――◇*◇*◇――
「風邪ひくわよ、こんなところでうたた寝してたら」
殆ど耳許といっていいほどの近くでした声に、タカミは跳び上がった。しかしその時には、声の主はもうリビングを通り抜けて奥のドアを開けたところだった。
「あ、お帰りなさい。…僕、寝てました?」
頭を振って、立ち上がる。変な姿勢で眠っていた所為か、身体が痛い。
「目を閉じたままの考え事だったらごめんなさい?」
リツコが揶揄うように言って、奥の部屋へ入っていく。バックとコートを置きに行ったのだろう。
最後の記憶では、リビングにはまだたっぷりと陽が射し、暖房も要らないほどだった。今は夕刻のオレンジがかった光に満たされてはいるが、徐々に室温が下がり始めている。
タカミは時計を見て、中途半端な時間であることに気づく。リビングテーブルの上に出しっぱなしになっていたティーセットを片付けながら言った。
「あれ、早いね。…って、ひょっとして午後から休みの筈が帰りそこねた?」
「当たり。嫌になるわ、あっちで引っぱられこっちで捕まり。これじゃ、病院で論文仕上げてきた方がマシだったわよ」
「お茶淹れるから、続きをどうぞ。夕食までにはもう少し時間あるし」
「ありがとう。リビングが暖かいから、こっちへパソコン持ってくるわね」
リツコはきっちりと月~金の勤務だが、タカミは週の半分が在宅勤務だから、家事はほぼタカミの管掌するところだった。
「…お客は、カヲル君でしょ。最近どう?元気にしてる?」
タブレットに表示される資料を繰りながらノートパソコンで論文の続きを打っていたリツコが、綺麗に洗われたティーセットと馥郁たる芳香を放つ紅茶を盆に載せて持ってきたタカミに問うた。先程のテーブルを見たからだろう。
「うん、そうなんだけど…」
タカミが言い淀む。
「…元気は元気なんだ。ここのところ熱も出してないみたいだしね。ただ、悩み事というか…なんて言ったらいいんだろう」
「あら…」
「ねえリツコさん、綾波、って名前…聞き覚えある?」
「母さんの研究所…碇所長のもと奥さんの姓ね。…ひょっとして、レイちゃんに会ったの?」
「知ってるの? じゃあ、シンジ君の妹って話も…」
「双子よ、あのふたり。勿論二卵性だけどね。レイちゃんの方は胎児の段階から発育に問題があって…出生後もかなり長い期間、保育器にいたって聞いてるわ。確か、免疫不全だったか何かで殆ど病院にいたの。普通に学校に通えるようになったのは中学校…いえ、高校からの筈よ。でも今は一応、通常の環境で暮らせてるんじゃないかしら」
「ふうん…」
「いい子よ。でも、育った環境の所為か…一寸不器用かしらね。他者との距離の取り方が難しいんでしょう。シンジ君の方は父方へ残ったけど、レイちゃんは所長の奥さん…綾波ユイ博士が見てるって聞いたわ。そうね、もう大学生か…。
レイちゃんが、どうしたの?」
「カヲル君が合コンで偶然見かけたらしいんだ。シンジ君に名前だけは聞いたけど、何だかそれ以上は聞きにくい雰囲気だったらしくてね。まあ、そういう事情じゃ仕方ないか…」
リツコがパソコンを打つ手を止め、ティーカップを取る。その口許には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「じゃあ今日は恋の悩み相談ってとこかしら? 駄目よ、カヲル君に言っときなさい。好きな女の子の情報ぐらい、自分でアタックして収集しなさいって」
「いや、そんないい話じゃ…ってか、いい話なのか。そうだよね、普通はそうだよ…」
「…なあに、その奥歯にものが挟まったみたいな物言いは?」
「あ、ごめん。何だか邪魔しちゃってるね。また相談していい?今日は水菜のサラダとクリームパスタだから、リツコさんのお仕事が一段落したら茹で始めようか」
「ありがとう。声かけるわ」
リツコの自宅での食糧事情は、タカミと一緒に住み始めてからは友人が羨む程に改善されたらしい。放っておくと三食総合栄養食で済ませかねないのは、超がつくほどの多忙なのだから仕方がないのだとタカミは思っていたが…ミサトに言わせると食事を単なる栄養補給としか捉えていないのだそうだ。そんなことないと思うけどね、と反論するのだが、そういう時にミサトから返ってくるのは意味深長な笑いだけである。
そのミサトはといえば…時々近隣に響くほどの大喧嘩をしては隣家へ転がり込み、夕食をたかる。犬も喰わない類の喧嘩にわざわざ仲裁に入るのも莫迦莫迦しいが、リツコの方は呆れながらも辛抱強く説教し、タカミなどはすっかり諦めて物音が派手になってくると黙って食事の分量か品数を増やす癖がついた。
余ればそれでも構わないのだが、転がりこまれてから作ると、どうしてもその間リツコを掠われてしまう。ミサトがリツコにとってはタカミと出会うよりも前からの親友であることはわかっているし、タカミとしてもこのさばさばした女傑を決して嫌いではないのだが…まあ、有り体に言えばあまり心楽しくはない。だから、旦那の愚痴噺は僕がいないときにしてくださいよ、と心の中で呟きながら、さっさと食べさせて追い払うのだった。
終いには『余分に作ってウチに分けてくれればいいのに』と言い出すミサトを、『旦那さんにつくってもらってください』と一蹴するのだが…材料ばっかり作ってて料理までいかないとぼやいていた。屋上菜園であそこまで収穫できれば上等なものだと思うのだが。今日の水菜と人参にしたところで、つい昨日その「旦那」から普段の迷惑料代わりに貰ったものだ。
今日は…今のところ至って静かなものだから、迷惑料を料理にして返すという理不尽を強いられることはなさそうだった。
あの辺りは、行き違いと言ってもまだ平和なものではなかろうか。
そんなことを考えながらも手早くパスタを茹でる準備を終えて、タカミはリビングへ戻る。リツコの集中を乱さないよう、静かにリビングを横切り…自分の仕事部屋へ入った。彼女が一仕事する間があるなら、自分も少し仕事を片付けておこう。そう思ってパソコンを起動しながら、ふと…カヲルが来訪の表向きの理由として持ってきたデータディスクが目に入り…思わず溜息を吐いてしまう。
多少面窶れしている感はあったが、最近は怪我をしている様子はない。
シンジのことは好きだという?
??大切にしたいと。だが、そういうカヲル自身が決して幸せそうには見えないことが気掛かりだった。
カヲルの心がシンジのもとにあるなら…もう子供ではないのだし、数少ない身内だからといって過干渉になるのも考え物だ。だが、叶うことならカヲルには幸せになって欲しいし、そのためにできることがあるのならタカミは躊躇わない。
だが今は、遠目に見守っていることしかできそうになかった。
タカミは頭を切り替えるように軽く振ると、ディスプレイの前に座った。だが、起動途中の暗い画面に映る自身の顔を見て、カヲルの少し面窶れした顔を思い出してしまい…もう一度嘆息して天を仰いだ。
恋することが…いつも、幸せならいいのに。
――◇*◇*◇――
綾波レイというその少女が、実は同じキャンパスの別の学部だったことをカヲルが知ったのは…教養科目の講義室でその姿を見かけた時だった。
こんなに近くにいながら、今まで気づかなかったことが不思議だった。
広い階段教室の最前列一番右端の机、教壇寄りの席。そこが彼女の指定席らしかった。そもそも…だだっ広い講義室の前列はなかなか埋まりにくいものだが、たった一人必ずそこに座る、というので同じ学部生の一部ではちょっとした有名人でもあったようだ。
声を掛けてみようか。そんなことを思った自分に、カヲルはすこし驚いた。
少し気になっただけの筈が、いつの間にかその教室で彼女の姿を目で追ってしまう。大概、ひとりだ。何処かのサークルに入っているという話は聞かないし、決まった友人もいないように見えた。
女の子に声を掛ける、というのが、こんなに難しいものだとは思ってもみなかった。
シンジの妹ということが、却って声を掛けにくくはしていたかもしれない。何処の家にもそれなりの事情があるものだし、そもそも離婚した夫婦にそれぞれ別れて引き取られた兄妹の関係性というものが、カヲルには想像がつきにくかった。
シンジの反応を見る限り、積極的に話がしたいとか、親同士のことだから子供には関係ない…といったポジティブな要素は出てきそうにない。ひたすらに遠巻きな雰囲気が在るだけだ。
では、あの子はどんなふうに思っているのだろう。
シンジに関することなのに、レイという少女のことを考えている間は自分の中でも随分と風通しの良い思考が働くことを…カヲルは不思議に思いながら日々を過ごしていた。
機会は存外早くにやってきた。
その講義が、講師の都合とかで急遽休講になってしまった。その日の朝には掲示板に張り出されていたというが、うっかりと掲示板の前を素通りしていたカヲルは、いつもよりやたらとまばらな教室に気づいていたが、最初は…今日は出席率が悪いんだな、何か他にあったっけ…などと、のんびりと考えていた。開始5分前になって、教務課の事務員がせかせかと入ってきて、ホワイトボードに「休講」と大書するまで気がつかなかったのである。
仕方なく立ち上がり、時計を眺めて浮いてしまった時間をどうしようかと考える。午後にも1コマ講義があるから、帰るのも億劫だ。そう思った時、視線は彼女を捉えていた。
指定席に座したまま、彼女もどうしようかと考えている風情だった。カヲルはいてもたってもいられなくなり、逡巡よりも早く立ち上がると彼女の指定席の傍まで降りていった。
「綾波さん、だよね? 休講とは思わなかったね。時間が浮いちゃったし、良かったら…少し早いけどお昼を一緒にどう?」
カヲルは、少し戸惑うような深紅の眸が自分を映すのを見た。
***
彼女は、自分を憶えていた。
学内のカフェ。広いが飾り気のないホールにはまだ席に余裕があった。ランチのトレイを手に席を確保した二人は、とりあえず腰を落ち着けてフルーツジュースを啜った。
「渚…君、碇君と、一緒に住んでる…んでしょう?」
言葉を慎重に選びながら、彼女はそう言った。
「うん、そうだけど…」
シンジが彼女をして「綾波」と苗字で呼び捨てていたところから、あまり良好な関係を想像してはいけないとは思っていたのだが…まさか彼女の方でも実兄を君付け苗字呼びとは。思ったより溝が深そうだと感じたカヲルは、早々に話を変えることにした。
「中学校からの友人でね。大学が近かったから、ルームシェアしようかってことになって。この間のコンパもシンジ君に頼まれて行ったんだ。綾波さんは?」
「…私…も、洞木さんに頼まれて。でも、ああいうところ、苦手で。食べられるもの、なかったし…」
言われて、カヲルは少女のトレイを見た。フルーツジュースの他は、シーザーサラダとプルーンの乗ったオートミールポリッジだけ。朝食というにもやや質素なメニューだ。カヲルとて食事に関しては至って淡泊というより無頓着なことがタカミあたりから叱言のタネになりやすいのだが、カヲルの場合は何でも食べるからつい簡単な方へ流れるというだけで、先のコンパも食べるものがない、と言われてそうだったろうかと一瞬頭を捻った。だが、ふと気づいて訊いてみる。
「ひょっとして、油っぽいもの…っていうか、肉が苦手?」
少女が目を伏せて、こくんと頷く。そこで合点がいった。えてしてああした場で提供されるオードブルというのは肉や揚げ物系が多い。カヲルは肴と思って特に抵抗なくつまんでいたが…肉がダメならあのメニューはキツいだろう。
「ごめんね、お昼、ここで良かったのかな。選択肢、少なかったんじゃない?」
カヲルの言葉に、少女がはじかれたように顔を上げて首を横に振る。
「いいの。いつもここだから。誘ってくれて、ありがとう。こういうところだと…ひとりって、割と…席、探しづらくて」
少し頬を染めながらの言葉に、カヲルも思わず口許を綻ばせる。
「どういたしまして。また誘ってもいい?」
少女が微笑みながら頷く。微笑を花に譬えるのは使い古された修辞とはいえ、それだけ共感されてきたということでもある。その妙を、カヲルは目の当たりにした気がした。
――――ああ、玉簾が咲いたな。
カヲルは思わず手を伸べたくなるのを、寸前で堪えた。触れたりしては吃驚させてしまう。そうしたら、枯らせてしまうかも。だから、触れてはいけない。
そう思った時はじめて…カヲルは自分が、この少女に触れたいと思ったことに気づいた。触れたい。でも触れられない。そんなもどかしさは、その胸奥に苛立ちよりも静かな温かさを与えていた。
その温かさに少し戸惑いながら、カヲルはその感覚を心地好く思った。