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 全てが整った後、一度だけ施設へ戻った。研究が最終段階へ入ったら、もう会うことはない。その前にもう一度だけ、皆に会っておこうと思ったのだ。
 何も知らない子供達は、検診の回数が減っていることを喜んでいた。いずれ必要なくなるから、というマサキの言葉に素直に頷き、あと少しの我慢だね、と励まし合う姿に、思わず目を細める。自分はそれを見届けることは叶わないだろうが、これでいい。
 自身マサキの寿命が、カヲルが成人するまで保たないということは、薄々わかってはいた。成人したとてカヲルひとりに負わせるのが酷だということも承知している。だから、誰かに委ねなければならない。…心当たりは、ひとりしかいなかった。ほかにはあり得ないと言っていい。事情を理解し、カヲルのためならあの老人たち相手だろうが決して怯まないだろう…セラフィン亡き今、カヲルに最もちかい人物。
  その日…タカミは、努めていつも通りに振る舞っているように見えた。
 判っているだろうに。いっそ手酷く拒んでくれれば、諦めもつくのに。そんな思いで、その夜はわざと強引に求めた。しかし微かな怯えを滲ませていても、悲愴なほどの決意を秘めた緑瞳にひるんだのは…結局マサキの方だった。
 この強情っぱりは一体誰の譲りだ。
 マサキの口から真実を聞くまで、一歩も譲らない。そんな眸で詰め寄られ、つい卑怯な方法ではぐらかした。以前なら、それで寝かしつけておけたのに…その夜は違った。
 この腕の中で快楽に身を委ねる姿態は以前よりも艶を増しているのに、紅く染まる目許の奥で孔雀石の緑色マラカイトグリーンは確かに熱に潤んでいるのに、その決然とした色彩いろを眠らせることはできなかった。
 これは逃げられないな、と思った。いずれ話さなければならないにしろ、もう少しだけ…時間がほしかったのだが。
「…悪かった。大事な話、ってやつを聞こうか…」
 思った通り、タカミは事実の殆どを捜し当てていた。だが、自分を抱いていたのが正真正銘の化け物だと知っても、その態度が変わることはなかったのだ。
 むしろ、また皆で一緒に暮らせたらいい。隔離されようが監視されようが構わない。そうできなくなったのが自分の所為だというなら、すべてを忘れてしまってもいい。譫言のようにそんなことを繰り返すタカミに、マサキは『宿題』の中身をとうとう伝え損ねた。
 あがないを完成させる…そんなことをいきなり告げても、タカミを混乱させるだけだっただろう。もう少し落ち着いてから、きちんと説明すべきだ。自分の狡さを自覚しながら、ほかにどうすることもできなくて…言ってみれば心の中で逃げ支度を始めていた。
 だが、そのタイミングで発せられた問いに…マサキは思わず呼吸を詰めた。
『…そんなに、似てますか。僕は、セラに…』
 目も眩まんばかりの悔恨に胸を食まれ、暫く息が出来なかった。
 いつか気付くとは思っていた。気付かない訳がない、とも。それがわかっていながら…どうしても思い切れなかった。

 挙げ句…傷つけた。

 その眸の色彩いろより他、それほど似ているとは言えなかったのかも知れない。むしろ造作としては……眸と髪が違ってもカヲルの方が似ていたのかも。それなのに、救いを求めて伸べられた手を取ってしまえば、この腕に抱くしかなかった。
『私をたすけて、サキ…』
 いつも闊達な光を放っていた緑瞳を涙に曇らせて、蒼褪めた唇に載せた…揺れる声が、今もなお耳朶に残っている。
 どうすれば良かったのだろう。どうすれば償えるだろう…。それだけを考えてきた。そして行動してきた。残されたことの意味を、マサキはそこにしか見いだせなかったから。
 違うセラじゃない。そんなこと、最初からわかっている。
 身勝手な夢を見て、傷つけて、重すぎる宿題だけを遺して。…何となじられても仕方ない。しかも、もうあがなすべさえない。
 すべて判っていたはずのことだ。それなのに、今更その苦しさに思わず喉に手を遣ったとき、深く、澄みわたる音が淀んだ空気を払った。
 …ふと、気づいた。遺してやれるのはこのペンダントくらいだろう。どのみち、持って行けるものでもない。

 まだ何も伝えてない。でも、もう二度と逢えない。

 優秀で冷静な協力者の存在を、このときほど有り難いと思ったことはなかった。意図して出会いを仕組んだわけではなく、必要に駆られたのだが――――――。

***

 頻々と意識消失、心停止を起こすようになって、リツコはとうとうマサキに入院を命じた。任せると決めていたのだから、逆らうつもりは更々なかった。
 ベッドに横たわって四角く切り取られた青空を見る生活の中では、ペンダントの深く澄んだ音を聴くぐらいしか愉しみはない。
 ペンダントの由来をリツコに問われて、苦笑と共に答えた。

 『どうなりようもない片恋の形見、あるいは大切な預かり物』

 あの破天荒な熾天使セラフィンに、本当の意味で恋をしていたのかといわれれば、よくわからない。ただ、他に巧く伝えられそうな語彙を思いつかなかっただけだ。それなのにあの豪胆なひとが、一瞬とはいえ顔から血の気を引かせるのを見てしまって、ベルの音色に聴き入りながらもう一度苦笑する。ああ、俺はまた言葉を間違えたな、と…。

 この形見を返すことができたら、月へ帰ろう―――――。

――――――――Fin――――――――


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