position 0 の憂鬱
闇に慣れてしまった眼は、TVの待機ランプ程度の細い灯でも部屋の輪郭をはっきりと捉えている。
連絡があったからといって、待っているわけではない。予定が変わるのは珍しい事ではないし、鍵は持っているのだから、帰ってきたら勝手に入るだろう。
そんなつもりはないし、必要もない。
必要はないのだ…。
午前零時の闇に凭れて、マサキは緩慢にロックグラスを傾けた。
Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「breezeⅣ」
position 0 の憂鬱
それは、たぶん夢だ。明け方の夢。
うっすらと目を開く。
そのとたん、今自分が何処にいるのかがわからない…そんな不安に襲われ、呼吸を乱した。
「…どうした?」
すぐ傍にあった体温の主が、肘で半身を起こして身を寄せてくる。
咄嗟に声を出すことができず、喘ぎながらただその腕を掴んだ。
すると、優しい手が宥めるように汗でべたついた前髪をかき遣り…喘鳴にかさついた唇は、少し体温の低い唇で穏やかに…あやすように塞がれた。
何もかもが判然としない。むしろ、混乱を深めていく。
だが、侵入した舌先に絆されて…腕を掴んでいた指先が、緩んだ。
***
「…高階君、大丈夫? 顔色悪いわよ」
「ただの寝不足です。お気遣いなく。俺の心配よりたまってる仕事のほうを気にかけてくださいよ」
「あら、このぐらい時間までには何とでもなるわよ。優秀な部下がいて助かってるから」
「…赤木室長」
苦虫を噛みつぶすような顔を隠しもしないで、高階マサキは唸った。
病理検査室。丁寧に準備された標本を次々とチェックして的確に診断を記載していく彼女は、軽口まじりの雑談をしながらもその効率を落としてはいない。
赤木リツコ病理検査室長。ドライアイスで被覆した直刀のような雰囲気を纏う、歴然たる美女。非常勤病理医で、CODE:Angelの意味を知っている数少ない者のひとりである。
十五年ほど前、一つの都市が消えた。表向きは隕石の落下事故として処理されたが、その真相は世界的な複合企業体・ゼーレの運営する研究所の爆発事故。たった17人の生存者はAngel-**のコードを付され、事故の真相を知らされないまま長い間隔離・監視の対象となった。
それは件の研究所が、特殊なウィルスの研究を行っていた所為であった。ひとつには研究途上であったウィルスの拡散を危惧されたのと、もうひとつは研究所の事故によってサンプルが散逸したため、残っているとすれば生存するCODE:Angelの細胞内しか有り得ないという、当のCODE:Angelにしてみれば胸の悪くなるような理由。
高階マサキは、生存する最年長のCODE:Angelであった。
CODE:Angel-03…焼け野原となった都市で、3番目に見つかった生存者。
本来はAngel-01:セラフィン・渚=ローレンツが最年長であったが、救出されて程なく深刻な外傷のためにひとりの嬰児を産み落として死亡している。この嬰児がAngel-17:渚カヲルであった。
Angel-03からAngel-17までの15人は、最年長のマサキでさえ当時15になったばかりの子供であり、企業体の保護下に入ることになった。最初は厳重に、後には緩く隔離されてひとつの家…療養所を改装した建物で暮らしていたが、最終的には企業体トップの意向で所在を確認されるにとどまることになり、現在はマサキを含む数人が家を出て生活している。
ロストナンバーAngel-02…その所在は、事故の真相と深く結びついていた為に長いこと謎だった。それが昨夏、カヲルとひとりの少女が出会うことで明らかになる。
企業体日本法人のCEOに隠匿されていたその少女は、先天的なものか行き過ぎた隔離の所為か、他者とのコミュニケーションに重度の困難があった。
企業体のトップ、キール=ローレンツの病没に伴い上層部で後継者争いが起きた。その余波として起こったいくつかの事件を経て、CODE:Angelの刻印を受けた者達に隠され続けた事実…事故の真相が明らかになる。そして少女は、その夏から企業体の手を離れてひとりの医師のもとで生活することになった。
その医師が、赤木リツコであった。
彼女は事故の事後処理に当たった研究者・赤木ナオコの娘であり、途中から少女の養育にも携わっていた。
リツコは医師として少女の環境に疑問を抱いていた。しかし研究現場において助手でしかなかった彼女には何の権限も与えられておらず、何もできないことに忸怩たる思いを抱えていたのである。だから日本法人CEOが失脚した際、研究所自体が改組されるタイミングを狙って少女を引き取る決心をしたのだった。
その決心に至るには、それと知らずに出会ってしまったひとりのCODE:Angelの存在があった…。
「そういえば鯨吉君、帰ってきてるって?」
話の飛躍と、飛んだ内容に動揺して…マサキはすんでのところでカバーが載る前の検体貼付済スライドグラスを取り落とすところだった。
「折角連絡もらったのに、彼、休みの繰りがつかないって泣いてたわよ。もっとまめに連絡してあげれば?」
スライドグラスを無事に器械へセットし終え、手袋を落とし手指消毒をしてから一息ついたとき、マサキは無意識に首筋に手を遣ってしまって内心で舌打ちする。今朝忙しかったから絆創膏で隠す暇がなかった紅い痕に…気付かれなければ良いが。
「俺はすぐに連絡しましたよ。帰ってくるほうが突然なんだから仕方ないでしょう。いつものことなんですから。
それはそうと、あんたらだって会える時間は限られてるだろうに、そんなことまで喋ってるんですか、あれは。もう少し話題を選べって言ってやったらどうです」
「誰かさんと違って素直なのよ。そういうところも可愛いけど」
「…はいはい」
惚気にツッコミをいれるのも莫迦ばかしいので、些か返事は投げやりになる。顕微鏡を操作している繊麗な白い指。左手の第4指に数週間前から嵌まっている上品なリングに気付けないほど、マサキも鈍感ではない。
贈り主は、榊タカミ。CODE:Angelのひとり、11番目の生存者。
研究所の関係者であった赤木リツコと、お互いをそうと知らずに出会い…知ってしまってからは相応に苦しんだ。しかしそこを乗り越えて現在がある。
「言いたいことはわかるけど、あまり邪険にしないでやってね。無理に突き放そうとしたって、複数方面から心配されるだけよ?」
目と手を忙しく動かしながら、仕事の打ち合わせと全く変わらないトーンでとんでもないことを言い放つものだから、対応に困る。
「…よりによってあなたがそういうこと言いますか?」
「あら、何か問題あるの?」
「…何か…って…」
「だってまだ、愛してるんでしょ?」
今度こそ、マサキは伝票のリストを取り落とした。
***
支えるつもりで、支えられていた。
企業体の隠しごとをネットの海から探り出してしまったことで、心の均衡を失ったタカミを落ち着かせてやりたかった。だがそれは欺瞞だったと今では思う。
だがそれが、果たして赤木リツコが指摘するような感情であったのかどうか、未だによく理解らない。ただ、自分は遠ざかるべきなのだと思ったのは、それほど最近のことではなかった。
死海文書のことが明らかになったのだ。タカミが正体のわからない何かに怯えることはもうない。況してや、心から支え合えるひとにも出会えたのだから。
自分はもう、必要ない。
そう思っているのに、苦しさが付き纏う。
―――――その苦しさが疎ましい。
***
「あーもう、いい男がいないのよね!」
ミサヲのさばけきった嘆息を、マサキは苦笑いで聞いていた。
久しぶりに帰った「家」のキッチン。イサナはリビングで皆に取り巻かれて話をねだられている。マサキはそれを遠目に見ながら、夕食の洗い物をしているミサヲの後ろで食後のコーヒーを啜っていた。
「何だ、藪から棒に」
「藪から棒じゃないわよ。さっきから話してたじゃない。こないだ誘ってきた内科の医師の話」
「ああ、聞いてるけど。見た目もいいし優しいって外来の看護師連中が騒いでたな。…何だ、結局行ったのか、映画」
「行ったからここで大文句垂れてるんじゃないの!」
「…そんなにひどい奴だったのか?」
「優しいのと優柔不断は別物って話! 他人の顔色窺ってばかりで自分のことも決められないような腑抜けに用はないの、私は」
「はあ、然様で…」
他にコメントのしようがなくて、それだけ言ってしまうとマサキはコーヒーを味わう振りををして沈黙を守った。
ミサヲ…高階ミサヲ。CODE:Angel-16、あの地獄を生き残ったマサキの実妹である。この気性は多分母親譲りなのだろうが、これと対等に渡り合うことができるとなると…一体どんなレベルを想像すれば良いのだろう。
「イサナ級…ま、もう少し譲って兄さんくらいのがそこら辺に転がってたらなーって思うんだけど」
「…ツッコミどころが多くてどこからツッコんでいいもんかわからんな。クラスといわず、現物がそこに転がってるが?」
リビングで子供たちに囲まれるイサナを読みかけの新聞を丸めて指し示すと、ミサヲはもう一度嘆息する。
「いくら性能よくったって、家庭より自分の世界を優先しそうな男はお断り。私が探してるのは遊び相手じゃない、伴侶なんだから」
「手厳しいな」
堅実を画に描いたような評価ではあったが、ミサヲの正しさを認めざるを得なくて、マサキは苦笑いする。
「そういう意味じゃタカミってとってもいい子なんだけど…少し頼りないのよね。何より先約があるし」
「そりゃそうだ。…で、そこに並べてくれたってことは、俺はそこそこ評価されてると思っていいのか?」
「あら、兄さんって結構人気あるのよ。気付いてなかった? ま、赤木医師のお手つきだと思われてるからちょっかい出す娘はいないと思うけど」
思わず噎せかえる。
「そーいう無責任な噂はちゃんと否定しといてくれ!また殺されかけたらどうしてくれる」
「ちゃんと否定してるわよ。でも、伊吹さん…あの子が赤木医師フリークってのは周知の事実だし、その伊吹さんが…兄さんの話が出る度に蒼くなって俯くもんだから皆勘繰るわよねぇ」
ミサヲは完全に面白がっているが、マサキとしては夏の事件を思い出して些かげんなりする。
「完全無欠な濡れ衣だ。あの嬢ちゃんが蒼くなるのはリエが刃物ちらつかせて脅した所為じゃないか」
「それはそうだけど、そこまで喋っちゃうわけにいかないじゃない。…まあ、無責任な噂ってヤツをもみ消したかったら、相応の実績をつくることね」
「そこはお互い様だな」
「…言ったわね」
背中越しに軽く睨むようなミサヲの視線を、再び広げた新聞でそっと遮る。
「そういえば、タカミの奴…ようやく踏ん切りをつけたらしいな」
「知ってるわよ。頼まれてあの指輪を選ぶの手伝ったの、私とユキノだもの」
「…そりゃ大層…賢明な人選だな」
存外常識的な判断に、マサキは軽い驚きすら覚えた。
「いい感じに変わってきてるわよ、タカミも。聞いた時には吃驚したけどね。…兄さんも、いつまでも自分を押し込めてないで、もうちょっと自分の幸福探してみれば?」
つい先日、同じようなことを別の口から聞かされていたから…思わず言葉に詰まる。
「…そんなに俺は、自分自身を抑え込んでるように見えるのか?」
不意に、今までの軽い調子がかき消えたことに驚いて、ミサヲが振り返った。
――◇*◇*◇――
強靱な指先が、そのくせ繊細な動きで肌を滑る。柔らかな漆黒の髪がさらりと動くと…その度に、紛うことなき天然の海の香りがした。髪が触れている部分の擽ったさに堪え兼ね、手を伸ばしてそれをかき遣ると、いつも濡れているような艶を持った髪が指の間で細い灯をはねて光った。
灯…?
部屋の照明は落とした筈だ。マサキはふと天井を見上げた。照明は薄闇の中で沈黙していたが、青みを帯びた光がリビングの白い天井を揺らしている。それと同時に波の音と、咄嗟には聞き取れない外国語の声がした。
…あぁ、DVDが途中だったか。
すぐ傍のテーブルの上のリモコンに伸ばしかけた手は、浅黒く強靱な手首に捉えられる。マサキは小さく吐息した。
「DVDを止めるだけだ。逃げやせん」
そもそも逃げられる態勢でもない。ソファに横たえられ、片手は身体とソファの背凭れの間に敷き込まれた不自然な態勢。空いた片手を伸ばすのが精一杯。
「…別に、止めなくたっていい」
イサナがそう言って、手を捉えたまま胸に口づけを落とす。それに続いた啄まれる感触に、マサキは自分でも信じられないような声が喉奥から漏れるのを止められなかった。
背を撓らせた動きで、ソファが軋む。詰めた呼吸が戻るまで、幾許かの時間が必要だった。
「一応…観たかったから買ってきたんだがな。レジ横のワゴンで投げ売りだったってのもあるが」
「またゆっくり観ればいいだろう」
「ゆっくり観ようとした傍から邪魔してるのは誰だ…」
「イヤだとは言われなかったんでな。それに、少しぐらい音があったほうがいいんだが。周りで全く音がしなかったら、あんた…妙に反応硬いからな」
イサナが薄く笑って指を解く。
「…大きなお世話だ」
憮然として、マサキが解放された腕をもう一度リモコンに伸ばす。画面が黒く沈黙し、部屋が薄闇に沈んだ。待機ランプの蛍火のような光だけが、周囲の家具の輪郭を朧に浮かび上がらせる。覆い被さったままの、精悍な肩のラインもまた。
さて、どうしたものか。
「買ってきたんならいつでも観られるだろう。…俺はあと3日しかいられないんだが」
常は深い色としか見えないイサナの双眸が、切れ長の目の奥でやや薄青い…青紫に近い光を放ち、マサキをひたと見つめている。
それが、つい先刻の薄笑いと違ってやけに淋しそうにも見えるから…絆される。
「好きにしろ。…まったく、俺はどうにもお前を見誤ってたらしいな。ただ、ここじゃ御免だぞ。さっきから敷き込んだ腕が痛くて敵わん」
「…了解だ」
また薄く笑んで、軽く唇を重ねる。そのまま抱き上げられそうになって、マサキは藻掻いた。
「莫迦、誰が運べって言ったよ?」
「駄目か?あんた軽いし、なんとかならんことはないぞ」
「やめんか、自分で動ける。悪かったな軽くて!」
確かに標準の枠とはいえやや軽量寄りかも知れない。だがタカミほどではないし、そこまでされてしまうと何かが壊れそうな気がする。マサキは些か粗略にイサナの腕を振り払って身を起こした。
しかし結局、立ち上がり損ねてふらつく。たいして呑んでもいないのに足にきている事実と、その理由に少しだけ衝撃を受け、マサキはそのままソファの背凭れに身を預けて天を仰ぎ、目を覆った。
「…そんな無理矢理に自身を矯めようとするな。あんたはあんたのままでいてくれれば、俺はそれでいいんだが」
「…お前が言うか…」
「何か言ったか?」
細い吐息に紛れた言葉を、キッチンへグラスを置きに行っていたイサナは聞き損ねたようだった。リビングに戻ってくると、マサキが凭れたソファの背後から…するりと頬に手を滑らせてくる。
目を覆っていた手がやんわりと解かれ、すぐ近くにある紫と目が合った。
勁いくせにどこか淋しげな光を湛える紫瞳に捉えられて、言おうとしていた何かが頭の中でばらばらになる。マサキは目を閉ざして頬から顎に滑った手の為すがままに降ってきた口づけを受け容れた。
先刻よりも、長く、深い…。
ゆっくりと時間をかけて離れたあとで、イサナが悪戯っぽい微笑を浮かべて問うた。
「どうしても横抱きがいやだっていうなら、消防夫搬送1でもしてやるが」
「どっちも御免被る。…ったく、腕力をひけらかしやがってヤな奴だな、お前。普通に肩貸せよ。今ので余計、膝に力が入らなくなっただろうが」
認めるのは業腹だが、曖昧なことを言っていると却って何をされるかわからない。揺り起こされた熱を押し込めながら、マサキは手を伸べた。
「…了解だ」
その手を取ったイサナが、微かに笑っているのが気に食わない。
それでも、今はその腕に身を預けるより他にどうしようもなくて…それが少し口惜しかった。
***
何故、それを手に取ってしまったのか。
古い映画だ。話にそれほどの感銘を受けた訳ではなく、ただ海の美しさだけが印象に残っていた。映画館へ行った訳ではない。あの人が自宅のリビングで見ていたのを途中から見ただけだ。TVだったのかビデオだったのかも、今となっては判然としない。
油断と言うべきだった。映像の美しさに気をとられて、あの人の動きに気付かなかった。
リビングの長椅子に組み敷かれ、気がついたら明け方だった。
あの人の姿は既になかった。ただ身体は丁寧に拭われ、ブランケットまでかけてあったのが…うそ寒かった。
当然、話なぞ記憶に残らなかった。実際にはだいぶ後になって、TVか何かで観たのだと思う。
あの時の記憶と、分かちがたく結びついたりしていなかったことが救いだった。それほどに映像の中の海は美しかった。
退勤途中の買い物。必要なものだけ買ってさっさと帰るのが常だ。だが、普段よりすこし長かったレジ待ちの時間に、ふと目に入ってしまった。
***
『…いつも、お前の望みに応えてやれるとは限らないぞ』
マサキははっきりとそう言ったし、イサナもそれでいいと言った。
しかし、自分にないものをすべて持っているイサナが、自分に何を求めているのか皆目わからないままだ。
水底のような薄闇で、獰猛な鯱が自分を見るときの…淋しさにも似た何かにいつも絆される。積極的に拒む理由がないというだけ。それなのに…今に至るまで、求められて拒めた例はない。先刻のように、状況の修正に応じさせるのが精一杯だった。
一旦、諾をもらったと判断すると…イサナは容赦ない。特に休暇も終わり近くなると、ひどく執拗になる。その夜もそうだった。
周囲で音がしていないと反応が硬いとイサナは云う。思い当たる節がないわけでもない。だが、もはやそんなことには全く頓着できなくなっていた。
「…少しは休ませろ、殺す気か…」
絶えだえの呼吸の下から、なんとかそれだけを声に出す。それでようやく、イサナが身体を離した。
「…辛いのか」
「これが…辛くないように…見えるか、莫迦…」
まともに動くのは口だけだろう。四肢は痺れて感覚がない。心臓はさっきから頭に響くほどの拍動でがなり立てるし、肺は酸素を求めてひどく効率の悪い呼吸をやめない。この痺れは呼吸性アルカローシス2の所為か。
身体の奥にはまだ熱が残っていたが、マサキの中の冷えた部分は四肢の痺れをそう分析していた。呼吸のコントロールが戻れば痺れも回復することが判っているから慌てない。
だが、動かないのではなく動けないのだと気付いたイサナが、やや気遣わしげに汗で湿ったマサキの髪をかき遣った。
「…すまない」
夏の前…最初のひどい経緯を別にしても、はじめの頃はこちらの事情を全くといっていいほど斟酌しないものだから、マサキはひどく消耗した。要求は口で伝えなければならないという至極当たり前のことを理解するのに、暫くかかったのが今となっては可笑しい。きちんと伝えれば、イサナも無茶はしないのだ。
むしろ、こわれ物でも扱うような所作が極端なことといったら、笑えてくる程だった。
自分は紛れもなく快楽を享受している。しかしそれは、イサナの望みに応えることの対価でしかない。未だに、それ以上の何かを見いだせてはいない。
それでも時折、ふと怖ろしくなる。
何が怖いのか…自分でもそれがわからない。
敢えて言うなら、あの映画のラストシーンを観た時の感じだ。
禁を冒して限界深度まで潜った主人公…それを迎えに来たかのようなイルカの動きに誘われて、主人公はガイドロープを手放してしまう。そのまま画面はブラックアウトして、エンドタイトルだった。彼がどうなったのかは語られない。
最初の時の、食い散らかされるような陵辱を思えば…イサナは随分と優しくなった。だがそれでも、追い上げられて意識を手放す時の…快楽と恐怖が混ざり合った感覚は、あれに似ていた。
――◇*◇*◇――
「なあに、気づいてなかった訳? …兄さんっていつも、奥歯噛みしめて立ってるじゃない。そのくせ、自分は何も悩んでませんって顔するの得意よね。でも、それが通じる相手と通じない相手がいるってことは認識しといて、一応」
その後は黙々と片付けを終え、ミサヲはシンプルなエプロンを空いた椅子に放り投げてから…自分のカップを手に取る。
小さく吐息してから、ミサヲは対面の椅子にかけてマサキが淹れたコーヒーを啜った。
「…ごめんなさい、私、知ってた」
顔を上げて、ミサヲが何かを振り払うように発した言葉に、マサキは呼吸を停めた。
「あの頃は私だって子供だったし、どうしていいかわからなかった。それまで私、あの人のことキライじゃなかったけど…兄さんが苦しんでるのわかったから、キライになった。
兄さんが…何でもない振りするのが上手になったの、あの頃からなのよ。気付いてないと思うけど」
「…ミサヲ」
「…兄さん、自分が拒んだら…今度は私が無事じゃ済まないって我慢してたんでしょ?」
「ミサヲ、あのな…」
「ごめんね、兄さん。私が、兄さんの逃げ道塞いでたのよね。…兄さんのその性格、半分は私の所為だ…」
口調だけはいつもと変わらず、しかし今にも泣きそうなミサヲに、居たたまれなくなって傍らの椅子の背にかかっていたタオルを投げる。
「莫迦…何でお前が泣くんだ」
「泣きたくなんかないわよ。仕方ないじゃない…兄さんが、泣かないんだもの」
投げられたタオルの下で、少し口惜しそうにミサヲが零した。
「護ってもらってた私に言えた義理じゃないのはよく解ってる。…でも、これだけは言っとくわ。辛いときには辛いってちゃんと言わないと、歪むわよ」
「…そうだな」
思わず、口許が綻ぶ。いつだってミサヲは正しい。…羨ましいほどに。
「少しはあてにして欲しいもんだわ。…私だって、愚痴聞くぐらいのことはできるのよ」
少し縁を紅くした眼で、屹と睨む。真っ直ぐに。
「お前はいつだって、十分過ぎるくらい助けてくれてるよ。…そうだな、とりあえず今は早く風呂行ってその顔洗ってきてくれ。そうじゃないと…俺が泣かしたって、ちび共に扼殺されちまう」
ここで作為的に笑っても、ミサヲに叱られるだけだ。だが、幸いなことに零れたのは作り笑いではなかった。
「わかった…ありがと。それとごめんね。何だか今の兄さんが、あの頃の兄さんと同じ感じがして…嫌な事思い出させて悪かったわ」
ミサヲがタオルを頭にかけたまま、立ち上がった。
「…じゃ、カップの片付けよろしくね。ご馳走さま」
ミサヲを見送って、マサキは小さく吐息する。
『少しはあてにして欲しいもんだわ』
ああ、あてにしてる。他愛ない話でも、すこし心が軽くなるから。でも、心配させるつもりで来た訳じゃない。
少し冷めて、苦味より酸味が強くなりはじめたコーヒーを飲み干してしまうと、片付けをするために席を立った。
『無理に突き放そうとしたって、複数方面から心配されるだけよ?』
上司の慧眼には恐れ入る。週に2回ほどしか来ないくせに、どうしてああも鋭いのだろう。
ミサヲに辛い昔話を持ち出させるほど、今の自分は不安定に見えている。その事実に、マサキは憂鬱を通り越して軽い頭痛すら覚えてしまう。
タカミに対して距離を置いたことを、マサキは悔いてはいない。まだ心を残していることは認めるが、それでも…そうしなければならなかったのだから。
だが、その一方で他の誰かに心を預けることを怖れている。
願わくば自身が必要としている誰かに、必要として欲しいと思う。裏切られることを、必要とされなくなることを心のどこかで怖れながら、そう願わずにいられない。
おそらくそれは自然なことなのに。
自分の初期位置がわからない。
間違ってしまう前の、自分の正しい立ち位置がわからない。
何処で間違った。何処まで戻ればいい。
タカミの狂気に近い混乱を最低な方法で抑えようとした時か。義理の父親の行為に怯えて口を緘することを選んだ時か。
そもそも、戻れるのか。犯した過ちは、贖うことはできるかもしれないが、なかったことにはできない。
自分が何処に立っているのかがわからない。すべてがひどく曖昧で、不安定。そもそも、初期位置なんてものが存在するのかすらわからない。
カップに水を当てながら、どのくらいそうして立っていたものだろう。水の勢いがカップを倒し、シンクの中ではねた水に頬を打たれて、マサキは我に返った。シャツは跳ねかけられた水を吸って、じっとりと重い。
遠い昔の、朝方に見た夢のような…憂鬱な重たさに、吐息が漏れた。
――――――――Fin――――――――
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「breeze Ⅲ」
「position 0の憂鬱」についてのApology…
病んでるな、サキ…
「水の中の風」まさかの第4話。万夏としても、ここまで引っ張るとは思ってみませんでした。
15禁ぢゃないかという過去話と、(死にそこねたばっかりに)苦労を背負い込むサキのお話。タカミから遠ざかろうとしながら、微妙に心を残しています。しかも殆ど成り行き的にイサナに喰われながら、どうにも心を預けかねてる。つくづく病根深い…(汗)「濡れた髪のLonely」系統のお話では、きれいさっぱり故人なので悩み代もないのですが。
このシリーズにおけるミサヲちゃんはサキの実妹で、サキの古傷のこともタカミのことも承知した上で、至って身内的視点で心配してます。作中でも言ってますが古傷に関しては半分自分の所為だとも感じているので余計に。
イサナとのことまで気付いてるかどうかは現時点で謎ですね。たぶん、気付いてないんじゃないかと。サキの様子がおかしいのはわかってるんだけど、まだ心を残したままでタカミを突き放そうとして無理してるんだろう、くらいに思ってるのではないかと思います。
タカミの件についてはサキにしたって考えた末のことだから、それに関してはツッコミ入れるつもりはないけども、辛そうにしてるサキを見るのはミサヲちゃんとしても辛い。…だもんで、思い出さなくていい過去話まで持ち出す羽目になっちゃって、しまったなーとか思ってるのです。いい娘ですね。ちゃきちゃきの看護師で外来主任。以前、誤解からサキを殺しかけた新人2年目ナースの伊吹嬢にも公平に指導を入れてます。
…で、ミサヲちゃんにすら悟らせないほど外面のいいイサナはというと…遠慮なく喰ってます。
ここに至るまでに結構我慢しちゃってますからね。もう躊躇わない。それなりにサキを気遣ってはいるんだけど、若干欲望が先に立ってるかも。イサナにしてみれば独占することはできないにしてもサキが絶対に必要だと感じているのに、サキのほうでは実のところそうは思ってない。懐かれるのは悪い気しないけど、きっといつか飽きてどっかいっちゃうんだろうな、くらいの認識しかない。そこら辺がサキの不幸ですね。
「position 0 の憂鬱」は「beyond…」より。杉山さんがオメガトライブを離れて初のアルバムだった筈。傾いてはいるけどのめり込めない、という誰かさんのイメージですかね。いや、本来の歌詞はそーいう意味じゃないんでしょうが。
それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
2018.10.17