Moonset~月の雫~

 忘れることは、できないのか。


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 「breezeⅦ」

Moonset ~月の雫~


 カーテンの隙間から、薄青い月光が洩れ入る。
 鯨吉イサナは、その青い薄闇の中で緩慢に身を起こした。寝乱れた敷布シーツに零れる色の淡いストレートに、そっと指をくぐらせる。
 指通りのよい髪は、イサナの手を素っ気なくすり抜けた。イサナは細く吐息してさらに手を伸べ、先程まで熱を帯び、桜色に染まっていた頬に触れる。軽く撫でてみると、その肌は既に汗も退いてさらりとしていた。俯せた背は今はただ緩やかに規則的な起伏を繰り返している。

 高階マサキ。2歳上の情人。最初の経緯は酷いものだったが、今もこうして一緒に住み、いくつかの約束事ルールさえ守ればイサナの望みに応えてもくれる。
 温かく、冷たく、広くて、捉えどころがない。退けばただそこに在るだけで、近づけば穏やかに迎え入れる。怖れれば親しみを見せ、侮れば手痛い報復がある。
 ――――グラン・ブルー、そのもの。
 海洋調査船のクルーであるイサナは一度仕事に出ると数週間、場合によっては月の単位で帰れない。だがこのグラン・ブルーはいたって澹泊で、数日いようが数週間不在だろうが全く頓着してくれないのだ。
 それでいて、イサナに全く無関心という訳ではない。
 以前、イサナの乗った調査船が火山の噴火で起きた津波に巻き込まれ、通信が途絶した時…一方的に離別わかれを宣告されたことがある。

 …曰く、「今なら戻れる」と。

 これ以上一緒にいると、うしなった時に正気を保てる自信がないというのだ。
 自分の求めている意味とは多少のズレがあるにしても、必要とされているとわかったのは嬉しい。だが何故、喪うことが前提なのか。今迄マサキが辿ってきた道を思えば無理もないこととは思いながら、それがイサナにとっては口惜しくもあり、哀しくもあった。
 だから、言った。
『あんたはまだ戻れるのかも知れないが、俺は戻れん。だから、此処に居させてくれ。その代わり、あんたが壊れそうになったら今度は俺が必ず引き留める。
 あんたに放り出されたりしなければ、俺は何があっても必ず此処に帰ってくるし…当面まともでいられる』
 今にして思えば、無茶苦茶なことを言った。ひっくり返せば、追い出されたら死んでしまう。狂ってしまう。そう言っているようなものだ。追い詰められた地雷女の脅迫じみた言いぐさだった。今でも思い出す度に底なしの自己嫌悪に駆られる。もし誰かにそんなことを言われたら、イサナでも全力で縁を切る算段をするだろう。
 だが、マサキはそうしなかった。呆れたように「仕方のない奴だな」とだけ言って、結局ミサヲに頼んでいたらしい転居ひっこしの件も沙汰止みにしてしまったのである。
 何も解決してはいない。すべてを受け容れるグラン・ブルーが、小さな魚イサナの身勝手な憤懣をそのひろたなごころで受け止めているだけ。
 イサナとしては、ただ困らせたい訳ではないのだ。自分がマサキを必要としているように、マサキにも自分を必要として欲しい。そう思うだけなのに。
 ――――俺はあんたがいるから、息をしていられる。それなのに、いつまでも傍にいろ、とは決して言ってくれない。
 時折、それがたまらなく哀しくなる。
 イサナは月光の下、規則的な起伏を続ける背に唇を寄せ、肩甲骨のラインに沿ってそっとなぞった。何度かそうしているうち…ひくり、と皮膚の下を緊張の細波さざなみはしって、閉ざされていたまぶたまつげが微かに震える。構わず同じラインを今度は舌先でなぞると、あえかに掠れた嬌声が上がり…うっすらと開いた瞼の下から眸の暗褐色ダークブラウンが僅かに覗いた。
 そしてやはり掠れた声が自分の名を紡ぐのを無上の愉悦とともに聴いてしまうと、もう自制が効かなかった。夜明けが近いことも知っていたが、イサナは些か性急に俯せた身体を抱き起こして顎を捉え、深く口づける。
 舌先で歯列を割り、舌を絡めると…マサキの喉奥にかすかな苦鳴に似たものを聴いた。しかしその苦鳴にイサナが思わず動きを停めてしまう寸前で、いつの間にか伸べられていた優しい手がイサナの腕から肩をそっと宥めるように撫でる。
 仕方のない奴だな。
 吐息雑じりの、そんな声が聴こえた気がした。肩から背に辿り着いた繊細な指先は、イサナの広い背中をゆっくりと撫でるだけだ。だが、たったそれだけの動きが、イサナをひどく昂らせた。内奥でたける熱に浮かされながら、思わず唇を離してマサキの耳朶をむ。その瞬間に吐き出された甘く掠れた息が、逆にイサナの耳朶をくすぐった。
「あまり煽ってくれるな…歯止めリミッターが効かなくなる」
 夜明けが近い。もう一度、とねだれば、折角の休日を棒に振らせるつもりかと睨まれる時刻だ。イサナはそれが判っているから、ただ抱き締めてその体温を賞玩する。…それなのに、おそろしく扇情的な、しかもかすれを伴った声が、イサナの耳孔へ滑り込んで苦笑雑じりに揶揄からかうのだ。
「抜かせ。最初から歯止めなんてないくせに…」

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