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「あら、珍しい。今日は怒鳴り声もモノ壊れる音もしなかったように思ったんだけど」
 玄関扉を開けて、リツコが意外そうにいうのへ…葛城ミサトは苦り切ったように菓子折りを差し出した。
「ちょっと出張行ってきたから土産買ってきたのよ。何、私が此処に来るのは喧嘩したときだけって?」
「そうとは言わないけど、比にするとまあ…」
 リツコの後ろからタカミが覗いて言った。
「悪かったわねぇ。持って帰っちゃおうかしら、コレ」
 そう言いながらふっと背後に目を遣ったことに、二人とも気づく。
「お菓子に罪はないから貰ってあげるわ。…ついでにコーヒーでも飲んでいく? 茶菓子、お持たせでよければ」
「そーこなくちゃ」
 ミサトがそそくさと玄関扉を閉める。
「あれ、カヲル君も来てんの?」
 カヲルのバスケットシューズを目聡く見つけたらしい。
「ちょっと調子崩してるのよ。もう眠ってると思うから、できればお静かにね」
 リツコがそう言うと、ミサトがふっと眉を曇らせる。こころもち声も低い。
「あー…大丈夫なの?…ひょっとしてもう、迷惑かかった後かなぁ」
「…何のこと?」
 ミサトがそれには応えずキッチンの方へ二人の背を押し、俄に声のトーンをはね上げた。
「ついでだから手伝うわ。さて、お湯かけなきゃねっ」
 そう言ってケトルにたっぷりの湯を入れてIHヒーターのスイッチを入れた。すぐにコトコトという単調な音がし始める。音としては然程大きいわけではないが、キッチンでする会話が外に聞こえづらくはなる。
「ごめん、うちの宿六 1がね…なにやら嗅ぎ回ってるでしょ」
「あ、うん、そうみたい」
 ミサトの意図に気づいたタカミが、中挽きのレギュラーコーヒーが入ったキャニスターを引っ込めて豆とミルを引っ張り出す。
「あ、手遅れか」
 ミサトは額に手を遣って嘆息すると、腕組みしてキャビネットに軽く背を凭せかけた。
「ごめんねー…20年前のあの事件。最近になって…当時の偉いさんが死にかけてるとかで、なんだかぽろぽろとあっちこっちから情報が漏れてるらしいのね。うまくいけば真実を白日の下に晒せるってんで、当時の関係者周辺を嗅ぎ回ってるみたい。莫迦よねー…記事にはできやしないってわかってるだろうに。そこへ、榊君、あなたのことを探り当てたらしいの」
「…どこら辺まで?」
 顔色をかえるでもなく、タカミは問うた。手許はミルを動かし続けている。手回しのミルは音は然程でもないが相応に時間が必要だから、丁度良い。
「まー多分、あなたに気取られるようなコトやらかしたんなら、せいぜいあなたが『Angelー11』ってとこまでじゃない?よりによってゼーレのナンバー持ちって判ってたら、もうちょっと用心するでしょうよ。あいつ莫迦だけど、綱渡りは得意なつもりらしいから」
「葛城さん。声がおっきいですって」
 流石にタカミがわずかに眉を顰めた。
「カヲル君にもまだ内緒なんでしょ?判ってるわよ。問題は、あの莫迦がカヲル君を情報源として接触を試みてるってこと」
「…何ですって?」
「まあ、今は瀬踏み程度にとどめてるっぽいけどね。問題は、シンジ君の方かなぁ」
「彼の方にも接触を?」
「多分。…まあ実直に、シンジ君は親権こそ碇所長が持ってるけど、今は同居もしてないし全く以て没交渉だから、拾える情報なんて高が知れてるわよ。ただね、結構真面目で思い詰めやすいとこあるから…変なこと吹き込まれてなきゃいいんだけど」
「…了解…」
 ミルの上に手を置いたまま、タカミが嘆息する。
「私はね、榊君」
 ミサトが表情を改めてキャビネットから身を離した。曖昧な視線をケトルに投げかけるタカミを見据える。
「相手が誰だろうが、たくさんの人達が血反吐はくような思いで築き上げた平穏を乱すってんなら、黙っちゃいないわ。…第一、父さんだって嘆くでしょうよ」
「そういえばミサトのお父さんも…研究所にいらしたのよね」
 彼女が父親のことを口に出すのは珍しい。リツコが、ふとその経緯を思い出して言った。
「人類の新しい可能性、ってやつに夢を見て、自分の結婚記念日だってのに…居残りしてた研究莫迦だけどね」
 ミサトが艶の良い黒髪を無造作に掻き回しながら、ダイニングの椅子にどっかりと腰を下ろすことでふっと視線を逸らす。
「ありがとうございます。心強いですよ」
「でもまあ、できることなら穏便に済ませたくはあるのよ。あんな奴でも、私のつれあいだし。
 …どうする?」
「僕だってなるべく穏便にとは思ってます。あの人次第ですけどね。ちょっとまた、相談させてください。なんせ今、もう一つ頭の痛い問題があって…むしろそっちの方が面倒臭そうなんですよ」
 そこまで言うと、タカミが憂鬱そうな曇りを一瞬で払ってふとトーンをあげた。
「…あぁ、お湯沸きましたね。ネルとペーパードリップ、どっちがいいですか?」
「…任すわ」
 緊張感もなし崩しの問いに、ミサトが眉間を揉んだ。そのやりとりを見ていたリツコが、くすりと笑う。

***

 その部屋は、カヲルが進学するときに提供されるはずだった。
 シンジとルームシェアするという話になって宙に浮いたが、結局カヲルがタカミの仕事の手伝いで泊まりこむときの仮眠室のようなていで空き部屋のままになっていた。相応の広さがあるのに、そんな事情で調度といえば結局ソファベッドとフロアランプがひとつずつあるだけだ。ソファベッドと言っても基本ベッドのまま置かれていた。
 とりあえず今日はもうおやすみ、といわれ…ベッドに潜り込んでどのくらいの時間が経っただろう。
 天球儀を模したフロアランプは、台座からわずかに浮いて淡く青い光を放っている。昔カヲルが面白がってタカミにねだったものだった。結局シンジとシェアする部屋には持ち込まずにここに置いたままにしていたが。
 ゆっくりと廻り続ける青い天球儀を漫然と見つめながら、カヲルは何度か眠りかけてはふっと目を覚ますということを何度か繰り返していた。
 傷が、そう痛むわけではない。シャツに血が染みるほどの傷だと初めて知ったくらいだ。いつもこんな傷をつけられているわけでもない。数日で消える鬱血痕程度は、ほぼ必ずといっていいほど残していくのだが…シンジが昂ぶった時、まれに歯を当てられることはある。
 痛みに苦鳴を上げれば、シンジは血相を変えて身を離し、手当をしてくれる。
 そんな時、行為を中断されることに安堵しさえしている自分に気づいて…カヲルはひどく哀しくなるのだ。
 そっと扉が開く音に、いつもつい過敏になる。だが、今夜は優しく髪を撫でられて…ふと、さっき何か音がしたかな…とぼんやりと思った程度だった。
 羽根で撫でられているような、微妙な心地好さとくすぐったさにカヲルは思わず小さく吐息する。
「…お客さん、帰ったの?」
「うん、葛城さん。出張のお土産って。ちゃんと残してあるから明日朝食べたらいいよ」
 ベッドにするとフロアベッド程度の高さだから、タカミがフロアにそのままぺたりと座っていても、タカミの顔は見上げる程の位置にあった。
「冷たいでしょ。こっち座れば?」
 身を起こし、身体をずらそうとするカヲルを、タカミがやんわりと抑える。
「はいはい、そういう細かいこと気にしてないでちゃんと寝る。…って、起こしちゃったの僕か。ごめんね、様子見るだけのつもりだったんだけど。
 …ね、加持さんってひと、カヲル君のところに来た?」
「ああ、葛城さんの旦那さんでしょ。うん、何日前だったか…ここに来るときにエントランスとか廊下で出会ったことは今までにもあったけど、この間は街でいきなり声掛けられたから…ちょっと吃驚したかな」
「変なことされた?」
 少し気遣わしげな声音に、カヲルは寝転んだまま思わず低い笑声を立てた。
「タカミってば、不審者が下校途中の小学生に声掛けたんじゃあるまいし」
「いや、だって…」
「別に、世間話しただけだよ。…あぁ、駅裏のカフェ、再開発とかで移転するらしくて、そこから20年前の事故の件に話が飛んだかな。隕石なんて嘘で、実は研究所の爆発事故…とかって都市伝説の話?」
「ふうん…」
「生まれた頃の話なんでよくわかりませんねって言ったら、まあそれきりかな…あの人、ジャーナリストなんでしょ」
「そう聞いてる。悪い人じゃないんだけど…まぁあんまり手癖はよくないみたいだから、ちょっと心配になって」
「心配しすぎ。…ってか、ひとのこと心配する割にタカミが隙ありすぎなんだって」
「そうかなぁ」
 天球儀を指先で軽く触れながら真剣に考え込んでしまうから、カヲルはまた笑った。だが…温かい掌を額に感じて、ふと黙る。
「…タカミ?」
「ねえカヲル君。…レイちゃんのこと、好き?」
 掌のもたらす温かさに、緩々と眼を閉ざしながら…カヲルは応えた。
「…うん…好き」
 今まで、彼女に対してさえちゃんと言葉にできていなかったそれを、初めて認めて、それを自分の耳で聞いた。それで理解ってしまった。
「…僕らは、出会うときを間違えた…!」
 ふと、眼の周りが熱くなる。
「もっと早く、出会いたかった。もう少し後に…出会えたらよかった。そしたら…そしたら…僕は…」
「〝間違えなくて済んだ〟…?」
 それは、責めてはいない。むしろ、労るような…慈しむような、優しい声。それでも、カヲルは思わず呼吸を呑んだ。だが、優しい指先に髪を撫でられて、ゆっくりと細く息を吐く。
 その指先に自身の手を重ねて、カヲルはその温かさを感じた。
「シンジ君のことは好きなんだ。とても大切なんだ。一緒にいられることが楽しかった。一緒に暮らせて良かったと思う。…でも、違う…。あんなかたちじゃなくて…友達でいたかった…」
 言ってしまって、涙が零れた。
「僕は間違えた。…ちゃんと伝えるべきだったんだ。シンジ君に嫌われるのを怖れたりせずに、最初から。一緒に暮らすことができなくなってしまったとしても、シンジ君が大切な友達であることには何も変わりがないから。
 …僕は、間違えたんだ…」
 声が、終いには嗚咽が混じって震えた。
「…うん、そっか…」
 指を絡めたままの手をカヲルの額に置いて、タカミが言った。
「…つらかったね。どうしていいかわからないんだよね」
 もはや声を出すこともできなくて、カヲルは啜り泣きながらただ頷く。
「間違えたって…思わなくていいんだよ。君が、シンジ君を傷つけたくないって思ったから言えなかった…それ自体、何も間違っちゃいない。その時は、他にいい方法が見つからなかっただけなんだ。
 時間が経たないと、わからないことってあるんだ。だから、カヲル君は自分を責めなくていい。…自分の気持ちがちゃんとわかった、それってとても大切なことだよ」
 カヲルの涙を拭う指先も、ゆっくりと噛んで含めるような調子トーンも、ただ温かかった。水の中を揺蕩うような安堵感の中に、苦しさがゆっくりと溶けていく。
 ややあって嗚咽が収まり、カヲルはもう一度細く息を吐いた。
「…それは、経験則?」
「さてね…」
 タカミが微かに笑った。苦笑とも見えた。
「カヲル君、今年で20歳になるよね」
「…うん、なるね」
「明日は目一杯午睡ひるねしてていいから…すこし、話に付き合ってくれる? すこし、じゃないな…多分…きっと、結構長い話。それで、君がどうしたいかを聞きたい」
 タカミにしては少し、硬い表情かお。カヲルは緩慢に身を起こした。そして、タカミの襟元に手を伸べる。
「…これに関わる話…だよね。きっと 」
 タカミの首筋にかかる細いチェーンを手繰り、カヲルが銀色の籠に抱かれた紅珠を指先でまさぐる。…深く、澄んだ音がした。
「…知ってたの?」
 タカミが少し驚いたように深い色の緑瞳を見開く。だが、カヲルは笑って首を横に振った。
「何も…」
 コレは本当。タカミの襟元で時折綺麗な音色を立てるそれには、実のところ随分前から気づいてはいた。タカミが服の上からそっと触れる仕草にも。
 何かがあるのだとは思っていた。とても訊ける雰囲気ではなかったが。
「聞かせて。…今、このタイミングってコトは…きっと、全部繋がってるんだよね」
「…そうかも、しれない」
 タカミはおもむろにチェーンを外して、ペンダントをカヲルの掌に載せた。

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  1. 宿六…宿のろくでなしが語源とか。意味としては一応夫、旦那、主人。どっちかというと対外的に使うことが多いが、概ねあまりいい意味に使ってない。親愛をこめてる場合もアリ。