――◇*◇*◇――
『彼を赦せないなら、このまま暫くここにおいで。でももし・・・・赦せるのなら、お帰り。きっと心配してる。そしてきっと、物凄く悩んでるよ、今頃』
翌朝。カヲルは、帰宅する方を択んだ。
タカミは、それで良いと思った。所詮、二人の間でしか折り合いのつかないことだから。それでどうしてもこじれるようなら、また改めて身の振り方を考えてやればいいと思っていたのだ。
喉についた鬱血痕が気にならなかった訳ではない。ただ、タカミが見た限りの…シンジという少年の為人を考えると、予想外の抵抗を受け混乱してしまっての事故、というのが穏当な判断というものに思えた。
結局、タカミ自身も落ち着かないまま年が改まり、仕事上のことで何度か連絡をとったがカヲルの方が何も言わないので、干渉せずにいた。
襟元や袖口に目を配った限りでは、明らかな外傷を負っているとか、憔悴しているふうにも見えなかったからでもある。
――――――――それが、突然。
「・・・“苦しい”?」
いつの間にか、雨の音はやんでいた。また泣き出しそうになっているカヲルの髪を梳いて、タカミに言えたのはその程度。
カヲルは暫く彼の鼓動を聞いていたようだったが、ふと言った。
「高階さん、もういないの」
「…そうだね、もういない」
「タカミも、死ぬの」
「…今日明日とは限らないけど、生きてる以上は、まぁいつかはね」
「僕よりも先に?」
「順当に行けば。僕は君より七つも上なんだから」
「…いやだ」
「…って言ってもね…。こればっかりは。でも、寂しいことはないだろう?君には君を必要としてくれる人がいるんだから」
「……」
「カヲル君だって、僕の所に逃げこまなきゃならないほど傷ついても、彼の側にいたかったんだろう?」
「・・・・・」
「そんな目をしても駄目だよ。君は彼の所へ帰った。その気持ちを大事にすればいい…っ…」
タカミは沈黙した。…沈黙を強いられたというのが妥当だろう。カヲルがやおら首筋に顔を埋め、きつく吸ったからだ。
「・・・・っ・・・・」
タカミの喉から微かに切ない声が漏れた。
「・・・・やってくれるよ。残ったぞ、絶対」
吐息混じりの苦言に身体を離してカヲルは笑う。笑いながら言った。殊更に偽悪的な笑みが、タカミにしてみればいっそ痛々しい。
「僕にも、してよ」
「・・・あのね・・・」
「・・・でなきゃもう一度つけるよ」
逃がさないとでもいうふうにタカミの身体の両脇に手を突き…それでもその繊細な眉目は切羽詰まったような色彩を滲ませていた。
「たいした脅迫もあったもんだね、全く」
タカミはぼやいたが、無茶な要求を棚上げにして穏やかに問う。
「・・・試すつもりかい、彼を?」
「・・・試されてるのは、僕の方かも。シンジ君、知ってるんだ。今日、授業が午前中だけだって」
冷えた科白に、タカミは吐息した。カヲルがひどく大人びた微笑をかえす。
「・・・・僕の方から離れるなんてこと・・・・絶対に無いのにね。そんなこと、出来るわけないのにね・・・!」
その微笑とは裏腹に、声は徐々に昂ぶっていった。タカミは手を伸べ、カヲルの紅潮していく頬を撫で…顎の線まで滑らせると、指先で唇にそっと触れた。…カヲルの言葉を遮るように。
あの時、帰すべきではなかったのだろうか。暫く、匿ってやるべきだったのだろうか。タカミの裡にも、いまだに迷いはある。だが、カヲルは聡い。いまも、触れられた意図を正確に汲んだらしく、ふっと目を伏せて口を噤んだ。
「皆・・・不安なんだろうね、結局は・・・」
タカミがそう言ってさらりと手を離してしまうと、一瞬だけ…恨みがましくさえある視線で離れていく指先を見て、カヲルは拗ねたようにシーツに包まってむこうを向いてしまう。
カヲルをベッドに残して、タカミは身を起こした。シャツに袖を通し、少しだけカーテンを開ける。
「・・・寒いと思ったら」
―――――暮れかけた空から、白いものが舞っていた。
カヲルがシーツをひきずったまま、窓の傍に寄ってきた。腕を伸ばして、開きかけたカーテンを更に引き開ける。
降りしきる雪を眺め遣る、すこし目の縁を紅くしたカヲルの横顔に、タカミは問うてみた。
「…泊まっていく…? 多分、積もるよ」
窓縁に突いた腕が、震えたのが判った。カヲルがゆっくりと、俯く。
雪の所為にしてしまえばいい。雪の所為で、帰り損ねた…と。
だがカヲルは、再び潤んでしまった眼でタカミをかえりみて…静かに首を横に振った。
タカミはその色の淡い髪を撫でた。
「・・・送るよ」
***
「・・・ここでいい」
二つ手前の信号で、カヲルが言った。
「傘、さしていくんだよ」
「うん」
夕刻の雪は存外積もりにくい。もう30分は降っているが、路面はそれまで降っていた雨の所為もあってか濡れているだけだ。
それでも街路樹の梢は、少しずつ白に覆われていく。
信号が青に変わり、左折していく車のテールランプを、カヲルは見送らない。
――――――アパートに帰ると、シンジがいつものエプロン姿で台所に立っていた。
「お帰り、カヲル君。遅いから、どうしたのかと思ってたよ。あーあ、そんなに髪真っ白にしちゃって。お風呂、沸いてるから何なら先にはいっちゃいなよ」
「うん、ありがとう」
菜箸を置いて走り寄ると、カヲルの肩と髪に絡む雪を甲斐甲斐しく払う。その手が不意に項に回り…カヲルを引き寄せた。
びくり、とカヲルの指先が震える。
唇が触れている間の…甘い、だが恐ろしい数秒。しかし、離れたときのシンジの表情は、いつもと変わらない。
何もなかったように、いつもと同じように、微笑みかける。
「・・・身体、冷たいよ。あっためといで」
「・・・・ありがとう・・・・」
カヲルは微笑んだ。心は置き去りに。
濡れた髪には、きっとコロンが移っていた―――――――――――。
――――――――Fin――――――――