――――決して約束の言葉はくれない。だが受け容れてもらえたと思っていた。マサキはイサナがこの部屋に戻ってくることを許したし、抱き寄せればその身を委ねてもくれるからだ。
それでも相変わらず…時に鳥肌を立てる勢いで拒否した。そしてその夜、マサキは決まって深酒をするのだ。
然程強くもないくせに、呑むのは好きなことは知っていた。しかしそういう夜は、明らかにいつもより濃い目の酒を流し込むようにして呑み、倒れ込むようにして寝室へ引っ込んでしまう。イサナが話しかけても、曖昧な応えがあるだけだ。服をほどき、その肌に触れても…気怠げに薄目を開けてさせるままにしている。
それはまるで、故意に酒精で思考を麻痺させているかのようであった。そうでもしないと行為が苦痛であるかのような。しかしそうしてでも、マサキはイサナの望みに応えようとしてくれる…そう思えば嬉しくもあり、哀しくもあった。
識り尽くした鋭敏な部分にイサナが注意深く触れていく時、肌は朱を帯びて徐々に熱を孕み、抑えようとして掠れる嬌声にかすかに喉を震わせ、背に腕を回してくる。それでも、イサナの不安は消えない。自分だけが一方的に快楽を得ているような罪悪感が、常につきまとうのだ。
…それが、苦しい。
嫌ならそう言ってくれ、と言ったこともある。だがそれに対するマサキの返答は決まっていて…しかもひどく屈折していた。
『お前が望むなら、付き合わんことはない。…いつも応えてやれるとは限らんがな』
過去に、マサキが義父にあたる人物から性的虐待を受けていたことは聞いた。妹に累が及ぶことをおそれて拒むことも、誰にも相談することが出来ず、ただ受け容れるしかなかったと。
『身体に傷が残るほど痛めつけられたわけじゃない。…殴られた記憶もないし、物理的に拘束されたわけでもない。…それなのに、あの人が怖ろしかったし…抗うことが出来なかった自分が嫌だった』
その義父も件の災害でこの世を去っている。だから終わったことだとマサキは言うが、街ひとつを灼き尽くした業火…あの悪夢のような光景を彷徨った記憶のほうがまだましだと言えるような地獄が、傷にならない訳はない。
先頃、その義父の遺品が再開発地区で発見された時のことだ。
現在ドイツで曾祖父キール・ローレンツの地位を引き継ぎ、ある程度実務もこなしながら勉強中であったカヲルが、遺品がみつかったという連絡を受けてわざわざドイツから帰ってきた。他でもない、見つかった遺品を確認の上マサキに手渡すためである。経緯など知る由もないカヲルの、常になく健気な気遣いを慮ってか…マサキは表面上は至極冷静に受け取って帰ってきた。だが、その夜イサナはマサキの傷の深さを改めて識ることになる。
食前酒程度しか口にしていなかったのに、気が狂れたようにイサナを求め、快楽を得るためというより明らかに自身を傷つける目的で行為にのめり込む姿は、傷ましさを越えて、ただ哀しかった。
初めてマサキの方から求めてくれたことに、イサナが昂らなかったといえば嘘になる。だが、氷塊を呑まされたような冷たい重さが胸奥にのしかかり、イサナ自身も何度か達し損ねて、結果としてマサキを長く苛むことになってしまった。
激しすぎた呼吸のために一時的な四肢の痺れをきたして、ぐったりとシーツに沈んだマサキは、暫くしてようやく落ち着きを取り戻し…イサナに言った。
『目が覚めたときに、お前のその蒼に近い紫を見たら…何か安心するんだ。…自分がもう、あの悪い夢の中にいる訳じゃないって確認できるような気がするから…かな。
いつまでもとは言わん。…せめて俺があの紅を忘れることが出来るくらいまでは、居なくなったりするなよ、イサナ』
必要とされることは嬉しい。だが今も、〝あの紅〟はまだマサキを呪縛している。不意の拒絶も、理性を眠らせてまでイサナの望みに応えようとする態度にさえ、それをある種の胸の痛みとともに感じてしまう。
それはおそらく、妬心に似ていた。
***
その遺品…職場のIDカードを兼ねた、焼け焦げた名札を、マサキは「片付けて」くれと言った。取っておく意味はないものだと。イサナはそれを肯い、「片付け」を請け負ったものの、あることに気づいてまだ遂行できないままでいた。
他でもない…ミサヲにこの遺品のことを伝えるべきなのかどうか、である。
高階ミサヲ。生存を確認された最後のCODE:Angel…あの災害の中、マサキが収容施設から抜け出し、まだ業火燻る地獄の中に再び身を投じてまで捜し出した妹である。
外面は穏やかだが存外豪胆な娘で、イサナと同年、女児としては最年長であったことからあの頃から自ら子供達の母親役を買って出て、甲斐甲斐しく隔離された子供達の世話を焼いていた。現在は看護師として、マサキと同じ病院に勤務している。
彼女にとっても義父に当たるのだ。マサキにとっては悪夢そのものであっても、外面的には温厚な義父の顔を保っていたらしいから、遺品を処分するにしても、一度確認を取るべきだろう。第一、確かに渡した筈の遺品のことをミサヲが知らなかったら、カヲルが不審に思うのは明らかだ。
だが、イサナはそのことを…マサキに言い出し損ねていた。
***
「そう、見つかったの…」
黒褐色の瞳と、色の淡い髪はマサキと同じだが、顔立ちは早世した実父に似ているのだと…以前マサキから聞いたことがある。
その黒褐色にひたと見据えられ、イサナは思わず狼狽いだ。
落ち着いた雰囲気の喫茶店。表通りからはすこし引っ込んだ場所で、外の喧噪が届きにくい3階にある。昔のポップスをスローなピアノソロにアレンジした曲が低く流れていた。フロア全体に敷かれた毛足の長い絨毯のお陰でスタッフはもとより客の足音も殆どしないから、店の一隅に置かれたピアノが生演奏される時は染み渡るようによく聞こえるという。時間によってはアンティークのディスクオルゴールの音色も披露されるらしい…という話は、ミサヲから聞いた。
結局、マサキには言い出せないまま、イサナの判断でミサヲに連絡を取ったのだった。家に行けばいいのだが、そうすると賑やかな面々がいるからこみ入った話はしづらい。外で会えないか、というイサナの問いに、ミサヲが指定したのがこの店だった。
イサナからデートの誘い?明日は雪かしらね…などと揶揄われた挙句、当直明けのミサヲと、職場からもほど近いこの店で落ち合うことにしたのだった。
当直明けという事実を会ってから知らされたイサナは慌てたが、ミサヲは鷹揚に手を振って「休日にわざわざ出かけるより、直明けにちょっと仕事が押したって態で帰りが遅くなる…ってほうが、バレにくいのよ。どうせ、おおっぴらにはしにくい話なんでしょ?」と言いきったものである。
まだ何も話していない段階でいきなりそう切り込まれ、イサナは暫く絶句してしまった。マサキをして、おそろしく勘が鋭いから隠し事はするだけ無駄、と評させるこの女傑に…マサキに無断でこの話を持ってきてしまったことを、イサナは早くも後悔していた。
だが、こと此処に至ってどうなるものでもない。仕方なく、イサナは研究所跡の再開発地区でこの遺品が見つかり、連絡を受けたカヲルを経由してマサキへ届けられた経緯をなるべく簡潔に説明し、マサキは処分して構わない意向であることを伝えた。
マサキが壊したケースは破棄し、研究室のストックから丁度良い大きさのもの見繕い、入れ替えている。ミサヲはそれをケースごと手に取って、暫く名状し難い視線を注いでいた。哀しむような、懐かしむような、憐れむような、安堵したような…。
そしてケースを手にしたまま徐に顔を上げ、イサナを真っ直ぐに見て言ったのである。
「…で、サキは遺品について私に判断を委ねる、と?」
イサナは返答に詰まった。Yesと言ってもNoと言っても、結局は嘘をつくようになる。マサキがこれを処分するよう言ったのは事実だが、ミサヲに知らせたのは言ってみればイサナの独断だ。どう答えたものか…。
不意に、ミサヲが破顔一笑する。
「やだ、イサナってば何、追い詰められた顔してるの」
「ミサヲ…」
「判ってるわよ、サキはそんなこと言わなかったでしょ。それどころか、私に内緒で処分しようとした」
イサナはミサヲの表情で、自分が明らかに顔色を変えてしまったことに気づいた。
「…ごめんなさいね、イサナ。気をつかわせちゃって。ええ、知らせてくれてありがとう。でもやっぱり、私も手許に置いておけないな。思い出しちゃうし、私だってあのひとのこと、キライだったし」
ミサヲはそこまで言うと、ケースを置いた。そして代わりにティーカップを取り上げて一口飲む。
イサナは思わず息を呑んだが、ミサヲは構わず言葉を続けた。故意に、イサナに口を挟ませないために敢えて思いつくままを羅列しているようにも思えた。
「ああ、でも母さんが好きになった人には違いないのよ。
誤解しないでね。見た目はそこそこよかったし、忙しい母さんときちんと家事分担してた。休みの日なんて、結構真面目に家の中掃除してたよ? むしろ、ちょっとズボラな母さんよりマメだったかも。でも、料理はあまり上手じゃなかった。母さんがいないときは、つくるの私で、洗うのがあのひとの担当だったな。日本語は流暢だったし、言葉も丁寧だった。世間的には、いい父親って感じだったわよ。母さんも助かってたと思う。
…でも私はキライ。キライになった。…サキを苦しめてたの、あのひとだったから」
そして遂に、ミサヲは口を閉ざした。ティーカップにかけたままの指が、小刻みに震えている。
「サキは何でもないフリするの上手だけど…私にはわかってた。わかってたのに、何もできなかった…!」
「…ミサヲ、お前…」
ティーカップがかたかたと神経質な音を立てているのに気付いたらしく、ミサヲはカップからそっと手を離した。そうして、目許を隠すように額へ手を遣る。
「何も出来ない子供だったことが口惜しい。…でも、その時私が大人だったとして…私になにかできたかどうか。実のところそれもわからないのよ。
あのひとが悪い人じゃなかったことぐらい、私にもわかってる。多分、母さんのことも愛してたんだと思う。母さんだって、あのひとと再婚したことで、経済的なことだけじゃなくて、心にも余裕が出来て、笑うことが増えたってことだって判ってる。私だって最初からキライだったわけじゃない。だって、普通に優しかったもの。
でも、あのひとの所為でサキが苦しんでた。あのひとがサキに何をしたかってことじゃないの。…道義的には決して赦されることじゃないけど、サキがそれで幸せになるなら私は別に構いやしなかった。だって、好きになったんなら仕方ないじゃない。
でもサキは苦しんでた。だから、私はあのひとがキライになった。何も択ばず、ただサキを苦しめただけのひとなんて大キライよ」
決して激してはいない。淡々と、しかしとんでもないことを口走るミサヲを前に、イサナはただ声を失っていた。
ミサヲは一旦言葉を切り、深く吐息して天を仰いだ。泣いてはいない。だが、その目の縁は僅かに紅味を帯びている。
そして、ぽつりと言った。
「…誰かを好きになる、ってことが…いつも、幸せなら良いのにね」
***
CODE:Angelと呼ばれた子供達…事故の生存者が収容・隔離されていたその建物はもともと療養所敷地内の一郭であり、本来は爆発の原因となった研究所を設立・運営していた複合企業の所有であった。しかしCODE:Angelが監視を外されるに伴い、ゼーレの前CEOキール・ローレンツに個人的に買い上げられ、キール・ローレンツ亡き今、直系曾孫にあたるカヲルの所有ということになっている。
カヲルが成人に達するまでは叔父にあたるタカミが未成年後見人となってその管理を行うというのが建前だが、この後見人も委細は弁護士に任せている。この弁護士というのが他でもない、キール存命中にはその意を受けて動き、現在はドイツでのカヲルの実務を補佐する真希波マリ・イラストリアスであった…。
まだ学生であるCODE:Angelの数人はいまだここに暮らしている。ミサヲのように就職してもここから通う者がおり、マサキ達のようにそこから出て生活している者もいるのだが、皆が「家」と言うときには共通して此処を指していた。
周囲は療養所との一応の区切りとして植栽がなされているが、その中に一本のハナミズキがあった。
その樹の下には、CODE:Angelー01と呼称された人物の墓がある。
今ではそれが、セラフィン・渚=ローレンツ、カヲルの母親でタカミの実姉にあたる人物であったことがわかっている。ただ、遺体はない。子供達が、数日を共にしただけのその女性の死を知らされた時…皆で相談し、やはり敷地内から拾ってきた子供の頭ほどの石を置いて墓にした。
子供達が墓をつくった当時、既にその樹は十分な喬木であったが…年月を重ねて今は更に豊かな木陰をつくっている。ミサヲはそこへ遺品を埋めることを望んだ。ただ棄てるのも気が引けるし、他に良いところを思いつかないから、と。
イサナが物置で道具を探していると、今日は部活が休みだった、とタカヒロが戻ってきた。事情をかいつまんで話すと、タカヒロが樹の根を傷めないように掘らないと駄目だよ、といって道具持参で追従てきたから、最終的に3人でささやかな儀式が行われることになった。
「ふうん…まあ、名札なら間違いようがないよな。前に学校で花壇つくってたら、土の中から半分溶けたボールペンが出てきたことあったんだよね。あの時はそのまま埋めちゃったけど…アレも多分、誰かの遺品っちゃそうなんだろうなぁ」
木の根元に30㎝ほどの穴を掘って件の遺品を収め、土をかけながらタカヒロが言った。ついでだからと錠剤状の固形肥料を埋めることは忘れなかったが。
これまでに、子供達の親族に関する遺品のようなものが報告された例はない。焼け焦げた遺品とおぼしきものはいくつか見つかっていたが、個人を特定出来るものは今回が初めてであった。
「今度から、何か見つかったらここに埋めさせてもらえばいいね。それが誰のでもいいさ。みんなここにいると思えば」
「いいこと言うわね。…そっか、母さんもここにいると思えばいいのか…」
そう言って、ミサヲが笑った。
「ありがとう、タカヒロ。お疲れ様。そうだ、冷蔵庫に茜屋のお持ち帰りケーキがあるから食べていいわよ。あ、人数分しかないから欲張らないでね?」
「ホント!? 例のクリームたっぷりアールグレイシフォン?やたっ、ミサヲ姐、ありがとっ!」
スキップするような歩調でスコップを肩に担いだタカヒロが帰って行く。それを見送り、ミサヲが半ば木の根に埋まるようにして鎮座するその石の前に膝をついた。祈るように瞼を閉じて、暫く沈黙を守る。ややあってそっと目を開けて言った。
「…ねえイサナ」
「何だ」
「私ね、サキが好き」
その言葉の真意をはかりかねて、イサナは黙った。
「タカミや、リエ、カツミ、ユキノ、ナオキやユウキ、タカヒロ、ユカリ、ミスズ…みんな大切で、大好き。勿論、あなたもね…イサナ」
ミサヲが、ゆっくりと振り返る。
「…でもね、サキを苦しめるひとはキライ。多分、憎むことさえ出来ると思う。私があのひとを憎んだみたいに」
穏やかだが、強靱な光を湛える黒褐色が、イサナを捉えた。
「…あなたをキライにさせないでね、イサナ。誰かを憎むって、凄く疲れるし、哀しい」
暫く、どう答えてよいものか判らず…イサナはその場に立ち尽くした。
「…わかった。肝に銘じる」
長い間があって、イサナがようやく絞り出した言葉に…ミサヲは完爾として立ち上がった。