***
逡巡の末、タカミはマサキの部屋のドアを叩いた。
久しぶりに賑やかな夕食の後、片付けの傍らでミサヲがグラスと氷を準備しているのを見て…誰のための物か気づいて声をかけたのだ。
確かめなければならない事があった。話をしたかった。夕刻、まだ皆が帰ってくる前だったから、決して悪いタイミングではなかったはずなのに…あんな形ではぐらかされてしまって、あの後、結局皆が帰ってくるまで逃げるように部屋に閉じこもってしまった。
嫌だった訳ではない。むしろ、身の裡に揺り起こされた熱を振り捨てるのはひどく苦しかった。ただ、きちんと話を聞くまでは流される訳にいかなかった。それにマサキがいつになく強引であったことが、微かな怖れすら感じさせたのだ。
ノックに対する返事はなかったが、ドアを開けてみた。暖房はきいているが、真っ暗な部屋。グラスと氷を載せたトレイを手にしたまま数歩ほど入って、タカミはスイッチを探した。
以前マサキが使っていた部屋は、まだ出て行った時のままになっている。書籍の類は箱に詰められているが、調度の類はそのままだ。調度と言ってもベッドとシンプルな机、それに椅子くらいのもの。帰ってきてから箱の中の本をいくつか出したのか、薄闇の中で開けられた箱や机の上に出された数冊の本があるのがシルエットで見えた。
「寝ちゃったんですか?」
背後でドアがゆっくりと閉まり、差し込んでいた廊下の明かりが細くなってゆく。完全に閉まりきる前に、スイッチを捜し当てた手が押さえられた。
忽然と現れた気配に背中から包みこまれて、思わずタカミが上げた声は、重いドアが閉まる音に紛れた。
「・・・いい歳してかくれんぼですか。いい趣味じゃないですよ」
タカミは溜め息混じりにそう言うと、スイッチを諦めて手を下ろした。
「・・・・大学行き始めてから、可愛気がなくなったなぁ」
薄闇の中、後から抱きとめた格好のまま…その首筋に軽く口づけてからマサキが笑う。その所作は、いつものマサキに違いなくて。背筋を走る甘い痺れに思わず盆を取り落としそうになる。
「盆ぐらい置かせてください。グラスを落として割りでもしたら、どうなるかわかるでしょ」
ほかにどうしようもなかった。判っていて、来たのだから。
そうしないと、話してくれない。軽い口調で覆い隠した、笑わない眸の理由を。
「狡いですよ。あんな表情、するなんて」
「だから来たのか。相変わらず、残酷なくらい優しいな」
マサキが苦笑を浮かべ、グラスと氷を載せたトレイをするりとタカミの手から抜き取るようにして受け取った。そうしてあっさりと腕をほどいて離れ、窓際の机に置く。
机の上で、グラスがブラインド越しの細い月光を鈍くはじいた。
改めて手を伸べ、立ち尽くしたままのタカミの腕を掴んで引き寄せた。然程強い訳でもないのに、抗うことを許さない力。
もとより、抗うことなど思いも寄らぬ。いとも簡単に倒れ込み…その腕に縋った。
だが、縋る指先には微かな迷いがあった。つい昨年までは、毫もなかったのに。
それを知ってか知らずか、マサキは浮かべた笑みに殊更に偽悪の色彩をのせて抱き寄せると、タカミの耳許へ囁くように言った。
「――――お前のそういうところがつけ込まれてるんだって…理解らないか?」
いつの間にか裾を引っ張り出されていたシャツのなかに、指先が忍び込む。既に先刻のような冷たさはない。ただ触れるか触れないかという微妙な距離で撫で上げられて、思わず声が掠れた。
「・・・ぁ・・・・・!」
いつもほど手間をかけず、すぐに紅点に触れてくる。まるで奇術師のような淀みのない動作で服を緩めて、呼吸を詰めたタカミの喉を軽く撫でた。そうかと思うと、繊細だが強靱な指先が不意に下へ滑る。
滑り込んだ指の動きが、タカミの頬にさっと朱を刷いた。熱い息を吐き、しばらくは堪えていたが、ついに膝が崩れる。思わず腕を回して縋り付いた。
「・・・・・サ・・・・・・キ・・・」
ベッドに横たえられ、衣服をほどかれるのさえ意識できないほど、与えられる感覚は甘美だった。身体の奥から噴き上げてくる熱にうかされ、タカミの目が焦点を失う。
タカミの衣服をベッドの端から滑り落とし、マサキがいったん身を起こした。彼自身はまだ襟元が僅かに崩れているだけ。
その襟元で、深く澄んだ音がした。銀色の翼を象った籠に納められた紅珠。それが揺れて発した音。見たことがあるような、ないような。曖昧になった視界を取り戻そうとわずかに目を瞠ると、優しい指先が頬を滑った。
「…この強情っぱりは、一体誰の譲りだ…?」
それはどういう意味?
改めて熱を帯びた肌をなぞられ、言いかけた言葉は喉をのけ反らせた一瞬に紛れた。
閉ざした瞼の裏に、銀色…翼…紅。耳には深く澄んだ音が残っている。しかし、やがてすべて与えられる感覚に呑み込まれ…わからなくなる。
***
まだ激しく上下している肩に、先刻脱がされたシャツがかけられる。髪をゆっくりと撫でられ、タカミは僅かに身動きした。
しかしまだ動ける気がしなくて…そのまま気怠い吐息を漏らす。そしてマサキがベッドの端に掛け、先程タカミが持ってきたグラスに氷と酒を注ぐ様子を…ベッドに俯せたままぼんやりと見ていた。
暖房の効いた室内だ。アイスペールに入れては来たが、幾分溶けてしまったのか…氷はだいぶ角がとれてしまっていた。
グラスを手にしたまま、マサキがふとブラインドを傾ける。
淡い月の光が、ベッドの上にも零れ落ちて…タカミはその光に晒される。しかしマサキのいる場所はそれが届かず、薄闇の中でグラスの中の珠のような氷を抱いた黄金色が…手の中で淡く反射するだけだ。
机の上に置かれた瓶を見る。バランタインのハードファイヤード 1。その黒を基調としたラベルの地紋は、焼け焦げた樽…熟成に用いられる焼灼したオーク樽の表面をイメージしているものだという。焼け焦げた木材の鈍い光沢。…火…炎…あの地獄の光景。あそこから救い出してくれたのは、このひとだった。
じっと見つめていると、マサキが薄く笑って言った。
「・・・飲むか?」
氷を足して酒を注ぐ。タカミの連想を察しながら、それを敢えて笑殺するように。
このひとは、こちらのことは何でも知っている。なのに、自分のことは何一つ明かそうとしない。タカミは憮然として再び顔を伏せた。
「いりません…」
伏せたまま、言い放つ。・・・と、不意に引き起こされた。
「日増しに可愛気がなくなるな。こまったもんだ・・・・」
マサキがグラスの中身を含み、そのまま口づける。舌の侵入と一緒に、すこしきつい香りの液体が流れ込み、タカミは一瞬呼吸を詰まらせた。それを飲み下すことでやり過ごすと、飲み下した液体が胸を灼く。
「・・・・ん・・・っ・・・・・・・」
突っ張った腕が緩み、マサキの胸に頭を預ける。慣れない感覚にかすかに眉をしかめ、灼熱感が広がった辺りをおさえた。冷めかけていた身体に、再び火が灯る。
身を起こし、先刻マサキが掛けてくれたシャツが滑り落ちるのも構わず、タカミはマサキの手からグラスを掠め取った。
「要らないんじゃなかったか?」
それには応えず、グラスに口を付ける。苦味のある水薬でも飲むように、一気にグラス半分ほども喉奥へ流し込んだ。マサキが微かに笑う。
「無茶しやがる」
マサキがタカミの手ごとグラスを引き寄せると、一口含んで笑い…タカミの手からやんわりとグラスを取り上げた。
「勿体ない飲み方をするな、俄呑助め」
話を切り出すのに酒精の力を借りようとしたことさえ見透かされている。胸を灼く感覚に何も言い返せず、ただ俯いた。灼熱感が胃の腑へ落ちるのを待って、ゆっくりと言葉を絞り出す。
「そんなこと言ったって…大事な話があったのに、そんなときに限って連絡さえできなくて…帰ってきたら帰ってきたで・・・・」
そこまで言って、言わなければならないことにまとまりがつかなくなって口を噤む。こみ上げてきたものに喉を堰かれた所為でもあった。
だからただ、また滑り落ちてしまったシャツをベッドの下から拾い上げ、のろのろと袖を通す。何から言えばいいのだろう。何と言えばいいのだろう。
「・・・・寂しかったか?」
伸べられた指先が頬を滑る。冗談めかした問いかけに、タカミは咄嗟に答えを返すことはできなかった。だからただ、指先が与える感覚に身を任せる。
寂しかった。それは嘘ではないだろう。あの頃、このひとがいなくなったら生きていける気がしなかった。去られた時には世界が色彩を失ったようでさえあった。
それなのに、進学して新しい世界に触れ始めたとき、それほど時を必要とすることもなく…世界は再び色彩を取り戻していった。あの悲嘆は何だったのだろうと思うと、可笑しくもあり…存外薄情な自分自身に呆れもした。いつかこのひとは離れていってしまうのだろう、そんな漠然とした予感が常にあった所為だろうか。
だが、それでいいのだと思っていた。いつまでも依存し続けることがよい訳がない。マサキにとってもきっと負担だったのだ。マサキが時にひどく辛そうな横顔を見せるのは、そういうことなのだ思っていた。
それなのにどうして、こんな時に戻ってきて、何も変わらない優しい腕で、繊細な指先で、あの日に引き戻そうとする。それが苦しくて、タカミは唇を噛み、目を伏せた。目頭が熱い。
マサキの手が不意に止まる。
「悪かった。大事な話…ってやつを、聞こうか」
首筋にかるく口づけたあと、すこし身体を離し、問うた。そこには先程までの揶揄うような調子はない。ようやくのことで顔を上げると、いっそ悲愴なほど真摯な黒褐色がタカミを見ていた。
確かな痛みが胸を刺す。
「――――っ…」
言いかけた言葉が霧消して、細く息を吐く。そうして、おそらく初めて…自分から唇を重ねた。少し、長く…その熱を確かめるように。
背に腕を回し、耳許で囁いた。かすかに声が震えてしまったかも。
「…ごめん、サキ…もう一度だけ…」
***
いつも、最後まで意識を保っていられないほどに溺れた。
…なのに、その夜だけは違った。
マサキの指先も、唇も、変わらず確かな熱を与えてくれる。与えられた熱に、身体は素直に反応した。いつもならすぐに意識もその感覚に押し流されてしまうのに、胸中に居座り続ける苦しさがそれを許さず…つい洩れてしまう嬌声はなかば苦鳴じみてくる。
それが哀しい。
その腕が、指先が、触れてくるすべてが優しいほど、苦しくなる。
何度も達し損ね、それでも終に昇りつめたあと…タカミは、声すらも出ない状態だった。マサキが途中で何度もやめようとしたのは解った。そのたびに自分でも信じられないような声で乞うたのはタカミの方。
少しずつ呼吸が緩やかになっていく間、優しい手がゆっくりと髪を撫でるのを感じながら…いつもの、深い安寧に身を浸す。
このひとがいつも与えてくれたのは、身の裡を焼灼するような狂熱ではない。ただ、温かな海に揺蕩うような安堵感。それが解っていて乞うた。…いっそ傷をつけて欲しくて。
鉛を鋳込まれたように重たい四肢を叱りつけ、タカミはゆっくりと寝返りを打った。
胸郭の軋みに耐えながら呼吸を吸い込み、徐に口を開く。
「…E計画の初期メンバー…高階マサユキ博士に、男児はいなかった」
そう告げたときのマサキの顔は、至って静かだった。
「ミサヲちゃんが言ってました。実は小さい頃の記憶は結構曖昧で…保護施設に来る前、どんなところで生活していたのか…あまり憶えていないって。それでも兄がいるということだけは母親から聞かされて知っていたように思うから、多分あまり一緒に暮らしたことがなかったんだろうって」
そこで一度マサキの反応を待ったが、目顔で促され、タカミは言葉を続けた。
「高階マサユキ博士はあの事故の前年に『実験中の事故』で亡くなってる。でも、研究はそれによって止まったりしなかった。その後も高階博士の名前で出された報告書が何事もなく受理され、研究は進んでいた。…あの事故で研究所自体が吹き飛んで、すべてがご破算になるまで。
そして事件の前後、突如として『高階マサキ』の記述が現れ、研究内容はその人物にまるごと継承されている。一部、論文の名義を修正した痕跡さえあった。そこから高階博士は一切姿を消してしまった。やはり、実験中の事故で亡くなっていたといわんばかりだ。
〝生存者〟Angel-03…『高階マサキ』。ミサヲちゃんの兄で、高階博士の遺児。本当は、誰なんでしょうね…?」
服を整えながら、マサキが苦笑する。
「人間の記憶まで書き換えられるわけじゃないから、そういう辻褄の合わないコトも起きるさ。よく調べたもんだ。
Yroul The Angel of Terror…か。すっかりお前さんの通り名になっちまったな」
「もとはあなたの通り名だ。あなたはここのごくありふれた機材で、防壁をいとも簡単にすり抜け、ゼーレ本社のメインサーバをはじめとする記録にアクセスし、巧妙に書き換えてしまった」
「俺は基本構造を知ってたからできたのさ。ほんの基礎を教えただけなのに、ゼーレのシステム自体に関して言えば全く予備知識なしであの防壁を見事ぶち破り、俺が苦労して改竄したデータも含め、最終的にE計画そのものを消滅させちまったのはお前さんの技術だ。全く以て、『恐怖の天使』の名に相応しい。
簡単な会話で他者の心を読むようにその意図を探り、あっという間に文句の付け所のない解析アプリの二つ三つ簡単に組み上げてしまう。俺にはできない芸当だ。…間違いなくお前さんの能力さ。だが本来、技術ってのはそういう向きに使われるべきものなんだ。折角自分の能力を生かす方法があったんだ、大事に使え。そういうお前を認めてくれてる人達がいる。もうこれ以上、ハッキングだのクラッキングだの物騒な世界に首を突っ込むな」
「…はぐらかすのも大概にしてください…。それともそれは暗に、もうこれ以上真実にこだわるなと意味ですか?」
「あぁ、悪い。はぐらかしたつもりはなかった。…何から話していいのか見当がつかなくてな…」
少し寂しげな微笑に、タカミは思わず絆されそうになる。シャツの裾に触れて、握りしめて、縋りついて…もう何も云わずに此処に居てくれと哀訴してしまいそうで、思わず唇を噛んだ。
――――胸が痛い。でも、聞かなければ。
「そうだな、確かに『高階マサキ』という人間は存在しない。存在したのは、自分の研究を証明するためなら自身の生命さえ実験に供することを躊躇わなかった狂科学者と、そいつが丹精して作り上げた実験体だけさ。死海文書に存在を予言された『使徒』…それが現生人類に極めて近いDNAを持っていると解った時、ウイルスを使ってDNAをヒトから使徒型に書き換え、使徒の力をヒトの身で制御することを考えた奴がいた。それがE計画。
あの頃はまだ、時が来たら使徒がヒトを滅ぼしに来ると本気で考えてた奴がいたしな。高階が考えていたのは、どっちかっていうとヒトという種の新しい可能性だったらしいが。
あの都市はまるごと巨大な実験場だった。集まってた大人は殆ど研究所の関係者で、いた子供はその子弟だ。秘密は守りやすかっただろうよ。
最初は書き換えた細胞でクローン胚を作り、in vitro 2で個体を形成させようとしたが、結果は芳しくなかった。…書き換えは成功したが、ほとんどまともに育たなかったんだ。ようやく育っても、例外なくただ生きて呼吸するだけの人形だった。LCLから出せばすぐに溶け崩れてしまう出来損ないばかりだったのさ。
じゃあin vivo 3だってんで、当初は成人、終いには子供にもウィルスを接種し人為的に感染させることまでやってた。…書き換えが起こる以前に高熱や臓器の出血といった症状で命を落とすケースが続いて中止されたがな。
クローン胚で生まれた個体は組成としては完全に『使徒』の細胞だ。環境さえ整えればいくらでも保存はできるが、生きた標本以上のものにはなり得なかった。
魂が宿らなかったんだと。
宿らなかったものは宿せばいい。本当にそう言ったかどうかは知らんよ。事実としては、実験体との接触実験のさなかに高階マサユキはその身体を失い、実験体の一つが意志を持って動き始めた。そしてそいつはLCLから出しても生存を続けたんだ。
記憶の殆どは飛んでいたが、その実験体は高階マサユキが残したメモや論文を理解し、高階の実験を継承していった。
小学生くらいの子供の姿をしたその実験体に、便宜的に付けられた呼び名が――――」
堪らなくなって、タカミは震える手でマサキのシャツを掴んだ。マサキは一旦言葉を切り、タカミの髪に手を遣ってゆっくりと梳く。
そんな優しい所作で、紡ぐ言葉は決然として。
「多分、街と研究所が吹き飛んだあの日までは…俺も高階マサユキが考えていたことをある程度継承していたのだと思う。でも、あの日から…それは変わった。変わらざるを得なかった。
ヒトはどこからともなく襲来する使徒とやらによって滅ぼされるんじゃない。自分たちの浅知恵で生み出した者達によって滅ぼされるんだって解ったからな。
でも、そんなことにはさせない。絶対に。
あの事故で生き残って、施設に収容された子供は…俺を除けば、例の書き換えに使ったウイルスに感染して変異が始まっていた時期にあの事故に晒され、生命維持のために一時的に形質が発現してしまっただけなんだ。思春期までに極端な発育不全ないし正常発達の範疇を超えた急速成長…要は成長が止まるか加速するような現象が見られなければ、おそらくこのまま普通に暮らしていける」
「…やはり、感染と、使徒化を疑われていた?僕らは…」
「被験者かどうかは身元さえわかればすぐに調べがつく。使徒化についてはあの地獄を生き残った時点で、当然疑われた。瞬間的にはとてもヒトが生存できる環境になかったはずだからな。
あの街で、ウィルスに感染させられていた子供は結構な数に上っていた。だが、さっき言ったとおり狙い通り遺伝子変異を起こし無症候のまま落ち着いたのはそう多くなかった。その上、危機的環境に晒されてマグレにでもATフィールドを展開できたのは…ここに集められた子供達だけだ。
…だから、生き残れた。
だが、誰もその後の発育に異常はなかった。唯一人の垂直感染 4者…カヲルもどうやら大丈夫だったようだから、もう心配ない」
「…だから、ここを離れたんですか」
掴んだシャツに額を寄せ、タカミは声を絞り出した。
「もう監視する必要がなくなったら、僕らを置いて出て行ったんですか」
「書き換えに使われたウィルスの感染力は決して強くない。その上…元々、一番厳重に監視されていたのは一番ハイリスクな俺だからな。俺が出て行けば、ここの監視なんて緩いもんだ。ここんところ、緩かったろう?」
マサキが笑う。だが、タカミは笑うことなどできなかった。
「…それでも俺は、叶う限りお前達と一緒にいたかったんだ。この広い地上にたったこれだけの、大切な身内だからな」
そう言ってまた優しく髪を撫でられ、思わず涙が零れた。
「…叶う限り…って、言いましたよね。叶わなくなった理由は何なんです? どうしてもう、ここにいられないんですか。…皆あんまり言わないけど、やっぱりさみしがってる。ミサヲちゃんだって…」
狡い論法とわかっていて、タカミはそう言った。マサキに居て欲しかったのは…他でもない自分なのに。
マサキは暫く何も云わなかった。いつもなら愛しくさえある沈黙が、怖い。
「…だって、仕方ないだろう」
少し寂しげな微笑。
「正体を見破られた葛の葉は、森に帰らなきゃならないと…相場はきまってるからさ。
今夜俺が話したことまでは…粗方、調べがついていただろう? 俺が書き換えたデータさえその痕跡を見つけられるくらいだからな。事故の真相だってお前は知ってる。それを確認するために、敢えて訊いてるんだ。…違うか?」
「僕の…所為…?」
弾かれたように、タカミは身を起こした。マサキはいつの間にか殆ど身繕いを終えている。
「…吃驚しただろう。同胞面してお前達の傍に居たのは、正真正銘の化け物だったんだから」
寂しさに自嘲の
色を載せた笑みが、タカミの視界の中で涙で歪む。
「…そんな…ことっ…」
まさに立ち上がりかけていたマサキを、タカミは抱きつくようにして引き留めた。
「僕はあなたを理解りたかっただけだ! …それがいけなかったっていうなら、僕は全部忘れる。…僕がしたことが、皆からサキを奪ってしまったのなら…・!」
…だとしたら、どうすればよかったのか。何も言えなくなって、口を噤む。そうして生じた空白に、タカミはマサキの深い溜息を聴いた。
「…凄い力だな。幾ら俺でも呼吸が停まるぞ、全く…」
宥めるように背をかるく叩かれ、タカミは腕を緩めた。しかしやんわりと身を離され、思わず手を伸ばしてマサキの袖を掴む。
行かないで欲しい、という言葉が喉元まで出かかっていた。
「…サキ…」
そんなタカミを見遣って、マサキが困ったようにグラスに手を伸ばし…わずかに残った黄金色をグラスの中で揺らした。グラスの中でからり、と氷が微かな音を立てる。
「そんな艶っぽい顔で誘惑するな。…折角決心がついたのに、なし崩しだろうが」
そう言って、マサキが残りを呷る。
決心という言葉の不吉なニュアンスが、タカミの胸腔に氷塊を滑らせた。それを質そうとして開きかけた唇は、口づけで塞がれる。
グラスを措いた手がいつの間にか項を支えてくれていたが、それが必要ないほどに、タカミは自分から舌を絡めた。あの酒特有の…バニラの香気。強すぎて、どうしても慣れることができなかったそれさえも…今は離したくない。
袖を掴んでいた指をほどき、まだカフスを止めていないマサキの手首から指先へ滑らせた。掌を重ね、指を絡める。
最後の言葉を言わせまいとして、タカミが滑稽なほど必死になっているのも…きっと、見透かされているのだろう。
また皆で一緒に暮らせたらいい。隔離されようが監視されようが構わない。そうできなくなったのが自分の所為だというなら、すべてを忘れてしまっていい。譫言のようにそんなことを繰り返した。それでも、手で砂を掬うときのような…空しさと哀しさが溢れてきて、只でさえ重い手足に鉛を注ぐ。やがて縋ろうとする腕が徐々に力を失っていった。
抱き留められ、ゆっくりと横たえられるのを感じていたが、今度こそ起き上がれなかった。
「…ゼーレがようやく誤りを認めた。死海文書の記述に基づく人類の危機という予言には、解釈の上で齟齬があったと。解析は継続するが、当面使徒と呼ばれる、人類の近縁種との共存は可能という方向へ舵を切ったんだ。厳然たる事実を認めさせるまでが長かった。まあ、あの爺さんも自分の血縁者から複数のCODE:Angelを出した時点で、知らんふりをするつもりはなかったんだろうが。
…あとは、俺が『宿題』を完成させるだけだ」
思わず、身を震わせる。そうだ、このひとが知らない訳はない。
「…やっぱり、知ってたんですか。僕の…」
「CODE:Angelの基本データを見ればわかることだ。況して、いくら名前が違っても…まあ、気付くなという方が無理だろう。…これじゃ…な…」
マサキの指が顎に掛かり、少し仰向かせる。暗順応した眼には月光さえ眩しくて…多分、自分の緑瞳を見ているであろうマサキの表情が見えない。見えないのを幸い、眼を見開いたまま自虐的と判っていて問うた。
「…そんなに、似てますか。僕は、セラに…」
言ってしまってから、堪らなくなって片手で眼を覆う。マサキが何と言ったのかは、自身の嗚咽で聞こえなかった。
いつからかだったか…あるいは最初からそうだったのか…このひとが優しい腕で自分を抱くときに、自分を見ながらどこかその眼差しは違う誰かを見ているような気がしていた。…でも、気づかないふりをしていた。15年前の真実にたどり着いて、その誰かをおぼろげながら捉えても…訊けなかった。
自分が誰の代わりでも構わなかったのだ。それを口にしたら終わってしまうと判っていたから。
言ってしまった。もう、引き留められない。いつものように髪を…頬を撫でられる感触を、自身のなかへ刻み込むように受け止めながら、タカミは深く吐息した。紅くなった目許を晒すことが出来なくて、手で両眼を覆ったまま…。
身動きはおろか、声を出すことも出来ない。そんなタカミにそっと上掛けをかけ、マサキが呟くように別れの言葉を口にしたのを聞いた。
――――それが最後だった。
- バランタイン ハードファイヤード…ウイスキーを熟成する樽の内側を火で焦がす工程をチャーという。ハードファイヤードは樽にアルコール分が残った状態でチャーを行うことでより激しい炎で樽を焦がすそうな。ちょっとスモーキーないい香りがする。2019年3月に終売なんですと。残念…
- in vitro…“試験管内で(の)”という意味で、試験管や培養器などの中でヒトや動物の組織を用いて、体内と同様の環境を人工的に作り、薬物の反応を検出する試験
- in vivo…“生体内で(の)”という意味で、マウスなどの実験動物を用い、生体内に直接被験物質を投与し、生体内や細胞内での薬物の反応を検出する試験
- 垂直感染…病原体が親から直接その子孫に伝播される感染様式。狭義には経胎盤感染や経卵感染などの出生以前の伝播のみを指すが、産道感染や母乳などによる分娩後短期間内の伝播を含む場合もある。この場合、サキが言っているのは経胎盤感染。