その日帰宅したマサキに、夕食の席で件の遺品についてミサヲに話したこと、ミサヲの判断でかの墓所へ埋葬したことを伝えた時、彼は目を伏せて、ただ短く「そうか」とだけ言った。
 そして黙々と食事を済ませて立ち上がった後…ふと動きを止めて、言った。
「…済まなかった。俺の配慮が足らなかったな。ありがとう、イサナ」
 それに対して、何と返答したか…イサナは覚えていない。
 ダイニングを出て行くマサキを見送り、イサナは小さく吐息して片付けに立った。

***

 入浴後の水分補給に冷蔵庫のミネラルウォーターを取りに来たイサナは、キッチンのシンクに軽く凭れてタンブラーを傾けるマサキの姿を目にして、嘆息を禁じ得なかった。今に始まった事ではないが、つい口を挟みたくなるのだ。
「…座ってゆっくり呑んだらどうだ」
 マサキの手にあるのは以前、ミサヲが研修で遠出した時の土産だといって買ってきた泡ガラスだ。使い勝手のいい形とサイズだからマサキはよく使っている。手だまりがよく置いたときの安定性もよいから、と気に入っている割には結構扱いが粗雑ぞんざいだが。
 ガラスの色の所為で何を呑んでいるのか傍目には判りにくいが、マサキがこんな呑み方をするときは大概濃いめのジンフィズ。湯上がりのミネラルウォーターと同じペースで呑むような代物では…決してない。
「そうだな…」
 イサナの指摘にマサキは苦笑して残りをあける。そして氷をたしてもう一杯つくるとグラスを持ったままリビングに足を向けた。
 マサキがリビングとダイニングの間に立ち尽くすイサナの傍をすり抜ける。まだすこし湿った色の淡いストレートから、湯上がりの匂いがジンのボタニカル1 と混じって零れた。

 どうして、こう…いちいち蠱惑的なのか。

 イサナはグラスを持ったマサキの手を揺らさないように捉え、もう片方の手でマサキを引き寄せた。距離を詰め、口づける。拒まれはしなかった。
 啄むようにして軽く触れた後、舌先で歯列を割ってジンの残り香を纏う舌を賞玩する。抱き寄せた肩…皮膚の下に緊張が走ったのを感じ取ったが、一瞬であった。
 イサナが惜しみながら離れ、グラスごと抑えていた手をそっと放すと、マサキは目を伏せたまま、すいと距離をとってしまう。ただ、そこで一度立ち止まり…つくったばかりの酒に口をつけて言った。
「お前も呑むか。値段のわりには悪くないぞ。お前ならロックでもいいかもしれん」
「…貰おう」
 当初の目的であったミネラルウォーターを空けてしまってから、イサナは冷蔵庫に鎮座していた翡翠色のジンの瓶を見出みいだした。切子のロックグラスに氷を落とし、ポアラー2 をつけた瓶を傾ける。マサキは以前ボトルのおまけで貰ったものが気に入ったらしく、蓋代わりにつけたまま瓶を冷蔵庫に置くようになっていた。
 あるいは、一応酒量をセーブするつもりがあるのかもしれない…。
 イサナはほぼストレートのまま、グラスに口をつけた。さっき感じたボタニカルの芳香と一緒に、舌を灼くような感触があった。
「…ああ、悪くないな…」
 つい先刻、唇と舌先で味わった感触が甦って…イサナは身の裡に火が灯るのを感じた。ひりつく唇を軽く舐めて、グラスを手にしたままリビングを振り返る。
 マサキはリビングのローソファに座したまま、TVも、灯りさえ点けるでもなく、手の中のグラスに視線を落としていた。
「ミサヲは…何か、言っていたか?」
 リビングの灯を点けたものか思案していたイサナに、マサキがソファの背越しに振り返ってそう問うた。
 イサナはふと、考える。イサナにとって最も印象深い言葉はイサナに向けられたものであって、マサキにではない。だから、口にしたのは別のことだった。
「…今度から母親には、あの木の下に逢いに行けばいいんだ、という意味のことを言っていたな」
「ミサヲらしいな、おおらかなことだ。…でもまぁ、確かにそうか。母さんにとっては…」
 そこまで言って、再びグラスを傾ける。心地好い沈黙が降りた。
 結局、イサナはダイニングの灯を消して薄暗いままのリビングに足を踏み入れた。
 目が慣れれば、カーテンから洩れ入る月の光があるから、真っ暗闇というわけではない。むしろ、今夜は月が明るくて…イサナはようやくマサキが敢えて天井灯シーリングライトを点けなかった理由を知った。
 カーテンを半分ほど開けて、静かな月の光で呑んでいたのだ。
 酒の味をゆっくりと愉しんでいるふうなマサキを見るのは、実のところ結構珍しい。大概、流し込むようにして呑み、倒れるように眠ってしまう。睡眠薬代わりにしているのではないかと疑いたくなるくらいだ。
 グラスを置いて、マサキがソファに背を預けた。窓外の月を仰いで、目を閉じる。小さく吐息した頬は軽く上気していた。
「…った…」
 その声は、あまりにも低くて捉えきれず…イサナはソファの背に手を突いて僅かに身をのりだした。すると、マサキが目を開け手を伸べてイサナの前髪に触れる。
「ミサヲにとっては決して悪い父親じゃなかったのにな…やっぱり気にしてたのか…」
 その所作が、薄闇にあるときのイサナの両眼が持つ、青紫に近い色彩いろを探してのことであると知っていたから…イサナは何も言わずにソファの肘に掛け、少しマサキに覆い被さるようなかたちでそっと顔を近づけた。マサキはイサナの前髪を掻き遣って暫くその眼を見ていたが、ややあって目を再び閉じた。
 安心したように吐息を洩らす唇に、イサナはロックのジンで少し痺れた唇で触れる。続けて何度か啄む間にも、今度は触れた膚の下に緊張の細波さざなみが走ることはなかった。迎え入れるように唇を開くから、そこから覗いた舌を捉えてわざと少しきつめに吸いたてる。
 流石に抗議するように襟許を掴んだマサキの指は、すぐに弛んだ。だが、襟許から腕をなぞってイサナの手の中のロックグラスに辿り着くと、するりと奪い取る。
 思わず唇を離したイサナに、マサキはちいさく笑った。そして奪ったグラスの縁に軽く口づける。イサナも知っていて持ち出したが、マサキはこのグラスも気に入っているらしい…。
せわしないやつだな。グラスぐらい置けよ。零れたら勿体ない」
 そしてイサナが止める暇もなく、そのまま半分ほどを喉奥へ流し込んでしまう。
 咽せこそしなかったが、わずかに眉を顰めてグラスを置いた。その手で軽く喉元をさする。
「…結構、来るな」
「当たり前だ、莫迦。何をトドめ刺してる…!」
 ボトルごと冷蔵庫にあったジンはよく冷えていたから、落とした氷もわずかなものだ。本来は芳香を愉しみながら舐めるようにして呑むのが普通で、事実イサナでさえそうしていた。ただでさえ酔いが回りかけていたマサキがあんな呑み方をしたら。
 案の定、マサキが深く吐息して俯き、再びソファの背に凭れ掛かる。その喉奥から、細く声が洩れた。
「ずっと…怖かった」
「…だから、こんな無茶な呑み方をするのか。あんたはもう、悪い夢の中にいる訳じゃないんだろう」
「…あのひとが怖かった。でも、あのひとに抱かれてよろこんでる自分がもっと怖かった。拒めない自分が厭わしかったし、母さんやミサヲに知れたらと思ったら生きた心地がしなかった」
「でも、みな終わった。消えてしまった。そう言ったのはあんただ」
「ああ、俺がそう願った。そしてその通りになった。あのひとも、母さんも、それまでの生活もみな消えてしまって…罪だけが残った」
「…罪?」
「悪いのは拒めなかった俺なのに…すべてを憎んで消えてしまえと願った罪」
「あんたが願って起きた事故じゃないだろう」
「そりゃそうだろうな。…でも、そう願ってしまったことは事実だ。俺が起こした訳じゃない。でも、そうなってしまった。それだけじゃなく、大切なものがたくさん消えた。ミサヲも危うく失うところだった」
 咄嗟に何も言えなくて、イサナは口を噤む。その間に、マサキはもう一度切子のグラスのほうを取って口をつけていた。…もはや、イサナは止めることすら忘れていた。
「罪には、罰がある。
 くないわけじゃない…と思う。…でもいつも、どこか後ろめたさがあって…ききれない」
 思いがけない言葉に、イサナは硬直した。
「…俺じゃ、駄目か」
「お前が悪いんじゃない…」
 宥めるようにイサナの頬を撫でた手は、そのまま滑り落ちた。腕を持ち上げておくのさえ億劫だというように。
「タカミの時とは違う。可哀想に、あの時のあいつには俺ぐらいしか縋りつく相手がいなかったんだ。俺は、あいつが落ち着きさえすればよかった。最低な手段だって判ってるのに、それでも放っておけなかった。…苦しくて当たり前だった。胸を裂くような痛みがあったとして、俺には当然の罰だったんだ。
 あいつは、俺なんかから離れられてよかった」
 そう言って、吐息を零す。そんな所作さえ、いっそ扇情的。
「…酷い言種いいぐさだと思うか? でもお前は俺を望むという。俺だって、お前のことが嫌いというわけじゃない。大切だと思うし、頼りにもしてる。俺に叶えてやれることがあるなら何とかしたいとは思ってる。だから…お前が望むなら付き合わんことはない。
 だが、この後ろめたさがどうにもならない。…酒にでも頼るしかないんだ。
 …済まないな、イサナ。何度でも言うが、お前が悪いんじゃない。一応信じて欲しいんだが…これでも、お前のことは好きなんだ」
 そう言って、マサキは再び手を伸べ…イサナの頬に触れようとした。
 イサナはもう何をどう言っていいのかわからずに、伸べられた指先を捉えて口づけた。それを、マサキはひどく透明な眼差しで見ていた。
 与えられる感覚に戸惑いながら、それでもなお熱を宿すことのない眼差しが哀しい。イサナは捉えた手を些か手荒く引き寄せ、ソファに膝を突いて距離を詰めた。そして、マサキの頬から顎にかけてのラインをなぞりながら問う。
「忘れるのは、無理なのか」
 問うておきながら、イサナはその返答を俟たなかった。片手を伸ばしてソファのリリースレバーを思いきり引き、背凭れを倒す。背凭れごと押し倒される格好になったマサキが衝撃に小さく呻いた。
「無茶するな、壊れるぞ…」
 酔いと相俟って軽い眩暈を生じたらしいマサキが、額に手を遣って嘆息した。俄に起き上がることも出来ずに軽く頭を振る。イサナはやおらその両肩を押さえ込んだ。
 スエード調の生地が張られたそのソファは、やや手狭とはいえフルフラットにすればベッド代わりにもなる仕様だった。イサナがここへ来たばかりの頃、空き部屋にベッドが入るまでの間、此処を使っていたこともあるので知っていた。
「壊れたら…壊れるまで抱き潰したら、忘れられるか」
 イサナがのし掛かり抑え付けても、双眼の黒褐色が怯えの色をうかべることはない。今なら、酒精アルコールが効いているということか。むしろ揶揄からかうような笑みをその唇にのせて、マサキは言った。
「またこのオルキヌス・オルカは。平生へいぜい、壊れる寸前まで追い詰めてくれる癖に今更何を言ってるんだか。
 せめてカーテンは引け。月が明るすぎる…」
 そう言いながら抗いはしない。そのことが幽かにイサナの胸を刺したが、堰き止める程の力はなかった。
「…たまにはいいだろう。こうでもしないと、あんたが見えない」
 皓々たる月光の下へマサキを組み敷き、身の裡から噴き上げる熱を抑え付けながら、イサナは呻くように言った。そして、聞き分けの悪い情人を途方に暮れたように見上げているマサキの耳朶から顎へと、指先で輪郭をなぞり…顎を捉えて深く口づける。
 そうして…まだ口中へほのかに残っていたジンの香味を、マサキが呈しかけたであろう苦言と一緒にきつく吸い上げ呑み込んだ。
 そう、あんたが見えないんだ。こんなに近くにいるのに。
 実はあの最初の夜から、この関係は何も変わっていないのかも知れない。こんなに近くにいて、あともうすこしが…永遠のように遠い。

***

 冴えた月光は、半分ほどあけたカーテンの間から洩れ入るだけ。それでも残酷なほど明瞭に…その姿態を照らし出していた。
 フルフラットになったソファに俯せたまま、マサキの身体は激しい律動に揺らされている。服は片袖がわずかに纏わるのみ。疾うに頭を擡げる力はなく、ソファに額を擦りつけ両肘でようやく上体を支えている有様であった。
 ソファへ敷布シーツ代わりに敷かれたというより、ただ脱ぎ散らかされただけの服。縮緬ちりめんほどに皺腐しわくたになったその上には、どちらのものともつかぬ汗がとめどなくぱたぱたと滴り落ち…くぐもった苦鳴がソファの軋む音に紛れる。
 遂に上体を支えていることさえ出来なくなって、マサキの身体が横様よこざまに倒れた。そこでようやく、イサナは身を離す。
 やっとのことで解放はなされた身体は荒れた呼吸で揺れ続け、時折痙攣さえ起こしている。汗で濡れた背を、イサナは丁寧に舌先でなぞり上げた。
「…っ…あ…」
 苦鳴とも嬌声ともつかない声と一緒に、色の淡い髪が揺れる。イサナはその下に片腕を差し入れて枕にし、汗に濡れた背に身体を寄り添わせた。もう片方の腕で腰を引き寄せ、まだ潤みを残している部分へもう一度…今度はやや性急に侵入する。身体が密着し、再び押し寄せた充溢感にマサキが今度こそ掛け値なしの苦鳴を洩らした。
「苦しい…のか」
 言わずもがなの問い。マサキが返せたのは辛うじて掠れた、浅い嘆息だけ。それでもイサナは、身体を重ねたまま前へ回した手で熱を孕んだ部分を更に煽り立て追い詰めた。
 イサナの手の中で、熱を持った部分は確かに露を含んで張り詰めている。それなのにさやかな月光の下、腕の中のマサキが泛べているのは苦痛でしかなかった。それが哀しくて、イサナは濡れた身体をさらに強く抱き締めてしまう。
 そのまま首筋に印を刻めば、深く繋がった部分が強く締め付けられた。眩暈がするほどの快美感にイサナが思わず目を閉じると、手枕に差し出していた腕…その掌に何かが触れる。
 はっとして、目を開ける。マサキが手を伸べ、掌を重ねていた。絡めた指に、何かに耐えるような力がこもるのが判る。
『どこか後ろめたさがあって…ききれない』
 耳の奥に残った言葉は、イサナの胸腔に落ちて突き刺さる。潮が引くように、熱が失せていった。
 どうすればいい。
 イサナは重ねられた掌をそっと握り返し、熱の中心を煽り立てていた指先を離した。

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  1. ボタニカル…本来は植物性の、植物の、といった意味。この場合ジンの蒸留で風味づけに使われるハーブや果物の皮、スパイスなど草根木皮をいう。ジュニパーベリー、コリアンダーシード、アンジェリカ、レモンピール、オレンジピール、ジンジャー、シナモン…etc.このブレンドがそのジンの特徴とも言える。日本産のジンではお茶も使われるそうな。
  2. ポアラー…注ぎ口のこと。この場合は定量ポアラー。一回ボトルを傾けるごとに決まった量の(30~45ml)酒を注ぎ出すことができる。日本酒など粘度の高いアルコールでは若干不正確になるそうな。ちなみにワインボトルにくっつけるデキャンティングタイプのポアラーは注ぐときに空気をとりこむ(デキャンティング、エアレーション)ためのもの。基本は注ぎ口なので蓋になるわけではないが、蓋付きのポアラーもあるそうな。