Le Grand Bleu
島影ひとつ見えない、夜明け前の海。
調査船の甲板に鎮座するデッキクレーンのフレームに背を凭せかけて、鯨吉イサナは漫然と潮の歌を聴いていた。
最低限の機関は動いている筈だが、此処に居れば水と風の音しか聞こえては来ない。
この時間が好きだった。
水底の静謐は好ましい。だが、海の上で聞こえるこの歌には代え難い。頬を、腕を撫でていく微風と、潮の香り。雑事を一時忘れてただ身を委ねる。
目を開けて遙か海と空を見ると、雲一つない快晴なのに・・・何か月の姿は滲んでいる。
先刻から引っかかっている違和感を、自分が無理矢理意識から閉め出そうとしているのを理解ってはいた。
考え始めると捉まってしまいそうだから。
海のことだけ考えていた。いつも。海から離れてしまうと、訳のわからない渇きに苛まれるほどに。しかし今回の調査航海では・・・すこし勝手が違う。
調査の時はいい。仕事に身が入らない訳でもない。
仕事とプライベートが完全には分かちにくい艦上生活の、ふとした隙間。・・・不意に囚われてしまう。
サキ・・・高階マサキ。何処までも透明に見えて、深い闇を抱えた2歳上の情人。
Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 「breeezeⅤ」

Le Grand Bleu
最初に欲しい、と思ったときには・・・その心は既に別の誰かのものだった。
一緒に住むようになり、紆余曲折を経て、求めれば応じてくれるようになった今でさえ、決してすべてを預けてくれてはいない。
そしてイサナが航海に出る時も、帰った時も、いつもその反応は至って淡泊だ。
『あぁ、行くのか』
『何だ、戻ってたのか』
イサナの不在は月の単位だが、まるで毎日戻ってきているかのような気楽さだ。おそらく、イサナがある日突然帰れなくなっても・・・大した感慨を持つことはないのだろう。そんな風に思えるほどに。
それが、今回は違った。出立を告げたイサナに、いつものように『あぁ、行くのか』と振り向きもせずに自身の出勤の支度をしていたマサキが、ふと振り返って問うた。
『・・・いつ、戻る?』
透明な表情からは、何一つ読み取れなかった。一瞬イサナは訳もなく言葉に詰まったが、大体の予定を告げると、マサキは僅かに目を伏せて言った。
『判った。・・・気を付けて行け』
誰かを送り出す科白としては、決しておかしくはない。事実、今までそんなやりとりが絶無だった訳ではない筈だ。
それでも・・・そのとき感じた違和感は、いまだ喉にかかった小骨のように残っている。
多分、こんな風に心配されることを・・・マサキは望んでいない。自身が誰かのものになるつもりもなければ、誰かを所有したいとも思っていない。タカミに対する態度を見ていると、イサナはそう思う。
海・・・。
退けばただそこに在るだけで、近づけば穏やかに迎え入れる。怖れれば親しみを見せ、侮れば手痛い報復がある。何処までも透明に見えて、深い闇を抱えている。…識りたいと渇望し、イサナがずっと追い続ける海そのもの。
だから惹かれた。魅せられた。欲しいと思った。海は決して独占できないが、傍に居ることは出来る。
―――――それでいいと、思っていた。
ただ、あの日。ふと目を伏せたときの、言い表しようのない危うさが気にかかっている。
譬えて言えば、乾燥しきった白珊瑚の標本が、無造作に資料の谷間に置かれているのを見たときのような不安感。
だが、何が出来たというのだろう。それが判ればこの気鬱とも縁が切れるのだろうが。
僅かに頭を振って、イサナはゆっくりと息を吸った。潮の匂いと、風の音が波立った心の内を鎮めてくれるのを待つ。
だが、静謐は階段を上る金属質な音で破られた。イサナは身を起こして甲板へ降り立つ。
「イサナ、そこか。緊急事態だ」
同僚の研究者だった。顔が引きつっている。
「・・・何があった」
***
「だから、まだ第1報が入っただけで全然状況がわからないんだ。タカミなんか半狂乱でさ・・・放っといたら米国の軍事衛星でもハックしかねない勢いなんだって!
とりあえず赤木先生にも連絡して、ちょっと落ち着かせてやってって頼んだけど・・・サキも一応連絡とってよ。・・・て、不在着信が入ってたって?なんですぐリターンしてやんないのさ!? 運転中だった?あーもう!
とにかく今、SEELEの情報網を総動員させてるから、情報とれるまで待っててって。絶対早まんないでって!」
渚カヲルはディスプレイに次々と表示される情報に目を走らせながら、やや早口にまくし立てた。しかし、ヘッドセットから聞こえてくる電話の相手の声は至って平静だ。
【仕方ない奴だな。天変地異相手にテンパってもしょうがあるまいに】
「そーやって誰も彼もあなたみたいにバッサリ割り切れる訳じゃないんだって。・・・いい?頼んだからね!?」
マサキの落ち着きぶりに自分も慌てていることを自覚したものだから、カヲルは少しむっとして、やや乱暴に通話を打ち切った。そして一度ゆっくり深呼吸してから、ディスプレイの隅、時刻表示に目を走らせる。
日本とドイツの時差は約8時間。マサキがぎりぎり電話のとれる時間帯だったのは幸いだった。
3時間程前のことだ。ある海域の、比較的水深の浅いところで海底火山の爆発が観測された。本来それほど火山活動が活発でもなかったから、それほど警戒されていた場所でもなかった。たまたま米軍基地が近くにあったものだから判ったのだが、問題はその噴火が海嶺の一部に崩落を起こし、津波が発生したということにあった。
イサナの乗った調査船が、その頃丁度被害地域にいた可能性がある、ということに最初に気づいたのはタカミだった。
居候の出張先について至って無頓着なマサキと違い、タカミやミサヲは一応行き先を把握していた。ミサヲは勤務中でまだ津波のニュースにさえ触れられなかったが、仕事をしながらでもニュースのチェックは怠らないタカミが、それに気づいたのである。
カヲルが、完全に浮き足立っているタカミからの電話を受けたのが30分前。
状況を確認しようにも、マサキの言うとおり天変地異相手にどうすることもできないというのが実情ではあったが、カヲルに打てる手段はすべて打った。その上で、書面上身元引受に指定されているマサキの方へ大学から何か安否情報が入っていないのかということにも思い至って連絡を取ったのだ。
結果、身元引受人は出張先さえメモを見ないと判らない、という些か拍子抜けするような事実が判明しただけで、大学からはまだ何も連絡はないということだった。
「マリさん、今日の午後ってまだ予定変更・・・効くかな」
カヲルは肩越しに振り返った。斜め後方の机でやはり忙しくパソコンを操作していた女性が、ディスプレイの隙間からひょっこり顔を出してにぃっと笑ってみせた。
「今、調整中だよ。行きたいんでしょ、現地。だぁいじょぶ、私が何とでもしたげるから」
真希波マリ。大学生といっても通りそうなのに、ひどく落ち着いて見える。そのくせ、時々おそろしく子供っぽい所作で周囲に困惑をまき散らすのが悪癖といえば悪癖だ。先頃没したカヲルの祖父・キール・ローレンツ前CEOの依頼を受けて動いていたというから相応な年齢の筈だが、いまだに正確なところがわからない。
現在、ドイツで祖父の後継者としての勉強と実務の一部に関与を始めているカヲルの秘書兼後見人兼教育担当者であった。
教育者としては厳しい部類だが、決して過酷な訳ではないし、住み慣れた環境や家族に等しい者達と離れて暮らすカヲルに相応の心遣いはしてくれる。
「ありがとう、マリさん」
「っていうわけで、行きの機内で南米経済レポートの残り仕上げといてね♪」
「・・・はいはい」
やっぱり忘れてくれた訳じゃなかったか。カヲルは内心舌打ちした。
***
津波の被害は決して小さいものではなかったが、調査船はかなり陸地から離れており、探査ポッドやその支援機器なども出ていない時間帯であったために難を逃れたということが判ったのは、カヲルが現地へ到着した直後のことだった。
ただ、当該海域の水面には10メートル級の上下動があり、人的被害は出なかったものの探査機器に多少の被害があった。そのためにいったん調査を切り上げて帰投するという報告が入ったのであった。
「・・・背が伸びたな、カヲル」
下船したイサナを真希波マリとともに出迎えたカヲルは、イサナの開口一番いたく悠暢とした科白に深くため息をついた。
「どうした、旅行疲れか?そういえばお前、ほとんど家から出歩くことがなかったしな」
「まったくもー・・・サキといいあなたといい、なんでそこまで平静でいられんのさ。泡食った僕が莫迦みたいじゃない」
カヲルがふてくされる。
「・・・津波は沖合にいるぶんにはあまりひどいことにはなりにくいからな。まぁ今回は到達までに余裕がなかったから器械に被害をだしてしまったが」
「おかげで今回、随分と勉強させてもらったよ。ま、無事だったんだから結果オーライだけどね。・・・とりあえず電話して電話。タカミんとことミサヲさんとこ。あと、サキも。一応入港連絡もらったときに連絡しといたけど、声聞かせてあげなよ」
そう言ってポケットから携帯電話を取りだした。
「海外で通じるやつは持ってないんでしょ」
「・・・何かお前、おそろしく気が回るようになったな。そこの姐さんの薫陶か」
「お陰様でいろいろ鍛えられるよ」
苦笑いするカヲルから携帯を受け取り、ベンチに座を占めて電話をかけるイサナを見ながら、カヲルは少し引いた位置に立っていたマリに声を掛けた。
「マリさん、今回はいろいろありがとう。・・・本当に、何から何までお世話になっちゃって」
大学生にしか見えない敏腕秘書兼弁護士はにっこり笑って言った。
「どういたしまして。榊君程じゃないけど君も実は十分パニクってたでしょ。あーいうときは、じっと待ってるより行動しちゃうほうがいいの。君にとっての家族なんでしょ。いーのよ、そういうときは遠慮しないの」
イサナはそれほど表情が多彩とは言い難いが、電話しているときの仕草で誰宛なのかはカヲルにも大体推察出来る。
「言っちゃ何だけどタカミがテンパるのは割と珍しくないんだ。まあ、訴える手段が時々常軌を逸してるから困るんだけど・・・イサナとかミサヲさん、サキって・・・動じないよね」
「そうね。彼らは年齢的に言うと、一番鮮明・・・っていうか強烈に記憶が残る頃に被災してるし・・・僥倖はあったにしてもあの事故を生き残ったメンタルは相当なもんだと思うわ。研究所内で被災した君やレイちゃんのお母さんは数時間で救助されてるけど、Angel-03以降Angel-16まで、最長で5日間もあの地獄を彷徨ってたらしいから」
「僕なんか全く憶えてない」
「君は胎児だったんだから憶えてたらオバケなんだって。私も資料は見てるけど、とても尋常な神経で耐えられるものじゃないわ。榊君が一時全緘黙症に陥ってたってのはむしろ当然のリアクションなんだよね。まー彼の場合、発見時に母親の遺体の一部を引き摺りながら歩いてたっていうから・・・かなりヤバかったみたいだけど」
「・・・あれ、もう終わり?」
立ち上がって携帯電話を差し出したイサナに、カヲルは思わず問い返した。一件足りないのではないか。
「・・・あぁ、サキは留守電になってた。時間を考えたらそうだろう。ミサヲがよく出られたなと思ったら、当直明けだったらしい。悪いことをしたな」
「メッセージくらい入れたの?」
「帰りの日程が早まることになるから、一応な。そこを抜かすとサキは喧しい」
「あっそう・・・」
他にコメントのしようがなくて、カヲルはそのまま携帯を受け取った。相変わらず素っ気ないというのか、そこは信頼関係なのか。正直カヲルには判断がつきかねる。どうにも答えが出そうにないので、そこは流すことにした。
「・・・でね、イサナ。帰国便はこっちでもう用意してあるから、一緒に帰ろ?」
イサナが驚いたようにカヲルを見た。そしてわずかに相好を崩す。
「・・・こいつ、ひとをダシにすることを覚えやがったな」
「はは、ばれた? だってもう、3ヶ月もレイに逢ってないんだよ。メールや電話は毎日でも出来るけど、こんなチャンス僕が逃すわけないじゃない」
***
「・・・で、カヲルの奴、空港についた途端にダシは放り出してお嬢さんの処へ一直線か。存外可愛いところがあるな」
通勤用のバッグを放り出してダイニングチェアに座を占めたマサキは、イサナが淹れたコーヒーを受け取りながら低い笑声を立てた。
出発前の違和感がまるでなかったようなふうではある。そのことに少し安心しながら、イサナは立ったまま自分のマグカップを取った。壁に軽く背を凭せかけて、一口啜る。
「俺は俺で、一度大学に顔をださなきゃならなかったんでな。別に放り出されたわけでもないが。あとで家に回ったら、姫さんを伴って来ていたな。明日にはまた向こうだと言っていたから、忙しいことだが・・・随分慣れたようだ」
一応の生存報告のために「家」へ寄ったイサナは夕食を済ませていたが、マサキは結局仕事が終わらなかったために「家」での食事にありつき損ねた。日付が変わる直前、直接アパートへ帰ってきたマサキに食事を問うと、『残業の原因を作った医者にクラブハウスサンドをおごらせた』という返事が返ってきたから、さしあたってコーヒーを淹れたのだった。
「あの年齢不詳な弁護士のサポートはあるにしても、少しずつ地歩を固めてるようだな。
まあ、結構なことさ。SEELEでカヲルがあいつ自身の地位を確保することが、自分だけじゃなくお嬢さんを守ることにもなる。楽な途じゃないことは確かだが、動機としては極上の部類だろう・・・」
ふと、言葉を切る。
カップを置いて、マサキがイサナの袖を肘まで捲っていた左腕に手を伸べた。肘の外側、創傷処置用の被覆材が貼られている部分だ。
「怪我したのか」
不意に、マサキの声が硬くなる。
「船が傾いたときに倒れた器材で擦っただけだ。このテープだって要らないと言ったんだが、船医に無理矢理貼られた。そういえばいつになったら剥がしていいんだ?」
「剥がせ。診せろ」
常にない剣幕に圧されるかたちでイサナがテープを剥がす間に、マサキは救急箱を取ってきていた。
開けてみると、傷の範囲としてはやや広いが浅く、概ね痂皮を形成しており、既に乾いている。マサキは小さく吐息して、傷と周囲を丁寧に酒精綿で拭った。
「このままでいい。濡らしても洗っても構わんが、掻き毟るなよ。治癒過程だからむず痒いとは思うが、痂皮を剥がすとまだ血が飛沫くぞ」
酒精が皮膚から揮発するときの独特の冷涼感。それとは別の何かに思わずぞくりとして・・・イサナは一瞬だけ反応を遅らせた。
「・・・ああ、済まん」
マサキが救急箱をリビングのキャビネットに戻してくる僅かな間、自分の裡で波立った何かを鎮めるように、イサナはコーヒーに口をつけていた。
「・・・ったぞ」
戻ってきたマサキが零したかすかな声を、イサナは聞き損ねた。
「・・・何?」
マサキは繰り返すことはせず、椅子に身を沈めたままコーヒーを傾けていた。目を伏せ、視線を合わせようとしない。あの漠然とした不安感が、急速に膨れあがってイサナの胸腔を圧迫する。
「おい、サキ・・・」
イサナがカップを置いて歩み寄ったとき、不意にその左腕を捉えられる。些か打撲もしていたから、急に引っ張られて鈍い痛みが左腕に広がった。
だが、一瞬呼吸が止まったのは・・・その痛みの所為ではなかった。
捉えられた腕の、癒えかけた傷に、マサキの唇が触れていた。
鈍い痛みが、かすかな甘さすら伴った痺れに変わっていく。ややあって離れた唇が、絞り出すようにして言葉を紡いだ。
俯いたまま、掴んだイサナの腕に額を寄せて。
「カヲルから連絡をもらった時な・・・心臓が停まるかと思ったぞ。状況は全く判らないし、タカミの奴は例によって無茶苦茶にパニクってるし・・・」
マサキの手は、微かに震えながらも強い力でイサナの左手首を捉えている。それはそれで別の痛みを生じさせつつあったが、唇の代わりに触れている額・・・それに被さった色の淡い髪が腕を擽って、その感覚を曖昧にする。
「・・・まぁ、逆に言えば・・・タカミの恐慌がカヲルにも伝染しかかってるのが判ったから、俺自身が巻き込まれずに済んだような気がするけどな。・・・本当に、危なかった」
声を発することで腕にかかる微かな息が、ひどく煽り立てるから…捉えられた左手の所為でなく、イサナはそこから動けずにいた。
ひとを煽っておいて、自身はあくまでも恬淡としている。それが少し口惜しくて、イサナは少し意地の悪い口調になるのを止められなかった。
「あんたが俺を、そこまで気に掛けてくれてたとは知らなかったな」
「・・・そうだな、俺も知らなかった」
さらりと言って、マサキが手を緩めて額を離す。そして、終には力を使い切ったかのように…その手を椅子の横から滑り落としてしまった。
あまりにも自然に、今までずっと求めても得られなかった答えを返されたことに気づいて、イサナはもう一度呼吸を停める。
マサキは俯いたまま、ただ黙していた。
イサナが俯いたままの顎に指先を滑らせる。仰向かせた黒褐色の双眸にあったのは、ただ静かな諦念。
先ほどまでの明るさは影を潜め、あの日の…重たい何かを飲み下した透明な表情で、ただ見上げている。
ひどく不吉なものを感じてはいたが、イサナはそれを黙殺してただ唇を重ねた。
***
『拒むほどの理由がない。だから、お前が望むなら付き合わんことはない』
ひどく素っ気ない同意。イサナはそれでも構わなかった。
傍に居られるなら。此処に居る間だけでも、この腕に抱くことができるなら。
…今、此処に居る間は。
甘さを伴った苦鳴とともに強く背を撓らせた後…ゆっくりと弛緩していくマサキの身体を両腕で包みこんで、首筋に口づける。再びかすれた声が上がってイサナを煽り立てるが、イサナは汗ばんだ肌からそっと唇を離した。
いつもなら、もう音をあげる頃だ。
一度身体を離し、マサキの激しい呼吸が収斂していくのを色の淡い髪を撫でながら俟つ。
四肢がまともに動かず、俯せたまま酸素を求めて喘ぐ姿は扇情的ですらあったが、ここで触れてしまうと「殺す気か」と恫喝される。少し湿った髪を撫でることで堪えるしかなかった。
ややあって、気怠げに身を返し…マサキが深く吐息した。
「イサナお前…今度の休暇は何日ある?」
「とりあえず10日ほど。後は器材の修理状況による。あまり長引くなら、別件に駆り出されるかも知れんが」
「そうか…」
そう言って、一度瞼を閉ざす。
眠ってしまったのかと思うほどの間があったが、マサキはもう一度深く吐息した後、徐に目を開けた。
「…イサナ。お前、この休暇のうちに籍を『家』に戻せ。ミサヲにはもう下話はしてある」
乾ききった白珊瑚が砕けた音を、聞いた気がした。
やにわに身を起こし、マサキの両肩を掴んでシーツに押し付ける。
「…理由は」
おそらく痣になるほどの力が入っていたに違いない。だが、マサキは眉一つ動かさなかった。
「俺の処は緊急連絡先として適当とは言い難いだろう。『家』ならまあ確実に、誰かはいる…」
「…俺が居てはいけない理由を訊いている」
声が掠れそうになるのを、懸命に押さえ込んで問う。マサキは組み敷かれた格好のまま、うっすらと笑みさえして言った。
「だってお前、居なくなるだろ」
一瞬繋がらなくて、声を失った。
「人の心は簡単に移ろうものだし、命なんて存外あっさりと消えてしまうもんだ。
これ以上一緒に居たら、俺は多分…お前に全部預けきってしまうだろう。…俺はな、お前らが思ってるほど勁くもないし、老成してもいないぞ。一度預けることを覚えてしまったら…ひとりでは立てなくなる。それが怖い。
ずっと考えてた。…何でこんなに苦しいのか。委ねてしまえば楽だって判ってるのに…何が怖いのか。
今度のことでよくわかった。…今ならまだ戻れるだろう」
心臓が、冷たい汗に覆われるような感覚。ゆっくりと血が引いていく音が聞こえるような。抑えていた腕の力が緩んだのか。マサキは片手を伸べてイサナの頬に触れた。
「イサナ、お前が悪いんじゃない…。俺が弱いからさ。何も変わってはいない…何も変われていない俺が悪い。それだけだ」
「…俺が、信じられない?…俺には、心までははやれないと?」
「誰がそんなこと言ってるよ…?」
疲れたような吐息を漏らして、伸べた手を滑り落とす。
「俺に何かあったら、ちびどもを守ってやれるのはお前とミサヲしかいないだろうが。今地上で生きてる人間の中で、一番お前を信頼してるさ。
…でもな、こればっかりは話が別なんだよ。
言ったろ。命なんて存外あっさり消えてしまうんだ。海に落ちて。車に轢かれて。ナイフで刺されて。道路で転んで。質の悪いウィルスにやられて。…熱風で灼かれて」
そこまで言って、マサキは目を覆った。
「…もう沢山だ」
去来したのは、あの地獄の光景なのだろう。整えるように一度深く息をした。
Angel-01:セラフィン=ローレンツ、Angel-02:綾波レイは発災後数時間で救助されているが、Angel-03:高階マサキ以降は最長で5日間、地獄のような炎と瓦礫の狭間を彷徨った。その中でも、マサキは一度収容されたあとで抜けだし、最終的にはAngel-16:高階ミサヲを自力で見つけ出している。無論その頃、イサナは重篤な胸腹部外傷で生死の境を彷徨っていたから…後日ミサヲから聞いた話だが。
「俺が義理の父親に当たる人間から何をされたのか、前に話したな。…そうなる前までは、俺は結構あのひとを信頼してた。だからこそ、裏切られた時に受けた衝撃は半端なかったぞ。…多分、しばらくは呆然としてたんだろうな。怖ろしかったのもある。拒めば当時の生活が壊れると思ったし、母親にはとても言えた話じゃなかった。何よりミサヲが同じ目に遭わされることだけは避けたかった。
それでも頭が冷えてくると、拒みきれない自分に嫌気が差して…何もかも…すべてが消えてしまえばいいと思った。それが最悪な形で成就してしまったときには…本当に怖かったさ。俺の弱さがミサヲを灼き殺してしまったんだと思ったら、おとなしく収容所になんかいられなかった。
理屈が破綻してるだろう?それでも、当時はあの大災害が自分の所為みたいに思えてたんだ。本当に、あの時ばかりは半分壊れかかってたと…自分でも思う。
それでもなんとか壊れずに済んだのは、ひたすらミサヲが生きててくれてたお陰さ。…あんなことは二度と御免なんだ」
そう言って、マサキが瞑目する。
「…勝手だな」
声が、震えていたかもしれない。
「俺は、あんたがいなかったら埠頭に投げられた魚みたいに渇いて死にそうだっていうのに…あんたには俺が要らないって…?」
知らず、抑え付ける腕に力がこもる。
「…イサ…」
何かを言いかけた唇を、イサナは唇で塞いだ。歯列をこじ開けるようにして舌を絡める。塞がれた喉奥に苦鳴を聴き、組み敷かれた身体が震えたのが判っていたが、止めなかった。
***
抵抗はなかった。
四肢が動かなくなる程に何度も追い上げられ、肩どころか全身を波打たせて呼吸をしながらも、いつものような文句は言わない。喰い啄ませるに任せている風情だった。
時折、与えられる刺激に正直に反応しながら、切れ切れに名を呼ぶ。その姿態に煽られていつもより強く攻めたててしまっても…拒まれることはなかった。
――――カーテンの隙間から、清かな光が落ちてくる。
身体を起こしたとき、沈みかけた月の姿を認めて…イサナは夜明けが近いことを知った。
途中から眠ったというより気を失ってしまったのだと判ってはいたが、止められなかった。
あの初夏の…ひどい経緯を思い出してしまう。汗ばんで動かない身体に散らされた紅い痕をなぞって、違いと言えば口許が血で汚れていないことぐらいであることに気づいた。
あの時は歯を食いしばったはずみで唇を切っただけだ、と後になって聞いた。
お前の所為じゃない、とマサキは少し自嘲気味な微笑で言ったが、そもそもイサナがあんな行為に及ばなければ、マサキが唇を切るほど歯を食いしばることもなかったのだ。
ベッドに残った香りから幼稚な妬心に駆られた。それさえも、最後には赦した。
そのマサキがもう駄目だというなら、どうしようもないではないか。
口許から顎のラインを撫で…堪らなくなって、動かない身体を両腕で掻き抱く。強く締めすぎたのか、耳もとで小さく咳込む音がした。
ふわりと、髪を撫でられる感触。
「…埠頭に投げられた魚が…どうしたって…?」
少し掠れてしまった声で、マサキが問うた。その手は、イサナの頭を抱くような形で回されていた。
「…俺がここに来た理由だ」
聞いてないのかと思っていたら、ちゃんと聞こえていたらしい。イサナとしても半分理性が飛びかかっている時に言ったことだから、改めて問われるとなかなか面と向かっては話しにくい。頭に触れている手の心地好さも手伝って、イサナは顔を上げないまま言った。
「海に居るときはいいんだ。楽しみは多いし気も落ち着く。でも陸に上がってると駄目なんだ。…身体が重たいし、渇く。息苦しい。埠頭の、灼けたコンクリの上に放り出された魚の気持ちがわかる気がする。
あんたの傍に居ると、海に居るときと同じ感じがするんだ。ちゃんと息もできるし、身体も動く。…だからここに来た。置いてくれって頼んだ。何故って言われてもわからんものはわからん」
終いにはふてくされたような口調になってしまう。
「『海』…?」
気怠そうに、マサキがまだすこし掠れた声で繰り返す。イサナは、それがいつか、マサキが観ようとしていたのを邪魔した旧い映画のタイトルであったことを思い出した。
「…困ったことだな」
マサキが深く…吐息する。
「それでいくとお前、ここから出て行ったら死んじまうみたいじゃないか」
「…みたいもなにも、魚が水から揚げられたら…死ぬだろう、普通」
イサナが身体を起こすと、マサキは困惑を湛えて見上げていた。
「…俺にどうしろと?」
本気で進退窮まった表情をされて、イサナもさすがに言葉に詰まった。だから、ただ口づける。時間をかけ、昨夜のように無茶な侵入でなく、可能な限り優しく。
ゆっくりと離れながら、ようやく伝えなければならなかったことを言葉にする。
「…あんたはまだ戻れるのかも知れないが、俺は戻れん。だから、此処に居させてくれ。その代わり、あんたが壊れそうになったら今度は俺が必ず引き留める。
あんたに放り出されたりしなければ、俺は何があっても必ず此処に帰ってくるし…当面まともでいられる」
マサキは片手で目を覆って、嘆息した。
「話が無茶苦茶だぞ、…それってお前、言外に脅迫してないか?」
そう言われて、イサナは自分が確かに質の悪い脅迫をしていることに気づく。しかしもう、戻れない。戻る気も失せた。
「そうだな、そういう取り方もできるか…」
「こいつ、取り方の問題で済ます…っ…!」
声が途中で途切れたのは、イサナが掴みかかったマサキの手を捉えたついでに口づけでもってマサキの口を塞いだからだった。
ややあって手と唇を解放された時、マサキの吐息は確かな熱を孕んでいた。
「…仕方のない奴だな。やっぱり俺はお前を少し見誤ってたかも知れん…」
その耳朶を噛むようにして、イサナが囁く。
「それでも、あんたがいるから、俺は息をしていられる。…”Le Grand Bleu”…」
***
ドアベルが鳴った。
訪問者に心当たりはなかったが、イサナはとりあえず玄関ドアを開ける。立っていたのは、ミサヲだった。
「…真っ昼間の来訪ということは、サキはいない前提のようだが」
「だから来たの。私もこの足で直入り1 だし、あんまり長居しないわ」
彼女は涼やかに笑んでそう言った。
マサキが魂を千切りながら庇い、あの地獄を這い摺ってまで探し出した実妹。色の淡い髪と黒褐色の双眸はマサキと同じだが、気性はともかく顔立ちは父親似だという話を聞いたことがある。特に人目を惹くような美人というわけではないが、いつも凜とした空気を纏っているのに話し易く、面倒見が良いから性別を問わずよく懐かれるらしい。ただし、本人は「いい男がいない」と至って直裁に嘆いているから決まった相手はいないようだが。
「今回は大変だったわね。擦り傷作ったって聞いてるけど、痂皮引っ掻いてない? …あぁ、大丈夫みたいね。これ、ユウキ達から出張のお土産。今ならまだイサナがいるんだろって。いつももらう側だからってね」
まくし立てるというにはほど遠い、柔らかい口調だが決して間に口を挟ませない。これはこれで一種の才能ではないかと思う。
「それと…イサナ、今日になっても連絡がないってことは、引っ越しの件は流していいのよね?」
いきなり斬り込まれて、一瞬返答に詰まる。
「…いかにも想定内のように聞こえるのは俺の気の所為か?」
「別に…でも、そうだといいなとは思ってたわね」
「何故?」
「教えない」
少し意地の悪い…そう言って悪ければ悪戯っぽい笑みを湛えて、ミサヲは即答した。全てを見透かされているような気がして、微妙に居心地の悪さを感じる。
「じゃ、そういうことで。日本に居る間にもう一回くらいウチに顔出しなさいね」
それだけ言って軽く手を振ると、彼女は燕のように軽やかに身を翻して律動的な歩調で歩き出した。
見送ると言うより、展開について行けずにその後ろ姿を見ていたというのが妥当ではなかったか。
イサナは部屋へ戻り、持たされた土産包みをリビングへ置いた。
『そうだといいなとは思ってたわね』
その意味を考えようとして、すぐに放棄する。
考えても仕方ない。もう、択んでしまったのだから。
あの二人に、何人たりとも割り込ませない深い絆の存在を感じることは今までにもあった。だが、今…それに微かな嫉妬にも似た感情を持ったことに、イサナは少し驚いていた。
手に入らないと思うと欲しくなる。手に入れたと思うと独占したくなる。
だがイサナはもう、そこを強いて矯めようとも思わなくなった。出来るかどうか、あるいはそうしていいかは別物として、言わなければ伝わらないということに気づいたからだ。
『あんたがいるから、俺は息をしていられる』
そんな、随分前から自分の中では明らかだったこと。それをきちんと言葉にして伝えていなかったから、回り道をした。言わなければ伝わらない。そんな当たり前のことに何度でも気づかされる。
ふと、時計を見た。この足で直入りだといっていたミサヲの言葉を思い出したのだ。夕食の準備を始めるには少し早いが、買い物を含めるなら算段を始めるにはいい時間だ。
イサナは読みかけの雑誌を片付けると、キッチンへ足を向けた。
――――――――Fin――――――――
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「breezeⅤ」
「Le Grand Bleu」に関する言い訳…
まさかこんなベタ甘になろうとは
「水の中の風」シリーズ一応最終話!の筈!
おかしくなりかかってるサキをなんとかしなくちゃ、で書き始めたびっくりの第5話。まさかここまで引っ張った上にベタ甘な展開になろうとは夢にも思いませんでした。イサナ君がワガママ大爆発です。追い出されたら死んじゃうとか…じらくるのも大概にしろって普通なら言われます。そこで「仕方ない奴」で赦すから好きにされるんだぞサキ!?そーいうの自業自得っていうんだぞ判ってる!?
カヲル君とマリさんにチョイ出演してもらったりしたのは、ほんの出来心です。ドイツに渡ったカヲル君が頑張ってる姿をちょっと書きたいなと。勿論うちの(というか「夏服ー」シリーズの)カヲル君はレイちゃんonlyしかもメロメロなので実にわかりやすいです。
タカミ君に関しては…今回本当にダシでした。基本で身内の危機にはおっそろしくナーバスな御仁なのです。忙しいのに宥めに回されたリツコさんごめんなさい!
いや本当に…砂吐きそうでした。自分で書いてて「どうした!?何があった!?」って自分に尋ねたくなるくらい。
ラストで微妙に存在感を主張しちゃうミサヲちゃん。(前回と違って)今回明らかにサキとイサナのことに気づいてます。おそらくサキの「下話」2 でピンときちゃったのでしょう。いつも奥歯噛みしめて立ってるサキを心から心配してて、それを和らげてくれるならこの際男でもいーやとか思ってるのかも知れません。むしろそのほうがミサヲちゃん的には下手に妬かなくて済むとか?
彼女だけで別話書けそうな気がするのですが、「沈黙」のシリーズとかぶりそうなのでちょっと躊躇してます。
それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
2019.1.13
暁乃家万夏 拝