So time after time
時に流されようと 憶えている 嘘のない心で
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Time after time Ⅶ」

time after time
~Time After Time Ⅶ
「あら、いらっしゃい」
リツコが帰宅したとき、リビングの中央にあるテーブルにノートPCと複数のタブレットを置いて、カヲルがキィを叩いていた。キッチンからは盛り付けを待つだけという夕食の芳香が漂っている。
「おかえりなさい、リツコさん」
手を止め、顔を上げてカヲルが振り返った。
「今日もお手伝い?ありがとう」
「それもあるけど、半分はレポート。タカミなら奥で電話中」
そう言って、奥の部屋を指し示す。丁度電話が終わったのか、タカミが出て来るところだった。
「おかえりなさい。ごめんねリツコさん、明日出勤になりそうだ。ま、リツコさんが帰ってくるまでには帰れると思うけどね」
「相変わらず予定立てにくくて大変そうね」
「拘束時間短いだけが特長な会社だからね。人遣い荒いけど。
どうしようか?夕食始められるけど、先にお風呂? …ってカヲル君、何をにやにやしてるの」
いつの間にか手を止め、二人の会話を薄い笑みを浮かべて聞いているカヲルに、タカミが問うた。
「なんでもない。幸せそうだねって思うだけ」
「なんだい、それ」
本当に不得要領な顔で訊き返す。揶揄われたのか感心されたのか微妙なところなのを、多分判っていない。
「そうね、先に浴びさせてもらうわ。今日、応援に呼ばれて術場 1はいったら汗かいちゃったし。…カヲル君?」
バッグを持ち直してリビングを通り抜けかけたリツコが、ふとカヲルの背を見て足を止める。
「背中に何かついてるわよ。…あら、血液じゃない。虫刺されを掻き毟りでもしたの?早くシミ抜いとかないと大変よ?」
カヲルがビクリ、と背を震わせたのが、リツコはもとよりタカミにも判ったようだった。不意にタカミの表情が険しくなる。
「…カヲル君。上、脱いで」
タカミの声はいつも通り優しくはあったが、珍しく否とは言わせない強さがあった。
「ごめん、リツコさん診察よろしく」
カヲルは自身の両肩を抱くようにして暫く黙していたが、のろのろとフランネルのシャツを脱ぐ。アンダーシャツの背にも、血痕はあった。トップスに染みが浮かぶ程だから、当然その範囲はより広い。
「ごめんね、ちょっと診せ…てっ…!」
アンダーシャツをめくり上げたリツコの声が凍り付く。
「ちょっと、これ…」
ふっと、カヲルの繊細な美貌が曇る。タカミがするりとリツコの脇に寄ると、アンダーシャツの下にあった傷を見た。肩甲棘の中程あたりに、血は乾いているが小さな傷がついている。一度、手当てした形跡はあるが、擦れたかなにかでまた出血したのだろう。
「…咬傷ね。カヲル君、一応…消毒させてくれる?それと、擦れやすいところだから暫く保護しといたほうがいいわ。大丈夫、大袈裟なことはしないわ。絆創膏貼るくらいのものよ」
「ごめんなさい、お願いします…」
カヲルは先程までの血色を完全に喪失していた。
タカミはカヲルの前に回り込むと、真っ正面から辰砂の朱色の眸を見据えた。
「カヲル君、答えて。…シンジ君、なのかい?」
カヲルの顔色が白を通り越して蒼くなる。ややあって、ゆっくり頷いた。
「ごめん、タカミ…昨日、レイに会ってた…シンジ君には言いにくくて、此処に居た、ってことに…そしたら、シンジ君…少し、機嫌が悪くて…」
タカミが優しげな眉目を憂色に曇らせて、労るようにカヲルの頬を撫でた。
「…昨日今日の話じゃないよね?一番新しい傷がこれってだけで、ほかにもいくつか傷がある」
「…っ…」
カヲルが何かを言いかけて、口を噤む。傷の簡単な処置を終えてその様子を見ていたリツコに、タカミがそのままの姿勢で言った。…ひどく低い声。
「…リツコさん、警察に電話」
リツコが即座に立ち上がる。その手を、カヲルが引き留めた。
「嘘ついてごめん、でも警察は待って!」
カヲルの声が掠れる。だが、それに対するタカミの声はいつもを思えば驚くほど低く凍てついていた。
「もう待たない。襟元とか袖口ばっかり気にしてた僕が莫迦だった。こんな…酷い!」
「いつもは優しいんだ!」
涙さえ浮かべて必死に言い募るカヲルに、リツコが携帯電話を握ったまま動きを止めていた。タカミが小さく嘆息して、軽く右手を挙げる。
「カヲル君…」
「嘘ついた僕が悪かったんだよ…シンジ君は…ちょっと、機嫌が悪かっただけで…」
それには応えず、タカミがカヲルの銀色の髪を撫でながら思案していたが、ふと顔を上げて言った。
「ねえリツコさん、リツコさんとこ、何日か入院ってできそう?」
「確認してみなければ判らないけど、多分大丈夫。初めてって訳でもないし」
「じゃあ、今夜はウチに泊まって明日から入院。君は当分、あのアパートには帰らない。荷物なら僕が取りに行く。…これ以上、僕は譲らないからね」
カヲルは両眼に涙を溜めていたが、ややあってゆっくりと頷いた。
***
大概、講義が終わったら真っ直ぐ帰ってきてくれたのに。ずっと傍にいてくれたのに。
夕食までには戻ると聞いていたのでシンジはその支度をしていたのだが、最近カヲルが外出がちなのが気にかかっていた。
最近になって…何かが変わり始めている。
綺麗な横顔。柔らかな微笑。それは何一つ変わらないのに、どこか逸れていく。傍に居て、微笑んでくれるのに。抱き締めて、キスしたときに…少しだけ、甘い声を聴かせてくれるのに。そのすべてが、自分をすり抜けて他の誰かに向けられている気がする。
いつもと同じに綺麗で、優しい。でも、何処か遠くを見ていて…時折、シンジの話を少し聞き落とす。約束にも曖昧に頷く。
誰が住んでいるの。君の心の中に?
終に手を止めて、菜箸を措くとダイニングの椅子に座り込んでしまう。テーブルに肘をついて、顔を覆った。
昨夜も遅かった。従兄のところで手伝いとレポートを仕上げていたと言いながら、カヲルがわずかに眼を逸らしたのを…シンジは気づいてしまっていた。
榊さん。優しそうな人。そして大人。後見人でもあるし、奥さんは病みがちなカヲルにとっては主治医。あの家に頻々と出入りしたって不自然ではない。
…けれど。
後見といってもカヲルも今年20歳になるのだ。いつまでも干渉するのはおかしいではないか。
そう考え出すと、止まらない。晩秋、体調を崩したカヲルを見舞いに来たときも、カヲルの頭を撫でる自然な仕草が愛撫であるかのように見えてしまった。それを受けるカヲルもまた、蕩けるような笑みを浮かべていたように見えて…その夜、初めてシンジの箍が外れた。
紛うことなき邪推。あさましい猜疑。わかっていて、それでも止められなかった。
戸惑い、怯え、苦痛に泣き叫ぶカヲルをを組み敷いて、シンジは想いを遂げた。無論後悔したし、翌日ふらりと出て行ってしまったカヲルがもう戻ってこないのではないかと狂わんばかりに気を揉んだ。
だが、カヲルは戻ってきてくれた。
求めれば…カヲルは望みに応えてくれる。だがそれには、自分が一方的に快楽を享受しているのではないかという恐怖が常に付き纏う。顰められる眉は、苦しげな息遣いは、紛れもない苦痛の結果でしかないのではないかと。
それでも、狂わずにいられない。
不意に充電台に置いていた携帯電話が鳴動してシンジは文字通り跳び上がるほど驚いた。
「赤木医師…?」
恐る恐る、受信ボタンを押す。
【ああ、シンジ君?赤木だけど】
いつも通り、深く落ち着いた大人の声。
「あ、はい、お世話になります。こ、こんばんは」
ついさっきまで頭の中でぐるぐると回っていたことが思い出されて、どっと冷や汗をかく。
【シンジ君、落ち着いて聞いてね。カヲル君なんだけど、ちょっと今日…体調崩してるみたいなの。明日病院へ連れて行くから、今夜はウチで休ませるけど、いいかしら】
俄に口の中が干上がるのを感じた。言葉が出ずに、何度も固唾を呑む。
【シンジ君?】
少し気遣わしげな声が聞こえて、シンジは慌てて息を整えた。
「は、はい…わかりました。あの…大丈夫、なんですか?」
【大丈夫よ。いつものことだから。でもまあ、検査してみて場合によっては入院させるかも知れないから、その時は少し荷物取りに行くわね。
また、連絡するから】
入院、という言葉に血の気が引いた。
「そんなに、悪いんですか…?」
【検査結果次第ね。でもまあ、休養を取らせることが目的みたいなものだから、心配しないで】
***
「…ってとこで、どうかしら」
携帯電話を措きながら、リツコが小さく吐息する。タカミが悪戯っぽい表情で拍手した。
「ありがと、リツコさん。流石だね、言うことないや」
「とりあえず…嘘はついてないわよ。これでいいでしょ?」
カヲルの蒼い顔を覗き込んで、リツコが言った。シンジの処に電話を掛ける、という段になって、彼にこれ以上嘘をつきたくないとカヲルが涙目で懇請するのを、タカミが「リツコさんなら巧く言ってくれるから」と押し切ったのである。
「ごめんなさい、リツコさん…」
弱々しく呟くように謝するカヲルの頭を軽く撫でてから、タカミは立ち上がった。
「本音を言えば、今夜と言わず暫くウチで匿ってあげたいところなんだけどね…。さてと、じゃ、リツコさんお風呂どうぞ。僕はそろそろ夕食の支度始めとくから」
「ありがとう。お先に使わせてもらうわ」
奥へ入ってバッグとコートを置いた後、リツコがバスルームへ向かう道すがら、タカミの入っていったキッチンを覗いた。
少し声を低める。
「…で?その〝本音〟を引っ込めた理由は?」
「うーん、それがね…」
タカミがエプロンの紐を結びながら天を仰ぐ。
「シンジ君、どうやら少し僕に関して誤解してるっぽいからね。あんまり刺激してもよくないかな…と。ごめんねリツコさん、職場をシェルターにしちゃって」
「いいのよ、さっきも言ったけど私、嘘はついてないから。…成程ね」
「そこ、納得しちゃう?」
少し居心地悪げなタカミへ、リツコが悪戯っぽい笑みを返す。
「勘繰られても無理はないっていう状況に関しては、多少自覚すべきじゃなくて?」
「やっぱり甘やかしすぎって? うーん…」
「カヲル君も20歳でしょう。…約束の歳になるわね」
「そうなんだ。タイミングがいいというのか悪いというのか…どうしたもんかなーって…考えてはいるんだ」
タカミの指先が、おそらく殆ど無意識に自身の胸元をそっと抑える。シャツの下には、小さな銀色の籠に入った、深く澄んだ音を立てる紅い珠のペンダントがあることを…リツコは知っている。
「伝えなきゃいけない。その上で、カヲル君がどうするか、だけどね…」