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それに伴い、リツコは病理医としての職を辞した。大学の籍はそのまま残していたが、高階の共同研究者として人工進化研究所に身を置くためである。
人工進化研究所。件の、爆発した研究所である。新しくなったこの街でも一応立て直され、往時ほどの規模はないが研究が続けられていた。
高階のそれまで…自らを被検体にしての研究手法には問題があるのは明らかだったからだ。設備の整った場所で、まずはin vitroから積み重ねる必要がある。中途半端な結果を闇雲に自身に投与していれば、この間のようなことになるのは必然だ。
元々研究所に籍があったくせに、高階が何故経歴を偽造してまで外部の病院に勤務し、検査技師としての業務の間に研究を進めていたのかは…実に単純だった。これだけは本当に、訊くのではなかったと思うくらいに明快。
「…連中にこれ以上、いじくらせたくない」
もっと深遠な理由を期待していたわけではない。心情的には理解できる。ただ…まるで、いい歳をしたおとなが注射を忌避するかのような表情でそう言い放たれたら、リツコとしては不謹慎とは思いつつ笑うしかなかった。
「笑うところか、そこは」
「笑うわよ。そんな理由であんな無茶苦茶な実験の進め方をして、挙げ句私のパンプスをおシャカにしてくれたわけね」
「謝ったのに」
「パンプスの件はもういいけど…あなただって実のところもう限界だって思ってたんでしょ。
あなたは研究所に戻る。でも、あなたに関する一切の処置は私に任せるか、必ず私の監督下で行う。これでどう」
「…問答無用な段取りの付け方だな…」
「あと問題なのはデータ解析に使うソフトウェアね…研究所のシステムにはまだ…母さんの組んだ解析ソフトが組み込んであるはずだけど、その後引き続いてシステムアップしてくれるような人材がいたって話は聞かないから、多分あまりいいことにならないわ。かといって最初から組むには…」
「それに関しては…まあ、心当たりがないでもない」
リツコは、その時の高階がいつもの飄然とした笑みでなく…懐かしさと寂しさが綯い混ざったひどく曖昧な微笑を浮かべたことに気づいていた。その微笑の意味を知るのは、もっと後のことになる。
「都合がいいことにはあなたと同じ大学だ。なに、図抜けたお人好しだから、きちんと頼めば断りはしないだろうよ。ああ、ただ…俺が言った、ってのは内緒にしておいてくれ。技術の程は俺が保証するよ。
…了解だ。あなたを信じて、俺も研究所に戻ることにしよう」
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研究所に戻った高階は、リツコに生存するすべてのCODE:Angelのデータを開示した。
それは研究を進める上で確かに必要なことであったが、もう一つには不測の事態にリツコに後事を託す意図があったのは明らかだった。改めて、この研究が結実するということの意味を認識してしまうと…高階の強靱という言葉さえ生温いほどのメンタリティに背筋に寒いものが疾る。
それでも、やらなければならない。高階は、信じると言ってくれたのだから。
データ解析ツールの開発者として高階が推した榊タカミ。その名は、Angel-11のコードとともにCODE:Angelのデータの中にもあった。彼もまた、高階の研究の意図を知ることになる日が必ず来る。
高階が『図抜けたお人好し』と評した人物である。興味を持っていると思われるのがいやだ、などという妙な意地を張るのが莫迦莫迦しく思えるほどに真っ直ぐな青年だった。既に高階が開示したデータからその出自も知っていたが、俄には信じがたい程に。
俗に、天然といわれる部類なのだろう。それなのに技術の程は高階の保証の範囲を軽く越え、若年ながら人格移植OSの権威であった母・ナオコのレベルに迫るのではないかとさえ思った。
恐怖の天使。
ゼーレのシステムプロテクトを紙の箱でも破るように突破し、E計画が続行不能になるほどのダメージを与えたというほぼ伝説的なハッカー。出会った時点で既にその物騒な異名は棄てていたらしいが、見た目は実にもの柔らかで…ようやく社会に適応しはじめたばかりの不器用な青年の貌と、開発者としての周到で冷静な貌とが奇妙に融合していた。
リツコは解析ツールの開発を依頼した後も、そのバージョンアップとメンテナンスのために何度か連絡を取っていたが…・そのうち、依頼以外でも逢うようになった。
また逢えますか、と至って直裁に乞われたことにも驚いたが、おそろしく多忙な中で何とかそれに都合をつけて結局応じている自分にも戸惑った。
寄せられる真っ直ぐな好意は、素直に嬉しかったのだと思う。
ただ…高階とリツコは何か似た部分を持っている。彼は、ただ自分に高階と同じ匂いを感じているのかもしれない…という感触があって、ふと居たたまれなくなる時があった。
高階との約束があるから、リツコは高階の消息について彼には一切話していなかった。それどころか高階を識っていることにさえ口を緘していた。
『この広い地上にたったこれだけの、大切な身内』…高階は、CODE:Angelのデータをリツコに開示したときそう言った。いつか垣間見せた、懐かしさと寂しさが綯い混ざったひどく曖昧な微笑がそこにあった。高階にとってはそうなのだろう。おそらくあの事故の日からずっと変わることなく。
だがおそらく、彼にとっては…。
探すことを自らに禁じながらも、タカミは目の前から姿を消してしまった高階に逢いたくはあったのだろう。時に自身の中に生じた空隙を意識するのか、ふと優しい造作に愁色が過る。そんな表情を見ていたから、もし…彼に直接問われていたら、リツコとしてもしらを切り通せたかどうかは怪しい。そら恐ろしいほどの能力を秘めながら、年齢を考えれば少し頼りないほどに世慣れない雰囲気を纏うこの青年に、リツコは戸惑いながら確かに好意を持ち始めていた。
しかし、共同研究者として殆ど毎日、しかも長い時間と空間を共有する高階に、そんな感情を持ったことはなかった。
一人の研究者として尊敬する…元部下、今は同僚、そして友人。時に患者。体調を崩しがちになった高階を、リツコは約束通り必ず自分で診た。高階の方でも、リツコでなければスピッツ一本たりとも採血させなかったし、たとえ栄養剤のアンプル一本といえど打たせなかった。
あなたが一番巧いからな、と笑いながら、研究所に対する根強い不信は隠そうともしない。逆を言えば、どうしてそこまで自分を信じてくれるのか…不思議でさえあった。
奇妙な関係だ、とリツコは思う。
これだけ近くにいても、やはり違うのだ。この感情に、一体どんな名前をつければいいのだろうか。
榊タカミがすべてをを知らされる時のことを思うと、リツコは自分が、おそろしく残酷な役回りを振られたことに気づかされる。仕組まれたのかと思うほどに巧妙。だが間違いなく、それはリツコ自身の選択の結果だった。
それを口にしたら…その時だけは笑いもせずに、高階は言った。
「それでもあなたは歩みを止めることはないだろう。だから信じる。あなたなら、最後に判断を誤ることはないだろうから」
***
桜流しの雨がそぼ降る朝。
榊タカミは既にしていたましいほどに蒼白な顔であったが、努めて毅然を保っていた。連絡を寄越したのがリツコであったことに電話の向こうで相応の驚きを示しはしたが、現れた時には…覚悟を決めている貌だった。
高階の病室には、リツコ以外にもう一人いた。
茶色いストレートの髪を後ろで二つにまとめた眼鏡の女性。高階が言うところの『ぱっと目には綺麗な姐さんだが大変な狸』弁護士は、真希波マリという。
彼女はゼーレの代理人としてそこにいた。
フラットラインを描くばかりのモニタと自身の腕時計をやや硬い顔で確認したあと、真希波マリは重々しく宣した。
「現時刻を以て、コード「DSSチョーカー」の効果発現を確認。契約に従い、ゼーレはすべてのCODE:Angelの監視を解除、以後一切の追跡を放棄します。
同時に、高階マサキ氏の保有する「DSSチョーカー」の管理権限、およびゼーレの評議員としてのすべての権限は、渚カヲルさんが成人・継承の意志を示されるまでの間、榊タカミさんに委嘱するよう依頼されています」
リツコも数度会ったことがあるが、いつも鼻唄加減で面憎い程に飄々としていたこの弁護士が、この日ばかりは言い難さを型に押し込めた言辞でようやく乗り越えたのがありありと判った。ゼーレの代理人としてここへ赴いていながら、決して心中快々としていたわけではなかったのだと、初めて知った。
「…受嘱します」
蒼白な顔のまま、タカミは短くそう言った。
「榊さんの意向を確認しました。手続きに入ります」
一礼して、真希波マリは部屋を出た。逃げたのは明白だったが、リツコはそれを咎め立てするつもりはなかった。最後まで言い切るのがギリギリの線だったのだろう。ドアを開けるとき、彼女がワインレッドの眼鏡フレームの奥で眦を紅くしているのを見て見ぬ振りをする。
そして、ベッドの傍に立つタカミを見た。
繊細な造作に、まだ涙は浮かんでいない。ひどく静かな労りの色彩だけを孔雀石の緑の双眸にのせ、そっと体温を喪いつつある高階の頬を少し震える指先でなぞる。その仕草がひどく痛々しくて、リツコは思わず目を伏せた。だが、深い吐息の後の決然たる声に思わず弾かれたように顔を上げた。
「…どんなに怖くても、僕は…目を逸らさないって決めた」
その声とは裏腹に、蒼白な頬を透明な雫が零れ落ちる。ただ、その両眼は確かに見開かれていた。
「一つだけ聞かせて。…使徒型に変化した細胞のテロメラーゼ 1活性を抑制するウイルス…コード『DSSチョーカー』…提唱したのは、どっちが先だったの」
一瞬、思わずリツコは呼吸を停める。…そうだろう。訊かれないと思うのが間違いだ。呼吸を整え、口を開く。
「…高階君よ。ゼーレを交渉のテーブルに着かせるために、彼は事故直後から研究を進めていた。ただ、ひどくセンスの悪いネーミングはゼーレの提唱したものだと聞いているわ」
「そう…」
タカミはもう一度深く息を吐いて、ずるずると倒れ込むようにとベッドの脇へ座り込んだ。
「僕たちの監視を外す代償として…ゼーレがサキの生命を贄として求めたというなら、僕はサキがなんて言おうとゼーレとゼーレに関わるものすべてをこの地上から消し去るつもりだった」
ベッドの脇に座り込んだまま、サイドレールに軽く頭を凭せかけるという覇気と無縁な格好であるのに…地獄の底から響くような、という形容が相応しい程、低く、深い声。それをこの唇から聞くことがあろうとは。…普段のハイ・トーンを思えば別人としか思えないのに、それは確かにタカミの声だった。
虚喝ではない。ネットワーク寸断、情報操作、サーバーのクラック、その他彼の行使できるあらゆる手段を以てすれば、企業体としてのゼーレに壊滅的打撃を与えることは決して不可能ではないだろう。現に数年前、彼はそうやって…事故によって頓挫しかかっていたとはいえ、ゼーレのE計画を事実上潰している。
使徒と呼ばれる種は強靱な生命力を持ち、ほぼ不死。それを信じ、畏れ、地上に残された使徒遺伝子の保有者をどうするのかでゼーレの中枢は散々に揉めた。結局、ゼーレ中枢にも複数の保有者の血縁がいたという事実が、事態を混迷させていたのである。挙げ句、制御可能なら生存を許すべきという方向に落ち着く。
ただ、何を以て制御可能というのか。答えは気分が悪くなるほどに明快だった。使徒遺伝子の保有者が人類に危険を及ぼすと判断されたとき、殺すことができるなら。
だが、殆どの保有者は保有が確認されてはいても発現していない。何らかの危機的状況に際しての発現は予測されているが、どの程度の危機で発現するものかも判らない。保護された保有者は殆どがやや身体的には脆弱でさえある、しかも子供だった。
…唯一人を除いて。
完全な使徒遺伝子を持つ細胞。そこから生まれ、接触実験によって高階マサユキ博士が融合ないしサルベージされたと目されていた被検体。偽造戸籍の下に生存を許され、事故後はAngel-03のコードも付された、『高階マサキ』。
そのAngel-03を確実にシャットダウンできる方法があるなら、発現していない保有者は敢えて監視下に置く理由はない――――――――。
「何で…何だってそんなところで、利害が一致しちゃうんだろう…」
声が上擦り、彼は片手で目を覆って天を仰いだ。
何故、高階が「自分を殺すことのできるウィルス」を完成させることを、交換条件にしたのか。
『いずれ、あいつは事故の真実にたどり着く』
高階はそう言っていた。そうなれば、おそらく自分の意図は理解るだろうと。確かにそれは間違っていない。リツコがあえてくだくだと説明しなくても、彼は残されたヒントから真実にたどり着いてしまっていた。
だが、これはあまりにも残酷だ。
覆った目許から透明な雫が零れ落ちる。その声なき慟哭を、リツコは立ち尽くしたまま聞いていた。