濡れた髪のLonely

 泊まった場所は 髪の匂いで すぐに気づいてしまうさ

Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Time after time Ⅰ」

濡れた髪のLonely

<reboot>

 夜来の雪は、今朝方から雨にかわっていた。氷混じりの雨、そして風。昼下がりだというのに夕刻のような薄闇、刺すような寒気の中を、一体どのくらい歩いていたというのだろう。
 榊タカミはびしょぬれの服を洗濯機に放り込んでスイッチをいれてしまうと、シャワーの音がしているバスルームを後にした。キッチンで飲み物をつくってレンジに入れ、これもスイッチを入れるとその場を離れる。
 そしてerrorの文字を最後にカーソルを明滅させているディスプレイの前に戻り、その画面を終了させた。
 一段落させておかないとまずいな、と思いながら、仕事を続ける。焦ったつもりはなかったが、打ち出された文字列が意味を成していないのに気づいて吐息した。
 ――――つい先刻のこと。開けたドアの向こうには、びしょぬれで唇を真っ青にしたカヲルがいた。
 事情を聞くのは後回しにして、とりあえずタカミはこのひどく目立つ容姿の、七つ下の従弟をバスルームに追い立てたのだった。それでなくても昔からあまり身体が丈夫とは言い難いのだ。肺炎でも起こした日には命にかかわりかねない。
 …だのに、本人ときたら自分のことにはひどく無頓着で…。
 その首筋に、ふっと白い腕が絡む。
「…足音を消すなよ。びっくりするじゃないか」
 そういうタカミの声は、少しも動じていない。むしろ、溜め息混じりにたしなめるような…。
 大きすぎるシャツをローブ代わりにひっかけたカヲルがくすくすと笑って腕をほどく。他方の手には、先刻タカミがレンジに入れたマグカップがある。・・・・いつの間にかできあがっていたらしい。
「ありがと」
 カヲルが猫をプリントしたマグカップをわずかに掲げて微笑う。
「どういたしまして。少しは温まったかい?」
「・・・・・うん」
「こんな天気に、傘ぐらい持ち合わせてなかったの?」
 湯気を立てているマグの中身を含む間、カヲルの返事は遅れた。
「傘なら鞄に折りたたみが入ってる。・・・・面倒くさかっただけ」
「・・・あのねぇ・・・・」
 しかしそれ以上は何も言わず、キーボードに向かった。こういうときに何を言っても無駄なのは、長いつきあいで良くわかっている。
 そのタカミの視界を遮るように、不意にディスクが差し出される。あまりにも近すぎて、タカミは身を引いた。
「・・・この間のプログラム。結果のファイルとバクレポートはこっち」
 さらにもう一枚のディスクをつけてカヲルが差し出す。タカミが、気を取り直してディスクを受け取った。
「ご苦労様。助かるよ」
 カヲルは春に大学に入ったばかりだが、ことソフトの開発についてはタカミの良き助手であった。つい先日も、いくつかのプログラムの追試を頼んだばかりだ。卒業したらうちの会社に来るといい、と言ったのも、半分以上本気だった。
 すこし奇矯なところがあるにせよ、同類項のタカミに言えた義理ではない。
 それから暫くはおとなしくタカミの手元とディスプレイを見ていたが、ふと口を開いた。
「・・・先生は?」
「一昨日から京都で学会。明日の夕食には間に合うって言ってたよ」
「・・・・そう」
 ことり、とマグを置く音に、タカミは気づかなかった。
 白い両腕が後ろから絡みつく。続いて首筋に押しあてられた唇の感触に、思わずタカミの手元がブレた。
「・・・カヲル君?」
 ただすような口調を意に介さず、カヲルが淡い色の髪と白い頬を寄せる。
「・・・・・・まだ、寒いんだ」
 まだ少し蒼い唇が、耳朶に触れんばかりの近さで…すこし強請ねだるような口調で囁いた。そのあと…暫く、沈黙。それを破ったのは、タカミの深い嘆息。
 振り向いたのか、振り向かせたのか。静かに、唇が重なる。…身の裡の足りない熱を、相手から貪り喰らうかのような、深い口づけ。
「・・・・・いくらブランデー入りって言ったって、ホットミルク程度で酔っ払った訳じゃないだろう?」
 ゆっくりと身を離したタカミが軽く呼吸を整えるような間を取る。言って諾くものでないと知っていたが、一応問うてみた。
 幾分血色の良くなった唇を舌先で舐めて、カヲルが笑った。
「酔っ払ってなくちゃ、駄目? だったら・・・」
 言いかけて、キャビネットに鎮座する琥珀色の瓶に視線を送る。わざとだから始末に悪い。
「お代わりはなしだよ、カヲル君。あれはあくまでも身体を温めるだけのお薬だからね?」
 そう言いながらも、タカミがパソコンを終了させようとするのが判ったか…カヲルがおとなしく腕をほどく。
「…ったく、悪い癖がついたね」
 吐息混じりに零しながら、タカミは立ちあがった。するとカヲルがくすくすと笑いながら軽く背伸びし、その首に両腕を回して顔を近づける。後は、タカミが引き寄せた。
 忙しくHDが稼働し、機器のスイッチが次々と切れていく。
 最後にディスプレイが消え、機械の唸りが消える。部屋に残るのは、押しつつむような雨の音。

***

 明かりを落としてカーテンを引いた室内は、全てがシルエット。
 カヲルはタカミの胸の上に頭を載せて、ゆっくりと荒れた呼吸が戻るのを待っていた。自分の鼓動とタカミのそれが妙にシンクロしているのに気づき、ふと笑う。
「・・・・・・どうしたんだい?」
 こんな時、もの言いがゆっくりなのは…彼の癖。先刻の熱を微塵も感じさせない落ち着きで、タカミが問うた。
「・・・・ん・・何でも・・・・・」
「ないわけはないね。・・・・・シンジ君と喧嘩でもしたかい?」
 まだ少しもの憂げに、それでも一番痛いところを突く。
 緩慢に顔をあげると、薄闇の中でマラカイトグリーンの優しい目がカヲルを見ていた。普段は分かりにくいが、光の加減で時として際立つ色彩。彼は隠したがるが・・・・・・。
「・・・違う・・・・・・そんなのじゃない・・・・・」
 そう言って、思わず目を逸らせる。
「好き、なんだろう?」
「・・・・わからない。ただ・・・・・苦しいから・・・・・」
「苦しい?」
「そう、苦しい・・・・苦しいんだ・・・。身体が、バラバラになりそうなくらい・・・・・・好きだし・・・・・好きだって言ってくれるし・・・・・でも・・・・・・」
 自分が本当に何をいいたかったのかが上手く言葉にできず、目を閉じたまタカミの胸に頭を預ける。
「苦しいんだ・・・・・・・」

ページ: 1 2 3 4 5