俺といる時には 彼を忘れてくれ
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Sweet Eden Ⅵ」
KISS
珍しいこともあるものだ。
鯨吉イサナは、オフィスに入った途端…思わず足を止めてしまった。
彼女の兄と違ってひどく生真面目な代表取締役・高階ミサヲ・アウレリアが…職場の机についているというのにその手が完全に止まっている。
色の淡い髪はいつも通り後ろできっちりと結い上げられている。だがその下で、双眸の黒褐色は何やら物思わしげに伏せられたままだ。手許の書類に目を落としているように見えなくもないが、それにしても先刻から全く決裁は進んでいない。
どうしたものか。
大丈夫かと訊くと、大丈夫と微笑うだけなのは今までの経験でよく解っている。…そういうときの彼女は決まって、大丈夫ではないことも。
思案の末、イサナはオフィスの一隅にあるカフェスペースで紅茶を淹れると、彼女の机にそっと置いた。
「ミサヲ、そろそろ休憩か?」
掛けた声で、手にしていた書類が彼女の指先の動きを反映して振れる。
「…ありがとう。イサナ」
手が止まっていたことに気づいたのだろう。ふっと息をついて書類をトレイに戻す。置かれた紅茶に素直に口をつけ…苦笑とともに言った。
「私、ぼうっとしてた?」
「少なくとも決裁に迷ってる、という顔ではなかったな。…サキは?」
「3時からゲネプロだからもう出たわ。出てきたの11時なのにね。こっちにいてもなかなかオフィスに居着かないんだから」
「居たところで実直に仕事らしい仕事もないが。そもそも机仕事がイヤで俺を引っ張り込んだと公言する奴だからな」
「いつもありがと。助かってるわ」
クスクス笑いながら応じ、彼女は何かを振り切るように立ち上がる。
「何だか能率が落ちてるから、私もちょっと階上で弾いてくる」
オフィスの上の階は、個々の規模は大きくないがしっかりした設備のスタジオになっている。彼女はそのひとつに私物のピアノを一台置いていて、収録に使うこともあるが概ね彼女自身の気分転換に供されていた。
「…聴きに行っても?」
「聴かせられるようなもの、弾けないかも知れないわよ。…なんだか今、頭の中が縺れちゃってる気がするし」
「差し支えないなら、その縺れごと聴かせてくれればいい」
注意深く、言ったつもりだった。だが彼女は一瞬動きを止め、いっそ挑むような眸で薄い笑みを浮かべて射返す。
「上手だこと。その手練手管で一体何人誑し込んだのかしら…?」
ふと目を逸らせ、一番近くのワークスペースにいたユカリに声をかけた。
「…ユカリちゃん、ちょっと階上で弾いてくるから、何かあったら携帯鳴らしてくれる? 次の打ち合わせまでには降りてくるから」
ユカリが低いパーティションの向こうから精一杯伸び上がって応えた。
「はぁい、了解でーす。あ、でも階上って電波が届きにくいんですよぉ…姐さんのスタインウェイ 1 、StudioーDでしたよね?内線かけますよ」
「ありがとう。じゃ、後よろしくね」
***
それほど広いスタジオではない。
イサナはいつも、彼女の集中を妨げない…それでも表情と、鍵盤を滑る彼女の指が見える壁際に…背を凭せかけて立つことにしていた。
スタインウェイ。職業ピアノ奏者の九割が選ぶというピアノ。 強固な構造、楽器全体での響き、繊細でクリアな音色、しかも豊かで伸びが良い高音域。豊かなだけでなく、ダイナミックレンジ 2 の広い低・中音域。比類無き響きと絶賛されるその音は、ピアノは嗜む程度で楽器個々の特徴などあまり頓着しないイサナでもその違いがわかる程だ。
その上にこの演奏者。…高階ミサヲ・アウレリア。
曲はベートーヴェンのピアノソナタ第17番「テンペスト」。熱気を持ってほぼ休むことなく動き回る無窮動風の音楽。馬車の疾走から着想を得たという逸話は出来過ぎのような感があるが、今これを聴いていると妙な説得力がある。
演奏者としてのミサヲは、セラフィン・渚・ローレンツが夭折した後、その遺児の世話をするために活動を一時休止していた。その後復帰はしたが、次第に音楽事務所の運営の方に力点を置くようになっていく。
ステージに立つことは少なくなったが、レッスンの時間はきちんと取っている。時に重厚、時に繊細な音の冴えは些かも錆びつくことはない。むしろ、より奔放に…聴き応えのある音になったような気がするのは欲目か。
スタジオにいるのは二人だけ。ウィンドウで仕切られた調整室にも…今、人は居ない。この音…彼女の、舞台にとらわれず心のままに奏でられる音を聴くことができるというのは一種の特権だと、イサナは感じていた。
『…なんだか今、頭の中が縺れちゃってる気がするし』
この凜然たる月は容易に本心を吐露しようとしない。だからその縺れごと聴かせて欲しい、というのは追従ではなかった。だが、万事即断即決の彼女が〝縺れる〟と評するような事態なぞ、おおよそ見当はつく。
――――――サキの奴、また帰らなかったのか。
高階マサキ・アーネスト。仲間内からはごくシンプルに〝サキ〟と呼ばれる彼女の兄。ヴァイオリン奏者としてはセラフィン・渚・ローレンツの、そして指揮者としてはキール・ローレンツの高弟と目される立場にあり、相応の名声もある。音楽事務所の取締役として名前を連ねてはいるが、ほぼミサヲとイサナに任せきりだ。
ただ、素がそうなのか師匠らに感化されたものか、至って奔放で時々予告なく姿を晦ます。その期間は時に数日に渡ることもあるが、いい大人でもあることだし仕事に穴を開けた例はないから…ミサヲもイサナもあまり喧しいことは言ったことがない。
だが、故意か偶然か携帯の電源さえ入っていないから…彼女曰く〝縺れる〟のだ。
マサキがミサヲに所在を報せないなど、基本的にはあり得ない。何らかの事情で伝えられなかったとしても、その場合はイサナが伝言を預かるというのが基本だった。ミサヲにもイサナにも所在を明かさず消えるなど、ミサヲにとっては緊急事態さえ疑う状況だ。
だが、いまのところ何事もなかったように戻ってくる…。
高階マサキがたったひとりの妹であるミサヲを甚く大切にしていることは、事務所どころか業界内でさえ隠れもない事実だ。学生の頃は彼女にまとわりつく男を片っ端から排除した、という噂は誇張ではあっても事実無根というわけではない。
「兄さんが私を大切にしてくれるのは良く理解ってる。でも本当は、あの陽の光が忘れられないだけ。兄さんが私を傍に置きたがるのは、私という月が反射する陽の光を見ていたい…ただ、それだけ」
彼女はそう言って微笑う。
セラ…セラフィン・渚・ローレンツ。天衣無縫な稀代のヴァイオリン奏者。彼女はミサヲのピアノを甚く鍾愛していて、リサイタルの伴奏者には常にミサヲを選んだ。故に彼女は時として熾天使の月とさえ呼ばれた。
ヴァイオリン奏者としての高階マサキにとって、セラフィンが崇敬の対象であったことは隠れもない事実であったし、それを誰よりもよく識っているのはミサヲであっただろう。
彼女の認識を卑屈と断じるのは、何も知らない者の傲慢というものだ。
むしろ…ただ、哀しい。
何故なら、イサナは知っている。そのマサキは…彼女をセラフィンの影としても、妹としてさえ見ていないことを。
『…仕方ないじゃないか。愛してるんだから。どうしようもなく』
すこし焦点の甘い視線をグラスに注ぎながら…マサキは呟くように言ったのだ。
『愛してるから、倖せになってほしい。明瞭だろう?』
そのためにイサナを敢えてミサヲに近づけた。あからさまに結婚前提の交際を使嗾した、あの夜のマサキの言質を真っ当に解釈すれば、そうなる。
自分を見失いそうになるほど妹を愛している。だから、イサナにミサヲを護って欲しいと。…そのためなら自分を殺してもいいと。
――――正気とは思えない。
だが、酒宴の与太話として斬り捨てるには…いつも飄然とした黒褐色の双眸の奥にある光は強すぎた。事実、マサキの失踪癖はあの頃からだ。
お前なら理解ってくれるだろう? …そんな台詞を直接に言われたわけではない。だが、マサキが帰ってこない、という電話をミサヲから受ける度に、電話を当てている耳と反対側の耳朶へ、囁きほどに抑えられた声で注ぎ込まれる気がして、ぞくりとするのだ。
最近では良くも悪くも馴らされてしまったらしく…ミサヲがそんな電話をかけてくることもなくなった。その代わり、翌日の彼女は大抵こうだった。
色の淡い髪はいつも通りきっちりと結い上げられているのに、黒褐色の双眸は物思わしげにこころもち俯き加減。変わりなく仕事をこなしているように見えても、僅かに反応が遅れる。
これで心配を掛けていないつもりか、莫迦。マサキの襟首を掴まえてそう毒づきたくなるほど、こんな時のミサヲはいっそ痛々しい。
饒舌なようで、その実…肚の底でマサキが何を考えているのか、正直な処イサナでさえ掴みかねている。
もとより天涯孤独だが、煩わしさから極力他者との関わりを避けてきたイサナに、マサキは突如として声を掛けてきた。最初は…たまたま授業で組まれたワークショップグループで一緒になったとか、そういうきっかけだったように思う。
それこそ、何がなんだかわからないうちに…マサキはイサナの日常へ割り込んでくるようになった。否、逆だ。イサナの方がマサキの領域に引きずり込まれたというべきなのだろう。
学校の近くに廉くていい部屋があるぞ、といつの間にか転居まですることになっていた。何かと思えばルームシェアしてくれという話だったのだが、奨学金で生活費と学費を賄っていたイサナにとっては確かに悪くない物件ではあったから承諾した。学生の頃はマサキも市内に部屋を借りていて、ハドソンバレーには週末ごとに帰る、という生活をしていたのだ。
イサナの見る限り、高階マサキという男は付き合い自体は広いが特定の誰かを近づけることはなかったように思う。だからこそ、ルームシェアの話だけでも意外性は十分だったのに、レポートに協力してくれと言われてハドソンバレーの実家に招かれた時には、軽い驚きさえ感じたものだった。更には、その掌中の珠と噂される妹・ミサヲに当然のように引き合わされるに至り、驚きを通り越して困惑しさえした。
――――そうしてイサナは週末ごとに、黒褐色の双眸と色の淡い髪…彼と同じ持ち物を備えた不思議な月に遭うことになったのだ。
ただ、彼女が最初に示した露骨な警戒を黙殺してなお、愛想よく応じることが出来る程…イサナは器用ではなかった。
こんな理不尽があるか。幾ら誘われたといっても、そんな状況で敢えてハドソンバレーまで行く理由はない。そう言って同道を断ることは出来たはずだ。そうしなかった、あるいはそうできなかったのは何故か。
お前みたいな奴がいてくれると、諸々助かるんだがな。
完爾として、マサキは言う。何を評価してのことかいまだにさっぱり判らない。才能、財産、そして大切な家族。イサナが持たないものを全て持っているくせに。
必要とされて悪い気はしない。断るほどの理由はない。それが言い訳じみていることなど、イサナ自身が一番良く理解っている。
ただ、マサキの近くにいるということは…とりもなおさず週末ごとに彼女の名状し難い視線を浴びるということだった。当初はそれが煩わしかったが、次第に気にならなくなった。
イサナがハドソンバレーを訪れる度…少しずつ彼女の表情が柔らかくなっていく。それを見るのが、少しだけ楽しいと思えるようにさえなっていた。
でも、彼女が楽しいのは…自分のせいではなく、マサキも帰ってくるから。
彼女の微笑はマサキに向けられたのであって、それ以外のなにものでもない。
その事実を認識する度に、なにか痛みに似たものを感じるようになったのはいつからだったか…。
だが、それをおぼろげに自覚した頃。それは起こった。
コンサートのために渡米する途上、セラフィン・渚・ローレンツとその夫君、そしてセラフィンの弟が乗った飛行機が墜落した。弟だけが奇跡的に助かったものの、セラフィンはその夫と共に地上から翔け去ってしまったのだ。
ミサヲはセラフィンの遺児達を引き取るため、急遽日本に渡った。そうして、ミサヲのいないハドソンバレーに足を踏み入れた時…イサナは、自身が何に捕まったのかを…はっきりと知ったのだ。