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 教育・研究都市として建設される筈だった山間やまあいの人工都市が、公式には隕石の落下として伝えられた大災害で消滅してから20年の歳月が経つ。当時はまだ教育施設については開設が遅れており、まだ研究施設とその住宅しかなかったが、膨大な数の研究者とその家族、支援するスタッフが一瞬にして喪われた損害は決して軽微ではなかった。
 街ひとつが消滅して、生存者は殆どが子供…しかもわずか十数人。
 保護された生存者の多くは研究都市開発に携わった企業が出資する保護施設に収容され、治療・養育されることとなる。
 二十年の歳月を経て、子供だった生存者たちも殆どが成人する。そして、更地さらちとなってしまったその都市に再度建設されつつあるその都市へ出て行った。
 ――――――その最後のひとりが、渚カヲルである。
 隕石の落下事故、という公式見解があくまでも表向きの言い訳でしかないことは、その都市ではほぼ常識であった。実態は中核を成していた巨大な研究所での原因不明の爆発事故であり、研究所の設立母体たる企業が口止めのために手厚い補償を行ったという話が今もまことしやかに囁かれる。
 カヲルの健康保険証の目立たない場所に印字された小さなコードは、事故の生存者たる符号だ。この街にいる限り、何処の医療機関にかかろうと自己負担は一切発生しない。カヲルがその事実に気づいてから暫く、このコードが一種烙印のように思えて厭わしかった時期もあるが…最近はもうあまり気にならなくなった。以前のように頻々と受診しなければならない事態が少なくなった所為もある。
『払ってくれるってものは、払って貰えばいいさ。カヲル君が気にすることじゃないよ』
 さらりとそう言ってのけたのは、やはり保険証に同様のコードを刻印されている榊タカミだ。前に教えてくれたが、対応したリーダーで読み込めば彼の場合はAngel-11 、カヲルのはAngel-17という符号が出てくるのだそうだ。
 一切の係累を喪った者が多い中で、カヲルにとって榊タカミは従兄に当たるらしい。らしい・・・、というのは実のところもう少し煩雑なのを彼がかなり四捨五入して説明したからだったが、カヲルは敢えてその「煩雑」な部分について踏み込んで訊いたことはない。いずれ、居なくなった親のことを訊いても仕方ないし、居ないからと言って何か不自由をするわけでもない。この街にいる限り、保障されるのは医療費だけではない。学費や生活費についても十分な補償があったからだ。
 ついでに言えば、鏡に映る自分と榊タカミの姿を見比べれば…係累でないと言われるほうが不自然だと感じたであろう。だから、身内について知っているらしいタカミにもあまり細かいことを訊いたことはなかった。
 施設を出て、シンジと同居を始めるときにも住居その他の手続きはすべてタカミがしてくれた。シンジの父親にも仕事上の面識があるので、カヲルは自身の身の回りの準備だけしておけばいいと言われて甘えていたのだった。
 施設での、まるごと身内のような人間関係以外で初めてできた友人と一緒に暮らす。その状況に、ある意味有頂天になっていたようにも思う。
 シンジのことは好きだと思う。父ひとり子ひとりという家庭で育ち、家の中をひとりで切り回すようなしっかりしたところがある反面、硝子ガラスのように繊細だ。外見のことだけで周囲に退かれてしまうカヲルとしては、及び腰ながらも真摯に関わってくれようとするシンジにとても好感を持った。
 だから、施設を出るというときに一緒に暮らすことになって、嬉しかった。タカミが一緒に暮らそうとも言ってくれたが、新婚家庭に転がり込むのを躊躇したのと、いずれ独り立ちしなければという気持ちもあって断り、準備を手伝って貰うにとどめたのだ。

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 ――――どうして、こんなことになったのだろう。
 カヲルは軋む身体をようやくのことで引き起こし、ベッドの下に滑り落とされた衣類を拾い上げてシャツだけを羽織った。そのまま重い身体を引き摺るようにして部屋を出る。まだ眠っているシンジを起こさないように気遣いながらも、軋み、悲鳴を上げる身体の呵責に心がささくれていくのがわかる。
 ふらつきながらバスルームに入ると、べたついた身体にざっと湯をかけた。そのままタイルの上に座り込んで、暫くシャワーに打たせるままにする。寒気が忍び寄ってきて、カヲルは湯の温度を上げた。
 あの夜から、何かが狂った。
 最初の夜のことは、痛みと恐怖で混乱して殆ど何も憶えていない。翌朝…というより昼近くになっていたが、身体の痛みに目覚めた後で家を出たこと、タカミの処に転がり込んだのも、ほぼ無意識だった。
 どうしていいのかわからなかった。自分がどうしたいのかさえも。
『彼を赦せないなら、このまま暫くここにおいで。でももし・・・・赦せるのなら、お帰り』
 一晩匿ってもらって、痛みと、恐怖と、混乱がおさまったあと…穏やかに問われて、カヲルは自分がシンジを嫌うことも憎むこともできないことに気づいた。赦せるのかどうかはわからない。それでも、そのままシンジの許を去ることはできなかったのだ。
 帰宅したカヲルに泣いて取り縋り、赦しを乞うシンジに、カヲルは何も言えなかった。だからだた、涙でぐしゃぐしゃにした顔を拭って微笑みかけたのだ。
 だが数日もたたないある夜、寝静まったと思ったシンジがまた引き攣った表情で部屋に入ってきたとき…カヲルの胸中に広がったのは恐怖と言うよりもいたましさだった。
 物もいわずに噛みつくようにして口づけ、ベッドの上に組み敷いて…熱に浮かされたように繰り返したのは、その日の夕食時にかかってきた電話のことだったのだ。
 暫く休んでいたから、心配したゼミ仲間からかかってきたのだった。その週からは参加できることを伝えただけだ。それはシンジもすぐ傍で聞いていたはずなのに、執拗に電話の相手のことを訊いてくる。説明したつもりだったが、シンジは聞いていなかった。
 ――――そしてまた、あの夜が繰り返された。
 シンジは、カヲルが自分から離れていくのではないかと不安に思っている。そのことだけはよく理解った。…だから、抗いもせずただ耐えた。シンジの不安を取り除きたいと思ったのだ。そのためなら、耐えられた。言葉で伝わらないなら、触れることで安心させてあげたかった。
 身体的苦痛には、ある程度慣れることができる。また、シンジが部屋に来るタイミングがわかるようにもなってきたから、時には苦痛を和らげる目的でこっそりと以前処方された睡眠導入剤を飲むことさえやった。
 ――――寂しくて、でも他者との接触も怖くて。シンジの思いは痛いほどにわかるから、自分にできることはしてあげたい。カヲル自身、ともすれば精神の平衡バランスを失いそうになりながら…日々を過ごしていたからだ。
 そんな中で、カヲルには綾波レイという少女との出会いが光明に思えていた。
 生きているのに、同じ街に住んでいるのに、断絶された家族。それはカヲルの感覚からすればひどく寂しい。親同士のことはどうにもならないのかも知れないが、せめて血の繋がった兄妹きょうだいであれば、もっと気楽に話が出来るようになったほうがいい。そうすることで、シンジの持つ寂しさは変えていけるのではないか。最初は漠然と、そんなことを考えていたのだ。
 逢って、話をして、時には一緒に食事をして。最初は硬かった彼女の表情が、少しずつ柔らかくなっていくのが嬉しかった。
 そのうち、他でもないカヲル自身が…彼女と逢えるのを楽しみにしていることに気づいた。
 今日は逢えると思う時の、逢って話をしている時の、胸の中の温かさが心地好い。
 次を約束する時の、別れ際に手を振るときの、微かな痛みさえ甘い。
 自分の心の動きに気づいたら、カヲルは家に帰ることが怖くなり始めていた。シンジのことは大切だ。それは変わらない。でも、彼女のことを想っている自分をシンジが知ったら…何が起こるか。
 考えることさえ怖ろしかった。
 どうしていいのかわからない。ただ、わかっているのは…もう、この夜を越えてゆけないということだけ。
 シャワーの湯が髪を濡らし、目の前を滴り落ちていく。それとは別のものが頬を伝って行くのを感じながら、カヲルはシャワーヘッドの方へ顔を向けた。無数の雨滴が描く直線を目に映してから、瞼を閉じて嘆息する。
 あの日の、雪混じりの雨。

 はじめから、友達でいるべきの…僕のあやまち。

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