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その夜から、数日と経っていなかった。
海外にある系列会社の建物がテロの巻き添えで爆破され、職員の数人が死傷したというニュースが流れた。…それが、セラの夫の出張先だったと思い出して慄然とする。
それを知ったのはもう夜ではあったし、行ってどうなる、そもそも、産休中なんだからいるわけがない…そう思いながら彼女のオフィスに足を向けていた。誰もいない家にいてもつまらない、とよくオフィスで資料を読んでいたからだ。
彼女は確かにいた。だが、雑然としたデスクの脇…散乱した書類の上にできた血溜まりの中に蹲っていたのである。
破水 1じゃない。早期胎盤剥離 2だ。
「セラ!」
声を掛けると、彼女がわずかに顔を上げた。意識はある。即座に内線を取り上げ、今夜は泊まりだと言っていたシステム管理者の番号を叩く。専門は人格移植OSだが、医者でもある。
「赤木さん、高階です」
【あら、どうしたの?まだ研究棟?】
「ハリーコール 3お願いします。第一研究室。セラが出血してる。意識はあるけど、動けない」
流石に一瞬息を呑むような間があったが、返答は早かった。
【了解よ。コールかけたら私も行くから、そのまま動かさないでね】
「わかりました」
内線を切り、セラフィンの傍へ駆け寄る。
「…痛みは?」
彼女は首を横に振ったが、何かを堪えるように息を吸い、そして言った。
「…サキ、今すぐ研究所を出て、身を隠しなさい。宿舎はだめ」
「セラ!?」
何を言われたのかが判らなくて、思わず硬直する。その時、館内放送のスイッチが入るわずかなノイズが聞こえた。だが、館内放送の声が聞こえる前に、すべてが闇になる。
「何…!」
「電源を落とされた。多分、もうあまり時間がない…」
「時間ないのはセラの方だろう。動くなって…!」
身体を起こそうとするセラフィンを押し留める。だが、その時館内の何処かで爆発音がして、建物が揺らいだ。遠いが、銃声もする。
「…サキ、よく聞いて。アキラは殺された」
それが、セラフィンの夫の名だった。セラフィンは、血に濡れた手に携帯端末を握っていた。
「ついさっき、最後のメールが着信したの。内紛が起きてる。祖父さんの名に二の足踏んでた連中の一部が、とうとう暴発したみたい。すぐに身を隠さないと、あなたも殺される」
――――過去にはわりと荒事になったケースもあるから…。
わりと、どころではない。極めつけの荒事になってしまっている。
「それはセラもだろう!」
「ちょっと無理ね。だから、あなただけでも身を隠しなさい。子供ひとり、何処にだって身は隠せるでしょう。ただ、祖父さんだって黙っちゃいないわ。対応はしてるだろうけど、間に合うかどうか微妙よ」
だがその時、非常灯だけになった部屋の隅…天井部分でガタンという音がした。武器などあろう筈もないが、思わず身構えた時…天井に設置されている作業用の扉と、パンプスが片方降ってきた。
「セラちゃん、高階君、無事!?」
天井から顔を出したのはシステム管理者の赤木ナオコ博士だった。二人を視認し、もう片方の靴を床に向かって放り投げたかと思うと、枠から一旦ぶら下がって思い切りよく飛び降りた。床の血溜まりに滑って一旦は座り込んだが、動じることなく跳ね起きる。タイトスカートにパンプスという格好で通風口を通ってきたらしい。
「状況は判らないけどあからさまにテロよ。通報ボタンは押したけど、通じたかどうか怪しいわね。保安部が応戦してるみたいだけど、どのくらい保つか。
…セラちゃん、ひょっとして陣痛来てる?」
赤木博士の問いに、セラフィンが額に汗を浮かべながら頷いた。
「確か初めてよね。こんな時じゃなければ…切開して出してあげたいけど…。ごめん、ちょっと診せて」
「セラを頼みます。俺は武器か、脱出経路を確保します」
自分にできることはここにない。だったら、できることを探す。立ち上がって、周囲を見回した。周囲にあるのは書類と事務用品ばかり。
「無茶しないのよ!それと、ここから出るならその白衣は脱いで。この暗がりで目立つのは不味いわ。ああ、申し訳ないけど脱いだらついでにそれ頂戴。椅子にあるクッションも。そこのロッカー、鍵あいてるのがあったら衣類かタオルっぽいモノ出して。それからクーパー 4とは言わないから、ハサミだけでもあるといい」
赤木博士の意図は判ったから、すぐに動いた。貴重品を入れる習慣がなければ、わりあいロッカーに鍵はあってもつけっぱなしという人は多いものだ。ロッカーを3つばかり開けて、おろしたてと思しき小さなハサミも含め、見つかったものを赤木博士がすぐ手に取れる距離のデスクに置く。
「赤木さん、行きます」
「いい、誰が敵か味方かわからないから、なるべく所内で見つからないようになさい。あなたの場合、姿を見られただけで特定される可能性が高い。連中が殲滅派なら…最悪、問答無用で発砲されることだってあり得る。でも逆を言えば、外へ出さえすれば…君のその姿なら保護して貰えるわ。できることなら何とかしてこのまま外へ出て、所外の人に助けを求めなさい。セラちゃんのことは私に任せて」
「…はい」
ここで問答することは無益だ。そう思ったから素直に頷いた。
だが、先程ロッカーを漁ったときに、職場に置いておくには言語道断だが、この際は役に立つものを見つけていた。
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人類に酷似する遺伝子を有しながら、別系統の生命〝使徒〟。
それを理解しようと、研究は進められている。だが、その一方で〝使徒〟はその存在を太古の資料で予言されており、人類に終焉をもたらすというオカルティックな思想が上層部に蔓延しているという。…というより、もともとそれを前提に研究に対する支援をしているといっていい。研究するのは斃すためだと。
莫迦げた話だ。とても正気とは思えないが、そんな人間の集まりが世界最大級の複合企業体のトップ、というのがそもそもまともな話ではない。
それでも、研究ができるならそれでいい。それが自分の立ち位置であった。『高階マサユキ』であったときにもそうだったのかどうかわからないが。
制御可能な〝使徒〟。自分自身がそうなってしまうことを、本当に本人が望んでいたのかどうか…憶えていないから判らない。事故かも知れないし、事故としても故意であったという可能性だってある。しかし、研究手法としては至って杜撰であったと言わざるを得ないだろう。なにせ、自分がそうなってしまったら、客観的な判断などできないではないか。
ただ、利点はある。どんな実験を行おうが、誰にも遠慮は要らない。気が済むまで条件を変えて試行できる。
例えば〝使徒〟が、本来自らの身体を形成するために発生させると考えられている、通称ATフィールド。自他を鑑別し、他者をはじき、自身をかたちづくる。自分が今このかたちをとっているのが既にしてATフィールドの作用であるという理論が基礎にあるが、それを転用すれば、自身に侵害刺激を及ぼす他者を排除する力として働くということでもある。
やってみる価値はある。
誰のロッカーだか知らないが、エアガンがBB弾と一緒に入っていた。息抜きだがストレス解消だかで、部屋の隅に置いた段ボール箱を蜂の巣にしている研究者がいるとかいないとかいう話をきいたことがあるが、まさか研究室のロッカーにまで置いているとは。
エアソフトガンで射出するBB弾も、使い方によってはかなりの殺傷能力がある。ただ、ボディアーマーを着込んでいるであろうテロリスト相手にどれほどの効果があるわけもない。ついでに言えばあまりこういったものに興味をもつ暇もなかったので、狙って当てる、ということそのものが難しいことは自覚していた。しかし、射出する弾にATフィールドを作用させることができるなら、かすっただけ、あるいは近傍に弾を撃ち込むだけでも相応にダメージを与えることができる理屈だ。ただの物体でも、それまで自分の一部として認識していれば、身体から離しても一定時間力場は維持される。そこまでは検証済みだ。
…もっと言えば、銃把にはある程度の重量がある。最悪、鈍器としての利用法もあるだろう。
あとは、やってみるだけ。
***
「高階君!? 外に逃げなさいって言ったでしょ…っ!」
第一研究室に戻るまでに、どれだけの時間が経ったのかもはや憶えない。振り返った赤木博士の反応から、自分の姿がいかに凄まじいものになっていたかを知った。
「怪我したの!?」
「…大丈夫、返り血だから、俺は怪我してません。それより、セラは?」
状況を察したらしい赤木博士は何も云わず、紅く染まった白衣を差し出した。正確には、白衣に包まれた嬰児を。呼吸はしているようだったが、浅い。
「あまり状態がいいとは言い難いわ。早く、ちゃんとした設備の整ったところへ収容しないと。セラちゃんも同じよ。ちょっと出血が多すぎる…すぐに輸血か、せめて補液しないと…」
「私は…大丈夫よ、赤木さん。それより、カヲルを連れて何とかここから出て…」
多少か細くはあったが、確かに薄闇の中から彼女の声がした。
「セラちゃん、そんなこと言ったって…!」
「赤木さん、第3通用口まで、いまなら止められずに出られます。あそこなら、門までがそんなに距離がない」
「高階君!」
「その子を助けられるのはあなただけでしょう。お願いします。通用口まで送ったら、俺がセラの処に戻る。どのみち動かせないなら、そのほうがいい」
「…お願い、赤木さん」
赤木博士が返答に詰まったのは、わずかな間だった。
「いいわ、その代わり高階君はここから動かない。セラちゃんの傍にいて頂戴。心配しないで、絶対に…この子は助けてみせるから」
そう言うと、嬰児を抱いたまま傍らのケースを片脚でひっくり返して中身を床にぶちまけた。ありったけの布を敷き詰めて嬰児を寝かせると、緩めに蓋を閉める。
「さっき着信が入ったわ。通報はちゃんと通ってる。何とかもちこたえて」
「ありがとう、赤木さん…カヲルのこと、よろしくね」
「任せて」
短く言って、赤木博士がケースを抱えて研究室を出る。万が一誰かに見つかっても、ケースだけ見せて人格移植OSの生体部品とでも言い抜けるつもりなのだろう。全く大した胆力だ。
赤木博士を見送ったあと、かき集めた衣類の上に横たわった彼女の傍までゆっくりと歩く。怪我はしなかった筈だが、身体を酷使した所為かひどく身体が重い。
彼女が静かに訊いた。
「サキ…ヒトを…殺した?」
答えなかった。答えられなかった。目的は行動不能にすることで、殺すことではなかったが…それまで行使したことのなかった力は、加減が難しい。確認はしていないが、おそらくは。
「…ごめんね、辛いこと…させちゃったなぁ」
「生き残るためだ。きっと、守るから…」
「そうね…でも、殺しちゃ駄目。私たちはそれほど大層な力を持っている訳じゃないけど、彼らは私たちを畏れている。…なるべくなら、うまくやっていけるほうがいい。
君はまだ…ここにいないと」
「セラ…!」
「ごめんね、サキ…でも私には、ここは寒すぎる。…アキラが、もういないんだもの」
燦然たる美貌は哀しいほどに憔悴している。衰弱して体温が下がり始めていた。何か掛けてやれるものはないかと見廻したが、さっき捜し出した衣類は殆どが血液で濡れていて、掛ければ逆効果になりそうだった。
「このままじゃ、大変なことになる…出血の所為かもしれない。身体が、もの凄い勢いでつくりかえられていくのがわかる。おそらくは、生命種を保全するためのプログラム。恒常性限界を超えたダメージに対して、自身の意志と関わりなく…己の種を惑星に着床させる環境を周囲に作り出す。その環境はおそらく、原初の海に近い。
そうなると…みんな、死んでしまうよ」
理論上は既に指摘されている。月の創成に関わったとされるジャイアントインパクトにも匹敵する大災害。今ある生命をすべてリセットし、新たな命を根付かせる為の力。それゆえにヒトは使徒を畏れる。
眦に涙を浮かべ、蒼褪めた唇に載せる声は揺れていた。
「私を救けて、サキ…」
いつも自信に満ちた闊達な緑瞳が、ひどく心許ない。
「私は怖い。もう此処に居られなくなることよりも、他でもない私がこの世界を壊してしまうことが。…皆、壊れてしまう…死んでしまう…そんなの嫌よ」
「…そんなことにはならない…!」
「私にはもう止める力がない。…でも、あなたにはある。もう他に、どうしようもないの。
…ごめんね…」
彼女が自分に何をさせようとしているかを悟って、いつかの、喉奥を堰かれる感じに思わず小さく呻く。
彼女が力を振り絞るようにして身を起こし、手を伸べた。
「ごめん…ごめんねサキ…こんなこと頼んじゃって、悪いと思ってる。でも私は、生まれたばかりのあの子を死なせたくない。だからこれは、君にあげる」
いつかと同じように、取った掌にペンダントを置く。緋色に濡れた掌の中でも、それは深みのある澄んだ音を立てた。
その音に、刹那…心を奪われる。
体温が下がり続ける繊い腕に包み込まれ…何かを言おうとして呼吸を呑んだ。しかし結局何も言えなくて、ペンダントを握ったままの手を彼女の背に回す。身体を触れさせて、少しでも熱を分けてやりたくて。それでも彼女の身体から熱は喪われてゆき、鼓動は間遠になる。自分の身体までもゆっくりと冷えていくような無力感に、細く呻いてただ両腕に力を込めた。
彼女は小さく笑い、もうあまり力入らない腕で宥めるようにマサキの髪を撫でながら…耳朶の傍で囁くように言った。
「…サキ、私を月へ帰して。ここは、寒すぎる」