが入っていたらしい。微妙に目が据わっているリツコに真っ正面から反論するほど、加持は無謀ではなかった。

***

 タカミが昨夜カヲルにしてくれた話を…今度はシンジを前に、幾分オブラートに包んで説明するのを聞きながら、カヲルはシンジを見ていた。
 シンジの手には包帯が巻かれている。出血の割には神経や腱の損傷は軽微だったというが、一つ間違えれば人を殺していたという事実はシンジをひどく憔悴させていた。
 どうやら加持から、カヲルが20歳になったときに執行される約束について…すこぶる断片的な話を聞いてしまった結果、タカミがカヲルをドイツへ連れて行ってしまうと誤解したらしい。
 ただ、それも…決して全てが間違いではないから話は難しくなる。
 『誰とは言わないけど憶測に基づいてあることないコト吹き込んでくれたもんだから、説明が大変』とタカミがぼやいていたとおりなのだ。
「シンジ君、僕はドイツへ行く」
 全てを聞き終えた後、茫然としているシンジに、カヲルは敢えて端的に結論を伝えた。
 シンジはびくりとしてから、ひどく緩慢な動作でカヲルの方を見た。
「僕に何が出来るのか、まだわからない。高階さんやタカミが背負ってきたモノ全てが僕の手に負えるのかどうかも。でも、知らなくちゃいけないことがたくさんあるのだけは…わかったんだ」
 首にかけた細いチェーンの先…銀色の翼に抱かれた紅珠に服の上からそっと触れながら、カヲルは少し俯いて、慎重に言葉を択んだ。
「でも、ごめん。それだけじゃない…」
 顔を上げる。そうして、シンジを見た。既にして痛々しささえ感じる、シンジの悲愴な顔を。
「シンジ君…僕はもう、君とは暮らせない」
 それだけを告げるのに、凄まじくエネルギーを要した。
 シンジが、静かに涙を零しながら俯く。
「…そうだよね…あんなことしちゃったんだ。当然だよね…」
 立件されなかったとはいえ紛うことなき殺人未遂だ。だが、当の被害者が軽く笑って手を振るから話が真っ直ぐに進まない。
「いや、何度も言ったけどあれについては気にしなくていいよ。悪いのは君じゃないから」
「タカミはもう黙ってて」
 はいはい、とタカミがすっかり冷めてしまったお茶を淹れかえに立つ。
 カヲルは立ち上がって、肩を丸めているシンジを抱き締めた。
「…シンジ君のことは好き。とても好き。でも一つ僕は間違ったんだ。…僕が君を好きなのは、友達としてだった」
 シンジが肩を震わせる。
「ごめん。本当にごめん。友達なら、ずっとこのまま…好きでいられるなんて…僕のわがままだってわかってる。それでも…」
 こみ上げてきたものに喉を堰かれて、カヲルは一度声を詰まらせた。でも、ちゃんと言わなければ。
「――――もう、辛いんだ。こんな気持ちのまま、君の傍にはいられないんだよ」

***

 ナイフを手に現れたシンジの、切羽詰まった表情。
 その両眼でわだかまる、狂気と紙一重の昏い何かを見てしまった時…タカミはいつかの自分を見ているようで辛かった。シンジの性格からして、あるいは…と思って相応の準備もしたのだが、実際に向き合ってみると心臓を鋼線で締め上げられるような痛みを感じた。
 最後の夜…きっと自分はあんな眼をしていたのだろう。
 ただ、喪いたくない。それが叶うなら、たとえその夜に世界が終わってしまっても構わない。その気持ちは文字通り痛いほどに理解る。
 …だから、動けなかった。
 自分はただ、ぶつける先を持たなかっただけだった。奪う者がかたちを持っていたら、タカミとて同じことをしていたかも知れない。
 「奪う者」を屠ることで、シンジが心の平穏を取り戻すことが出来るなら…それもいいのかも知れない。そんなことをふと一瞬考えてしまったのだ。その矛先がレイという少女に向かってしまったなら、どんなことをしても止めなければならない。だが、自分なら少々のことはどうにかなるのではないか。…いっそ使徒遺伝子とやらの発現がどの程度の緊急事態に対応しうるものか、試してみてもいい…。
 しかし現実は、そう簡単にいかない。真希波マリにこっぴどく叱責されたとおり、今自分にもしもの事があれば…カヲルひとりに重荷を背負わせることになる。それは駄目だ。…まだやらねばならないことがある。
 わずかな時間で、そんな計算高い思考を巡らせてしてしまう自分に辟易した。
 切っ先が耐刃ベストで滑った瞬間、タカミがそのまま体を躱していれば、間違いなくシンジの方が転落する。…それも、駄目だ。だから受け止め、押し戻した。何分にもウエイトが足らないから、当然自分の方が反作用で窓外に放り出されたが…もとより本当に下まで落ちるつもりはなかった。

 ダイニングの椅子に掛けて、ケトルの湯を待ちながら…タカミは襟元に手を遣って、そこにはもうあの紅珠がないことに気づき、天井を仰いで思わず嘆息した。

 やっと渡せた。でも、なければないで襟元がすこし寂しい。

 正確に言えば、今すぐすべてカヲルに引き継ぐことが出来るわけではない。
 今現在タカミが、かつてはセラフィン・ローレンツが持っていたナンバーはカヲルに引き継がれるのがすじというものだが、今ドイツで死に瀕している祖父(カヲルにとっては曾祖父)キール・ローレンツがその地位をカヲルに譲渡する意向も示している。
 殲滅派と共存派の綱引きという現状からすれば、キール・ローレンツの持っていた地位が殲滅派に渡ることは断固阻まねばならない。もとよりカヲル一人に背負わせるつもりはなかったが、地位はカヲルに渡して自分はバックアップ、という予定表は書き換えが必要になるだろう…。
 長い時間が必要だ。自分一代で終熄するコトとも思えない。…でも、どんなに怖くても、目を逸らさない。そう決めた。
 それがおそらく唯一、高階マサキに報いるすべだから。
 自分がマサキにとって、〝どうなりようもない片恋の形見〟で〝預かりもの〟でしかなかったとしても…自分は十分過ぎるほどのものを与えてもらった。

 優しさ、勁さ、生きる目的。せつなさ、哀しさ、そして覚悟。
 返すことは出来ないから、後へ続く者へ渡そう。

「それにしても、綺麗だったなぁ…」
 カヲルに渡してしまったドルイドベルを思い出す。セラフィンはあれを買った店をマサキに教えると約束したらしいが、その約束は果たされないままだった。
 探してみようか。何もない襟元で指先を滑らせながら…そんな埒もないことをふと考えたとき、ふわりと背が温かくなる。
 そして差し出された銀と…緑色。いわゆる孔雀緑くじゃくみどりよりかなり深い…孔雀石色マラカイトグリーン。銀色の繊細なアラベスク模様に囲まれた、翠の珠。そこから聴き憶えのある、深く…澄んだ音色がした。
「…あった」
 目の前にぶら下げられたそれに思わず手を伸べたとき、脱色された金色の髪がさらりと頬に触れた。…それでようやく気付くというのも暢気な話なのだが、そこは頓着しない。自然な動作で振り返り、軽く唇を重ねた。澄んだ音がして、ベルはついていたチェーンと一緒にタカミが伸べた手の中へ滑り込む。
「おかえりなさい、リツコさん。女子会はお開き?」
「ただいま。ええ、たった今。…真希波さんはなにやらまだカヲル君に用があったらしいんだけど、急ぎじゃないからまたにするって帰って行ったわ」
「いいのかなぁ。本当に女子会しに来たみたいだよね。…ところでこれ、どうしたの?」
 思わずまじまじと手の中の翠色の珠を見つめてから、リツコの方を見た。
「見つけたから、買っちゃったわ。あげるわよ。好きだったんでしょ、その音」
 掌で転がし、バチカン 1をつまんで揺らす。タカミは実直に自身の耳の精度にそれほど幻想を抱いているわけではないが、確かにこの音。
 なぜなら、心が落ち着く。思わず、吐息が漏れる程に。
「…凄い、音がそっくりだ。ありがとう…いつの間に?」
「それは内緒。よかったわ、基本的には径で音が決まるらしいけど…基本的には工芸品で、同じモノが作れるわけじゃないらしいから」
 細身だがしっかりした強度の、上品な銀色のチェーンが付けられている。頚に掛けると、また微かな音がした。沁み入るような音。
「…大切にするよ」
「そうして頂戴。今度は間違いなくあなたのだから、手放したりしないのよ」
 リツコがそう言って、くすりと笑ったから…すこし慌てる。
「そこ…笑うとこなの?」
 あれをカヲルに渡したのはつい昨日のことなのだが、その後の様子が、傍目には相当鬱陶しかったということだろうか。少々ばつが悪くなって、タカミは行動で誓約を立てる。

 立ち上がってリツコの肩をそっと引き寄せ、少し長めに口づけた。

ページ: 1 2 3 4 5 6

  1. バチカン…アクセサリ(主にペンダント)においてチェーンにペンダントトップを通すための金具(金具とは限らないかも)。パーツ。当然某国とは全く関係なし。