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『…そんなご大層な力なんて、俺にはないんだがね。それでも連中は、俺を畏れる』
あれは、研究所に移ったばかりのころだったろうか。ある雨の日、研究室から見える四角い曇天を眺め遣りながら…高階は言っていた。
時折、そのペンダントを耳許で振る。紅い珠を銀の翼が抱く意匠のドルイドベル。その澄んだ音に心地好げに聴き入る姿は、いつもの飄々とした雰囲気とは一線を画して…ひどく儚かった。
『どうなりようもない片恋の形見、あるいは大切な預かり物』
その『形見』のひとつ…いや、ひとりが、今リツコの前で、かつての高階と同じようにドルイドベルの音に聴き入っていた。奇しくも、今日も雨が降っている。
あれから数日が経っていた。
以前の彼であれば、その所作に漂うのはあのときの高階に似た、居たたまれないほどの儚さだけであったろう。だが、今は違った。
「これ、僕が預からせて貰っていいですか?」
リツコからペンダントを渡され、暫くそぼ降る雨を眺めながらその音に聴き入っていた榊タカミは、そう言ってリツコを振り返った。繊細な造作や、穏やかな緑瞳…何が変わってしまった訳でもないのに…儚さとは疎遠。
彼は高階が持っていたゼーレとしての権限を継承し、コード「DSSチョーカー」の管理者となった。ゼーレの中にあって、なお存在する殲滅派を牽制しCODE:Angelの立場を守っていくのだ。
「…もともと、あなたに渡すように頼まれていたものよ。あなたはそれを〝預かる〟の?」
「これを受け取るべきひとは、他にいますから。僕はただ、預かるだけです。ただ、その間…ほんのちょっとだけ」
切なげな翳りは一瞬。ペンダントを首に掛け、服の上からそっと手を添える彼は、微かに笑んでいた。
「…あなたは、私を憎まないの?」
とうとう、訊いた。訊かずにはいられなかった。DSSチョーカーを開発する手助けをしたのはリツコだ。その目的も、結果も理解っていて。彼の悲嘆を予期しながら、それでも足を止めることはしなかった。
それはつまり、高階の死を積極的に引き留めることはしなかったということだ。
「どうして…?」
透明な微笑を浮かべて、タカミがリツコの頬に手を伸べた。
「…そんな顔、しないでください。僕は…今はただ、サキがひとりじゃなかったってことだけが…嬉しいのに。あなたがいてくれたことが、ただ嬉しい…」
『だから信じる。あなたなら、最後に判断を誤ることはないだろうから』
タカミの掌の温かさを頬に感じながら…ふと、高階の言葉が甦る。…思えばあれで存外、残酷なひとだった。うっかり心を寄せていたら、間違いなく泣かされる羽目になっただろう。
そう、このひとのように。
「あなたもきっと辛かったよね。ごめんなさい。でも、多分…あなたにはこう言うべきなんだと思う。〝ありがとう〟って…」
髪を撫でた指にさえ想い出が痛むくせに、少し無理をしている微笑が切なさを誘う。だから、リツコは少しだけ近づいた。そうするとためらいがちに、その肩が引き寄せられる。
静かに、唇が重なる。それはもどかしいほどに控えめで、触れてすぐ離れた。だが、胸奥の熱さは簡単には消せなくて…リツコは目を開けるのに数秒を要した。それは彼も同じであったようで、二人してようやく顔を上げたタイミングで、視線が絡み合う。
「リツコさん、ひとつお願いがあります」
数度躊躇ったあと、彼はようやく声に出した。
「あのひとが生命に代えて守ろうとした世界を、セラの希望を、僕は守っていく。あなたにも…できればそれを一緒に見届けて欲しいんです。
確かに、僕ひとりでできることじゃないのはわかりきってる。でも…そんなのじゃなくて…ただ、僕があなたと一緒にいたいから。…あなたが好きだから。
あなたの研究でもある預かり物を、あなたが納得できる形でちゃんと渡せるまででも構わない。…僕と一緒に来てくれませんか」
真摯というよりひどく必死な、強張った表情。リツコは苦笑した。そしてわざと少し意地悪い口調で問う。
「…あら、預かり物を渡してしまったら…私は用なしなの?」
ふっと、彼が呼吸を停めたのが判った。そして、やはりもどかしいほどに繊細な動作でリツコを包み込み、彼は確かな熱を孕んだ声で囁くように言った。
「…あなたが許してくれるなら、ずっと」
「…ええ、いいわよ」
リツコは笑って、華奢という印象を拭うには幾分厚みの不足している背にそっと腕を回した。
やはり、高階は非道い男だった。他に選択肢がなかったとはいえ、自分ひとり納得して…去った後をすべてこの少々頼りない肩に背負わせるつもりでいたなんて。
この背に負うには重すぎる荷物、そして長すぎる道程だ。半分なりとも背負う者がいても、共に歩く者がいてもいいではないか。
せめて、自分たちの続きの足音を聞くことができるまで。
肩越しに見える窓の外で、雨は、まだ降っている。雨は開いたばかりの花を呵責なく流してしまったが…枝には、瑞々しい新緑が芽吹いていた。
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