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 雨脚はあまり強くないが、こう長く降られると気が滅入る。その日、夕方の薄闇はこの天候の所為もあって、ひどく足早にやってきた。
 タカミが帰宅して玄関扉に鍵を突っ込もうとした時、鍵が開けられていることに気づいて手を止めた。
 来てるんなら、明かりぐらいつけておけばいいのに。
 心中ひとりごちて玄関扉を開ける。暗い窓を裏切らず、中も明かり一つついていなかった。・・・それどころか、ことりとも音がしない。
「・・・・来てるんだろう?」
 待ちくたびれて寝込みでもしたのだろうか?
 暗い所には不向きなサングラスを外すと、薄闇の中に浮かび上がるかのような銀色が視界に入った。ソファに座っているわけではない。ソファとリビングテーブルの間に、まるで隠れるようにして蹲っていた。
「座るんならせめてソファの上にしたほうがいいよ」
 部屋の明かりをつける。その明かりに打たれでもしたかのように、蹲ったままのカヲルの肩がびくりと震えた。
「身体の方はもう大丈夫なのかい?昨日の今日だってのに、こんな冷たい部屋の中で蹲ったりしてちゃ、駄目だろう?」
 部屋の暖房をいれて、コートをハンガーにかけながらそう問うてみる。返答はない。ただ俯いたまま・・・
 気まぐれな子ではあるが、よほどのことでないとかけた言葉に返事もしないということはない。タカミはキッチンへ行くと、蜂蜜とブランデー入りの紅茶を作り、カヲルが蹲っている側のテーブルに置いた。
「・・・とりあえず、飲んだら?」
 数滴のブランデー程度で滑るような口ではないことは先刻承知だが、さしむき身体を温めたほうがいい。置かれたカップにも反応せず、口をつける気力もないかと危ぶんだが、ややあってカヲルはのろのろとカップに手を伸ばした。
「ねえ、タカミ」
 一口含んで、なぜか少し嗄れてしまった声で呟くように言う。
「ん?」
 食器棚に上体を預けて、タカミは自分のマグカップを傾けていた。中身はカヲルのと反対に、紅茶入りのブランデーであったが。
「・・・・高階さんと、まだ続いてるの」
 さすがに、一瞬の空隙があった。
「・・・・家庭持ちに対して、不穏当な質問だねえ」
 口許に浮かんでいるのは苦笑。だが、それをふと払って呟くように言った。
「・・・サキはもういないよ。僕らが入籍する少し前だったと思うけど、病院から連絡があって…。急いで行ったんだけど、間に合わなかった。カヲル君には、言ってなかったね。ごめん」
 暫く、重い沈黙があった。
「・・・・・・・そう・・・・」
 カヲルがふらりと立ち上がり、タカミに近づく。
「・・・・・にも、してよ」
 紅瞳は、いつになく濁ったような色彩を湛えていた。そのことに驚いたタカミが、言葉を聞き落とす。
「…何だって?」
「僕にも、してよ。高階さんがタカミにしてたみたいに」
 カヲルの腕が、するりとタカミの背に回る。
「・・・・・・本気かい?」
「・・・・シンジ君は、そう思ってる」
 話が見えず、目を瞬かせるタカミ。カヲルの青ざめた頬を、水滴が転がり落ちる。
 しがみついたカヲルの首筋がタカミの視界に入ったとき、タカミは愕然とした。襟の下、喉の周りが痣になっている。その周囲には、紅い点が散っていた。
「・・・・まさか・・・・」
 しがみつくカヲルを抱き締める。まさか、そんなことが。
 肩は寒さでなくして震えていた。そしてその声も。
「…きだって…好きだって言ったのに…わからない…もう、何が何だか判らない…っ…!!」

***

 「好き」といったシンジの言葉に、多分、嘘はないのだろう。
 ――――僕も、好きだよ。
 「好き」だから、そうしたのだろう。そういった表現の仕方があることを理解できないほど、カヲルも子供ではない。だが、痛みと恐怖がカヲルの身を竦ませた。何よりも、のしかかってくるシンジの引き攣ったような顔が…知らない人のようで、怖ろしかった。
 ――――・・・どうして、そんな怖い顔するの。
 「好き」だから。他の誰にも渡したくないから。言葉づらは甘いのに、その行為がカヲルに与えたのは恐怖と苦痛だけだった。
 ――――待って、痛い…!
 苦痛から逃れたくて、カヲルは抗った。だが、そうすることでシンジの顔はますます引き攣っていく。思うままにならないことに焦れてか、シンジの両手がカヲルの喉にかかる。
 あとはふっと目の前が暗くなって、それきりだった。

***

 高階マサキは昔、タカミやカヲルと同じ保護施設で生活していた。その施設内では最年長で、周囲の面倒をよく見ており、子供達からも頼られていた。ひどく大人びて見えたり、そうかと思うと年齢相応に皆とふざけあったりもする。子供達は施設の管理をする大人達よりもマサキの言うことを諾くのが常であったし、タカミを含めて事故の後遺症で学校へ通えない子供の勉強の面倒をみたのも彼だった。
 本来は、そんな家族のような関係だったのだ。
 何がきっかけで、いつからそれが変化したのか…明確な記憶があるわけではない。
 タカミを含めて皆が「サキ」とだけ呼ぶのに、そういえばカヲルだけはいつの間にか「高階さん」とどこか硬い呼び方をしていた。
 『高階さんがタカミにしてたみたいに』とカヲルは言った。そこには関係が一方的なものであったというニュアンスが見え隠れする。…多分、そこには誤解があるのだ。
 いずれ、カヲルにもきちんと話をしてあげなければならない。
 カヲル自身にも、関わりのあることだから。

***

「・・・・ん・・・くっ・・・・・・ぁ・・・」
 静かな雨音。天球儀を模したフロアランプの蒼い光を受けたカヲルの背が撓った。
 背筋を駆け上がった感覚に身を震わせ、カヲルがゆっくりと身を横たえる。弛緩していく身体は温かい胸で抱き留められ、乱れた髪を、優しい手がゆっくりと梳いた。
 暫く、緩やかに収斂してゆく息づかいだけが部屋を満たしていた。
「…怖かったんだ。…すごく、怖い顔をしてた…」
「彼が?」
 タカミの問いに、カヲルが頷くかわりに頬をタカミの胸に寄せる。
「…いつもは、優しいのに」
 ――――――本気で、殺されるかと思った。身体を裂かれるような感覚、そして…。カヲルは僅かに身を震わせた。
 嫌悪感とも違う。ただ、恐怖。
 好きだという気持ちは本当だと思う。シンジだったら構わないと思う。だが、いざ組み敷かれたとき、身の裡に広がったのは、恐怖だった。
 一度身を起こし、確かめるようにタカミの頬に頬を寄せる。ここにはあの、焼き尽くされるような狂熱はない。ただ、蕩けるような快美感。ひたすらに底の無い安寧。
「…こうしてても、全然怖くない。凄く…気持ちいいだけ…」
 タカミは何も云わず、カヲルの色の淡い髪をただ優しく梳いている。
「タカミだって、サキとしてるとき…そうだったんでしょ? …凄く、綺麗だったよ? 少し…苦しそうだったけど。もの凄く、艶っぽくて…身体の奥が、きゅってなるくらい」
「…あのね、カヲル君…」
 そう言ったまま、心地好い手がふとその動きを止めてしまったから…カヲルは身を起こす。タカミの頬は先程よりも朱を刷いているように見えた。
「何…?」
「いや、ごめん…何でもない…」
 自分は何かおかしなことを言ったのだろうか。朱を刷いたタカミの頬に手を伸べて、カヲルは暫く俟っていたが、再びゆっくりとはだの上を滑りはじめた指先にとろかされて追及を放棄する。
「僕は、シンジ君のこと…好きだと思う。なのに…どうしてなんだろう…」
 快美感にただ身を委ね、洩れる吐息の間に呟くように零れた問い。言ってしまってから、こめかみが熱くなって視界がふわりと歪むのがわかった。
 カヲルの頬を伝った雫がタカミの胸の上に落ちる。
「あ…ごめん…」
 拭おうとした手は捉えられたというよりするりと導かれ、次の瞬間にはタカミの腕を枕にする格好で横たえられていた。
「とりあえず、おやすみ。今は、あまり考えない方がいいと思うよ」
 首元まですっぽりと上掛けにくるまれ、その上から優しくあやすように背を撫ぜられる。
「…うん…」
 目を閉じて身を寄せると、爽やかな柑橘シトラス系でありながら落ち着かせるような香りに気づく。同じコロン。多分、共用なのだろう。 同じ香りを纏うひとを、カヲルは知っている。だからその香りはゆかしくもあり、この温かみに縋ることのへの躊躇いも感じさせたが…今はただ、ゆったりとした鼓動を聞きながら眠りたかった。

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