CODE:Angelー12、深海リエ。表向き、広告代理店のマーケティングに関わる仕事に就いており、家を出て一人で生活していた。
 マンションの一室にしつらえられたホームオフィス。タカミの私室と良い勝負の機材パソコンが並んでいるが、タカミのそれと違うのは、一応規格品のマシンであることぐらいである。部屋は一応客を通すような仕様にはなっているが、オフィスとしては少々雑然としていた。
 パソコンの前、ハイバックのオフィスチェアに座を占めているのは、歴然たる雪肌せっきの美女。長く伸ばした漆黒の髪を後頭部で結い上げ、さほど化粧をしているようにも見えないのに、その唇はいつもルージュをひいたように紅い。
 彼女リエの本領はネットワーク上に構築された膨大なコネクションが生み出す影響力、そして情報収集能力であった。かつて法律すれすれのチューンナップを施したマシンと精緻なプログラムでもって、対象が企業だろうが国家機関だろうが躊躇なく、堅牢なプロテクトを紙の箱のように突き破って目的を達した「Yroul」…恐怖の天使と異名をとったタカミとは違って、彼女はあくまでも公開されたネット上での情報の収集および拡散について比類ない能力を有していた。
 ただしその中には多少、公開されているといってもいわゆる裏社会に属するネットワークも含まれていた。だからタロットカードになぞらえて「女教皇ハイ・プリーステス」と呼ばれる彼女は、本業の他にあまり公に出来ない副業サイドビジネスを持っているという噂である。
 タカミが「Yroul」であることをやめた後…マサキが調査のパートナーとして択んだのがリエだった。おそらくマサキもそれを見越して彼女を択んだのだろうが…タカミが精神に変調さえきたした恐るべき結論に、彼女は全く動じなかったという。
 透徹した現実感覚、そして行動力。ミサヲとはまた別の意味で、イサナは一目置いていた。
「調べられないこともないけど。…私、そのひと知ってるわよ。何度か会ったことがある」
 さらりと言われて、イサナは絶句した。
「だって私、もともとミサヲとは幼馴染みだし。言わなかったっけか…」
 そう言いながらくるりと椅子を返してパソコンに向かう。
「…で、何が知りたい訳?」
 リストレストに両手を置いたまま流し目で問われ、イサナは一瞬、今更ながら返答に詰まった。
 …今更知ってどうなる。
 いまだマサキを呪縛しているもの…その正体を知りたくなったのだ。だがミサヲに訊ける話でもないし、マサキには尚更。結局、先日埋葬した遺品に記された名前と所属から、その経歴プロフィールを手繰ってみるつもりでリエを訪ねたのである。
 しかしいざ、すぐにでも判ると言われると…実際に何が知りたかったのかがわからない。
 イサナの沈黙をどうとったのか、リエはそのまま手をキーボードに走らせた。
「ヨハン=シュミット・高階。今更だけど、カヲルやタカミに限らずCODE:AngelはほぼSEELEの関係者。私やあんただって例外じゃないけど、ミサヲの母さんの再婚相手だったっていう、このひと…」
 リエはリターンキーを押すと、アームに支えられたサイドモニターをくるりと返して、イサナにひとつの画面を提示した。
「見つかった写真はこれくらいね」
 そこには金と言うより銀髪に近い、端正な容貌の若い男の写真ポートレイトがあった。証明写真のデータだろうか。真正面で、衒いのかけらもない。
「…この顔を見れば判ると思うけど…ローレンツの係累よ」
 言われてみれば、カヲルに少し似ているか。
「ゼーレ系列の製薬会社…そこの医薬情報担当者メディカル・リプレゼンタティブってのはまあ、表面的な肩書きで…半分以上は研究所のほうで例のウィルス解析に関わってたらしいわ。まあ、研究所と兼務ってことに関しては別に隠してた訳じゃないから、これほどさらさらと情報が出てくるんだケドね。
 ミサヲのお母さんが働いてたのもゼーレの系列病院だから、まあ普通に職場での出逢いだったんでしょ。あと、製薬会社のほうは亡くなった前の夫・高階マサユキ氏…あの兄妹きょうだいの実父と同じ会社でもあるから、父親とも知り合いだったんでしょうね。部署が同じだった時期もあるようだし。
 …ってか、私の記憶が正しければ…マサユキ氏が亡くなる前からミサヲんに時々出入りしてたわ。むしろ元々はマサユキ氏の同僚ないしは後輩、ってとこじゃないのかしら。そうそう…サキはミサヲのこと、父親に似てるって言ってたけど…私に言わせるとサキの方が余程似てるのよね。ほら
 リエはそこで言葉を切り、マウスをクリックしてもう一つの画像を示す。穏やかな微笑を湛えた品の良い中年男性の写真。こちらはスナップからの切り取りクロップドなのかやや不明瞭で、植栽と思しき緑が背後に映り込んでいた。
 確かに、どちらかと言えばマサキに似ている…。
「…でもまあ、こんなことが訊きたいわけじゃなさそうね。ただ、私が教えられるとしたら…さしあたってはこのくらいよ。どんな研究してたかとか、調べればいくらでも出てくるけど…そういう話が知りたい訳じゃないでしょう?  後は、肚括ってサキから聞くのね」
 イサナはなんとなく俯き加減になっていたが、リエの言葉に思わず弾かれたように視線を上げた。
「知っているのか。こいつが…」
「判ってるわよ。このひとがサキの抱えてる闇、そのものだってことくらい」
 至極冷静に言い放ち、リエが椅子を返してその視線で真正面からイサナを射る。
「サキを抱くのが、ツラくなった?」
 あまりにも直截な問いに、流石にイサナが動きを止める。
「図星か。…あんたのそんな判りやすい表情なんて、およそ初めて見るわよ。ある意味、観物みものではあるわ」
「リエ…!」
 イサナは声が吊り上がるのを、止めることはできなかった。だが、リエはやれやれといったふうに嘆息して視線を逸らす。
「サキ、優しい・・・でしょ。タカミが抜き差しならないほどのめり込んだのも判る。サキの方が一所懸命突き放したってのもあるでしょうけど…あの甘ったれがよくもまあ、離れられたもんだわ。
 全く、男って奴はどうしてこう、度し難いんだろう…」
 そうして再び椅子を返すと、傍らのケースから電子煙草を出してその紅唇に挟み込み、苛々と前髪を掻き回した。
「…煙草なんて、ってたのか」
 イサナの言葉に、リエは一応他所よそを向いて細く煙を吐き出した後、すこしきまり悪げに言った。
「疾うの昔にやめたわよ。ミントの香りフレーバーしかしないでしょうが。前に見つかって、一晩かけて懇々と説教くらったんだから。寝物語ピロートークでニコチンと一酸化炭素の肺機能に及ぼす影響とか蜿々講義されたら、いくら私でも煙草と縁を切る決心がつくわ」
 誰に、とは言わなかった。文脈から察しろということだろう。この場合、マサキ以外にはあり得なかった。
「誤解のないように言っとくけど…あくまでも取引ビジネスだからね。サキは私に仕事を依頼する。私はサキにその対価を要求した。ただそれだけよ。
 私がそうしたかった。欲しかった。求めた。だから…くれた。
 サキはね、度し難い程優しいから…かったわよ、凄く。でも彼、自分が気持ちよくなろうって気ははなからないんだものね」
 憮然として、その細い指の間で器用に電子煙草のカートリッジをくるりと回しながら…呟くように言った。
「終いにはこっちがツラくなってきたの。安心なさい、もう続いてない・・・・・から」
 あまりに淡々とした告白に、イサナはある意味毒気を抜かれて黙るしかなかった。
「好きなんでしょ。どうしようもないくらい。サキは優しいから応えてもくれる。…でもね、覚悟したほうがいい。サキが抱えてる闇…いいや、氷塊、かな。半端ないわよ。
 第一、死んじゃった奴に勝てるわけないんだから」
 自分の勝手な思い込みならいい。そんなふうに考えていたことをずばりと言われてしまい、イサナは暫く呼吸を停めていた。
 リエはそれをいっそ憐れむような眼差しで見遣り、煙と一緒に細く嘆息した。

***

 それから数日、次の調査航海に関する調整と準備で俄にイサナは忙しくなった。
 研究室での会議ミーティングが長引いて夕食の準備が出来ないこともあった。イサナとしては帰省中の家事は請け負う約束だっただけに心苦しくはあったが、マサキの方は「ああ、お互い様だから気にするな」とあっさりしたものである。
 元々、マサキはイサナがいないときでも一人できちんとした食事を摂り、部屋もまあそこそこに片付けている。心配するだけおこがましいのだが、この間からマサキに無理をさせていたという自覚があるだけにイサナとしては少々居心地の悪い思いをすることになった。
 日付が変わってからようやく帰宅できる日さえあった。疲れて何もせずに眠ってしまい、翌朝起きたらイサナの分の朝食がきちんと用意されていてマサキは出勤したあと、というパターンもあり、言ってみればすれ違いの数日間ではあった。
 その数日間、出発が近づいているというのにイサナがマサキに手を出さなかったのは、義務を果たせていなかった引け目も確かにあった。しかし、どちらかというと先日来の経緯が気になっていたからだ。
 その上、マサキが酒を控えていることに気付いてしまった。
 マサキは自分からは何も言わないが、体調を崩しているのではないか。そう思うと、イサナは抱き寄せた途端にマサキが血色を失って頽れる幻想にさえとらわれてしまい、手を伸ばしてただ触れることさえ躊躇ってしまうのだった。
 考えすぎだ。どうかしている。
 顔を合わせればいつものように明朗に笑いかけてくるし、食事はきちんと摂れているようだった。顔色とて特に悪いというわけではない。それでもイサナは、不安というやつは取り憑かれると際限がないものだという普遍的な事実を、再認識する羽目に陥っていた。
 そんな中、明日には出立しなければならないという日が訪れてしまった。
 久し振りに落ち着いて家事をこなし、夕食の算段をつけてからマサキの帰宅までの時間を自室で荷物の整理に当てていた時のことであった。
「おい」
 そんな声とともに不意に肩を叩かれ、イサナは思わず硬直した。
「…そんなに吃驚しなくても。ただいま」
 振り返ると、怪訝な表情のマサキがそこにいた。
「…あ、あぁ、おかえり、サキ」
 イサナは狼狽たじろいだ。気をとられていたとはいえ、すぐそこの玄関扉の音さえ耳に入らなかったというのか。
「支度は調ったのか」
「ああ、粗方の荷物はもう送ってある。明日は手回りの物を持っていくだけだ」
「ま、お前さんは旅慣れてるから、荷物といっても知れてるな。それより、帰ってきた途端に、オーブンの中からそれは魅惑的な香りがしててな。夕食にしよう?」
「…ああ、甘鯛のいいのがあったから、包み焼きカルトッチョにしたんだ」
「それは楽しみだ」
 マサキが微笑う。
 そのその笑みはいつもと同じように穏やかでありながら、イサナの胸を刺した。この笑みは変わることはない。明日イサナがこの部屋からいなくなっても、きっと何も変わらないのだろう。
『終いにはこっちがツラくなってきたの』
 リエの述懐は痛みさえ伴うほどに理解る。優しく、穏やかで、総てを受け容れる。ひたすら海のようにただ深くひろい。それは安寧と共に、やりきれない隔絶感も与えるのだ。
「…準備しよう」
 胸中の痛みを振り切るように、イサナは立ち上がった。

***

 包み焼きカルトッチョの紙を切り開くと、湯気と一緒にワイン蒸しになった甘鯛の香りが広がる。
「何だか豪勢だな。大変だっただろう」
「そうでもない。下拵えが済んだら包んで焼くだけだし、材料も甘鯛以外、ほとんど冷凍庫で眠ってたやつの在庫処分だからな。言ってしまうと有難味が薄れるが」
「そんなことはないぞ。その下拵えが面倒だろう。また丁寧に捌いた上に小骨まで取って…」
「そうか? 俺は然程には思わんが、あったら食べにくいんだろう、小骨。よくちびどもが文句を言ってたからな」
「お気づかい痛み入るよ。相変わらずお前に魚介類捌かせると徹底してるな。三枚に下ろすとか…お前なら目を瞑っててもやっちまいそうだ」
「いくら何でもそれは手を切る」
「冗談だ。真に受けるな。怪我でもされたらコトだ」
 そう言って笑うマサキを見ていて、イサナは自分の箸が止まっていることさえ暫く気づけなかった。だから、一足先に箸を置いたマサキにやはり穏やかに問われ、思わず呼吸を停める。
「…リエに、何を聞いた?」
 ゆっくりと視線を上げると、肘杖でこちらを見ているマサキと目が合ってしまう。
「何で…!」
 リエを訪ねたことはマサキには言っていない。マサキ自身に訊きづらいことを訊きに行ったのだから当たり前だが、殊更に嘘をついた訳でもなく、至極真っ当な仕事の帰りに寄って話を聞いただけだ。
「…お前ほどじゃないが、俺だってそれなりに鼻は利くぞ。おまえさんからミントの香りなんて、柄じゃなさすぎる。染みついた潮の匂いと混じって微妙だったが、記憶にある匂いだったからな。…やっぱり図星か」
「ひっかけたのか!」
「あれも…とりあえず禁煙が続いてるようで、結構なことだ」
 くつくつと、低く笑う。その笑みをおさめて、マサキは静かに言った。
「…多分、傷つけた。それは判ってる。でも俺はどうしたらよかったのか、今でもよく判らない」
 微笑を泛べてはいたが、哀しい笑みだった。
 イサナには沈黙することしか出来なかった。リエから「サキに言ったら喉をかっ切る」と脅されたからではない。告げることで、誰も救われないことが判っていたからだ。
 だから結局、マサキの穏やかな視線を感じながらとりあえず夕食を終えてしまうしかなかった。

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