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眼を傷めているとかで、その執務室の照明はいつも抑え気味だ。それなのに机の向こうの初老の男は、その上濃い色の眼鏡をかけている。
「…わかった、任せよう」
肘杖のままタカミの話を聞いていたその男は、聞き終えると短くそう言った。
「一々私に許可を求める意図はわからんが…」
「あなたには関係ないと仰る?」
「ああ、関係ない。君は私の事情など斟酌せずに事を進められる立場にいる。それなのに一々私に話を入れてくる意図がわからん」
「あなたの息子さんに関わる話ですがね」
「あれも自分のことは自分で責任を取れる年齢になっている」
「…そうですか」
もはや詮議するのも億劫になって、タカミは一礼して身を翻した。
「では、これで失礼します」
「一つ、訊いていいかね」
「…何なりと」
「何故君は、此処に来るといつも温順を装った喧嘩腰なのかね?」
「そう見えたのならお詫びを。…そう見えますか」
「見えるな」
「ではお答えしておきましょう。僕はあなたが大嫌いだからですよ。何故、なんて訊かないでくださいね。身に憶えがないとは言わせませんよ」
「身に憶えか。…ふん、それでも私を弾劾する意図はないと?」
「そうしたいのはやまやまですがね。それをするには全てを白日の下にさらさなきゃならない。あの研究全てを世に放つのは非常に危険だ。そうさせないために、僕はここに身を置いてるんです。口惜しいですが仕方ありませんね。
まあ、もう一つ言えば…あなたは相応の罰を受けた。それを更に叩きのめすことがそれほど意味のあるコトとは思えませんしね。…これで、ご納得いただけましたか?」
「…成程。いや、引き留めて悪かった」
「では、失礼します」
ドアが閉まり、沈黙が降りる。
その男…碇ゲンドウの後ろには、冬月教授が立っている。その冬月教授が、小さく嘆息して言った。
「…変わったな」
「そうだな、五年ほど前に私の前に立ったときは、大学生と言うより高校生のように見えたが…変われば変わるものだ。時々、あの高階が生きて目の前にいるような錯覚さえする」
「高階はもっと冷静だったよ。大嫌いときたか。簡明直裁なことだな…まあ、赤木君のことがあるから無理もない。私とて、あの件に関して君を赦した憶えはないぞ」
「わかっている。…ナオコ君には気の毒なことをした。精々、気をつけよう」
「…もう一つ言うとな」
「何だ」
「変わったというのはお前もだ、碇。…以前のお前なら、余計なおしゃべりで時間を空費することなどなかったし、引き留めて悪かったなどとしおらしいことも言わなかったぞ。幾ら相手がゼーレ本部のナンバー持ちであろうとな。況して、自分の息子と大差ない年齢の青年に…だ。
多少は他人に対するものの言い方を学習したか。ユイ君に去られたことが、一応薬にはなったらしいな」
この男にしては珍しく、少し面食らったような間があった。しかしまた、肘杖に戻って呟くように応じる。
「…そうか」
やや、錆びた声ではあった。
***
カヲルはやはり入院になる。
赤木医師からメールで連絡を受けてから、その日の講義は全くシンジの頭に入らなかった。病状の詳細はなく、数日かかりそうだから着替えを少し取りに行く、とだけあった。
あの人が来るんだろうな。
確認しなくてもシンジにはわかる。少しカヲルに似た感じの、穏やかな人。カヲルの浮世離れした美貌というほどではないにしろ、相応に人目を惹く。
榊タカミ。従兄。保護者。カヲルがあの人を呼ぶときには常に名前の呼び捨てで、ぞんざいというよりもとびきりの甘えという気がして、心がざわつく。
いやだ。
講義室の一隅で、授業中であるにもかかわらず思わず声に出しそうになって、シンジは慌てて自分で自分の口を塞いだ。
いやだ。あの人に来て欲しくない。来て、カヲル君のものに触れて欲しくない。着替えなら僕が持って行く。
だが、入院と言いながら…赤木先生の病院には違いないだろうが、部屋はおろか病棟さえもメールに記載はなかった。それがまるで来るな、といわれている気がして…心臓が霜で覆われていくような感触に息が詰まる。
帰宅しても、そんなぐちゃぐちゃした気持ちで身動きさえできず、ダイニングの椅子に座ったまま握りしめた拳を見つめていた。
不意に、チャイムが鳴った。…思わず、肩が震えた。
ドアを開けてみると、やはりあの人だった。いつもと同じに、穏やかな笑みを浮かべ…心配掛けてごめんね…と。
必要なものがあるなら僕が持って行きます、部屋を教えて。そう、喉奥までせり上がっていた。だが行動に出せたのは、榊に道をあけ…どうぞと凝ったような声で言うことだけだった。
心の奥は、いやだ、入ってくるな、出て行ってと叫びながら、シンジはひどくぎごちない動きでお茶を入れる準備をしていた。少しでも話ができたら、ちゃんとカヲルの様子も聞かせて貰えるかも知れないと。
客用のカップを準備しようとキャビネットを開けた時、手前に置いている普段使いのマグカップが目に入る。普段見慣れたものの筈なのに…不意に、榊の腕の中で蕩けるような笑みを浮かべているカヲルの姿態が脳裏に浮かんでしまって頭を振る。その拍子に…奥のカップを出そうとして一旦取り出したマグを取り落とした。
こともあろうにカヲルのカップを。
慌てて手を差し出したが、カップはシンジの指先をすり抜けた。そしてダイニングテーブルの角に当たり、床に落ちて砕ける。
声を上げることも出来なかった。
その場にへたり込み、砕けてしまったカップを見つめる。ティーカップに比べたらそこそこ厚みもあるのに、どうしてと思うほど粉々に壊れてしまっていた。
どのくらいそのまま座り込んでいたのか。のろのろと立ち上がり、掃除にかかる。欠片を拾い、床を掃いた。それらを終えたとき、指の間にちくりと刺さるような感触があって掌を見る。釉薬が剥がれたような小さな欠片が指の間に張り付いていて、指に力を入れた瞬間に刺さったのだ。
じわりと浮いてくる血玉を見つめる。血の紅。あの美しい辰砂の朱色。
いやだ、奪らないで。
シンジは掌を握りしめた。
***
シンジがカヲルの部屋の扉を開けたとき、そのひとは窓枠に腰掛けて外を見ていた。ここはそれほど高さがあるわけではないが、眺めはそこそこ好い。
窓を開けて、空気の入れ換えをしていたようだった。
ベッドの上に置かれたバッグには、やはり数日の入院にしてはしっかりと中身が入っているように見えて…思わずシンジは呼吸を停める。
いやだ、奪らないで。
連れて行かないで。
シンジが右手に握りしめたものに、そのひとは気づいたようだった。
どうしたいの、とそのひとは問うた。少し哀 しげな、それでも何かを諦めてしまったような…シンジからすればひどく不可解な表情。
「いやだ…」
ようやく、声に出す。
「奪らないで。カヲル君を連れて行かないで」
絞り出した声は、無様に裏返った。だが、その人の静かな面にあるのはいたましさだけ。だがそれは、優位にある者の憐憫に見えて…シンジは右手に力を込める。
「そんなことをしても、カヲル君は手に入らないよ。だって、カヲル君は…」
それ以上を聞きたくなくて、シンジは意味をなさない大声を張り上げた。
全力で駆け出し、そのひとへぶつかっていく。右手に握っていたシェフズナイフ 1に左手も添えて、突き刺した。
手応えがあった。
血臭に混じって、微かな柑橘系の芳香。いつかカヲルが外から帰ってきたとき、その襟足から香ったのと同じ。
ああ、やっぱりそうか、というどす黒い気持ちが噴き上がった。
ふわりと、そのひとの身体が傾ぐ。窓枠に掛けていた処へ、内側から押したのだから、結果は明白。
誰もいなくなった窓から暮れかけた空を見つめ、シンジは血のついたナイフを取り落としてその場に座り込んだ。
肩で息をしながら、カヲルのよく整頓された部屋を見廻す。
大変なことをしてしまったという思いと、もうこれでカヲルを奪られることはないという根拠のない安堵とで、泣きながら笑った。笑いながら泣いた。そして血のついた手で顔を拭ったものだから、気分が悪くなるような血臭に思わず咳込む。
そのとき、部屋のドアが開いた音に顔を上げると…カヲルがいた。
余程急いで走ってきたのか、珠のような汗を滴らせながら肩を揺らしている。
「シンジ君…!? どうしたの、その血…」
上気した綺麗な顔が、瞬く間に蒼白になっていく。
シンジはカヲルの名を呼びながら這うようにしてその足下へ寄り、膝立ちになってカヲルに抱きついた。
「何処にも行かないで…僕の傍にいてよ…!」
泣きながらそう訴えた。その時、繊い身体が腕の中でビクリと震えたのがわかって、なお一層腕に力を込める。
「ごめん、シンジ君…僕は…やっぱり、ちゃんと自分の口で言わなきゃと思って…シンジ君…」
カヲルのすこし体温の低い腕が、少し躊躇いがちに抱き返す。
「何処にも行かないよね? だってもう、あのひとはいないんだから…」
声が上擦るのをとめられなかった。加持から聞き出した、カヲルの身内のこと。20歳になったらかねてからの約束で遺言が執行され、カヲルは海外へ行くことになるかも知れない…と。
「…シンジ君…『あのひと』って」
言いにくそうにしていたカヲルが、シンジが口にした言葉にふと反応する。
「まさか…」
窓に近づこうとするカヲルを、シンジは引き留めた。カヲルが息を詰まらせたのがわかったが、緩めることはしなかった。
「シンジ君、この血はどうしたの。ここで何が…!」
「だから、慌てないでってカヲル君」
不意に、場違いなほど悠暢した声がして、カヲルの身体を包んでいた緊張感がふっと消えた。
「…えっ…」
思わず、シンジが腕を緩める。そのまま、座り込んでしまった。
立ち尽くすカヲルの後ろに、榊の姿があった。
「仕方ないなぁ。ちゃんとシンジ君の気持ちが落ち着いてから来た方がいいって、あれほど言ったのに」
「だって、僕の口からちゃんと伝えたかったんだ」
何事もなかったように部屋に入ってきた榊と、早速口喧嘩を始めてしまうカヲル。それを放心したように眺めていたシンジだったが、ふと思い至って窓際へ這い戻る。窓枠に手を掛けて下を覗いたが、当然何もなかった。
しかしシェフズナイフも自分の手も、血で汚れている。
何が起こったのかわからなくて、シンジは窓際に座り込んだまま身を震わせていた。
「とりあえず手当! 今おっつけお医者さん来るから」
それがほかならぬ自分に対して向けられた言葉であると気づいて、シンジはびくりとした。
「洗浄だけでもしとこう。そうでないと、あっちこっちに血がついちゃって…ここ、事故物件扱いにされちゃうよ」
「…は? 僕?」
「やっぱり気付いてないんだね。シンジ君…キミ…掌、切っちゃってるよ」
榊がシンジの前に片膝をつくと、血塗れの右手を取った。掌を上にさせると、シンジにも見えた。掌についた傷から血が溢れている。指の間をマグカップの破片で切ったまでは憶えていたが、いつの間にこんな大きな傷を付けてしまったのだろう。ナイフに付着する血が他ならぬ自分自身のものであったことを、その時初めて気づいた。
「包丁をあんな持ち方したら、そりゃ切れるって。腱とか神経までいってないといいけどな。はい、立って。歩ける? よかった、じゃ、キッチンまでおいで。包丁で切っただけだから傷はキレイなものだし、消毒はリツコさんにお願いしよう。血は止まってるみたいだけど、とりあえず洗って圧迫だけさせてくれる?」
「あ、の、榊さん、僕、刺した…」
「うん、お蔭で僕のシャツにまで血がついちゃったよ。破けちゃったしね。大丈夫、君は誰も殺してないし、傷つけてもいない。…でも、カヲル君には謝ってほしいな」
確かに、榊のシャツは脇腹あたりに血の染みがついたほつれがあった。
もはや何も言えなくなって、されるままにガーゼを当てて貰い、ダイニングの椅子に座って、言われたように傷を押さえる。
それを一応待っていたように、少しむくれたような顔で見ていたカヲルが問うた。
「で、一体どういうからくり?」
「からくりも何も、そのまんま。だから連絡するまで待ってって言ったんだ。説明が面倒になるから…」
ふうっと榊が吐息したところへ、もう一度チャイム。
「おーい大丈夫?荒事になっちゃった?やっぱり?」
「ミ…ミサトさん!?」
シンジが目を丸くする。入ってきたのは、ミサトと加持、それともう一人。シンジが見たことのない女性であった。
「榊が落ちてきた段階で、荒事以外の何でもないだろ。…あんな物騒な離れ業を平気でかますとは思わなかった。あぁ、人は見かけによらないってのはわかってたつもりだが…こんなムチャクチャな奴とは。誰が図抜けたお人好しだと?絶対嘘だ。今なら悪魔の現身って言われても信じるぞ俺は。
まあ、思いのほか軽かったからよかったが」
「なんだかものすごく不本意な言われようなんですけど。あれは純然たる事故ですよ。
ウエイト足りなくて悪かったですね。別に落ちたくて落ちたわけでもないし。念のために待機してもらってた部屋って確か真下だったから、うまくいけばひっかけてもらえるかなと」
榊がけろりとして言い放つ。ミサトはにやにやしつつ、加持は心底疲れたというていではあった。
「で、榊さん。本当に、立件しない方針でいいのね?」
眼鏡を軽く指先で押し上げる動作で直してから…もう一人の女性はぴしりとした口調で確認した。ワインレッドのフレームの眼鏡、つやの良い栗色のストレートを後ろで二つに分けたスタイルはひどく年齢がつかみづらい。
「立件も何も…転落事故が一件、けが人なしで何を
立件するんです?」
榊が微笑うと、これ見よがしに…はあっと大きく吐息して言った。
「硬いとか重たいっつって嫌がってた耐刃ベストを一応着てたってことで、今回は大目に見ましょう。でも…いい加減、立場ってものを認識してね。遺言執行が完了するまでは、あなたにもしものことがあったらとんでもないコトになるってのはあなたが一番わかってるんでしょうが!」
「はい、肝に銘じてます」
穏やかな笑みはそのままの、真摯な返答。その女性は苦々しげに片方だけ口角を下げ、舌打ちした。
「残念…あの外ン道親父を今後十年くらいおとなしくさせるには格好のネタだったのになぁ…」
「マリさんってば」
窘めるような調子に、マリと呼ばれた女性が鬱陶しげに手を振った。最初の謹厳実直な雰囲気はすっかりかなぐり捨てている。
「わぁかってるって。…さてと、そうなるとこの場で私はもう用なしだねぇ。んじゃ、ワンコ君、寛容なオトモダチに感謝すんのよ? サヨナラ」
そういってさっさと出て行ってしまう。扉の音がした後で、シンジは恐る恐る訊いた。誰へともなく。
「あの、ひょっとして、ワンコ君って僕のことですか…」
答えたのは、榊だった。
「そうらしいね。…あ、と…あまり気にしなくていいと思うよ。君の目が、昔近所で飼われてたウェルシュ・コーギーにそっくりなんだって。マリさん…真希波さんは、ちょっと変わってる人だけど、悪気はないから勘弁してあげて」
「は、はあ…」
「さて、大事な話をしよう。その前に…お茶でも淹れようか」