夜空はよく晴れていた。空の何処かに月はあるのだろうが、今カーテンを開けたままの窓から見えるのは清かな星だけだった。
イサナが扉を開けたとき、灯を消したままの部屋で、マサキはベッドに掛けたまま目を伏せて漫然と宙を見ていた。いや、目を閉じていたのかも。
扉の音にマサキが顔をあげる。そして静かに言った。
「…どうした?来ないのか」
イサナは歩み寄り、手を伸べてマサキの頬に触れた。指先を滑らせて顎を捉えると、仰向かせるまでもなくイサナの動きに応えてくる。
最初は軽く触れるだけだった口づけは、二度、三度と繰り返すうちに少しずつ深くなる。
イサナは舌を絡めたまま、マサキの襟許へ手を滑らせてシャツの釦をはずした。故意か不可抗力なのか、後ろへ倒れそうになるマサキを項へもう片方の手を添えることでひきとめる。すると、息が苦しくなってきたのかマサキの喉奥がひくりと動いた。いつの間にかイサナの袖を掴んでいた指先にも力が入りかけている。
それに気付いたイサナは一旦離れ、僅かに反らされた喉へ唇を移した。
喉から首筋に至る曲線を下唇だけで…触れるか触れないかの微妙な距離で何度もゆっくりと撫で下ろすと、掠れた声が上がった。それを聴き、マサキが喉を震わせる感触を触れた唇で拾い上げてしまうと、もう堪らなくなった。
マサキの肩からシャツを滑り落として、ベッドに横たえ…鎖骨のあたりに印を刻む。普段から襟に近い部分に痕をつけるとひどく機嫌が悪くなるのは判っているのだが、衝動を抑えきれなかった。
だが、今夜は何も言わなかった。きつく吸った一瞬に幽かに呻きはしたが、それだけだった。
Le Grand Bleu――――。
自分は結局、この深さと漠さに甘えているのだろう。浮かび上がった鬱血痕を見れば、それがたった今間違いなく自分が仕出かしたことであるにもかかわらず…やるせなさに思わず嘆息を零してしまう。
だが、遅まきながら償うようにその部分に軽く口づけた時、不意に優しい指先がさらりとイサナの脇腹を滑った。
「…っ…」
驚かなかったといえば嘘になる。殆どは酔いの所為もあろうが、大概はされるまま…言ってみればイサナのしたいようにさせていたのだ。
シャツを纏わらせた腕と、裸の腕。シーツに背を沈めたまま、マサキはその両腕を伸べてイサナを引き寄せ、自分からイサナの首筋に口づけた。
マサキがシーツに沈む直前、自ら片袖を抜いていたのだ。それに気付いたのは、この瞬間だった。
肩から背、脇腹から腰へとゆっくり撫でられるその感覚は、昂らせるというより底のない安寧をもたらした。それでも確かに、身体の最奥に火を灯していく。
「…サ、キ…」
「あまり佳くないか? 済まないな」
それどころではない。首筋に顔を埋め、悪戯っぽい含み笑いとともに囁くように告げられれば、その意味を詮索する余裕はあっというまに消え失せてしまう。鋭敏な部分に唇を寄せたまま、かすかに笑みを含んで囁く…その呼気と唇の感触ときたら、小さな灯火を一斗缶の油に落としたほどの破壊力があった。
導く手は然程強い力を込めてはいなかったのに、イサナが気づいたときには先程と全く逆に体勢を入れ替えられている。
「でも…たまにはいいだろう」
マサキが薄闇の中で身を起こしたのは、片袖が纏わるばかりだったシャツを脱いでしまうためだったらしい。脱いだシャツをベッドの下へ滑り落とすと、仰向けになったイサナの頭の横に手を突いて、そっと身体を重ねてくる。
だが、触れたのは唇だけだった。
最初は本当に軽く触れただけ。そしてイサナがいつもするように、歯列を割って舌を絡め、さらに口蓋の襞を丁寧になぞる。しかしどうして判るのか不思議な程正確に、イサナの息が続かなくなる寸前のタイミングでさらりと退き、また軽く触れるだけの口づけから始める。
すぐそこにマサキの体温を感じるのに…それでも、身体には触れてこない。それがもどかしくて、手を伸べて引き寄せようとした。
抱き寄せるために伸べた手は、やんわりと捉えられてベッドの上に縫い止められる。その瞬間、再び悪戯っぽい含み笑いがイサナの耳朶を打った。
それが合図だったように、唇が首筋へ滑る。やはりイサナがするように、下唇だけでそっとなぞりながら、広げた襟許を滑る。その時になって初めて、イサナは自分のシャツも釦が殆ど外れているのに気付いた。
それこそカルトッチョの包み紙を開くような、繊細な動作でシャツが脱がされていく。マサキの唇でも指先でもなく、自分のシャツの布地が膚を滑る…ただそれだけの感触が、あり得ないほど甘い痺れを伴って…イサナは思わず呼吸を詰めた。
そしてようやく、柔らかな唇が触れる。さらりと胸骨に沿って撫で下ろしたあと、同じ線を今度は舌先でなぞる。更には滑り落ちてきた髪の柔らかな毛先の動きが追随してイサナの胸板を擽るから…身の裡に凝った熱は燎原の火となって広がった。
熱に灼かれる感覚に喘ぎ、まさに息のかかる距離にある身体を引き寄せようと腕を伸ばしかけて、イサナは自分の間の抜けた格好に気付く。両袖が肘まで脱げかかったシャツを自身が敷き込んでいるものだから、肘から先しか動かせないのだ。
イサナが気付いたことを察したのだろう。イサナの胸の上で、また低い含み笑いがした。
「言ったろ?…たまにはいいだろう。少しおとなしくしていろ」
マサキが緩慢に身を起こす。声はまだ冷静だが、昂ってはいるのだろう。その頬は僅かに朱を帯びていた。
「酷いな、計算ずくとは。これだけ煽っておいて、おとなしくしろもないものだ」
「そのようだ」
脇腹を撫でていた指先が、するりと脚間の熱塊へ滑る。服越しに軽く撫でるだけの動きであったが、イサナの背筋を電流が奔った。
詰めた呼吸が喘ぎに変わりつつあったイサナの脳裏に、リエの述懐が去来する。
『全く、男って奴はどうしてこう、度し難いんだろう…
あんたね、サキに一体何を求めてる?』
あの時、確かに何かが突き刺さった。
傍にいられればよかった。傍で眠らせてもらえればそれでいいはずだった。だからそう頼んで、マサキはそれを受け容れてくれた。
その身体も、心も。そう欲張ったのは、他ならぬイサナだった。
タカミとのことがある。駄目なわけじゃないだろう。そんな甘えが、妬心が、イサナの衝動を突き動かした。最初の、あの非道い経緯から、何も変わっていなかったのではないか。
――だが、今夜は。
珊瑚の群生地のような、浅くて暖かい海は…スエットなしで潜ることも珍しくない。今イサナを包んでいるのは、丁度そんな海にいる時のような感覚であった。
暖かな海の中を揺らす風…海流のように、優しく慰撫すような動き。こんなサキを、イサナは識らない。
『サキ、優しいでしょ。タカミが抜き差しならないほどのめり込んだのも判る。あの甘ったれがよくもまあ、離れられたもんだわ』
壊れかけていた頃のタカミを、サキがいつもこうして慰撫していたのかと思うと…今更ながら妬心で眩暈がしそうだった。
だが、最初にしてからが…拒絶するマサキを抑え付けて想いを遂げたのはイサナだったのだ。受け容れてもらえるようになってからでさえ、酒が入っていないとなかなかガードが弛まないから、半分正体がなくなっている時が殆どだ。結局いつもイサナが一方的に快楽を享受しているだけだった。
それでも、サキは許してくれる。それが哀しい。
身体は快美な感覚で蕩けきっているのに、頭は暗く重い氷塊で押し潰されそうだった。
『凄く佳かった。でも、終いにはこっちが辛くなってきた。だからもう、続いてない』
いつもは透徹した眼差しを愁色に曇らせて、リエは言った。…こういうことか。
丁寧に慰撫され、身体は熱の解放を求めて喘ぎ戦慄さえし始めているのに、哀しい。
不意に、触れていた温かみが遠ざかった。
「…吃驚しすぎて気絶した、とか・・いわんだろうな」
マサキが上体を起こし、イサナの頬に手を伸べていた。
「お前には…したことはなかったからな。こんなこと。…嫌だったか?」
「…サ…キ…」
咄嗟に、それ以上の声が出なかった。
「この間言ったこと…気にしてるんじゃないかと思ったんだ」
「…え…」
「〝佳くないわけじゃない…でもいつも、どこか後ろめたさがあって…達ききれない〟」
イサナは、息を呑んだ。
「言葉にすることで気づけることがある。ずっと前から感じてたのに、俺もこの間初めて気付いたんだ。
俺は、あのひとに抱かれて悦んでる自分が嫌でしょうがなかった。でも、すべて消えた。だから忘れていいんだと言い聞かせてきた。
だが、違うって判ってるのに、俺はまだ何処かで重ねていたんだ。だから後ろめたさがついてまわるし、達ききれない」
「それは、俺が…!」
力ずくで抑え付けて、一方的に欲望を押し付けた結果だ。マサキにしてみれば状況は昔の悪夢と何一つ変わらなかっただろう。夜毎マサキの傷を剔り続けてきたのは、他ならぬ自分だった。今度は絶望に目が眩みそうになりながら、イサナが言いかけたとき…その唇を指が止めた。
「言ったろ、お前が悪いんじゃない…。
お前の好きなようにさせることが、お前の望みに応えることだと…俺は勘違いしてたんだ。
でも本当は、自分が相手を必要としているように、相手にも自分を必要として欲しい。そういうことなんじゃないのか」
そこまで言うと、マサキはゆっくりと身を屈めてイサナの首筋に口づけを落とし、胸板に当てていた指先をさらりと脇腹へ滑らせる。
「もっと言えば…自分が気持ちいいように、相手にも気持ちよくなって欲しい…とか」
そのまま身体を重ねる。直に伝わる熱。
「前に、リエに言われた。俺は相手のことばっかりで、自分が気持ちよくなろうって気はないんだと。あの超がつく強情っ張りに涙目で睨まれた。その後もリエは協力者としてのスタンスは決して崩さなかったが…それはそれで結構、堪えたな。
それでも…あの頃にはまだ、俺の何がそれほどにリエを傷つけたのか…理解っちゃいなかったんだ」
そう言って、イサナの心音を聴くように片耳を胸につける。
「でもこの間から、お前の様子がおかしくなって…どうやらリエに何か聞いたらしいってことまでは気付いてた。それからずっと考えちゃいたんだが…ふっと思ったんだ。
ただ一方的に与え続ける、という関係性があり得ないとは…今でも思わない。それでお互いが良いと思ってるならそれで良いんだろう。でもお前が俺に求めたのはそういうのじゃなかった。…そう思った。
俺もそう思ったからだ、イサナ。お前が此処に帰ってくることで安寧を得られるなら、俺はそれが嬉しい。俺だって自分が必要だと思っている相手に、必要とされたいからだ」
顔を上げて、イサナを見る。イサナの当惑を看て取ったのか、小さく笑った。そしてイサナの胸に再び下唇だけを軽く触れさせ、さらりと左の紅点へ滑らせる。…舌先を添えて、一瞬だけ吸い立てた。イサナの胸から背へ、甘い痺れが奔り抜ける。
「お前に好きなようにさせてやることだけが…お前の望みに応える方法だったらそうする。でも、多分…俺がお前だったら、それはきっと哀しい。…だから、自分がして欲しいと思うことを、お前にしてみようと思った。
少し吃驚させたかもしれんな。俺の了見が間違っているなら早めにそう言ってくれた方がいいぞ。…何せ、思いのほか佳くてな。癖になりそうだ」
そう言って、軽く唇を舐めた。口調は面憎い程に冷静なままだが、頬を桜色に上気させたマサキは凄絶に艶めかしい。
イサナが喘ぎながらようやく絞り出した声は、僅かに掠れた。
「驚いたのは確かだし、正しいか間違ってるかなんて、どうでもいい。…ただ、やめるな。今放り出されたら…気が狂う」
「…それは困るな。
心配するな、挿れたりはせん。さしあたって、お前に気持ちよくなってもらえれば…俺としては十分なんでな」
そう言って、もう一度…今度は右の紅点を含む。すぐには吸い立てずに舌先で転がすものだから、イサナの背が跳ね上がった。その隙に、マサキはイサナの腕を拘束していたシャツの袖をさらりと抜き取る。
マサキが自由になったイサナの腕を取り、その肘の辺りに軽く口づける。
「痕になってないか? …全く、おとなしくしてろというのに暴れるから、脱がせられるものも脱がせられんだろう。お前、明日から海の上だってのに…腕に縄目の痕とか、妙な趣味を疑われても知らんぞ? …仕方のないやつだ」
「抜かせ、計算済みだったんだろう」
「莫迦いうな、お前が忙しないだけだ。普段は鈍いくらい落ち着き払ってる癖に、こういうときだけは子供みたいにがっつくから足許を掬われるんだぞ」
くつくつと笑うマサキを、イサナはようやく自由になった腕で抱き締める。そして、徐に訊いた。
「…〝して欲しいと思うことを〟…と言ったか?」
「…言ったな」
「そうか…」
「…待て。お前、眼が据わってないか」
「さてな…」
「お前、明日は5時起きって言ってなかったか。少しは加減しろ、俺だって普通に勤務だ」
「…無茶言うな。煽った分だけ責任はとれ」
イサナは反論を待たなかった。身体を密着させたまま態勢を入れ替えると、色の淡い髪がシーツの上に零れる。上気した頬や、首筋にもかかったその髪をかき遣り…イサナはマサキの首筋に唇を埋めた。
***
月が傾いたことで、その光が静謐と共に差し込み…寝乱れた敷布に穏やかな陰翳を落とす。
マサキは、窓の方へ向いて小さな寝息を立てていた。イサナはその頭の下に片腕を差し入れて枕にし、背中から抱くようにして身体を寄り添わせている。もう片方の腕で腰を引き寄せ、下肢も密着させていたが、今はそれだけで満ち足りていた。
触れている温かみを感じながら、イサナは暫く微睡んでいた。目覚めたのは、腕に乗っている重みが僅かに揺らいだ所為である。
腕の中のマサキが身動ぎし、眼を擦りながら上半身を起こすとベッドサイドテーブルへ手を伸ばした。携帯の画面で時刻を確かめると、深く吐息して再び気怠そうに身を横たえる。
「月が明るすぎる…一瞬時間を間違えたぞ…」
「シェードを下げるか?」
「いや、いい…佳い月だからな。満月にはもう少し間がありそうだが、月光浴もよかろうよ」
「そうだな、十三夜というところか」
イサナは一度起き上がったことで滑り落ちた上掛けをマサキの肩に掛け直した。
「あぁ、済まないな」
そう応えたものの、マサキは再び枕に差し出された腕はやんわりと退け、ベッドから滑り落ちた枕を引き上げて敷いた。かすかに悪戯っぽい微笑を閃かせる。
「腕枕が心地悪いとは言わんが、何分お前さんの上腕はえらく筋肉が発達してるから硬くてな。悪く思うなよ」
なんと返答したものか見当もつかなくて、イサナは当惑した。
「…それは、悪かったな」
「何、腕力に乏しい者のやっかみだ。気にせんでくれ」
そう言って、身体を返して枕ごと額をイサナの胸元に寄せる。その肩に触れ、イサナは思い切って訊いた。
「忘れることは、無理なのか」
「何をだ」
「…あんたを縛る〝紅〟」
「この間は、忘れなくても良いと言ったくせに…」
憶えてたのか。イサナは内心で嘆息した。…確かに言った。それで自分が必要とされるなら、それでいいと。…だが。
それが表情に出たらしく、マサキが苦笑した。
「人は忘れることで生きていける。でも忘れてはいけないものもある。俺にとってあの〝紅〟の記憶がどっちなのかは実のところわからん。どのみち、忘れようとすればするほど、忘れることは難しくなっていく。そんなものじゃないか?」
「そうなのか…」
「だが、消すのが難しいものなら、上書きすればいい。お前という現実で、旧い夢を上書きしてくれれば…あるいは忘れられるかも知れない。
もしくは、憶えていたとしても囚われずに済むようになる…かもな」
思わず、イサナは息を呑んだ。そして触れた肩を抱き寄せ、ようやく言った。
「…俺に、出来るのなら」
マサキは、それへは応えなかった。ただ低く微笑って、イサナの胸元に額を寄せた。
――月の雫が、音もなく降り注ぐ。
――――――――Fin――――――――