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 何でこんな場所に臨月近いと見える妊婦がいるのだ。
 彼女は雑然としたデスクに座を占めて、膨大なプリントアウトの中から目的のモノを捜し出そうと四苦八苦している。豪奢な黄金の髪と、燦然たる美貌。それと、膨らんだ腹部が巧く繋がらなくて…暫くその場に立ち尽くしていた。
 終いには散乱した書類を拾おうとして身を屈め、かすかに顔を顰める始末。
「…無茶だろう」
 思わずそう言って、手を伸ばしていた先にあったバインダーを拾い上げて手渡す。
「ああ、ありがと。…ええと?」
 彼女が礼を言いかけて口ごもる。そういえば見たことない顔だった。こんな派手な美貌、一度でも廊下ですれ違ったら忘れるわけがない。先方としても、冗談のようなサイズの白衣を着込んで研究所内をうろついている孺子こどもに戸惑わざるを得なかったようだ。
「…高階。高階マサユキ…らしい」
「…らしい?」
 彼女がさらに怪訝な顔をする。それはそうだろう。自己紹介をするのにらしいはないものだ。言葉がおかしかった。何せ、言葉は難しい。
 しかし、直後に彼女の中で何かが繋がったらしく…ああ、という顔をした。
「…じゃあ、私のことも憶えてないわね。セラフィン・渚・ローレンツよ。セラでいいわ、高階さん」
 そう言ってにこやかに手を差し出す。殆ど釣られるようにして手を差し出して握手したが、彼女が少し困ったように天井を仰ぐ。
「…ね、違和感、ない?」
 問われたのが一体何のことであるのか、一瞬わからなかった。
「あの…私一応、高階博士と面識あったんだけど…何だか巧く繋がらなくて。事故があったときは、私ってば切迫 1で入院加療中だったもんだから、高階さんが消えちゃったって言っても実感ないのよ。まあ、それをさっ引いても、あなたぐらいの歳の子をつかまえてさんづけはないわよねえ…。いやま、確かによく似てるし、息子さんだって言われたらそーかなって思っちゃうくらいけど」
「そういうものですか。俺にはよくわからない」
「あー、ごめん。そうよね。…うん、でも…」
 彼女は暫く考え込んでいたが、とりあえず納得があったものと見えて、ぽん、と肩を叩いて言った。
「ねえ、あなたのことサキって呼んでいい?…・実直にTakashinaって母音多くて発音しづらいし」
「…ご随意に」
 何処をどう端折ってつなげるとそうなるのか俄にはピンとこないが、格別それでも構わない。そう思って返事したら、その日からあっさりとそれが通称となった。

***

 程なく、高階マサユキの長男としての「マサキ」の戸籍が作成された。正式にIDが交付、ネームカードその他個人証明となるものが身の回りに支給された。
 研究所が自分という規格外な存在を現実を社会の枠組みになんとか当てはめようとしているのがわかる。違和感?そんなもの物心ついたときから満載だ。今更どうということもなかったが、名乗るのにいちいち迷わなくて済むのは悪い話ではなかった。
 一度だけ、高階夫人とその娘とも引き合わされた。
 上層部から因果を含められているであろう高階夫人は、諦め半分、哀しさ半分、それでも自分という存在を受け容れようと懸命な面持ちであったが、戸籍上の妹はいたって素直に初めて出会う『兄』を歓待した…。
「余計なことなのかも知れないけど、何時までも宙ぶらりんって訳にもいかないでしょ」
 一連の手続きの仕掛け人と思しき彼女は、数日後また現れてそう笑った。
「大きなお世話って思って貰ってもいいわ。でも、居場所があるってのは人間にとって大事なコトよ。馴染むまでに時間がかかったっていいの。どうせ、みんな一生掛けて馴染んでいくんだから。あなたは普通より一寸スタートが遅かっただけ、って割り切りましょ?」
 どうやら上層部にかなり顔が利く彼女が、自分にどうしてこれほど関わってくれるのか…不思議と言えば不思議だった。…だが、その理由の一端が程なく知れる。
 自分を作った特殊な細胞。それを作成する過程で開発された初期型のウィルスは感染力が強かったのだという。それに彼女…セラフィンは実験中に誤って感染していた。一時危険な状態にもなったというが、今はすっかり適応していた。問題は、その時すでに妊娠していたということだ。
 …そこまで聞いて、初めて彼女が既婚であったことを知った。まあ、妊婦であることで気付いても良さそうなものではあったが。そこまで気が回らなかった。
「じーさんをはじめ、周りには随分いろいろ言われたけど…私は堕ろすつもりなんかさらさらなかったからね。旦那だって応援してくれてるし、自分とこの子を信じて頑張るわ」
 そう言って胸を張り、燦然たる美貌をきらめかせて豪快に呵々大笑する。
「今のところ発育に問題はないわ。ただ、羊水検査したら、垂直感染はもう起きてる。…ま、予測はできてたけど。
 そうすると、君からしたら…まあ甥っ子みたいなもんか。無事に出てきたら、抱っこさせてあげるからね。楽しみにしてて」
 もはや勝手に係累にされているが、それを不快に思うことはなかった。確かに少々おしつけがましくはあるが、この果てしなく前向き思考ポジティヴシンキングな女性と話していると、この世界に生きているということがそれなりに面白くなる。その感覚は、悪くない。
「…ってことは、そうか、あの子も叔父さんってことになるのか…元気かなァ」
 このとき、セラが零した悪戯っぽい含み笑いが誰を指していたかを知るのは、事故後のことになる。

***

「あ、臨月の妊婦が夜更かししてる」
「言えた義理か小学生!」
「小学生って言うな。行ってない」
 咄嗟に子供の屁理屈のような口答えをしてしまい、すこしばつが悪くなって窓の外を見る。
 研究所内のラウンジ。吹き抜けのガラス壁の向こうには、月が出ていた。研究所を住所にしている自分はともかく、とっくに産前休暇に入っているはずの妊婦が頻々と職場をうろつき、しかもこんな夜更けに誰もいないラウンジで月見というのはいかがなものか。
 聞けば、確かに宿舎はすぐ近くらしいが。
 ふと、セラフィンが真顔になって問うた。
「…背が、伸びた?」
「そのようだ。ここのところ、成長のスピードが不安定らしくて。…あるいは、『ATフィールド』とやらの干渉を受けるのかも。お蔭で服の発注枚数には気を遣うよ。発注して、来たときには窮屈ってのが一番困る」
 苦笑しながら正直なところを答えた。全ては研究途上で、仮説でしかない。しかし、ATフィールドとやらが理論通りのものなら、生命の形を規定する。現生人類リリンと同じかたちで、しかも孺子こどもの姿であれば、その発現は顕著。
 急激に成長する身体に戸惑いもしたが、殊にセラフィン・渚=ローレンツに会ってからというもの…一夜にして服が合わなくなる、という状況があった。それに辟易して、ここのところ概ねワンサイズ大きなものを発注するようにしていたのだ。物心ついたときにはよく言って小学校低学年くらいだった身体が、今や高学年…中学生と言っても然程不自然でないほどの身長になっていた。正常発達の範疇をあきらかにはみ出している。
「その調子なら…私の背を超えるのもあまり先の話じゃないのかしらね」
 セラフィンは笑った。いつもの豪快な笑いではなく、自分の子の成長を喜ぶような柔らかな微笑がやけに眩しくて…ふと目を逸らしてしまう。大体、外見年齢相応に扱われること自体が珍しいからどうにも戸惑うのだ。セラフィンを除けば、今の自分と同じくらいの年頃の娘がいるという赤木博士くらいのものではあるまいか。
「ここからの眺め、好きなのよ。今夜は月も好いし、旦那出張中で家にいてもなんだかつまんないからお月見しに来たの」
「…眠れない?」
「んー…まあ、やっぱいろいろ考えちゃうかな。そういうときに無理矢理横になっててもイライラするだけだからね。あ、言っとくけどアルコールはいれてないわよ?」
「当たり前だろう…」
「だってサキってば、なんか不審そうな目で私のコップ見てるから。君も何かとってくれば?」
「別に…そこのところは疑ってないけどな」
 そう言って、自販機に足を向ける。破天荒なひとだが、こういうことにかけては至って常識的だということは理解っている。
 自販機がコーヒーを抽出する間、ソファ越しにその燦然たる美貌が月のやや蒼い光に照らされるのを見ていた。抽出完了を知らせるブザーの音が彼女のところまで聞こえたのか、不意にくるりと振り返って手招きする。
「はい、こっちこっち。座んなさい。あ、生意気にコーヒー、しかもブラック?」
「…別に甘いものが欲しいわけじゃないから。別にカフェイン入れても、眠れる時には眠れる」
「…で、今夜はどういうわけで眠り損ねたの、君は?」
「さあ…」
 言われるままに傍らへ腰を下ろす。彼女はそれ以上詮索するつもりはなかったようで、飲みかけのコップをテーブルに置いて改めて月を仰いだ。
「…故郷は月にある、って話…聞いた?」
 何の話か判らなくて、彼女を見る。
「ウチが研究してる、使徒と呼ばれるものたち」
「ああ、一応。発見された経緯くらいは」
「人類が初めて月に足跡を刻んだって言われてる時からもう何十年も経ってるのに、意外とまだ月面探査って進んでないのよね。それにしたって石と砂と氷しかない場所で、生きていけるもんなのかしら。組成としては私たちとそう変わらない筈なのに」
「地下にコロニーがあった説、昔は月の環境が良好であった説、使徒と呼ばれる生命が自身の身体を環境に適合させる特異的な能力…いわゆる個体進化能力を有していた説、およびその複合説」
「可愛気ないくらいさらさらと出てくるわね優等生」
「おかげさまで」
 彼女は苦笑して、コップのアイスティーに口を付けた。
「それでいくと、この形態が今の地球に適応しているから、私たちはこの姿でいる、ということか…適応できてるようには思えないんだけどなぁ、正直」
 少し驚いて彼女を見た。…ほかでもない彼女が、ここに適応出来ていないと思っているというのが信じられなくて。だがいきなり、結構な力で背中を叩かれる。
「やぁだ、そんな顔しないの! 大丈夫よ、旦那がいるし、君もいるし、この子にだってもうすぐ会えるんだし!」
 一瞬呼吸が停まったが、咎め立てする気にはなれなかった。彼女も、不安に襲われることがあるのだという事実に驚いたのと…一応あてにして貰っているのだということがそれなりに嬉しかったのだ。
「実を言うとね…私たちの処遇を巡って、少々上層部うえが揉めてるらしいの。ゼーレなんて結局、複合企業体コングロマリットっていいながら根っこは一種のセクト 2みたいなもんだし…考え方が極端な人間もいるわ。過去にはわりと荒事になったケースもあるから、気をつけとかないといけないかも知れないのよ。
 もっとも、そんなところまで私が背負ったってしょうがないんだけどね。まー仕方ない、どうにもやりづらかったら、皆で月に帰ろっか」
「またそんな無茶苦茶を…」
 そう言いながら、このひとがそうするというなら、付き合ってもいいかもしれない。
 今は研究のことが第一だ。だが、それとは別に…このひとのために自分にできることはあるだろうか。そんなことを考え始めていた。
「そうだ、いいモノ見せたげる」
 ふと、彼女が首にかけていたペンダントを外して掌にのせた。
 銀色の鎖の先に、翼をモチーフにしたと思しき小さな丸い籠。その中に、金属的な光沢を持つ紅い球体がある。彼女が掌を揺らすと、深みのある澄んだ音がした。
「いい音がするのよ。ほら、手ェ出して」
 こちらがおずおずと手を差し出すのよりも、彼女が手を引っ張るほうが早かった。掌に、まだ少し彼女の体温が残るその鈴のようなものが載せられる。
「…鈴?」
「ドルイドベルとかオルゴールボールとかいうらしいわ。こ? ?なに小さいのに、中に櫛歯とボールが入ってて、転がすとオルゴールの要領で鳴るのね。あんまり可愛いし綺麗だから、ペアで買っちゃった」
 そう言って、少女のような悪戯っぽい表情で笑った。
 ペアと言うからには当然、片割れを持っているのは夫君だろう。音は確かに綺麗だったが、名状し難い何かに喉奥を堰かれて、思わず黙る。数度、音色を聞いてから…そのペンダントを返した。
「いいでしょ。サキもこういうの贈りたいひとができたら教えて頂戴。お店、案内したげる」
「…それはどうも」
 外か。その時初めて、あることに気づいて嘆息に近い溜息をついてしまう。

 ――――――そういえば、出たことはなかった。

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  1. 切迫…妊娠22週未満で流産のおそれがある場合を「切迫流産」、22週~37週未満で分娩する可能性があると「切迫早産」といわれ、基本的に安静が必要。仕事や家事でどうしてもごそごそしてしまう妊婦の場合、入院で安静を確保する場合もある。
  2. セクト…宗教的あるいは思想的に信条や主義を同じくする者の集団。分派。宗派。党派。